1325年(正中2年 乙丑)
 

1月3日
  相州の舘並びに政所以下焼失す。火本は西御門。

1月13日 乙未 晴 [花薗天皇宸記]
  今日俊光卿参り、関東の事を語る。立坊の事御返事先々の如し。以て期する所無し。
  去る三日、関東相州の亭焼失するの由風聞す。仍って院宣を以て訪ね仰すなり。武家
  奏聞せずと雖も、その説必定の間、綸旨・院宣等下さるる所なり。
  (裏書)立坊の事、猶御和談たるべきの間、禁裏に申すべしと云々。それに就いて亀
  山院御流すでにまた相分る。この事正安重々申す旨有り。而るに今相違に似たり。如
  何の由相尋ぬるの処、始終継体は龍楼の由これを申す。これに就いてまた所存を申す
  と雖も、猶和談せらるべきかの由計り申す所なり。頗る期する所無きか。近日定房卿
  下向すべきの由風聞す。これに就いて春宮よりまた有忠卿鞭を揚ぐべしと云々。近年
  両方の使者同時に馳せ向かう。世競馬と号す。而るに今また一流の内すでにこの事有
  り。歎息すべし。後宇多院崩御の後一期に及ばず、纔六七ヶ月の内に両度使節同時に
  馳せ向かう。尤も穏便ならざるか。但し当流の運、偏に龍楼の驥尾に付くか。

1月21日 癸卯 晴 [花薗天皇宸記]
  関白参る。召しに依ってなり。これ御和談の事、禁裏に申さるべきの由、関東申さし
  むるの間申せらるるなり。即ち参内すと云々。

1月22日 甲辰 晴 [花薗天皇宸記]
  関白昨仰す詞を書き進す。禁裏より書き進す旨仰せらるるの故と云々。

1月28日 庚戌 晴 [花薗天皇宸記]
  関白状を以て、禁裏に申す返事追って申さるるべきの由。
 

閏1月7日 戊午 [花薗天皇宸記]
  伝聞、資朝・俊基陰謀の事糺明有り。その実無きの由治定しをはんぬ。但し資朝に於
  いては佐渡の国に配す。これ何事の罪科たるや。尤も不審。俊基は近日帰洛すべしと
  云々。祐雅法師追討せらると云々。近日この事に依って、使節上洛の由風聞す。
  (裏書)後日或る人密々談に云く、長崎入道圓喜密談に或る者云く、この事尤も不審、
  資朝の書状不審の事有り。見せしむるの処、披陳分明ならずと云々。然れども恐怖を
  成す故、厳密の沙汰に及ばず。披露無実の由か。

閏1月10日 辛酉 晴 [花薗天皇宸記]
  六條殿より還御す。関東に遣わさるる事書等沙汰有り。経顕を以て前の右府に仰せ合
  わさる。

閏1月12日 癸亥 晴 [花薗天皇宸記]
  早旦事書北山に遣わさる。急ぎ遣わすべきの由仰せ下さる。勅書を副えらるるなり。
  遠衡法師を以て内府に仰せらるるなり。

閏1月21日 壬申 晴 [花薗天皇宸記]
  炎上の事、関東の返事到来す。
 

2月9日 己丑 晴 [花薗天皇宸記]
  伝聞、東使一昨日北山に向かう。その旨趣、資朝卿種々の不義・謀逆の事有り。疑殆
  無きに非ざるの間、配流しをはんぬ。俊基同心の聞こえ有りと雖も、支證無きの間放
  免しをはんぬと云々。この間風聞の旨は、彼の両人陰謀その実無きの由治定すと云々。
  然れども今の趣に於いてはすでに以て疑い有るに似たり。尤も驚歎すべし。禁裏この
  趣殊に隠密せらると云々。東使は伊勢の前司忠定と云々。

2月10日 [武家年代記]
  東福寺棟上げ。

2月19日 己亥 雪降る [花薗天皇宸記]
  伝聞、今日東使(伊勢の前司忠貞)禁裏に参る。宣房卿を以て御問答有りと云々。
 

6月6日
  蝦夷蜂起の事に依って、安藤又太郎を改めらる。五郎三郎を以て代官職に補しをはん
  ぬ。

6月25日 [神明鏡]
  亥の時、雷電して俄に山門の無動寺山崩。坊舎三十余宇打埋、人民多打殺、白河京中
  の民屋悉流、希代の珍事なり。
[花薗天皇宸記]
  申の刻ばかりに暴雨沃すが如し。

6月26日 甲辰 [花薗天皇宸記]
  寅の刻に大雷鳴大雨、辰の一点に及び休止す。霹靂二ヶ所と云々。大炊御門富小路雷
  火一宇焼けをはんぬ。大雨雷鳴近年未曾有か。諸河水溢張すと云々。前庭の池の水岸
  を浸す。小島皆没しをはんぬ。
  (裏書)洪水先々に超過す。山上の無動寺房舎十七宇流失す。坂下の小家等、水害せ
  さる者数知れず。翌日泥土の中に於いて、掘り出す所の死人五百人に及ぶと云々。ま
  た白川河水溢れ、小家皆流れ死人数多と云々。

6月30日 戊申 晴 [花薗天皇宸記]
  この暁大納言俊光卿関東に下向す。資名卿扈従すと云々。立坊の事、綸旨、院宣相対
  の事等仰せ遣わさるなり。今度の勅使の事、諸人の議一決せず。予心中案決す。縦え
  遣わされ巨難有るべからずと雖も、仍って諫争に及ばずなり。
 

