3月10日 丙申 晴 [花薗天皇宸記]
室町院御遺領の事に就いて、使節を関東に遣わすべき事、重々の沙汰、前の右大臣を
召し仰せ合わす。また院の御方に申し入る。終日この沙汰なり。
3月19日 乙巳 陰雨下る [花薗天皇宸記]
永嘉門院より仰せらるる室町院御遺領の事、関東の計り申すに任せ急ぎその沙汰有る
か。
3月20日 丙午 晴 [花薗天皇宸記]
大覚寺殿より、定房卿を以て室町院御遺領の事を仰せらる。関東に任せ申す旨分け進
ぜられをはんぬ。この方の沙汰の様恨むべきや云々。去年すでに永嘉門院に返し進ぜ
られをはんぬ。今また分け進ぜらるるの條尤も以て不審、表裏の御沙汰か。定房参ら
ず。経顕を召し申す所なり。
3月21日 丁未 [花薗天皇宸記]
俊光を前に召し、関東に仰すべき條々の委細これを仰す。文書正文等これを給う。
6月25日 [武家年代記]
大覚寺法王崩御す。[御年五十八にぞならせ給ひける]
7月2日 [武本氏所蔵文書]
**金澤貞顕書状
大覚寺殿去る月二十五日(寅の刻)崩御するの由、六波羅より注進するの間、物沙汰
を三十ヶ日止められ候いをはんぬ。因幡民部大夫御使いとして上洛し候、諸事近き程
参入せしめ、申し入るべく候、恐惶謹言
七月二日 貞顕
方丈進之候
8月25日 [金沢文庫文書]
**関東御教書
遠江の国天龍河、下総の国高野川両所橋の事、仰せ付けらるる所なり。早く先例に任
せ、沙汰を致すべきの状、仰せに依って執達件の如し。
元享四年八月二十五日 相模の守(高時花押)
修理権大夫(貞顕花押)
称名寺長老
8月26日[花薗天皇宸記]
伝聞、前の中納言有忠、春宮の御使として関東に下向すと云々。
9月18日 [神明鏡]
この帝(後醍醐)相模の守平の高時入道宗鑑を伐せんと思召立。武勇の輩を召べしと
て、智光共を召る。中にも日野の中納言資朝卿、蔵人の大内記俊基等に密談有て、人
々を召れけり。土岐の左近蔵人頼員舅齋藤太郎左衛門にこの事を語けるに依、同心の
輩土岐の伯耆の十郎、田染の四郎次郎か宿所へ六波羅より押寄て打れぬ。
9月19日 晴 [花薗天皇宸記]
伝聞、京中に謀叛の者有り。四條辺の合戦に於いて、死者数多と云々。未の刻武家の
使者(時知、行兼)北山亭に向かう。民部卿資朝、少納言俊基召し給うべきの由奏聞
すと云々。今朝より人口紛紜、巷説極まり無し。謀反人源頼員は彼の両人と刎頚の交
わりを為す。故にこの事有るか。人口猶未息、密詔有る故、この両人陰謀有るの由風
聞すと云々。
後聞、今夜戌の刻に蔵人少納言俊基六波羅に向かうと云々。民部卿資朝丑の刻に行き
向かうと云々。事の根元は、土岐左近蔵人源頼員、日来禁裏より語り仰せられ、而る
に事の就かざるを恐れ、自首して六波羅に告ぐと云々。茲に因って張本人土岐十郎等
誅せられをはんぬ。この事資朝卿、俊基奉行せしむと云々。仍って事の子細を尋ねん
が為に召し取る所なりと云々。実否未だ知らず。ただ閭巷の説を以て記す所なり。種
々の説等耳に満と雖も記し能わず。言詞の及ぶ所に非ず。
後聞、今日誅す所、土岐十郎五郎頼有、田地味(某)国長二人と云々。
後日或る語に云く、土岐左近蔵人頼員、去る十六日俄に上洛し、齋藤某俊幸(頼員俊
幸の聟と云々)が宿所に向かい告げて云く、去る比、田地味−−国長(伯耆前司、頼
員外戚の親族と云々)頼員に語りて曰く、資朝卿云く、関東の執政然るべからず。ま
た運すでに衰に似たり、朝威甚だ盛ん、豈敵すべきか。仍って誅せらるべきの由綸言
を承り、或いは直に御旨を承り、或いは資朝勅語を伝うと云々。頼員同心すべしと云
々。当座なまじいに以て許諾し、後日関東の恩の謝し難きを思い、忽ち上洛しこれを
告げんと欲す。而るに先ず事の體を聞かんが為に、国長が宿所に向かい相尋ぬるの処、
来二十三日は北野の祭なり。件の祭礼は喧嘩有り。これ恒例の事なり。乃ち武士等馳
