1332年(元弘2年 壬申) [武家年代記]
 

1月17日 丁亥 晴 [花薗天皇宸記]
  夜に入って世間物騒の由を聞く。これ先帝逃げ脱れせしめ給うと云々。亥の刻ばかり
  に、門々の番衆等諸門を閉じ警衛すと云々。子の刻ばかりに門々を開く。無為の由風
  聞す。本より巷説慥ならず。
 

2月 [増鏡]
  かの承久のためしにとや、あづまより御使には、長井の右馬助高冬といふものなるべ
  し。これは頼朝の大将の時より、鎌倉に重きものゝふにて、いまだ若けれども、かゝ
  る大事にも、のぼせけるとぞ申しける。
 

3月7日
  午の刻、先帝隠岐の国に遷幸す。

[皇年代略記]
  隠岐の国移し奉る(四十五、入道相模の守平高時これを沙汰し申す)。

[神明鏡]
  明れは千葉五郎左衛門尉、佐々木備中判官の五百余騎にて警固仕、先帝を隠岐国へ移
  奉る。供奉人には六條少将忠顕、御介錯には中納言三位殿御局計なり。

[増鏡]
  御供には内侍の三位殿(廉子)、大納言、小宰相など、男には行房の中将、忠顕の少
  将ばかりつかまつる。六波羅よりの御おくりの武士、さならでも名あるつはものども、
  千葉の介貞胤をはじめとして、おぼえ異なるかぎり、十人撰びてたてまつる。いろい
  ろの綾にしきの水干、直垂などいふもの、さまざまに織りつくし、染めつくして、い
  みじき清らを好みとゝのへたれば、世にめづらしき見物なり。

[花薗天皇宸記]
  今日巳の刻ばかりに、先帝進発せしめ給う。六波羅より出御、御車を用ゆ。御車寄せ
  公重卿辞し、宮司これに参ると云々。(略)公宗卿扈従せず。別路より鳥羽に参向す。
  行房朝臣・忠顕等供奉す。但し路頭より止めらる。鳥羽桟敷殿に於いて供御破子の後、
  数刻有って出御。今度は御輿(四方輿)、三方簾を巻かると云々。女房三人無輿、武
  士数百騎前後左右の路頭を固む。十四日出雲国に於いて御乗船たるべしと云々。

3月8日
  午の刻、一宮(中務卿親王)土佐の国、同日酉の刻、妙法院讃岐の国、東南院硫黄嶋
  へ各々配流。また鷹司殿、近衛殿、万里小路大納言宣房卿同前。

[花薗天皇宸記]
  今日中書王・妙法院宮両人首途と云々。武士の警固例の如し。尊良親王為明一人供奉
  す。但し参会か。路頭に見ずと云々。尊澄法親王僧侶少々相従うと云々。

3月12日 [増鏡]
  加古川の宿といふ所におはします程に、妙法院の宮(尊澄)讃岐へわたらせ給ふとて、
  おなじ道、少しちがひたれど、この川の東、野口といふ所まで、参り給へるよし奏せ
  させ給へば、いとあはれに相見まほしうおぼさる。

3月17日 [増鏡]
  美作の国におはしましつきぬ。

*[増鏡]
  出雲の国八杉の津といふ所より、御船にたてまつる。大船二十四艘、小舟どもはしに
  数知らずつけたり。遙かにおしいだすほど、今一かすみ、心ぼそうあはれに、誠に二
  千里の外の心地するも、今さらめきたり。

3月22日 [皇年代略記]
  光厳院即位(太政官廰)。
[増鏡]
  御即位の行幸なれば、世の中めでたくのゝしる。本院(後伏見)、新院(花園)ひと
  つにたてまつりて、待賢門のほとりに、御車立てゝ見奉らせたまふ。
 

4月3日 [神明鏡]
  楠木兵衛正成去年赤坂城をはつしたりしか、五百余騎を率し、湯浅城に押寄責落す。

4月8日 丁未 晴 [花薗天皇宸記]
  今夕公宗卿御返事を奏し申す。仰せらるべきの趣等、内々東使と談合の旨なり。

4月10日 己酉 晴 [花薗天皇宸記]
  西園寺大納言参り、関東使の申す旨を奏聞す。事書数通有り。旨趣繁に依って委記せ
  ず。
  (裏書)先帝の宮々十歳以上は城外に差すべく、十歳以下は然るべきの人々に預けら
  るべしと云々。中務卿親王の息同じく人々に預くべしと云々。

4月13日 [皇年代略記]
  暁叡山法華堂以下火事。
[花薗天皇宸記]
  早旦聞く。叡山火起こり、法花堂より、常行堂、講堂、延命院、四王院、鐘楼等焼失
  するの由、嗟歎極まり無し。

4月17日 [神明鏡]
  正成先住吉天王寺打出。六波羅よりは隅田高橋を両六波羅の奉行として在京、畿内の
  勢七千余騎馳向。淀橋の橋爪に打莅合戦に及。敵味方死亡輩数を知らす。京勢利無し
  て引退。重宇都宮馳向。計略を廻らし、両陣互引退。

