1312年(応長2年、3月20日改元 正和元年 壬子)
 

3月2日 [長門三浦家文書]
**関東下知状
   周防の国仁保庄下領内深野郷地頭平子右衛門六郎重頼と上領地頭同彦六郎重有と相
   論有る板山路(重有並山と号す)の事、
  右、守護人近江の前司時仲注進の如く、重頼徳治三年四月二十五日和与の状は、訴陳
  に及ぶと雖も、和与の篇を以て、訴訟を止めをはんぬ。彼の山に於いては、自今以後
  競望有るべからずと云々。重有の如き同日同状は、重頼競望を止むの旨、和与状に載
  せるの上は、下知状を賜るべしと云々。重有領掌せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依
  って、下知件の如し。

[東大寺文書]
**六波羅御教書案
  東大寺衆徒等申す、山城の国賀茂庄悪党源佛以下の輩、夜討ち強盗を致す由の事、重
  ねて訴状具書此の如し。度々その沙汰有るの処、使節無沙汰に依って、事を行わずと
  云々。甚だ謂われ無し。所詮、度々の状を守り、服部平三相共に、不日に彼の所に莅
  み、法に任せその身を召し進すべし。且つは祈請の詞を載せ、散状を申さるべきなり。
  更に緩怠有るの儀、仍って執達件の如し。
    応長二年三月二日        越後守(在判)
                    武蔵守(在判)

3月13日 己酉 天晴 [花薗天皇宸記]
  今日東使入道左大臣の亭に向かうと云々。奏聞造内裏の料所五ヶ所進入と、

3月20日 丙辰 天晴 [花薗天皇宸記]
  今夜改元定めなり。これ去年の事に依ってなり。上卿右大臣、次第例の如し。資栄朝
  臣仙洞に参り事の由を申す。正和治定しをはんぬ。

3月28日 [増鏡]
  為兼大納言うけたまはりて、万葉よりこなたの歌ども集められき、玉葉集とぞいふな
  る。この為兼の大納言は、為氏大納言の弟に、為教右兵衛督といひしが子なり。
 

4月5日 [前田家所蔵文書]
**関東御教書
  久遠壽量院供僧等代慶増申す、駿河の国内谷郷内田地の事、重ねて訴状此の如し。そ
  の沙汰有らんが為、不日に雑掌を召し進せしめ給うべきの由、仰せ下さるる所なり。
  仍って執達件の如し。
    正和元年四月五日        相模守(花押)
                    陸奥守(花押)
  謹上 別当前大僧正御房

4月18日 [武家年代記]
  齋藤左衛門大夫基任、飯尾弾正忠頼定、多武の峯の合戦に依って京都を立ちをはんぬ。
 

5月20日 [出雲千家文書]
**六波羅御教書
  出雲の国杵築大社造営の事、今年正月二十五日の関東御教書此の如し。早く仰せ下さ
  るるの旨に任せ、子細を尋ね究めんが為、文書を帯し、不日に参洛せらるべきなり。
  仍って執達件の如し。
    正和元年五月二十日       越後守(判)
                    武蔵守(判)
  国造殿
 

6月12日
  従四位下行陸奥の守平の朝臣宗宣卒す。
 

8月11日 [鶴岡八幡宮文書]
**将軍家(守邦親王)寄進状
  寄進
   鶴岡八幡宮
    武蔵の国金曽木彦三郎重定並びに市谷孫四郎等の所領の事
  右、将軍家の仰せに依って奉寄件の如し。
    正和元年八月十一日       相模の守平朝臣(熈時花押)

8月22日 乙酉 天晴 [花薗天皇宸記]
  今夜武家の使者関東より帰洛す。南都の所領悉く地頭無くすべきの由風聞す。この暁
  寅の刻神木木津に遷座すと云々。

[出雲千家文書]
**前石見守書下案
  当国杵築社仮殿造営の事、国宣則ち院宣此の如し。早く仰せ下さるるの旨に任せ、そ
  の沙汰を致すべく候なり。仍って執達件の如し。
    正和元年八月二十二日      前石見守(判)
  出雲国造殿

8月23日 丙戌 天晴 [花薗天皇宸記]
  去る夜子の刻ばかりに、山門中堂閇籠の衆徒眉を開き退散すと云々。また去る夜、子
  の刻に神木宇治に遷座すと云々。

8月25日 [武家年代記]
  神木入洛す。法成寺に入れ奉る。

[花薗天皇宸記]
  巳の刻に神木すでに入洛するの由風聞す。申の刻すでに法性寺辺に入洛すと云々。仍
  って門々番衆等参集し、皆刀箭甲冑を帯びる。酉の刻神木法城寺に入御すと云々。こ
  れに依って門々皆閉じ、兵等騎馬、正に法城寺に入御するの時、庭上に畳一帖を敷き
  座と為す。

8月26日 己丑 天晴 [花薗天皇宸記]
  酉の刻に吉野の神輿入洛すと云々。今朝辰の一点に俊光卿、光藤朝臣等帰洛すと云々。
  大略静謐か。
 

9月5日 戊戌 天陰、雨降る [花薗天皇宸記]
  今日関東の両使節南都に向かう。大略静謐するの儀か。

9月10日 [如意宝珠御修法日記裏文書]
**関東下知状案
   早く富樫介入道定昭、伯耆の国野津郷気徳村地頭職を領知せしむべき事、
  右、熊野の悪党合戦の使節に依って、充て行わるる所なりてえり。早く先例を守り、
  沙汰を致すべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    正和元年九月十日        相模守平朝臣(御判)

9月16日 己酉 天陰降雨 [花薗天皇宸記]
  今日酉の刻に、吉野の神輿入洛有るべしと云々。
 

10月 [武家年代記]
  横川中堂火。

10月2日 甲子 天晴 [花薗天皇宸記]
  関東両使の飛脚去る夜京に着くと云々。南都開扉の由風聞す。閭巷の説、未だ実事を
  知らず。然れども大略落居か。風聞の説の如きは、多武の峯城郭を破り、張本を召し
  並びに路次の狼藉人流刑せらる。また法城寺の警固、武家より置くべしと云々。また
  神木遷し帰座有るべし。維摩会を始行すべきの由風聞す。喜悦極り無きものなり。今
  日両使入道左大臣の亭の向かう。

10月28日
  備中の入道道存遁世す。

10月晦日 [摂津多田院文書]
**得宗公文所奉行人奉書案
  多田院修造料所の事、當庄御年貢(段別三斗米を除く)・棟別拾文銭貨勧進、御免有
  る所なり。早く河田郷分施行せしむべし。且つは彼の使在庄の間、人参人、馬壱疋の
  雑事、沙汰を致すべきの由候なり。仍って執達件の如し。
    正和元年十月晦日        浄□(判)
                    照観(判)
                    専正(判)
                    道教(判)
 

12月18日 [入札目録]
**関東御教書
  大慈寺新阿弥陀堂供僧職の事、大貳法印慶珠の跡を以て、補任せらるる所なりてえり。
  仰せの旨此の如し。仍って執達件の如し。
    正和元年十二月十八日      相模守(花押)
  助僧都御房