1331年(元徳3年、8月14日改元 元弘元年 辛未)
 

* 元弘の年号関東これを施行すること無し。故に元徳を以てこれを施行す。

1月23日
  引付頭、一貞将、二貞直、三範貞、四俊時、五高景
 

2月22日
  山内殿焼失。
 

4月29日
  京都の飛駅下着す。主上世を乱さしめ給う。俊基朝臣張行するの由、吉田一品(定房
  卿)内々に申さると云々。
 

5月5日
  長崎孫四郎左衛門の尉、南條次郎左衛門の尉使節として上洛す。右中弁俊基並びに文
  観、圓観等を召し禁しめんが為なり。

*[増鏡]
  夏の頃、かの一年とられたりし俊基、又いかに聞ゆる事の出できたるにか、からめと
  らむとしければ、内へ逃げてまゐるを、おひさわぎて、陣のほとりまで、武士どもう
  ちかこみてのゝしければ、こは何事と、聞きわくまでもなし。いとものさわがしく、
  肝つぶれて、あるかぎり惑ひあへり。
  又の日、六波羅へつかはしたれば、あづまへゐて下りぬ。
 

6月
  この輩等召し下され拷問に及ぶ。同月仲圓僧正、智教、遊雅等召し下さる。

*[増鏡]
  うへは、御悩おこたらせ給ひて、いとど安からずおぼす事まされり。日ごろも、御心
  にかけさせ給へる事なれば、逆にこのあらまし遂げてむと、ひたぶるにおぼしたちて、
  忍びてこゝかしこに用意すべし。
 

7月14日
  太守禅閤の寵妾女子を誕生す。その後世上静ならず。
 

8月6日
  典薬の頭長朝朝臣、前の宮内少輔忠時朝臣、長崎三郎左衛門の尉高頼、工藤七郎右衛
  門入道、原新左衛門入道等召し捕られ、各々配流せらる。陰謀の企て有るに依ってな
  り。

8月20日 [増鏡]
  まづ河原にいでさせたまひて、やがて野の宮に入らせ給ふ。その程の事ども、いみじ
  うきよらなり。この御いそぎ過ぎぬれば、まづ六波羅を御かうじあるべしとて、かね
  てより宣旨に随へりしつは者どもを、忍にてめす。源中納言具行とりもちて、事行ひ
  けり。比叡の山の衆徒も、御門の御軍に加はるべきよし奏しけり。

8月21日 [神明鏡]
  東使三千余騎にて二階堂下野判官、長井遠江守上洛す。その故は主上をは遠国へ移し
  奉、大塔の宮を死罪に行ひ奉るべしと聞へし。

8月24日 [武家年代記]
  寅の刻、先帝御登山。仍って御治世を申し行わんが為に、関東より秋田城介高景、出
  羽入道道蘊を御使いとして差し上さる。

[神明鏡]
  夜主上は俄に笠置寺へ遷幸成由聞へし。山門へは佐々木大夫大将にて五千余騎を指向
  らる。戸津にて散々の合戦に及。爰山門大衆等少々心得有と聞しかは、大塔の宮は南
  都へ忍給。

[増鏡]
  君も本殿にしばしうち休ませ給へるに、「今夜既に武士どもきほひ参るべし」と、し
  のびて奏する人あるければ、とりあへず、雲の上を出でさせたまふ。内侍所、神璽、
  寶劔ばかりをぞ、しのびてゐてわたらせ給ふ。うへは、なよらかなる御直衣たてまつ
  りて、北の対より、やつれたる女車のさまにて、しのび出でさせ給ふ。(中略)奈良
  の京へぞ赴かせ給ふ。中務の宮も御馬にて追ひて参りたまふ。九條わたりまで御車に
  て、それより御門も、かりの御衣にやつさせ給ひて、御馬にたてまつるほど、こはい
  かにしつる事ぞと、夢の心地しておぼさる。御供に按察大納言公俊、万里小路中納言
  藤房、源中納言具行、四條中納言隆資などまゐれり。

8月25日 [増鏡]
  曙に、武士どもみちみちて、御門の親しく召しつかひし人々の家々へ、押し入り押し
  入り、とりもてゆくさま、獄率とかやの現れたるかと、いとおそろし。万里小路大納
  言宣房、侍従中納言公明、別当實世、平宰相成輔、一度に皆六波羅へゐて行きぬ。

8月27日 [増鏡]
  和束の鷲峯山へ行幸ありけれども、そこもさるべくやなかりけむ。笠置寺といふ山寺
  へ入らせたまひぬ。所のさま、たやすく人のかよひぬべきやうもなく、よろしかるべ
  しとて、木の丸殿のかまへをはじめらる。人々すこし心地とりしづめて、近き国々の
  兵などめしにつかはす。

