1315年(正和4年 乙卯)
 

3月1日 [武家年代記]
  百五十余人恩沢しをはんぬ。

3月8日
  夜、和賀江より火出来し、八幡宮上下、典厩、相州の舘以下、政所、問注所、若宮別
  当坊、建長寺塔等焼失しをはんぬ。

3月14日 壬戌 [公衡公記]
  去る夜任大臣節会。今日巳の刻始行せらる。(略)任人聞書を見る。凡そ率爾の沙汰
  迷惑の所なり。関東聖断たるべきの由の御返事去る九日到来す。纔に中両三日を経て
  節会を行わる。太だ以て存外。任人申し行う所か。

[相模妙顕寺文書]
**日朗書状
  おもひかけ候ハす、鎌倉やけ候て、御堂もやけ候由、経論聖教も皆焼失、おもふはか
  りもなく存候、(以下略)
  謹上 三月十四日          日朗(花押)
   備後殿

3月15日 癸亥 天晴 [公衡公記]
  巳の刻ばかりに武家糟屋次郎来たり。邦光を以て申して云く、去る八日関東大焼亡。
  将軍(守邦親王)御所、左馬権の頭(高時)の屋形以下、相州(熈時)、奥州(維貞)、
  相模左近大夫(貞視)、武蔵左近大夫(守時)、八幡宮上下、建長寺門等悉く焼亡す。
  この事に依って在京の武士、西国の御家人等参るべからざるの由、関東の飛脚今暁到
  来す。存知の為私に申さしむと云々。驚聞の由返答しをはんぬ。冶部卿入来するの間、
  内々披露すべきの由示し付けをはんぬ。

3月16日 甲子 天晴 [公衡公記]
  冶部卿の奉書到来す。炎上の事驚き思し食すの由、関東に申すべきの由、新院御気色
  と云々。愚状を書き副え関東に申しをはんぬ(武家に遣わす)。大覺寺殿(後宇多上
  皇)の院宣(吉田定房卿)、法王院宣(平経親卿)等同じく到来す。皆武家に遣わし
  をはんぬ。今度は勅使に及ばざるなり。
  施薬院使長周朝臣これを注進す。
   三月八日夜ゐのときに、かまくらいゐしまよりひいてき候て、あくる日のうのとき
   まてやけて候。わかみや、いまみや、将軍家、典厩御宿所、相州、奥州禅門、相模
   左近大夫(貞視)、武蔵左近大夫(守時)、奥州(維貞)、丹波の守(貞宣)、遠江
   中務大輔(遠江入道道西子)、宇都宮下野入道(蓮昇)、城の介(時顕)、御所近隣
   のやかた人々、上野の介、掃部の頭入道(道雄)、刑部大輔(親鑒)、出羽の前司
   (貞藤)、城加賀の守(師景)、城越後権の介(師顕)、長崎左衛門入道(円喜)、
   諏方入道(道性)、尾藤左衛門入道(演心)、以下これを略す。政所、問注所、公
   文所同前。若宮別当坊、今宮別当坊同前。この外僧坊その数を知らず。当時将軍は
   讃岐の守(基時)の亀谷亭に御座す。典厩は葛西禅尼の宿所に移住され候。雪の下
   の若宮別当僧正(房海)坊を焼失候火、建長寺に飛び候て塔を焼失し候。寺は無為
   に候。

3月21日 己巳 [公衡公記]
  炎上の事に依って、今日惟景(師景舎弟)関東に下向す(予の状一通(相州に付す)、
  入道殿一通(同)、その外然るべきの輩、状無きと雖も向かい訪うべきの由仰せ含め
  をはんぬ)。馬一疋引き給いをはんぬ。

3月27日 乙亥 [公衡公記]
  今日武家(基氏)春衡の許に向かう。炎上の事に依って、もし勅使下らばこれを申し
  止むべし。また貴所の使い等同じく停止すべしと云々。予の使いこの子細を聞かざる
  の以前に、去る二十一日進発するの由これを仰す。関東の飛脚遅々するの由基氏これ
  を語ると云々。
 

