1296年(永仁4年 丙申)
 

1月12日
  引付頭、一時村、二道西、三恵日、四宗宣、五
 

2月3日
  亥の刻、鶴岡八幡宮の上下悉く焼失す。

[肥前武雄神社文書]
**伏見天皇綸旨
  武雄社神官等申す、異国降伏御祈りの賞の事、奏聞候の処、この事、伯直に関東に触
  れ申すの上は、前々の如く沙汰致すべきの由、社家に下知せしめ給うべきの旨、仰せ
  下され候所なり。仍って執啓件の如し。
    二月三日            兵部卿光泰
  謹上 大貳(平仲兼)殿
 

3月8日
  三嶋社焼失。

3月22日
  円覚寺供養。
 

6月5日
  将軍家相州の舘に入御す。中御所御同車。
 

7月29日 [筑前中村文書]
**少貳貞経覆勘状
  異国警固博多番役の事、今月一日より同晦日迄、勤仕せられをはんぬ。仍って状件の
  如し。
    永仁四七月二十九日       貞経(花押)
  中村彌次郎殿
 

8月10日 [東寺百合文書]
**六波羅御教書
  東寺領大和国平野殿庄雑掌申す當庄土民等寺家の下知状に背き、寺用を抑留する由の
  事、重ねて訴状・具書此の如し。先度尋ね下すの処、散状に及ばずと云々。何様の事
  や。糺決の為、今月中彼の輩を催し上らるるべきなり。仍って執達件の如し。
    永仁四年八月十日        越後守(在判)
                    丹波守(在判)
  深栖八郎蔵人殿

8月22日 [高野山文書]
**関東御教書
  高野山金剛峰寺雑掌と寂楽寺雑掌と相論する紀伊国阿弖河庄の事、金剛峰寺右大将家
  元暦元年七月二日の状を帯し、申す所子細有ると雖も、関東進止の地に非ざるの間、
  道理に任せ、宜しく聖断たるべきの由、西園寺殿に申し入れしむべきの状、仰せに依
  って執達件の如し。
    永仁四年八月二十二日      陸奥守(花押)
                    相模守(花押)
  越後守殿
  丹波守殿
 

9月7日 [坂口忠智氏文書]
**定時覆勘状
  大隅国役所今津後濱警固番役の事、当国御家人佐多阿古次郎参勤せられをはんぬ。仍
  って状件の如し。
    永仁四年九月七日        定時(花押)
 

10月6日 [薩藩旧記]
**島津忠宗覆勘状案
  警固番役の事、代官を以て勤仕せられ候。恐々。
    永仁四年十月六日        忠宗(在判)
  国分掃部助殿

10月18日 [山城高山寺文書]
**関東御教書
  当寺清水坊舎以下の事、申し状披露の処、聖断たるべきの由、その沙汰有る所なり。
  仍って執達件の如し。
    十月十八日           陸奥守(花押)
                    相模守(花押)
  高山寺長老(御返事)

10月25日 [当寺百合文書]
**六波羅御教書案
  東寺領大和国平野殿庄雑掌申す、當庄土民等寺家の下知に背き、寺用を抑留する由の
  事、重ねて訴状・具書此の如し。先度召文を遣わすの処、散状に及ばずと云々。太だ
  謂われ無し。来月十五日以前に、彼の輩を催し上らるべきなり。仍って執達件の如し。
    永仁四年十月二十五日      越後守(在御判)
                    丹波守(在御判)
  深栖八郎蔵人殿
 

11月3日
  大雷鳴。

11月20日
  世間騒動す。吉見孫太郎義世(三河守範頼四代孫、吉見三郎入道頼氏男)謀叛に依っ
  て召し取らる。良基僧正同意するの間、同じく召し取らる。義世[龍の口にて]首を
  刎ねらる。良基奥州に配流。