8月29日
  京都の飛駅到着す。去る二十四日、主上竊に魏闕を出で、笠置の城に籠もらしめ給う。
 

9月1日 [神明鏡]
  六波羅より陶田高橋を大将として、畿内の勢三千余騎を笠置城へそ向られける。城よ
  りも木津辺に下々て、度々の合戦。

9月2日
  承久の例に任せ、上洛すべきの由仰せ出さる。

9月567日
  面々進発す。大将軍は陸奥の守貞直、右馬の助貞冬、江馬越前の入道、足利治部大輔
  高氏、御内の御使は長崎四郎左衛門の尉高貞、関東の両使は秋田の城の介高景、出羽
  の入道道蘊、この両使者は践祚立坊の事と云々。この外諸国の御家人上洛す。都合二
  十萬八千騎。

9月20日
  東宮受禅。

9月21日 [皇年代略記]
  院新院六波羅より常磐井殿に還御す。

9月26日 [藤島神社文書]
**結城宗廣書状
  今月二十三日、京都より早馬参て候、当今御謀叛の由、その聞こえ候、齋藤太郎左衛
  門の尉の許より先ず申て候、六原殿よりは未だ申されず候、明暁なとは参着せしめ候
  はす覧と申あひて候、これに依って諏方三郎兵衛の尉(諏方全禅子、諏入養子)並び
  に工藤右衛門二郎早打に京都へ只今(丑の時)立ち候、此の如く候間、鎌倉中騒動に
  候、御局より弥一を進ぜられ候の間、この夫丸を副え進し候、この早打に就いて土岐
  伯耆の前司宿所(唐笠辻子)へ押し寄せられ候の処に、在国の間、留守の仁一両人召
  し取られ候と云々。九月二十三日丑の時、宗朝の状此の如く承り候へは、栗宮か使と
  て上り候かいや上られ候よし申し候間、返す々々悦び入り候、尚々目出度候、出羽に
  もかたられ候はて上られ候条、返す々々有り難き候、相構えて馬共労てとく上られべ
  く候、かかる珍事に候折節夷京都と申かかる勝事に候なり。只今(子の時)、弥一法
  師下着の間、即時に申し候なり。栗宮か下人の上り候に尋ね候えは、三日は連れ追て
  候由申し候の間、尚々心安く覚え候、宗朝か状には今一重申し候なり。余に急ぎ候て
  くはしく申さず候、穴賢々々
    九月二十六日          宗廣(花押)
  上野七兵衛の尉殿

9月28日
  笠置の城を破りをはんぬ。先帝歩儀にて城を出でしめ給う。路次に於いて迎え奉る。
[神明鏡 晦日]
  爰備中の国の住人陶山籐三と云者有。一家五十余人同心して、雨降風烈して、面を向
  べき様も無く。兼て見置し難所の岩を伝り、そはをかけ、千の屏風を立たるよりも尚
  さかしきをは、はうはうに伝て、彼の城の際迄忍入ぬ。本堂辺に登たれは、爰か皇居
  にて有と覺へて、蝋燭所々に見へ、公卿以下少々侍り。あきたる坊に火を打付ぬ。風
  烈軈皇居に吹係。夫より走散て、所々陣屋に火付たるに、一同に焼上る。主上歩跣御
  出、源中納言具行、平宰相成輔、中納言藤房、同大進季房卿、御手を引奉り、幽谷に
  入。

9月29日 [武家年代記]
  先帝また他所に御幸するの処に、河内の国の御家人深栖尾張権の守これを懐取り奉る
  と云々。

[皇年代略記]
  件の寺(笠置寺)御出奔するの間、武士光明山に於いて参会し宇治平等院に遷し奉る。

[神明鏡]
  爰山城国の住人深須入道山の案内者にて、山中を尋けるに、主上を見付奉り、軍兵共
  御迎に参。先宇治院に入れ奉り、夫より行粧を引粧て、六波羅へ入れ奉る。召取進侍
  臣も皆京へ入ぬ。
 

10月1日 癸卯 [花薗天皇宸記]
  卯の刻に聞く、先帝すでに城中を遁れ出で給うの間、武士取り奉ると云々。髪を乱し
  小袖一、帷一を着せらると云々。仍って御服急ぎ進すべきの旨武家に仰せらるるの間、
  内裏に留め置かるる所の御服渡さるべきかの由、西園寺大納言これを申す。仍って御
  唐櫃一合、御冠筥一合、同じくこれを遣わさる。生虜並びに自殺人の数説々有り。武
  士等見知らざるが故か。