4月13日 [武家年代記]
  寅の刻、八幡宮仮殿遷宮。

4月15日 壬辰 [公衡公記]
  今日酉の刻ばかりに惟景関東より上洛す。炎上を訪う為に去る月下旬下向す。今月二
  日に下着し、六日に出仕、七日即ち返事を給い、八日進発す。八ヶ日に上着するの由
  これを申す。早速無為神妙々々。入道殿並びに予各々返事有り(将軍家御返事の躰な
  り)。また惟景馬一疋(鴾毛)を予に引き与う。関東に於いて城の介引き与うの馬と
  云々。

4月16日 癸巳 天陰雨降らず [公衡公記]
  公顕卿昇進の間の事院宣を下さる。(入道殿御文二通、家定卿の状一通、三条前の内
  府の状一通)これを副え下さる。関東に申すべきの由なり。春衡来たり、明日出門し、
  十九日関東に進発すべきの由これを申す。予の使い(造内裏条々)、この次いでに入
  道殿また條々仰せらると云々。馬一疋(黒鹿毛)、蒔絵硯、文臺、薫物、扇五十本(蒔
  絵の箱に納む)これを給う。また女房方より硯、文臺、源氏女樂張筥七(美麗の物な
  り)、硯蓋に敷薄様これを納る。薫物これを給う。また結たる風流の花筥に盛る上品
  葩(御如法経十種供養の葩と云々)等同じくこれを給う。東方殊に自愛の物と云々。

4月17日 甲午 天晴 [公衡公記]
  入道殿入御、春衡下向の間の事を仰せ談ぜらる。また所存を申しをはんぬ。

4月18日 乙未 [公衡公記]
  春衡来たり。関東の函数合これを給いをはんぬ。

4月19日 丙申 [公衡公記]
  今暁春衡予の使いとして関東に下向す。造内裏の条々これを示し遣わす。その次でに
  入道殿より条々またこれを仰せ遣わさる。公顕卿昇進の事、田河庄の事、弘山庄の事、
  大国庄の事、覺円僧正申す関東師檀の事、またこの外世上の事以下これを仰せ遣わさ
  る。目六別に在り。委記に能わず。

4月20日 丁酉 天陰 [公衡公記]
  賀茂の祭なり(奉行職事光継)。今年より御桟敷、御幸並びに参会の人々以下新院の
  御沙汰と云々。年預隆有朝臣これを奉行す。(中略)検非違使、左尉藤原秀賢、源康
  清、源重季、左大夫尉藤原兼藤(関東、貞藤の子)、藤原行村、中原章仲、藤原基仲
  (関東、基政の子)、中原章敏、(以下略)
  前の出羽の守貞藤、子息兼藤を扶持せんが為に去る月より上洛す。馬一疋(鴾毛)を
  予に引き送る。また一疋(黒鴾毛)を入道殿に進すと云々。明日下向すべきの旨その
  聞こえ有るの間、今夜馬一疋(鹿毛)、秘蔵の花立一雙(臺在り)、水龍の火舎一こ
  れを遣わす。入道殿より馬一疋(栗毛駮)同じくこれを遣わさる。以上行尋法印を以
  てこれを遣わす。如法知音の上、春衡関東に下向し、その仁無きの間、行尋を以てこ
  れを遣わす。帰り来たり恐悦の由を申す。行尋内々相語りて云く、近曽関東厳重の起
  請を置くの間、京都、西国の献芹一向これを受用せず。武家被官の輩は悉く猶以て返
  し遣わす。馬また此の如し。然れどもこの御辺の事法度の外なり。仍って受用の由内
  々これを申すと云々。聊か不具の事有りて明日の下向延引し、明後日の由内々これを
  申す。

4月22日 [武家年代記]
  吉見孫三郎頼有これを召し上げらる。家人三人随逐す。御使い大蔵五郎八、江馬平内
  兵衛。

4月24日 辛丑 [公衡公記]
  夜に入って春日の神主時実状を以て馳せ申して云く、今日巳の刻に一の鳥居に立て奉
  る所の榊金輪落つるの間、榊倒北すと云々。奏聞の間不審の為に馳せ申すと云々。こ
  の事吉凶不審、但し先例を尋ねらるの由、翌朝右大弁頼定朝臣に示し送る所なり。

4月26日 癸卯 [公衡公記]
  天未曙の間、忠源僧正示し送りて云く、西塔閇籠衆去る夜丑の刻退散す。神輿また無
  為に御登山と云々。感悦の由を答えをはんぬ。相続座主の宮、慈順僧正、兼覺(執当)
  同じくこの趣を告げ示す。神妙々々。