11月24日 [出羽中條文書]
**関東下知状
   和田七郎茂貞と同八郎茂泰と相論す、亡父和田三郎左衛門の尉茂連遺領、越後国奥
   山庄内村々、並びに阿波国勝浦山、相模国津村屋敷・鎌倉屋地等の事、
  右、訴陳の趣、子細多きと雖も、所詮茂貞申す如きは、彼の遺領は、永仁二年三月十
  日、茂連自筆を以て譲り状を書き置きをはんぬ。而るに茂泰彼の状に背き、後日の譲
  り状と号し、謀書を構え出す所なりと云々。茂泰陳状の如きは、同年六月十二日、男
  女子息に分け譲るの間、茂貞以下得分の親等、面々に彼の譲り状を撰び取り、知行せ
  しめをはんぬ。茂貞兼日に進す所の譲り状は謀作なりと云々てえり。両方の所帯状、
  互いに謀書たるの由、申し難きに依って引付の座に於いて召し決するの処、茂貞進す
  所の如き先判の譲り状は、茂連知行分三分の二並びに津村屋敷は、嫡子茂貞知行すべ
  きの由所見なり。而るに所領の名字を載せず、三分の二たるべきの由、譲り状に載す
  るの條、本主の素意に非ずの旨、茂泰申すの処、曾祖父道円遺領の事、亡父茂連と和
  田二郎右衛門の尉義基相論未定の間、所領の名字を載せざるの由、茂貞の申す所、子
  細無きに非ず。(是一)。次に始めの文章の如きは、三分の二たるべきの由これを載
  す。右状の如きは、津村屋敷を加うるの旨書せしむ條、首尾不合の由、茂泰これを申
  すと雖も、嫡子相伝の地たるの間、相加うるの條、理致に背かず。(是二)。次に茂
  連永仁二年の春比、違例の儀無く、譲り状を書き置くべからざる由、茂泰申すの処、
  年来所労不快の旨、茂貞申すの上、兼日譲り状を書き置くの條、その難能わず。(是
  三)。次に茂貞の外自余の庶子等、三月十日の譲り状を帯せずの間、不審の旨、茂泰
  申すの処、三分の一に於いては、これを譲り得ると雖も、茂泰謀書を構え出さんが為、
  譲り状を引き隠しをはんぬ。女子等に至りては、本より所領を譲り得べからずの條、
  本主の素意たるの旨、茂貞これを称す。子細を尋ね究めらるべきと雖も、所領を女子
  に譲らざるの條、謀書の難に非ず、(是四)。次に彼の譲り状は、茂連自筆たるの由、
  茂貞これを申す。而るに茂泰論じ申すの間、両方承伏の類書を召し出し比校するの処、
  手跡と云い、判行と云い、更に相違無し。(是五)。次に茂泰進す所の永仁二年六月
  十二日の譲り状の如きは、面々の所領の名字立堺を載せをはんぬ。而るに茂貞所帯の
  譲り状の如きは、嫡子分に背き、違乱の譲り状有らば、謀書たるべしと云々。先判の
  譲り状を破り、後日に状を書せしめば、尤も先判の誡詞に就いて、子細を載すべきの
  処、その儀無きの上、自筆に非ざるの間、頗る疑貽有るか。(是六)。次に執筆は、
  宝治合戦與党人高井次郎子息禅海なり。彼の僧を以て執筆に用いべからずの由、茂貞
  申すの処、曾祖父道円と云い、亡父茂連の時と云い、所領経廻を許すの由、茂泰これ
  を申すと雖も、数輩の右筆を閣き、雑用執筆の仁か。(是七)。次に夏居村は、茂連
  が遺領に非ず。和田次郎右衛門の尉義基が所領たるの間、養女虎□(茂貞妹)に譲与
  しをはんぬ。而るに茂貞分譲り状に載するの状、私曲顕然たるの旨、茂貞申すの処、
  彼の村は、義基が所領たりと雖も、茂連分の領に相交わる所なり。南村松は、茂連が
  所領たりと雖も、義基領内に相交わるの間、便宜の地たるに依って、相互に女子に譲