4月28日 丁卯 晴 [花薗天皇宸記]
  今日国郡卜定め並びに改元定めなり。正長大略一同す。但し密々に関東長の字を忌む
  の由風聞有り。もし事実ならば憚らるべきか。建長・応長等関東有事の故と云々。
 

*[神明鏡]
  正成、君必す還幸成、帝位に即せ給へしとて勘て、金剛山の城に我身は楯籠、吉野山
  には大塔宮、赤坂城に舎弟五郎を籠たり。
 

5月10日 [増鏡]
  先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎり、遠き国につかはしけり。洞院按察大納
  言公敏、頭おろして、しのびすぐれつるも、なほゆりがたきにや。小山の判官秀朝と
  かやいふもの具して、下野国へときこゆ。花山院大納言師賢は、千葉の介貞胤うしろ
  みにて、下総へくだる。
 

6月3日 辛丑 雨下る [花薗天皇宸記]
  隆蔭卿関東より上洛す。隆政卿の事、帰洛の路に於いてこれを聞く。仍って未だ蝕穢
  の間、路次より直に門前に参るの由、これを伺い申す。御函これを召さるるに於いて、
  参否の事、猶例を尋ねられ沙汰有るべし。暫く蝕穢すべからずの由、これを仰せらる。
  御返事五ヶ条、践祚・政務・政道・興行の事等承りをはんぬ。諸国興行の事、関所の
  事、追って言上すべしと云々。

6月5日 癸卯 晴 [花薗天皇宸記]
  今夕隆蔭卿参り、東面に召し御対面。朕同じくこれを聞く。関東の事等これを語り申
  す。

6月8日 丙午 [花薗天皇宸記]
  今夕小除目、中納言公明還任、参議有光・公名等の卿上階に叙す。源高氏従五位上に
  叙す。これ関東申すが故なり。この事に依って今日除目を行わる。急ぎ申すが故なり。

6月19日 [増鏡]
  中納言具行、佐々木佐渡の判官入道(道譽)伴ひてぞ下りける。逢坂の関にて柏原と
  いふ所にしばしやすらひて、あづかりの入道、まづあづまへ人を遣したる返事待つな
  るべし。(中略)東よりの使、帰りきたる気色しるけれど、殊更に、いひいづること
  もなし。具行「頭おろさむとなむ思ふ」といへば、道譽「いとあはれなる事にこそ、
  あづまのきこえやいかゞと思ひ給ふれど、なんでふことかは」とて、ゆるしつ。

6月26日 甲子 [花薗天皇宸記]
  伝聞、伊勢の国梟悪の輩有り、烏合の衆を為す。追って所々に捕らえ、その勢甚だ多
  しと云々。仍って武家使者を差し実検せしむと云々。

6月28日 丙寅 [花薗天皇宸記]
  勢州の凶徒なお以て興盛の由風聞す。或いは云く、地頭等と合戦し、多く誅戮せらる
  るの後、引退すと云々。

6月29日 丁卯 [花薗天皇宸記]
  武家の実検使上洛す。申す詞風聞の説に違わず。凶徒合戦の間、在家多く焼き払う。
  地頭三人打ち取らる。守護代の宿所焼かれをはんぬ。その後凶徒等引退しをはんぬと
  云々。これ熊野山より大塔の宮の令旨を帯し、竹原八郎入道、大将軍として襲来すと
  云々。驚歎少なからず。
 

*[増鏡]
  大塔の宮法親王、楠の正成などは、猶おなじ心に、世を傾けむ謀をのみめぐらすべし。
  金剛山千早といふ所に、いかめしき城をこしらへて、えもいはず武きものども、多く
  籠りにたり。さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵をかたらひければ、世にうらみある
  ものなど、こゝかしこにかくろへばみてをるかぎりは、聚りつどひけり。宮は熊野に
  もおはしましけるが、大峰を伝ひて、吉野にも、高野にも、おはしましかよひつ。
 

12月5日 [隅田文書]
**六波羅御教書案
  大塔の宮並びに楠木兵衛の尉正成の事に依って、関東より、尾藤弾正左衛門の尉上洛
  する所なり。仰せらるべきの子細有り。時刻を廻らさず、参洛せらるべし。仍って執
  達件の如し。
    正慶元年十二月五日       左近将監(時益花押)
                    越後守(仲時花押)
  須田一族中

12月8日 庚寅 晴 [花薗天皇宸記]
  今夕春宮御元服定め。本宮殿上に於いてこれを行う。

12月11日 癸巳 晴 [花薗天皇宸記]
  今日前の右府参り、禁裏の仰す趣を申す。御元服来二十二日、余日幾ばくならず。南
  殿修造出来難く、二十八日に延引の條、宜しかるべきの由申すべしと云々。

12月12日 [花薗天皇宸記]
  今日在實、御身固めの当番として参入するの由、隆蔭を以て尋ねて云く、御元服延引
  二十八日たるべし。