4月28日 乙巳 夜より天陰雨降る [公衡公記]
  今日辰の刻日吉の社司成久申して云く、今暁寅の刻に衆徒大宮に打ち入り、聖眞子(
  去る二十五日奉献の新造なり)御帳、帷、御飾を取ると云々。これ日吉造替の事、武
  士断罪の事(以上仮令か)、祇園執行栄清一族罪科せらるべし(肝要この事か)と云
  々。一向凶害の張行か。今日新造の神輿六基奉献す。(申の刻)行事所(一条高倉)
  より直に日吉に渡御すと云々。予拝見せず。

4月29日 丙午 [公衡公記]
  神輿無為に御下着するの由、午の刻にこれを聞く。
 

5月1日 戊申 天晴風静まる [公衡公記]
  日吉の祭礼一事無し。今日酉の刻に唐崎に着御すと云々。七年断絶の祭礼今日興行せ
  らるか。新造の神輿事毎に美麗と云々。

5月2日 己酉 天晴風吹く [公衡公記]
  今日仙洞評定。八幡嗷訴の事と云々。

5月4日 辛亥 [公衡公記]
  早旦冶部卿、兵部卿等勅使として来たり。八幡寺、日吉確論、神人成仏法師の間の事
  なり。然れども所労に依って対面せず。また所存を申し難きの由を申す。両人帰りを
  はんぬ。

5月7日 甲寅 天陰雨下る [公衡公記]
  今朝浄仙法印来たり。病を扶けこれに謁す。了観(安達時顕、片眼)明日、明後日の
  間に関東に下向すべし。もし示し遣わすべき事有らば承り存ずべしと云々。春衡下向
  の時、条々示し遣わしをはんぬ。その外殊なる篇目無きの由示し合わせをはんぬ、そ
  の便宜を以て函一合慥に春衡に付すべきの由これを言し付く。

5月16日 癸亥 終日雨降る [公衡公記]
  覺円僧正今暁上着するの由音信あり。院の最勝講十九日より始行せらる。證義参るべ
  きが故なり。夜に入って光経朝臣送状に云く、山門最勝講を抑留す。日吉小五月会の
  馬上役、成仏法師八幡神人と称し子細を申す。仍って延引するの上は、山僧公請に従
  うべからずの由と云々。言語同断の珍事なり。馬上役の事は、八幡と日吉と確執する
  の間、近々関東に仰せ合われ左右有るべきの由沙汰の最中なり。而るにこの事に依っ
  て御願を抑留す。凡そ天魔の所為か。この事山門中の凶害の仁の所為かの由謳歌の説
  有り。

5月17日 甲子 終夜大雨猶休まず [公衡公記]
  山門抑留の最勝講の事、今日三門跡使を仙洞に召され、俊光卿を以て重々の御問答有
  りと云々。

5月18日 乙丑 今朝よりまた雨下る [公衡公記]
  早旦俊光卿送状に云く、山門抑留の最勝講の事、昨日門跡使を召され重々これを仰せ
  含められ、院宣を下されをはんぬ。但しこれに就いて落居の有無不審と云々。
  法皇仰せ下されて云く、覺守今暁馳せ参り、座主の宮申さると称し内々申して云く、
  成仏法師罪科にせらるべきの由関東に仰せ遣わさるの旨院宣に載せ下さらば、それを
  以て宥め試みむべし。昨日の院宣を以ては静謐し難きかの由これを申す。虚誕の院宣
  左右無く下され難きの由仰せられをはんぬ。覺守の申し状太だ言い足らず。

5月19日 丙寅 [公衡公記]
  今日最勝講遂に延引しをはんぬ。講師三人(俊海、玄智、覺守)昨日すでに衆勘を加
  うと云々。濫吹の至り言語の覃ぶ所に非ず。仍って今日に於いては力無く延引す。来
  二十四日始行せらるべし。

5月20日 丁卯 [公衡公記]
  大蔵卿来たり。師康を以てこれを問答す。還補所望の事前の関白(冬平)重ねて慇懃
  せらる。即ち法皇に申し入る(先日款状は新院に執り進す。而るに勅答無きの間、法
  皇に申せしむなり)。申す所然るべきか。但し左府競望するの上は、関東に仰せ合わ
  せらるべきかと云々。

