1308年(徳治3年、10月10日改元 延慶元年 戊申)
 

3月10日 [鎌倉大日記]
  山門神輿の事に依って、長井左近大夫将監入道、秋田城介時顕使いとして入洛す。

3月25日 [尊経閣所蔵文書]
**関東御教書
  西国並びに熊野の浦々海賊の事、近日蜂起するの由その聞こえ有り。早く警固致し、
  搦め進すべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    徳治三年三月二十五日      陸奥守(花押)
  河野六郎殿             相模守(花押)
 

4月25日 [長門三浦家文書]
**平子重頼和与状
  わよ
   すわうのくに仁保のしやうのうちふかののかうのちとう平子右衛門六郎重頼と、か
   みりやうのちとう平子彦六郎重有とさうろんす、いたやまち(重有ハなみ山とかう
   す)事、
  右、件山の事、そちんすもんたうにおよふといへとも、せんする所、わよのへんをも
  て、さたをとヽめをはんぬ。しかれハかの山においてハ、重頼しこんいこ、けいはう
  あるへからさる所なり。仍って和与の状件の如し。
    とくち三年四月二十五日    平重頼(花押)
  (裏書)「仰せに依って署判を加うる所なり、
                   前筑前権守(花押)
                   兵庫允  (花押)」
 

5月5日 [大和唐招提寺蔵東大寺文書]
**六波羅御教書案
  東大寺宗徒等申す、山城の国賀茂庄悪党右衛門入道源佛以下の輩、夜盗・強盗を致す
  由の事、請文に就いて、重ねて訴状此の如し。法に任せ召し進すべき旨、度々触れ遣
  わす処、事を興福寺に寄せ、城郭を構え使節を叙用せずと云々。いよいよその咎を遁
  れ難きか。所詮、不日に彼の所に莅み、城郭を破却し、法に任せその身を召し進せら
  るべきなり。仍って執達件の如し。
    徳治三年五月五日       越後守(御判)
  春近馬允殿
  服部平三殿
 

7月8日 [武家年代記]
  久明親王御上洛有るべきの由、城の介を以てこれを申し入れらる。

7月9日 [武家年代記]
  御所佐介の尾州亭に御出で(一説に上野介亭)。
  □□木備中の入道尾張の国に流罪、南都の訴えに依ってなり。

7月12日 [武家年代記]
  神木帰座。東使は伊勢三河の守時綱並びに天野加賀の守倫綱。

7月19日 [鎌倉大日記]
  久明親王入洛す(三十二歳)。
 

8月4日 [皇年代略記]
  将軍式部卿久明親王入洛す。

8月25日 [皇年代略記]
  二條高倉の皇居に於いて薨ず(二十四)。

8月26日
  守邦親王(式部卿久明親王の御子、御母中御門前の将軍惟康親王女)元服。同日征夷
  大将軍たり。

8月27日
  将軍御出仕。
[鎌倉大日記]
  将軍師時の家に行啓す。
[皇年代略記]
  後二條院と追号す(関白直廬に於いて議定す)。
 

9月4日 [皇年代略記]
  東使御政務の事を奏聞す。

9月19日 [皇年代略記]
  後醍醐院立太子(二十一、後二條院事有り。邦良皇子幼年、仍って法皇関東に仰せら
  れ沙汰有り)。

9月29日 [円覚寺文書]
**西園寺公衡書状
  円覚寺額の事、持明院殿(伏見上皇)に申し入るの処に、即ち宸筆を染めらるるの由、
  仰せ下され候なり。謹言。
   (延慶元年)九月二十九日     (公衡花押)
 

11月3日 [金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
  (前略)
  一 遠州(時範)替えとして、今度上洛人(貞房)南方に坐せらる。是ニ北方に移ら
   るべき由、如法巷説候、もし事実にも候ハヽ、この事難治次第に候、その故ハ参向
   の事、この間連々所望し、いまニ遠州替え上洛候は、明春なとハ申すべきの由存ニ
   候、北方に移され候は、いまさら事改めたる様ニなり候て、北方ニ坐していく程な
   く下向、然るべからずなといふ事一定候ぬと覚え候、これ第一の難堪に候、次ぎに
   家人等すでに六ヶ年を経て、在所皆この辺にありつき候ぬ、所領また以て同前、彼
   と云い是と云い、牢籠せしめ候の条、事の煩い莫大に候、その間子細御察有るべく
   候、次ぎに南北を経るの例、兼時越州の外これ無く候、彼の人関東に参り程無く憚
   り候や、剰えまた同名、ことにことにいまいましく覚え候、以前の三ヶ條、いつれ
   も難治候と雖も、ことさら下向の一事、いまハ身の大訴候に、彼の障碍と成り候ハ
   ん條、勿論と覚え候の間、もし御沙汰候ハヽ、この事相構えて転変無きの様ニ、酒
   掃禅門(長井宗秀)へも申せしめ給う、また御意を得候へと、よくよく武庫へ申さ
   しめ給うべく候、直ニも荒々申せしめ候と雖も、猶々委細貴辺その意を得て、申さ
   しめ給うべく候なり、且つは禅門の御所存も、申す旨いかヽおほしめされ候らん、
   また武庫も御所存いかヽ候と、相構え々々示し給うべく候、恐々謹言。
    十一月三日           越後守(花押)
   明忍御房

11月7日 [円覚寺文書]
**金澤貞顕書状
  円覚寺額の事、仰せ下さるるの旨に任せ、仙洞に申し入れせしむべき由、内々西園寺
  殿に伺い申し候の処に、悉く宸筆下され候、子細定めて長崎三郎左衛門入道言上せし
  め候か。この旨を以て、洩れ御披露有るべく候。恐惶謹言。
   (延慶元年)十一月七日      越後守貞顕(花押)
  進上 尾藤左衛門尉殿

11月9日 [摂津廣峯文書]
**六波羅御教書
  鴨河堤大破に及ぶの間、近国御家人役として、用途を充て課し、修固を加えらるべき
  なり。彼の用途の内弐貫文、今月中に沙汰を進せらる。仍って執達件の如し。
    延慶元年十一月九日       越後守(花押)
  廣峯兵衛大夫殿

11月16日 庚子 青天高晴 [公衡公記別記]
  今日天子(花園天皇)登壇の日なり。
 

12月7日 [金澤文庫文書]
**金澤貞顕書状
  越州(貞房)今月七日夜京着候いをはんぬ。同十日評定を始行候いをはんぬ。毎事無
  為目出候、重ねて謹言。

12月22日 [円覚寺文書]
**伏見上皇院宣
  建長、円覚寺定額寺たるべき事、即ち宣下せられをはんぬ。官府二通召し遣わさるる
  の由、関東に申さるべきの旨、院の御気色候なり。仍って言上件の如し。経親誠恐頓
  首謹言。
   (延慶元年)十二月二十二日    経親(上)
  進上 伊豆守殿

12月23日 [円覚寺文書]
**西園寺公衡御教書
  建長、円覚両寺の事、前平中納言の奉書(官府二通を副う)此の如く候、仍って執達
  件の如し。
   (延慶元年)十二月二十三日    (花押)