7月20日 戊辰 晴 [花薗天皇宸記]
  夜に入って為實卿参る。二十七日関東に下向すべきの間、暇を申さんが為参入すと云
  々。歌の事等これを談ず。
 

8月
  中納言資朝卿佐渡嶋に配流さる。
[増鏡]
  別当は佐渡国へ流されぬ。俊基は、いかにしてのがれぬるにか、都へ帰りぬれど、あ
  りしやうには出でつかへず、籠り居たるよしなり。
 

10月1日 己卯 [花薗天皇宸記]
  (裏書)今日宗峯上人禅林寺長老に謁す。長老内裏に参り御問答の體これを語る。(略)
  この仁すでに関東帰依の僧たり。仍って□すべからざる事等隠密すべきの由、時宜有
  るか。仍ってこの上人口外すべからずの由これを示す。予倩これを思うに、当今仏法
  興隆の叡慮有るの由風聞す。而るに東方の形勢に依って、還って隠密せらるるは如何
  に。

10月5日 壬午 [花薗天皇宸記]
  伝聞、武家の使者帰洛す。南都の事使者を以て申すべしと云々。

10月14日 辛卯 晴 [花薗天皇宸記]
  夜に入って俊光卿帰洛す。條々御返事有り。立坊の事なお御和談たるべしと云々。こ
  の事大略棄損せらるるの義なり。但し諸人理有るの由を存ずと云々。然れども猶恐れ
  □□をはんぬ。左右無く計り申さずと云々。愚迷の至りか。理有ること猶これを仰す。
  豈天意に背かざるや。
  (裏書)綸旨・院宣相対の事、武家関東に注進すべきの由申入ると云々。
 

11月22日 戊辰 晴 [花薗天皇宸記]
  東使今夜上洛すと云々。佐々木(某)清高と云々。その勢甚だ多しと云々。

11月30日 丙子 [花薗天皇宸記]
  高時去る二十二日男子誕生すと云々。先例に付し御劔を遣わさるべきの由沙汰有り。
  勅使下向するや否や同じく沙汰有り。永仁(高時兄)勅使を止む。然れども今度勅使
  を止むるの由別に申さず。またその時の例用い難きか。文永貞時誕生の時の例分明な
  らず。或いは云く勅使有りと云々。終日沙汰有り。人々に仰せ合わされ、内府・俊光
  ・定資等の卿、皆御使の下向宜しかるべし。但しその煩い有って叶わざれば、力及ば
  ざる事か。然れば院宣たるべきかの由これを申す。但し定資卿なお勅使たるべきかの
  由頻りにこれを申す。
 

12月の頃 [増鏡]
  兵衛督為定、故中納言(為藤)のあとをうけて、撰びつる撰集の事、まづ四季を奏す
  るよし聞えしのこり、この程ひろまれるおもしろし。続拾遺集とぞいふなる。

12月1日 丁丑 雨降る [花薗天皇宸記]
  勅使の事なお宜しかるべきか。禁裏季房を遣わさる。春宮本より御使在国の間、有忠
  卿ばかりを遣わさる。即ち御劔持ち向かうべしと云々。然ればこの御方一方、御使を
  遣わされずの段如何にと云々。尤も然るべきかの由答えをはんぬ。

12月2日 戊寅 [花薗天皇宸記]
  関東勅使の事仲経に仰せらるるなり。その子細重々あり。

12月4日 庚辰 晴 [花薗天皇宸記]
  また関東使節の事沙汰有り。

12月10日 丙戌 [花薗天皇宸記]
  明暁仲経進発すべきの由これを申す。仍って院宣等今日書き遣わせしむ。且つは禁裏
  勅書なり。春宮また直御書と云々。仍って議有り。前の右府・俊光・定資等勅問有り。
  両の御方すでに此の如し。この御所院宣たり。疎かに似たるかの由面々これを申す。
  仍ってその儀たるなり。明暁東方太白の方に当たる。仍って明後日進発すべきの由こ
  れを申す。

12月11日 丁亥 [花薗天皇宸記]
  今朝関東の状を書く。その辞に云く、
   男子誕生の事悦に承るの趣、仲経を以て申さしむるものなり。
    十二月十日(院の御方院宣、十日の由書かる。仍って御書また同日なり。予また
          同じくこれを書くなり)
  兼日に院宣を遣わすべきの旨議有り。定資すでに書き進す。而るに手書きたるべきの
  由治定の間、彼の院宣止めをはんぬ。院の御方より勅書有りと雖も、なお院宣を加う
  るなり。これ施行を為すなり。彼の御書に云く、
   男子平誕の事尤も以て珍重、仍って使者を差し進らしむものなり。
    十二月十日云々
  進の字、申の字頗る過分か。而るに近代の法此の如きか。仍って此の如きなり。御劔
  を遣わす事院宣の礼紙に載せらる。朕状に載せず。また院宣無し。ただ仲経詞を以て
  申さしむるなり。今度先例不審、然れども新儀を以て今案じ此の如く治定するなり。
  龍楼の御書御劔の事を載せらる。彼の案文を慮見せざるなり。禁裏如何に、これを知
  らず

12月12日 戊子 晴 [花薗天皇宸記]
  この暁仲経進発す。

12月25日 [円覚寺文書]
**関東御教書
  奉寄 建長寺正続院
   常陸国椎火郷宮山村内田地壹町七段、屋敷貮ヶ所の事
  右、眞壁女子平氏寄進状に任せ、沙汰を致すべきの旨、仰せに依って奉寄の状件の如
  し。
    正中二年十二月二十五日     相模守平朝臣(高時花押)
                    修理権大夫平朝臣(貞顕花押)