5月21日 戊辰 雨猶降る [公衡公記]
  俊光卿示し送りて云く、最勝講抑留の事猶嗷々と云々。仍って治承二年の例に任せ、
  山門召さるべからざるの由沙汰有りと云々。康衡法師の所労一両日殊に増気するの由
  遠衡これを申す。春衡在国の間殊に驚き聞く。仍って琳海上人に仰せ(去る月二十八
  日より弁才天供を始む)、然れども一切殊なる事有るべからざるかの由これを申す。

5月22日 己巳 雨終夜休まず [公衡公記]
  覺円僧正来たり。去る夜召しに依って仙洞に参り。最勝講の間の事、法皇の仰せを重
  々これを伝え承る。請文に於いては直に申し上げをはんぬ。所詮山門すでに承諾の気
  有るか。神妙々々。春衡関東より音信(去る六日の状なり)、今朝出仕すべし。奉行
  人天野加賀、摂津刑部権大輔これを差し定めらる。先ず神妙。今度上洛定めて遅々せ
  ざるかの由これを申す。
    正和四年五月二十一日三門徒集会に曰く
   最勝講々衆出仕抑留の事、落書と云い事書と云い度々に及ぶ。最欝厳密に依って延
   期されをはんぬ。爰に去る十八日院宣を下さるるの趣誠に黙止し難し。仍って三門
   跡門徒に於いては、速やかに勅定に随うべきの由大儀を成す所なり。この趣を以て
   早く御奏聞有るべきの旨諸門主に申し入るべし。てえれば、衆議斯の如し。

5月23日 庚午 [公衡公記]
  今日院の最勝講初日なり。

5月26日 [武家年代記]
  赦免有りと云々。
 

6月5日 辛巳 天晴 [公衡公記]
  泰衡法師逝去の後、武家の事例に任せ種範これを奉行す。始終春衡の如き沙汰を申す
  べきか。

6月7日 癸未 天晴 [公衡公記]
  早旦朝衡の許より春衡の状を進す(去る月二十三日の状なり)。条々すでに治定し、
  御返事を給わんと欲するの処に、造内裏料所先に給い候。奥州入道(宗宣)以下の面
  々給料所を返し、五ヶ年の年貢一度に近日進済すべきの由これを申し請く。この事信
  用に足りずと雖も、所詮五月中進済すべき面々これを仰せらる。仍って今月中ばかり
  は相待つの後御返事を申すべきの由沙汰有り。この上は今月中の進発延引すべし。来
  月(六月の事なり)上旬にはさりとも定め進発せしむべきかの由これを申す。八講結
  願なり。御所々々昨日より御逗留と云々。

6月10日 丙戌 天晴、近日炎暑蒸すが如し [公衡公記]
  武家の使い(飯尾為定、信里)来たり。日吉の祭礼無為に遂行せらる由の事、関東の
  御返事これを持ち来る。邦光を以てこれを問答す。この次いでに名田庄の事これを申
  す。

6月19日 乙未 夜より雨降る [公衡公記]
  執柄の事今日関東に仰せ合わさる(定資卿院宣を書く。俊光卿放氏の間なり)。款状
  四通(香園院入道一通、光明照院入道一通、鷹司前の関白二通)還補を申すなり。愚
  筆を染め関東に申す。春衡去る八日に関東を立ち、今日上着すべきの由これを聞く。

6月20日 丙申 天晴 [公衡公記]
  未の刻ばかりに春衡来たり。去る夜亥の刻に上着し、今朝北山殿に参り条々を申すと
  云々。未だ喪家に入らざるの間前に召しこれを問答す。去る五日御返事を給わる。而
  るに聊か重ねて申請の旨有って、同七日重ねて御教書を賜る。八日進発するの由これ
  を語る。路次疋夫一人に至るまで病脳の事無し。事毎に無為、併しながら祈祷効験か
  の由これを申す。造内裏の事一々返答分明、料所年限十ヶ年たるべきの由別状有り。
  方々以て神妙。彼是問答の状大巻なり。仍って続ぎ加うに及ばず。造内裏の文書を納
  む。入道殿より条々仰せらる。馬十疋これを持ち来る。その内一疋鹿毛撰び留めをは
  んぬ。入道殿より仰せ遣わさるるの条々、続ぎ加う関東引付、不審の間これを披見す
  べし。

