1313年(正和2年 癸丑)
 

3月9日 己亥 晴 [花薗天皇宸記]
  今日前の大納言為兼関東より帰洛すと云々。

3月22日
  信州善光寺焼失す。
 

4月29日 [紀伊鞆淵八幡社文書]
**六波羅御教書案
  紀伊の国鞆淵園百姓景久・氏行・光行法師以下の輩、殺害悪行狼藉の事、子細飯尾兵
  衛大夫・三宮孫四郎を以て申せしめ候なり。恐々謹言。
    正和二年四月二十九日      越後守(御判)
                    武蔵守(御判)
  八幡検校法印御房
 

6月2日 辛酉 天陰雨降る [花薗天皇宸記]
  河水溢るるの間、人多く流れ死ぬと云々。

6月27日 丙戌 天晴 [花薗天皇宸記]
  今日聞く、関東の飛脚京に着くと云々。神木の事と云々。帰座有るべきの由、閭巷の
  説これ有り。真偽決し難しと雖も、先ずは悦びを為すものなり。
 

7月9日 [皇年代略記]
  光厳院誕生。

7月26日
  引付頭、一守時、二斎時、三顕実、四貞宣、五時顕
 

8月16日 [鎌倉大日記]
  春日の神木帰座。六波羅北方と日吉の神人と合戦。
 

9月13日 [皇年代略記]
  鷹司永嘉門院御所火事。

9月22日 [如意宝珠御修法日記裏文書]
**関東御教書案
  伊勢の国常光・天暦両寺領散在の田畠地頭職の事、新補率法の地として、富樫介入道
  定照に充て行わるる所なり。早く御下文に任せ、沙汰を致すべきの由、守護代に下知
  せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    正和二年九月二十二日      相模守(御判)
  武蔵守殿
 

10月14日 [皇年代略記]
  新院御政務与奪申さる。

10月17日 [皇年代略記]
  伏見院御出家(四十九、法諱素融)。
 

11月2日 [如意宝珠御修法日記裏文書]
**六波羅下文案
  早く富樫介法師(法名定照)、伊勢の国常光・天暦両寺散在領の地頭職を領知せしむ
  べき事、
  右、去る九月六日の関東の御下文に任せ、沙汰を致すべきの状件の如し。
    正和二年十一月二日       越後守平朝臣(在判)
                    武蔵守平朝臣(在判)
 

12月23日 [相模文書]
**北條高時袖判下知状
     (花押)
   淵名寺別当艮尋と尼播磨の局浄泉と相論す寺領内善佛跡屋地の事、
  右、地は、弘安八年浄泉拝領しをはんぬ。課役に於いては、一戸主分を勘がえ、多年
  沙汰し亀谷寺に送るものなり。而るに去年当寺に付けらるるの後、下地を進止すべし。
  然らざれば、下地検見せしめ、分限に限り、課役を請け取るべきの由、艮尋申す所な
  りてえり。下地に於いては、浄泉御下文を帯し知行する上は、今更進止に能わず。課
  役に至らば、拝領の後切り開かせしむと云々。検見を加え、分限に限り、沙汰を致す
  べきの状、下知件の如し。
    正和二年十二月二十三日

12月25日
  光明寺御願寺に為る。