  与すべきの由、約束せしむと雖も、下知に於いては、本主の意に任すべきの間、夏居
  村を以て嫡子茂貞に譲与するの由、茂泰これを陳ぶると雖も、女子を以て別して相伝
  の地、爭か茂貞に譲与すべけんや。(是八)。次に羽□・石曽祢以下の村々に於いて
  は、茂貞に譲与するの由、これを載すと雖も、立堺の時は、條内田地大略茂泰分領に
  分入するの間、茂貞分有名無実の由、茂貞申すの処、本田中に於いて立堺の事、本主
  素意たるの旨、茂泰これを申すと雖も、茂貞分領田地を以て、茂泰領内に分け付くの
  條、頗る正儀に非ず。(是九)。次に判形相違の由、茂貞これを申す。両方承伏の類
  判を校合するの処、悉く相違せしめをはんぬ。(是十)。次に堺絵図は、茂貞代性眞
  舎弟阿光これを書きをはんぬ。銘は性眞手跡なり。裏書きは茂連自筆なり。その上茂
  連続目を封じをはんぬ。類書を校合せらるべきの由、茂泰申すの間、比校するの処、
  茂連が自筆相違せしむ上、年号月日摺り字たるの間、不審無きに非ず。随って判形相
  似ざる所なり。銘は六月十二日性眞鎌倉に在るの間、越後国に於いて、書き能わずの
  由申せしむるの処、在国所見を申し立てざるの上、裏書きと云い、判行と云い、相違
  するの間、性眞手跡の真偽、枝葉たるに依って、尋ね究むに及ばず。(是十一)。次
  に茂連、越後国に於いて、永仁二年六月二十七日茂貞等が祖母の尼に書き与う所の譲
  り状は、茂貞代官性眞が手跡なり。彼の状を召し出され、判形を校合せらるべきの由、
  茂泰申すの間、比校するの処、祖母の尼所帯の分は、死期の譲り状たりと雖も、判形
  違依せず。茂泰進す所の状は、先日の状たりと雖も、判形相違せしめをはんぬ。(是
  十二)。茂貞所帯の譲り状は謀書の由、茂泰これを申すと雖も、指せる紕繆無し。茂
  泰所帯の譲り状並びに絵図は、謀作の條遁れる所無し。然れば則ち、茂連遺領三分二
  並びに津村屋敷に於いては、永仁二年三月十日の譲り状に任せ、茂貞が知行相違有る
  べからず。次に茂連分領三分一の事、茂泰譲り得るの由、茂貞これを申すと雖も、茂
  泰譲り状を帯ざるの由、申せしむるの上は、未分たるか。配分せらるべき得分の親な
  り。次に茂泰謀書咎めの事、茂連遺領三分一配分の時、除かるべき得分の親なり。次
  に女子二人六月十二日一烈の譲り状を帯すの由、茂泰申せしむるの間、尋ね問わるる
  の処、一女子の請文の如きは、舎弟茂泰賦給するの間、これを請け取ると雖も、真偽
  は存じ知らずと云々。仍って罪科に及ばず。二女子の申し状の如きは、彼の譲り状実
  書たりと云々。茂泰に同心の上は、同じく配分の時、これを除かるべきなり。次に執
  筆禅海罪科の事、所帯無しと云々。仍って配流せらるべきてえり。鎌倉殿の仰せに依
  って、下知件の如し。
    永仁四年十一月二十四日     陸奥守平朝臣(在御判)
                    相模守平朝臣(在御判)
 

12月11日 [鎌倉称名寺所蔵]
**銅造寶篋印舎利塔裏落書
  永仁四年十二月十一日 鎌倉大焼マウ、人大セイシヌ、
  永仁四年十二月十一日 鎌倉大せウマウ、大しやうくんタウのハシノモトヨリイテキ
  テ、コマチ・ヲウマチ・ナコエノ入、ミナヤケテ、人四百人ハカリシニケリ、

12月27日
  八幡宮遷宮。