10月3日
  六波羅南方に遷幸す。同日楠木城に於いて、第一宮尊良親王を虜え奉る。
[増鏡]
  都へ入らせ給ふも、思ひしにかはりて、いとすさまじげなる武士ども、衛府のすけの
  心地して、御輿近くうちかこみたり。鳳輦にはあらぬ、網代輿のあやしきにぞたてま
  つれる。六波羅の北なる檜皮屋には、もとより両院、春宮おはしませば、南の板屋の
  いとあやしきに、御しつらひなどして、おはしまさするも、いとほしうかたじけなし。

10月4日 丙午 [花薗天皇宸記]
  今朝武家に使者を召し、重ねて劔璽を渡し奉るべきの由を仰す。資名卿を以て委細こ
  れを仰す。今暁寅の刻、先帝六波羅に迎え奉り、南方御在所たりと云々。

10月5日 丁未 [花薗天皇宸記]
  夜に入って西園寺大納言参り申す、武家劔璽を渡し奉るべきの由を奏聞す。明日早旦
  上卿已下参向すべきの由仰せ合わさる。今夕能守護し奉るべきの由同じくこれを仰せ
  らる。

10月6日 [神明鏡]
  三種神器を持明院の新帝の御方へ渡進(光厳院御事なり)。御年十九にて御即位。

10月8日 庚戌 [花薗天皇宸記]
  先帝検知し奉る事、猶武家これを申す。而るに仙洞より検知せらるるの條、旁々媒酌
  無きに非ず。内々便宜の仁を招請し宜しかるべきか。為世大納言入道一族、妙法院・
  中書王等の仁を見知るべきなり。その次いでに先帝を見奉るの條宜しかるべきかの由、
  内々仰すべきの由これを仰せらる。

10月9日 辛亥 [花薗天皇宸記]
  西園寺大納言申す、去る夕六波羅招請の間、行き向かうの処、即ち先帝を見せしめ給
  う。種々仰せられ、女房参る事を仰せらると云々。

10月10日 壬子 [花薗天皇宸記]
  今日公重卿参る。中書王を見ると云々。

10月13日 [神明鏡]
  新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入らせ給り。先帝の御方の人々をは皆召取奉り、
  大名共に預らる。一宮中務卿の親王をは、佐々木の判官時信、好法院二品親王をは、
  長井左近大夫将監高広預り申。万里小路中納言藤房、六條少将忠顕、二人をは主上近
  侍奉るべしとて、六波羅に置る。

10月14日 丙辰 陰、小雨灑ぐ [花薗天皇宸記]
  今日辰の刻ばかりに世間物騒、尋ね聞くの処、去る夕関東の飛脚到来するの間、武士
  等騒動す。時知の宿所を囲み合戦に及ばんと欲す。而るに六波羅より制止を加うるの
  間、先ずは静謐に属くと云々。

10月21日
  楠木城落ちをはんぬ。但し楠木兵衛の尉は落ち行くと云々。
[花薗天皇宸記]
  通顕卿を以て、内親王より立坊の事これを申さる。内親王院号二十五日たるべしと云
  々。立坊来月七日と云々
  (裏書)高景に於いては、正安時顕参入の例を以て参入す。道蘊に於いては家例無し。
  然れども両使として上洛の間、召さるるの上は、御馬又は同前たるべきかの由、大納
  言これを計る、仍って二疋これを遣わさるるなり。御事書を給うの次いでに仰せに云
  く、天下静謐か。楠木城合戦落居の程、御返事を給うと雖も、暫く在京すべきの由こ
  れを仰せらる。畏まり承りをはんぬるの由これを申す。後日公宗卿語って云く、子細
  の旨高景に仰せ含む。上首たるが故なり。御事書に於いては道蘊に給う。これ先日御
  函道蘊持参せしむるが故なりと云々。今夕御馬を両使に引かる。高景申して云く、御
  馬を下さるるの條、殊に畏み入り、加詞披露すべしと云々。道蘊申し云く、眉目の至
  り、殊に加詞すべしと云々。

*[増鏡]
  さて、例のあづまより御使のぼれり。代々のためしとやかとて、秋田の城の介高景、
  二階堂出羽の入道道雲とかやいふ者ぞ参れる。西園寺大納言公宗に事のよし申して、
  春宮(光厳)御位につき給ふ。

10月25日 丁卯 [花薗天皇宸記]
  院号・立親王の事、上卿通顕卿、公宗卿、公重卿、有光、光顕等の朝臣なり。

10月28日 庚午 [花薗天皇宸記]
  京官除目。今夕御馬を貞冬に引かる。明暁下向の故なり。また内々御書を公宗卿の許
  に遣わさる。今度中書王の事殊に神妙の由これを載せらる。これ内々密々に申し請く
  るが故なり。
 

