1317年(正和6年、2月3日改元 文保元年 丁巳)
 

正月以後
  京都連々大地震。東寺の塔振れ落つと云々。清水寺炎上、田村将軍の影同じく焼失す。

[神明鏡]
  大地震。正月より五月まて数十度。京白河堂舎民屋悉崩壊す。

1月12日 [鎌倉市立図書館所蔵]
**関東御教書
  新熊野社領安房の国群房西の庄雑掌頼舜申す検注の事、去年十二月十日の如き請文は、
  支え申すに及ばずと云々。てえれば、この上子細に及ばず。早くその節を遂ぐべきの
  状、仰せに依って執達件の如し。
    正和六年正月十二日       左馬権の頭(高時花押)
                    武蔵の守(金沢貞顕花押)
  多賀江四郎殿

1月20日 [中條家文書]
**和田茂明譲り状
  譲り渡す
   越後国奥山庄中条の村々、並びに阿波国勝山・相模国津村の屋敷・鎌倉の屋地等の
   事、
  右、初若ちやくしたるによりて、代々の御下文・手継證文等あひそえて、譲渡うえハ、
  申給て、他のさまたけなく知行すへき也。もし男子なくハ、舎弟弥陀法師丸を子とし
  て、譲あたふへき状件の如し。
    正和六年正月二十日       茂明(花押)

1月30日 [金沢文庫文書]
**金澤貞顕書状
  當寺柱三本の事、三浦安藝の前司に昨日申し候いをはんぬ。急々下知を加うべきの由
  申さしめ候、使者に問答の趣、相違無く候旨、使者語り申し候の間、悦び入り候、申
  し落ち候の間重ねて申し候、恐惶謹言
    正月三十日           貞顕
  方丈
 

2月2日 己亥 天晴 [花薗天皇宸記]
  この間譲位有るべきの由風聞す。然れども実否未だ知らざるの処に、今日関東より僧
  許を遣わす。状有りすでに治定す。十日使者上洛すべしと云々。

2月3日 [武家年代記]
  改元文保と為す。同五日武家に仰せらる。同六日関東に申さる。

2月10日 [武家年代記]
  六原引付番文新加、安富兵庫の允、周防太郎左衛門の尉、三浦雅楽の允、齋藤四郎兵
  衛の尉、雑賀隼人の佑、飯尾大蔵左衛門の尉なり。山城伊勢の前司五番頭人に成さる。

2月13日 庚戌 天晴 [花薗天皇宸記]
  今日なお八幡の神輿入洛有るべきの由風聞す。午の刻ばかりに、すでに入洛の由その
  説有るの間、門番衆等用意するの処に、入洛無し。未の刻ばかりにすでに神輿大渡橋
  上に至らしめ給うと云々。しかるに武士防ぎ奉るの間、橋上に振り棄つと云々。神人、
  武士多く水に落ち入ると云々。

2月14日 辛亥 天晴 [花薗天皇宸記]
  神輿、先ず検校學清本社に入れ奉りをはんぬと云々。
 

3月8日 甲戌 天晴 [花薗天皇宸記]
  去る夜関東の使上洛す。これ遷幸の為の砂金を進らす所なり。

3月10日 丙子 天晴 [花薗天皇宸記]
  今日小除目有り。これ左馬権の頭高時相模の守に任ぜんが為なり。仍って武家殊に急
  ぎ申すと云々。

3月16日 [鎌倉大日記]
  高時相模の守に任ず(十五歳)。
[保暦間記]
  頗亡気の躰にて、将軍家の執権も叶い難かりけり。彼の内官領長崎入道圓喜と申すは、
  正応に打れし平左衛門入道が甥(光綱子)、また高時が舅秋田城介時顕、彼は弘安に
  打れし泰盛入道覺眞が舎弟加賀守顕盛が孫なり。彼等二人に貞時世事申置たるければ、
  申談して形の如く子細無くて年月送りけり。

3月25日 [金剛三昧院文書]
**関東下知状案
  下す 西海道関渡沙汰人
   早く高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下の諸人並びに運送船を勘過せしむべき事
  右、関々浦々、更にその煩いを致さず、勘過せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って、
  下知件の如し。
    文保元年三月二十五日      相模守(高時花押)
                    武蔵守(貞顕花押)

3月30日 丙申 晴 [花薗天皇宸記]
  今日酉の刻ばかりに禎覺(基仲法師なり)関東より上洛す。関東の形勢頗る不快と云
  々。遷幸の事は承りをはんぬるの由これを申すと云々。然れども今明の関東の使(親
  鑒)上洛すと云々。然れば遷幸なお以て難事か。関東の人心多く彼の御方に在りと云
  々。これ追従の甚だしきの致す所と雖も、また豈天運に非ざるや。この両三年連々そ
  の説有りと雖もその実無し。而るに今度に於いてはすでに治定すと云々。不徳の質在
  位すでに十年に及ぶ。新院、後二條院共十年に及ばず。愚身を以てすでにこの両院に
  過ぐ條、誠に過分の事なり。何を歎くべきや。然れども造内裏すでに功を終え、遷幸
  の日次治定す。而るに忽ち見能わざること、第一遺恨の事なり。
 

