1322年(元享2年 壬戌)
 

* 出羽の蝦夷蜂起し、度々合戦に及ぶ。去る元応二年より蜂起すと云々。

[保暦間記]
  奥州に安藤五郎三郎、同又太郎と云者あり。彼等が先祖安藤五郎と云者、東夷の堅め
  に義時が代官として津軽に置たりけるが末なり。この両人相論する事あり。高資(長
  崎入道覺眞子)数々賄賂を両方より取りて、両方へ下知をなす。彼等が方人の夷等合
  戦をす。これに依って関東より打手を度々下す。多くの軍勢亡ひけれども、年を重て
  事行ぬ。
 

4月30日 [武家年代記]
  南方(維貞)瘧病、これに依って五月十三日より北方(範貞)判形。
 

5月8日 [武家年代記]
  東大寺の神輿帰座。
 

7月2日 戊戌 晴 [花薗天皇宸記]
  基仲法師御使として関東に下向す。今日夕進発するなり。

7月12日
  引付頭、一守時、二顕実、三時春、四貞直、五時顕
 

8月10日
  評定衆自筆の起請を召さる。

8月23日 戊子 天陰降雨 [花薗天皇宸記]
  この日基仲法師上洛す。関東の御返事を進す。事毎に存内なり。

8月25日 [武家年代記]
  南方(維貞)出仕始めなり。

[花薗天皇宸記](裏書)
  武家執奏の事、基仲法師の便を以て関東に仰せ遣わすの処、實衡卿相違無しと云々。
  また右大臣大将を辞すと云々。入道相国實衡卿を内挙すと云々。誠に理運か。
 

9月4日 [鎌倉大日記]
  西園寺入道相国薨ず。関東沙汰を止めらると云々。
 

12月2日 乙丑 晴 [花薗天皇宸記]
  末久が事沙汰未断の間、関東の下知を暫く抑えるべきの由、武家に仰す。これ御領の
  儀を止むと雖も、口入を以て仰す所なり。
  (裏書)末久の事、この間議有り。すでに管領を止めをはんぬ。而るに更に院宣を下
  さる。媒酌無きに非ず。然れども長嗣が旧労他に異なり、子孫牢籠の為申し置く所な
  り。違乱に及ぶの時、何口入せざるかの由思う所なり。俊光、定資等の卿同じくこの
  由を申す。仍って院宣を以て武家に仰すなり。