せ向かう。件の隙を以て六波羅に向かい範貞を誅すべし。その後山門・南都の衆徒等
に仰せ、宇治・瀬田等を固むべしと云々。この事資朝卿、俊基奉行し、近国の武士等
多く召さるるべしと云々。武家この事を聞き、未明に国長、頼有等を召すの処参らず。
両三度使者を遣わすの処、返事に及ばす放火すと云々。仍って武士等行き向かい合戦
す。遂に以て自殺すと云々。即ちまた奏聞し資朝、俊基を召し下さるべきの由なりと
云々。或いは談て云く、主上頗る迷惑せしめ給い、勅答等前後依違と云々。彼の両人
早旦北山に参り、夜に入って武家に向かう。即ち二人ながら郎等等に預け置くと云々。
両人陰謀の事未だ実證を聞かず。信用に足らずと雖も、本より立つ所の義勇而るに道
の正しきを測らず、恐らくこの謀り有るか。これ即ちその智の不足なり。
9月20日 [武家年代記]
土岐小十郎、田志美二郎隠謀の聞こえ有るに依って、京都に於いて誅せられをはんぬ。
[鎌倉大日記]
土岐頼員密謀を範貞に告ぐ。範貞が使兵、土岐頼貞、多治見国長を殺す。
[増鏡]
美濃の国の兵にて、土岐の十郎(頼兼)とかや、また多治見の蔵人(国長)などいふ
者ども、いのびてのぼりて、四條わたりに立ちやどりたる事ありて、人に隠れて居り
けるを、早う又告げしらする者ありければ、俄にその所へ六波羅よりよせて、からめ
とるなりけり。かの者どもは、やがて腹切りつ。又別当資朝、蔵人内記俊基、おなじ
やうに武家へとられて、きびしく尋ね問ひ、守りさわぐ。事のおこりは、御門世をみ
だり給はぬとて、かの武士どもを召したるなりとぞ、いひあつかふめる。
過ぎにし頃、資朝も山伏のまねして、柿の衣のあやゐ笠といふものきて、あづまの方
へ忍びて下りしは、少しはあやしかりし事なり。はやう、かゝる事どもにつけて、あ
なたざまにも、宣旨を受くる者ありけるなめり。俊基も、紀伊国へゆあみに下るなど
いひなして、田舎ありきしげかりしも、今ぞ皆人思ひあはせける。
9月23日
六波羅の飛駅到来す。主上御陰謀の由その聞こえ有り。中納言資朝卿、少納言俊基、
三位房遊雅等召し下され尋問せらる。奉行人は諏方の入道、安東入道等なり。
[武家年代記]
この事に依って六原の早馬下向す。
[花薗天皇宸記]
この暁権中納言宣房卿勅使として関東に下向す。これこの事の根源、詔旨に依って両
人奉行するの由風聞するの間、御陳謝の為と云々。
9月24日 [武家年代記]
工藤右衛門二郎、諏方三郎兵衛御使いとして京都に上る。
9月28日 晴 [花薗天皇宸記]
(前略)当時朝廷に仕るの人、大略この人数の由風聞有り。諸人氷を踏む如しと云々。
但し大略浮説か。関東の早馬帰洛の後、沙汰有るべきの由風聞す。紛々の巷説等記し
尽くすこと能わず。
9月29日 雨降る [花薗天皇宸記]
関東の飛脚昨京に着く。一門の輩七人、大名七人上洛すべしと云々。或いは曰く、進
す公家の事書有り。凡そこの間多くの巷説と雖も、是非未だ知らず。
9月30日 [花薗天皇宸記]
伝聞、関東使今日下向すと云々。
(裏書)この間世間甚だ怖畏有り。警護を武家に召さるべきかの由議有り。然れども
また然るべからざるかの由議有り。遂にこれを召されず。還ってその詮無くべきが故
なり。
10月4日 [武家年代記]
両使帰参す。
10月5日 [武家年代記]
勅使春日万里小路新中納言宣房卿上洛下着。この中間、早馬の往復連々これ有り。
[増鏡]
宣房の中納言御使にてあづまに下る。大かた、ふるき御世よりつかへきて、年もたけ
たるうへ、この頃は、天下にいさぎよくうべうべしき人に思はれたる頃なれば、この
事、更に御門のしろしめさぬよしなど、けざやかにいひなすに、荒きえびすどもの心
にも、いと忝き事となごみて、ぶいなるべく奏しけり。この御使の賞にや、大納言に
なされぬ。