6月23日 己亥 [公衡公記]
  春衡土産と称し蝋燭百廷、奈女の革十枚を進す。また女房方に護緒十具を具す(以上
  文衡代としてこれを進す)。この次いでに範秀蝋燭五十廷を進す。申の刻に武家の使
  (覺浄、基任)来たり。成仏法師の事、関東の状(去る十八日の状なり。如法飛脚か)
  去る夜到来すと云々。正文を持ち来たる。案を校じ返し給いをはんぬ。即ち使者の申
  す詞を案文に書き、山門奉行春宮大夫に付しをはんぬ。成仏法師関東に召し下すべし。
  この上は明後日(二十五日)小五月会を遂行せらるべきかの由、武家申す所なり。奏
  聞すべきの由春宮大夫返事有り。

6月27日 [武家年代記]
  八幡神人成仏法師神職を解却せらる。即ち長井縫殿頭に預けらる。新日吉社並びに山
  門馬上役の事に依ってなり。この事に依って、齋藤帯刀左衛門の尉、関左衛門蔵人同
  二日に京を立ち関東に下向す。同二十七日帰京す。同日、東使長崎四郎左衛門の尉入
  洛す。座主僧正御房貫首を改められ、張本人これを召さる。
 

7月8日 [国会図書館]
**関東御教書
  江戸次郎太郎重通申す武蔵の国千束郷田在家の事、重ねて訴状此の如し。その沙汰有
  らんが為、早く参上せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    正和四年七月八日        遠江守(随時花押)
  江戸彌太郎殿

7月9日
  極楽寺十三重の塔供養、舞楽有り。夜、建長寺焼失しをはんぬ。

7月18日
  正五位下行相模の守平の朝臣煕時卒す。
 

8月1日 丁丑 [公衡公記]
  今日釈尊。上卿花山院中納言(兼信卿)、参議藤原光経朝臣、右中弁平仲定朝臣、少
  納言籐経躬、職事蔵人左衛門佐藤原資朝、座主直講清原宗尚。堅義・宴座これを止め
  らる。関東の事に依ってなり。
 

9月10日 [伊豆三島神社文書]
**関東下知状
  早く伊豆厚盛駿河の国良智郷内肆町五十歩・伊豆の国長崎郷内田参町・同国糠田郷内
  田五段六十歩領知せしむべき事、
  右、亡父三島社神主前の伊豆の守盛時法師(法名盛音)跡、配分せらるる所なり。て
  えれば、早く先例を守り、沙汰致すべきの状、仰せに依って下知件の如し。
    正和四年九月十日        相模守平朝臣(基時花押)
                    武蔵守平朝臣(貞顕花押)

9月12日 [東大寺文書]
**六波羅御教書案
  淀河・尼崎・兵庫嶋・渡辺等の関所条々の事、事書一通これを遣わす。能登次郎左衛
  門の尉相共に、彼の所々に莅み、事書の旨を守り、厳密の沙汰を致し、且つはこれを
  停止し、且つは子細を注し申さるるべきなり。仍って執達件の如し。
    正和四年九月十二日       越後守(在判)
  大井美作五郎殿
 

11月23日 [東寺百合文書]
**六波羅御教書案
  南禅寺領播磨の国矢野例名雑掌申す、範家法師以下の輩狼藉の事、院宣・入道太政大
  臣家の御消息此の如し。訴状の如きは、範家法師・法念彌太郎・安藝法橋等、悪党を
  引率し、当名に打ち入り、政所以下数宇の民家を焼き払い、数百石の年貢を奪い取り、
  殺害刃傷に及び、城郭を構え、悪党を籠め置くと云々。これに就いて、殊に炳誡を加
  え、居雑掌を庄家に沙汰すべきの由、仰せ下さるる所なり。早く石原又次郎相共に、
  彼の所に莅み、城郭の有無を見知し、事実ならばこれを破却し、狼藉を相鎮め、居雑
  掌を庄家に沙汰し、且つは起請の詞を載せ、子細を注し申し、且つは法念以下の交名
  人等を召し進さるるべきなり。仍って執達件の如し。
    正和四年十一月二十三日     越後守(御判)
                    陸奥守(御判)
  糟屋彌次郎殿

11月**日 [摂津国古文書]
**兵庫関合戦悪行輩交名注進状案
  注進 正和四年十一月二十三日兵庫関所に於いて、両御使に対し合戦を致し、箭を放
  つ輩等交名注文の事、
   (人名略)
    正和四年十一月 日