1月16日 [武家年代記]
踏歌節会の時、北方(武州貞顕)祇候人鵜沼孫左衛門の尉等勝事を引き出すの刻、滝
口平有世、装束使出納代行氏、掃部寮藤井安国失命しをはんぬ。狼藉人の内孫左衛門
の尉、左兵衛の陣(富小路西棟門)に於いて打ち留められをはんぬ。今一人同八郎紫
宸殿に於いて自害す。この事に依って飯尾兵衛大夫為定、沼田三郎為尚関東に進せら
れをはんぬ。
1月23日 [廣義門院御産記]
**関東御教書
廣義門院御産御祈りの事、急速に沙汰進すべきの由、西園寺前の左大臣家へ申し入る
べきの状、仰せに依って執達件の如し。
延慶四年正月二十三日 陸奥守(判)
相模守(判)
右馬権頭殿
越後守(時敦)殿
3月16日 [東大寺文書]
**六波羅御教書案
東大寺衆徒等申す、山城の国賀茂庄悪党源佛以下の輩、夜討ち強盗を致す由の事、重
ねて訴状具書、度々触れ遣わすの処、道行せずと云々。使節緩怠の致す所か。所詮、
不日に彼の所に莅み、法に任せその身を召し進すべし。且つは起請の詞に載せ、子細
を申さるべきなり。仍って執達件の如し。
延慶四年三月十六日 越後守(御判)
春近馬允殿
服部平三殿
* 三月以後五月の比に至り、三日病流布す。
[武家年代記]
三月中旬以後五月中、三日病平均なり。鎮西より京都に至り、関東より奥州に至る。
都鄙の甲乙人脱がる人少なし。病多々と云々。これに依って改元、京都は四月二十八
日これを書き始めらる。関東は五月八日吉書始めと云々。
閏6月9日 [金沢文庫文書]
**金沢貞顕書状
愚身御恩の事、康幹を以て去年より申し入れ候いをはんぬ。御沙汰無きに依って、今
に遅々候の処、近日御沙汰有るべく候由、承り及び候、而るに或る方より不思議の事
申いたされて候なり。その故は、今度注進の事、愚身罪科のかれかたく候へとも、無
為に落居候いをはんぬ。愚身か悦喜これにすくへからす候、この上は、御恩有るべか
らざるの旨申され候なる、歎き入り候、今度の事ハ、子細有り候、条々委しく示し給
い候、ことに恐悦に候、この状憚り存じ候、御一見の後は、早々火中に入れしめ給う
べく候、恐々謹言。
後六月九日 前の越後の守貞顕
謹上 称名寺方丈(御報)
7月28日 [東寺百合文書]
**六波羅御教書案
東寺領安藝の国勅旨雑掌頼有申す、大甞會米神部の語りを得て、年貢を奪い取る由の
事、一和尚の状(訴状具書を副う)此の如し。早く参決せらるべきなり。仍って執達
件の如し。
応長元年七月二十八日 越後守(時敦在御判)
前越後守(貞顕在御判)
8月7日 [山城離宮八幡宮文書]
**六波羅御教書
八幡宮大山崎神人等申す、淀・河尻・神崎・渡辺・兵庫以下の諸関津料の事、子細有
尚・頼成を以て言上候、この旨を以て、御披露有るべく候、恐惶謹言。
八月七日 越後守平時敦(裏花押)
前越後守平貞顕(裏花押)
謹上 左京権大夫入道殿
8月10日 [山城離宮八幡宮文書]
**某挙状
八幡宮大山崎神人等申す、淀・河尻・神崎・渡辺・兵庫以下の諸国津料の事、武家並
びに使者の申す詞此の如し。奏聞せしめ給うべきの状件の如し。
八月十日 (花押)
頭宮内入道殿
8月24日 [鎌倉市立図書館所蔵]
**関東御教書
安房の国群房西の庄の雑掌申す、宗正検注の事、重ねて訴状これを遣わし、下知の御
教書叙用せずと云々。甚だ謂われ無し。不日にその節を遂ぐべきの状、仰せに依って
執達件の如し。
応長元年八月二十四日 陸奥の守(大佛宗宣花押)
相模の守(熈時花押)
山城源太殿
9月22日
従四位下行相模の守平の朝臣師時卒す。
10月25日
引付頭、一国時、二基時、三斎時、四維貞、五顕実
10月26日
最勝園寺入道卒す。
[保暦間記]
最勝園寺入道死去。息男高時(時に左馬権頭)、彼の跡を継ぐ。今年九歳なりける。
宗宣、熈時等将軍の執権をしけり。
11月3日 庚子 天晴 [花薗天皇宸記]
相模の守貞時法師死去の由、仙洞に奏聞せしむと云々。仍って天下触穢儀なり。然れ
ども毎日の石灰壇拝これを停止せず。諸社の祭延引せしめ、春日の臨時の祭、穢限以
後行わるべきなり。新嘗祭三十日たるべしと云々。
11月26日 癸亥 天晴 [花薗天皇宸記]
今日関東の事三十日を過ぎをはんぬ。仍って今日より笛を吹さしむ。
11月27日 甲子 天晴 [花薗天皇宸記]
今日大原野の祭なり。内侍参向す。兼季卿参り申して云く、関東の事三十日を過ぐと
雖も笛を吹くべからず。先例、飛脚京着奏聞の後、三十日過ぎ後、奏時評定等有るべ
し。仍ってなお笛を吹くべからざるの由、院の仰せ有りと云々。
12月5日 壬申 天晴 [花薗天皇宸記]
明日臨時の祭御馬御覧なり。清涼殿東庭に於いてこれを覧る。関東の事に依ってこれ
に乗らず。ただ引き廻し退出す。