10月22日 乙亥 [花薗天皇宸記]
権中納言宣房卿上洛。有無為すの由御返事と云々。伝聞、資朝卿、俊基、祐雅法師等
糺明の為、召しに依って関東に下向すと云々。
10月29日 壬午 [花薗天皇宸記]
伝聞、正三位範春関東より召さると云々。国長の縁者が故か、由緒を知らず。息女日
来この方に候ず。未だその故を知らずと雖も、先に退出す。謹慎の故なり。
11月1日 甲申 晴陰不定 [花薗天皇宸記]
伝聞、従三位為守、智暁法師等(西大寺門徒律僧なり)召しに依って関東へ下向すべ
しと云々(両人関東に召さるる事、不参の由後日これを聞く)。為守卿は資朝知音の
故と云々。凡そ近日或る人云く、資朝・俊基等結衆会合し乱遊す、或いは衣冠を着さ
ず、殆ど裸形にて飲茶の会これ有り。これ学達士の風か。(中略)この衆数輩有り。
世これを称し無礼講の衆と云々。緇素数多に及ぶ。その人数を一紙に載せ、去る比六
波羅に落つ(或いは云く、祐雅法師自筆を染めこれを書く)。この内に或いは高貴の
人有りと云々。件の注文未だ一見せず。仍ってこれを知らず。件の衆の内為守卿専一
なり。仍ってこの召し有るの由巷説有りと云々。知暁に於いては、朝夕禁裏に寓直し、
また武家の辺に行き、漏達の事有るの由、同じく以て閭巷の風聞なり。後聞、この両
人関東に下向せずと云々。若しくはこれ荒説か。真偽弁じ難し。
11月14日 丁酉 晴 [花薗天皇宸記]
今度重輔自ら関東持参の物一巻これを書す。これ今度勅使として宣房卿所持下向すと
云々。但し文體詔に非ず宣に非ず。また作名なり。関東は戎夷なり。天下の管領然る
べからず。率土の民皆重恩を荷う。聖主の謀叛を称すべからず。但し陰謀有るの輩、
法に任せ尋ね沙汰すべきの由これを載せらる。多く本文を引かれ、その文體宋朝の文
章の如し。(略)但しこの書なお信用し難し。もし事実ならば、すでにこれ誅罰せら
るるべきの詔書か。世間怖畏の外他に無し。書き遣わさるる所実たらば、君臣皆これ
狂人か。言詞の及ぶ所に非ざるものなり。
11月16日 己亥 晴 [花薗天皇宸記]
貞将上洛す。六波羅南方たりと云々。その勢五千騎ばかり、先例に超過すと云々。
12月8日 庚申 晴 [花薗天皇宸記]
伝聞、今夜改元正中と云々。甲子の改元今年沙汰無し。歳末に及ぶの沙汰尤も不審、
但し風水に依って改元と云々。然れども実は、若しくは甲子の災い重疉の故か。
12月13日 乙丑 晴 [花薗天皇宸記]
範春卿関東に召し取らるること大謬なり。仍って即ち免されをはんぬ。熱田社領延方
名永田郷急ぎ返し付けらるるの由、俊光の使者を召し申す所なり。仍って馳せ申すと
云々。また息女追放の由、範春卿これを申す。召し返さるべしと云々。急速に御沙汰
を下さるべきの由、内々申すの間、即ち両庄院宣を息女右衛門督(予侍女なり)に遣
わさる。
12月15日 丙寅 [花薗天皇宸記]
夜に入って座主の宮参る。予対面、仍って関東の申す旨を申す。明後日登山すべしと
云々。
12月28日 庚辰 晴 [花薗天皇宸記]
伝聞、去る夜、相国関白に還補するの由宣下すと云々。去る比九條前の関白解状を出
す。彼の趣を以て関東に仰せ合わされ、昨日左右到来し、これを補さるると云々。三
ヶ度の還補誠に希有の例か。幸運と謂うべし。但し今度頻りに辞退し、左府を挙す。
然れども時宜なお推して関東に仰せらると云々。
12月29日 辛巳 晴 [花薗天皇宸記]
内府貞資を以て武家の状、並びに関東の状、事書等を奏聞す。関東の状即ち返し給い
をはんぬ。状等別紙在り。その趣、正安四年の落居改動せられ難しと云々。日来すで
に正安折中の儀を破りをはんぬ。今これ本理に帰るに非ず。仰せ披かんと欲するの処
に、また立ち帰り正安の儀を用ゆ。これ偏に彼の女院引汲の仁の為せる所なり。但し
この春、太率の儀すでに破らるるの條、慶賀と謂うべきか。