4月9日 乙巳 朝間陰晴不定 [花薗天皇宸記]
  夜に入って関白参入し申して云く、東使申して云く、踐祚立坊の事、御和與の儀有る
  べしと云々。然れども近日譲位有るべきの由に非ずと云々。また造内裏料所、修理の
  為の替地等、一所西園寺を留め置くと云々。

4月11日 丁未 晴 [花薗天皇宸記]
  関白参入し語って云く、昨日大覺寺殿より申せらるる事これ有りと云々。所詮関東使
  者を以て申すべきの由兼ねてこれを申す。而るに今申す所有りと云々。早く譲国の事
  有るべきの由申し入れべくの由、入道相国に仰せらると云々。これ慮外の事なり。諸
  人春宮に参集し、只今譲位有るべきの由なり。種々荒説等有り。近日世間怖畏極まり
  無き事なり。

4月18日 癸未 晴 [花薗天皇宸記]
  今日密々に聞く、去る夜東使北山第に向かい、文筥の事書を進すと云々。未来儲の君
  の事、後二條院一宮たるべし。その後新院宮たるべしと云々。この子細頗る得心せず。
  天運凡慮を以て計らい申すの條、恐れ存ずるの由申すの処、忽ち儲の君を定むる事如
  何に。首尾相応せざるか。(略)近年東風頗る若亡有り。関東当時無人の故か。

4月21日 丙戌 晴 [花薗天皇宸記]
  去る夜東使上洛すと云々。
 

6月20日 [金沢文庫文書]
**金沢貞顕書状
  昨日の御礼、今朝拝見候いをはんぬ。円覚寺領材木の事、多く紛失の事歎き入り候。
  且つはこの注文を以て、円覚寺に申すべく候なり。只今出仕の間、省略せしめ候。恐
  惶謹言。
    六月二十日           貞顕
  御報
 

7月5日 [尊経閣蔵]
**北條時直書下
  筑前国宗像社仮殿造営の事、今年五月十二日の関東御教書・日時勘文等此の如し。仰
  せ下さるる旨に任せ、早く造営を遂げらるべく候なり。仍って執達件の如し。
    文保元年七月五日        遠江守(花押)
  宗像大宮司殿
 

8月2日 [宮内庁書陵部蔵文書]
**伏見上皇書状
  室町院御領の事、禁裏に譲り進す。而るに残る所々、関東未だ計らい申さずの間、当
  時管領分狭少す。仍って播磨国を以て同じく進すべきの由、後嵯峨院より相伝の分国
  たるの上は、例に任せ御沙汰有るべく候。禁裏御事、殊に扶持申さるべし。御猶子の
  儀、依違無きが為、此の如く重ねて申し置き候。右筆合期せざるに依って、道平の筆
  を仮、書き置かしむる所なり。判形叶わず、手印を以て證たるの状件の如し。
    文保元年八月二日
[山城熊谷直之蔵]
  播州の事、相違無く候の條、殊に畏み存じ候。主上御事、偏に父子の儀候の上は、元
  より疎略有るべからず。殊に扶持申すべく候なり。胤仁誠恐謹言。
    八月二日            胤仁
 

9月3日
  伏見院御崩御(五十三、持明院殿に於いて伏見院と号し奉る)。

9月4日 [皇年代略記]
  深草に火葬す。
 

10月6日 [三浦家文書]
**平子重連契状
  契約
   周防国仁保庄惣領地頭公文両職・山野、多々良庄以下の事、
  右、當庄は、亡父平子兵衛三郎入道唯如の所領なり。而るに唯如死去の後、重連他行
  の隙を伺い、彦六郎重有謀書を構え出し、唯如が遺領を押妨せしむの間、上訴に及ぶ
  の処、重連無力の間、兄如円房執り沙汰せらるるの条、芳志忘れ難きに依って、所詮、
  重連当知行分に於いては、段歩残らず一子孫七重盈譲与しをはんぬ。向後或いは敵方
  と重連和与を致し、或いは上裁の宛給分としては、多少を謂わず、半分に至っては、
  永代如円に譲渡すべきなり。もしこの自筆状に背き、異儀を存じ敵対を成さば、今申
  す給分は、皆悉く如円に付けられ、重連に於いては、罪科に処せらるべきなり。また
  沙汰用途に於いては、疎略を存ずべからざるものなり。仍って契状件の如し。
    文保元年十月六日        平重連(花押)

10月16日
  寅の刻、葛西の禅尼逝去す(八十五)。
 

12月27日
  引付頭、一貞規、二守時、三顕実、四貞宣、五時顕