1321年(元応3年、2月23日改元 元享元年 辛酉)
 

4月15日 戊午 晴 [花薗天皇宸記]
  経顕参り雑事を奏す。故室町院御遺領内備中国園荘、生田禅尼訴え申すに依って、院
  宣を関東に遣わさると云々。これ偏に本所の進止たるべし。豈政務に依ってこの沙汰
  有るべきか。仍って院宣を関東に遣わす。仰せ披くべきの趣定資卿に仰せ合わすなり。
  近日の政道多く此の如きか。

4月21日
  極楽寺の金堂上棟。
 

5月2日 [浄智寺文書]
**後宇多上皇院宣
  常陸の国三會寺並びに寺領石岡村下さるる事、圓如の護附に任せ、知行領掌依違有る
  べからず。早く専ら佛法僧法を紹隆せしめ、宜しく公家、武家の安全を祈り奉るべし。
  てえれば、院宣此の如し。仍って以て執達件の如し。
    元享元年五月二日        有忠卿(花押)
  見山上人禅室
 

7月3日 [鎌倉大日記]
  維貞俄に関東に下向、御気色不快の間、同五日上洛す。

7月10日
  供養。
 

8月15日 [武家年代記]
  夜半大風。
 

9月9日 [武家年代記]
  高家(備前の前司家政の息)御代官として御出仕(若宮)。

9月28日 戊戌 晴 [花薗天皇宸記]
  院の御方に於いて聊か仰せ談ぜられる事有り。俊光、隆有等の卿祇侯す。昨日御使と
  して、隆有卿北山第に向かう。入道相国申す旨これを申す。俊光卿関東下向の事沙汰
  有り。大略下向すべきの由治定するなり。而るに入道相国申し議するの間、評定有る
  所なり。下向宜しかるべきかの由予所存なり。但し大定に於いては、入道相国申す所
  に違わず。然れどもこの事尤も叡慮に在るべき事なり。仍ってこの議を申しをはんぬ。
 

10月9日 己酉 [花薗天皇宸記]
  禎覺参り、御事書これを披見す。所存の事有る等これを申す。御和談の時、二代相続
  立坊の事、関東の所存に非ざるの由これを申す。朕の所存に同じ。御事書少々これを
  直さる。

10月11日 辛亥 晴 [花薗天皇宸記]
  俊光卿参る。御事書の事等、仰せ合わされこれを直さる。予御前に候じ、少々所存こ
  れを申す。文保の御和談、事に於いて物騒、また関東の所存に非ざるか。悔みて余り
  有り。然れどもその時の儀予曽って知り及ばず。今度また沙汰有りと雖も、何の益有
  るや。一向に乱臣の張行か。

10月13日 癸丑 晴 [花薗天皇宸記]
  俊光卿参る。今日北山第に向かうと云々。御事書入道相国に見せしむるの処に、所存
  無しと云々。
  (裏書)この事重事の中の重事なり。記して益無し。然れども一々覚悟、尤も後日の
  要須たるべきの間ほぼこれを記す。およそ文保元年、新鑒使節として上洛す。両御流
  の皇統断絶すべからざるの上は、御和談有って、使節の往返を止めらるべしと云々。
  これに依って当時譲国有るべきか。(中略)この後関東申す旨無きの間、譲国の事沙
  汰せずして止めをはんぬ。先院崩御以後、文保二年正月、法皇より譲国の事を申さる。
  入道相国申して云く、先度すでに関東申さしめをはんぬ。両度猶沙汰せざるの條、定
  めて東風に背くべきかと云々。(後略)

10月21日 辛酉 晴 [花薗天皇宸記]
  今日関東に遣わさる御事書の間の事、聊か所存を申す。尤も然るべきの由仰せ有り。

10月22日 壬戌 [花薗天皇宸記]
  暁更俊光卿参る。薫物等これを給う。即ち進発すべしと云々。
 

11月
  吉田大納言定房勅使として下向す。御冶天下の事、数十ヶ条仰せ含めらると云々。

11月14日 癸未 [花薗天皇宸記]
  前の関白関東に仰せ遣わす子細等これ有りと云々。仍って文書等選定し、俊光の許に
  遣わすべきなり。終日評定す。
 

12月3日 [皇年代略記]
  光明院誕生。

12月9日 戊申 [花薗天皇宸記]
  今日俊光、定房等の卿京着す。今夜法皇より、関白を以て政務を聞こし食さるべきの
  由、禁裏に申さると云々。俊光夜に入って京着するの間、御返事の趣未だ聞かず。

12月10日 己酉 [花薗天皇宸記]
  早旦資明を以て、関東御返事の趣、俊光これを申す。大概宜しき體と云々。然れども
  急速の悦びに及ばざるか。