11月
  討手の人々並びに両使下着す。同月、長井右馬の助高冬、信濃の入道々大使節として
  上洛す。京方の輩の事を沙汰せんが為なり。

11月4日 乙亥 [花薗天皇宸記]
  今夕より立坊御祈り五壇の法を行わる。また立坊定めと云々。

11月5日 丙子 晴 [花薗天皇宸記]
  陸奥守貞直明暁下向の由、西園寺大納言を以てこれを申し入る。仍って御馬を引かる。
  足利高氏先日下向し御馬を給わず。一門に非ずの上、暇を申さざるが故なり。
  (裏書)斎宮の事元の如く沙汰有るべきの由、関東これを申す。また中宮西園寺家へ
  移し奉るべし。扶持申すべきの由、西園寺に申すべしと云々。

11月8日
  前坊(邦良)の第一宮康仁親王を以て東宮と為す。
[花薗天皇宸記]
  立太子節会なり。

11月10日 辛巳 晴 [花薗天皇宸記]
  今日武家密々に関東の状を進す。その状の上書越後守殿沙彌崇鑑と云々。この函武家
  並びに西園寺大納言これを開くべからずと云々。直に御所に進すべしと云々。件の状
  に云く、内裏に残留せらる御具足の内、蛮絵の御手箱密々に申し出らるべし。定めて
  御封を付け置かるるか。その如く下さるべしと云々。而るに件の手箱見えず。仍って
  宸筆を以て御返事を仰せられて云く、蛮絵の御手箱の事、仁寿殿御厨子の御手箱に於
  いては、納物これ無く、その外蛮絵の手箱見えず。若しくは紛失せしむか。尤も不審
  なりと云々。公宗卿即ち御返事を武家の使者に給う。
  (裏書)夜に入って公宗卿重ねて参って云く、武家申す関東の状拝見すべきの由、御
  返事の事仰せられて云く、関東直に進す所の状、武家に下さるるの段、先規無きの間、
  頗る以て難治なり。但し殊なる事に有らず。尋ね申し入るの事有るの間、御返事を下
  さるるなり。

11月20日 辛卯 晴 [花薗天皇宸記]
  山門院宣の事、武家に仰せ合わさる。

11月21日 壬辰  [花薗天皇宸記]
  山門の事、神輿帰座異議を存ずる衆徒等、陰謀與同の條疑貽無きに非ず。交名を注進
  すべきの由、院宣を下さるるの條、分明の白状以て無し。然れども此の如く院宣に載
  せられ、子細有るべからざるの由これを申す。

11月25日 丙申 [花薗天皇宸記]
  今夕夜に入って東使道大京着すと云々。

11月26日 丁酉 [花薗天皇宸記]
  今日東使高冬入洛すと云々。

11月28日 己亥 晴 [花薗天皇宸記]
  亥の刻ばかりに西園寺大納言参る。東使の申す旨を申す。事書三通有り。一に云く、
  践祚以後天下無為に属くこと賀し申し入ると云々。一に云く、斎宮の御事、始終落居
  の儀、御計らい有るの由、申し入るべしと云々。また一に云く、先帝の御事、緇素罪
  名已下十余ヶ條、一通に書き連ね、聖断たるべきの由これを申す。関東の計らいたる
  べきの由これを仰す。公宗卿書き遣わすべきの由これを仰せらる。先々執権の仁これ
  を書く。而るに今度重事たり。執奏書くべきかの由、朕これを申す。然るべきの由仰
  せ有り。仍って当座にこれを草す。御返事頗る急ぎ申し、明日両使を招請すべきの由
  これを申す。

11月30日 辛丑 晴 [花薗天皇宸記]
  東使今日また西園寺大納言の宿所に向かう。夜に入って参り、子細を申す。記すに能
  わず。
 

12月1日 壬寅 晴 [花薗天皇宸記]
  関東の貢馬並びに種々の物等、南庭に於いて馬を覧る。

12月12日 [増鏡]
  綸旨下されて、前の御代の人々、大中納言宰相すべて十人、宣房、公明、藤房、具行、
  隆資、實世、實冶、季房、忠顕、司やめらるゝよしきこゆるも、昨日まで時の花と見
  えし人々、つかのまの夢かとあはれなり。

12月15日
  太守禅閤の第一郎(七歳)首服す。名字邦時、御所に於いて執行せらる。

12月27日 戊辰 [花薗天皇宸記]
  今日東使関東の事書を奏聞す。先帝並びに宮々の配所、先帝(隠岐)、一宮(土佐)、
  妙法院宮(讃岐)、緇素の罪名追って言上すべし。余党有無の事、世上謳歌す。定め
  てその隠れ無きか。奏聞すべし。また公敏・具行等の卿に相尋ぬと云々。また先帝御
  遠行の間、若しくは御落餝有るべきか。内々公宗卿尋ね申すべしと云々。
  (裏書)今日関東の御返事到来す。評定衆の事これを申す。仰せ下さるる人数、相違
  有るべからずと云々。