1333年(元弘3年 癸酉) [武家年代記]
 

正月3日 [神明鏡]
  諸国の軍勢八萬騎を四手に分て、三の城を攻とす。吉野二階堂出羽入道々蘊、大将に
  て二萬余騎発向す。赤坂阿曽弾正少弼時春大将八萬余騎進発。金剛山へは大佛陸奥右
  馬助貞宗大将として二十萬騎奈良路より向。長崎悪四郎左衛門尉高貞侍大将を承て、
  自その勢十萬余騎なり。吉野赤坂両城を攻落、金剛山一処に籠けり。

*[神明鏡]
  金剛山の麓千剱破と云城なり。毎日千人二千人打れすと云事なし。種々に攻けれは、
  城内よりも種々の計をして、寄手は多討れけれとも、城は少も弱らす。爰上野国住人
  新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家後胤なり。吉野の奥に御なる大塔の宮より綸旨
  を申下し、虚病して下国す。
  赤松入道圓心は播州苔縄の城より打出て、山陽山陰両道を差塞、中国の兵共上けるを、
  舟坂山にて支、四国土居得能先帝の御方を申して、四国悉随の由聞。
 

閏2月23日 [神明鏡]
  或夜の宵の紛に御出有て、六條少将忠顕計召具して、忝も十善の天子、自ら玉趾を草
  鞋の塵に汚し、泥土踏せ給けるこそ浅猿けれ。

閏2月24日 [皇年代略記]
  密かに隠州謫処を出御し、伯州大山寺に幸ず(四十六)。
[増鏡]
  あけぼのに、御垣守にさぶらふつはものども、いみじくたばかりて、かくろへゐて奉
  る。いとあやしげなるあまの釣舟のさまに見せて、夜ふかき空の暗きまぎれにおしい
  だす。その日の申の時に、出雲の国につかせ給ひぬ。

閏2月25日 [増鏡]
  伯耆国稲津浦といふ所にうつらせ給へり。この国に、名和の又太郎長年といひて、あ
  やしき民なれど、いと猛に富めるが、類ひろく、心もさかしく、むねしき者あり。か
  れがもとへ宣旨を遣したるに、いとかたじけなしと思ひて、五百余騎の勢にて、御迎
  にまゐれり。
 

*[神明鏡]
  去程隠岐の判官大将として三千余騎寄たりけれ共、坂中より追下されて、寄手多く討
  れけり。去程に近国の勢共大略馳参しけり。出雲守護塩路判官高貞、佐々木の富士名
  判官と打連て、千余騎にてそ参りける。大山衆徒七百余騎、浅山太郎八百余騎を始と
  して、出雲伯耆安藝周防に弓箭を携程武士共、不参者は無りけり。
 

3月12日 [皇年代略記]
  主上並びに両院六波羅に幸す(内侍所同じく渡御。北方を以て皇居と為す。二月以来
  伯州主出御、天下攪乱の故なり。当所探題仲時、時益保護し奉りをはんぬ)
[神明鏡]
  赤松入道圓心子息律師則祐已下一族共国中を靡し、数ヶ度合戦打勝、六波羅へ寄んと、
  淀赤井山崎西辺を焼散しけり。六波羅にも驚騒て、隅田高橋に在京の武士を相副て、
  今在家作道西八條辺へ差向ける。桂川を前にして防けるを、則祐河を越ける程に、赤
  松か勢共少々越えて、六波羅大勢懸破られて、六波羅まて引退。その夜京中にて所々
  に軍あり。
 

4月2日 [神明鏡]
  また君の第四の宮、但馬国に流され給しを、守護太田三郎左衛門取立奉り、近国の勢
  を相催し、丹波篠村を御立あつて、西山峰堂陣を召る。御勢二十萬騎なり。

4月8日 [神明鏡]
  忠顕朝臣我勢の多を憑、独高名にせんとて、六波羅へ寄られけるに、六波羅兼用意の
  事なれは、方々の攻口へ勢を差遣し、散々に戦けれは、寄手打負けり。剰西山の陣を
  も引退。

4月10日 [榊原家文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  綸旨せられて称く、
  前の相模の守平高時法師、国家のゲツ範を顧みず、猥に君臣の礼儀を背き、諸国を掠
  領し、万民を労苦せしめ、僭乱の甚だしきこと何事かこれに如かず。既に朝敵たり。
  仍って義兵を挙げらるる所なり。早く凶徒を追討せしむべし。勲功有るに於いては、
  勧賞に行わるべし。てえれば、天気此の如し。これを悉せ。
    元弘三年四月十日        勘解由次官
  下野国諸郷保地頭等中

4月16日 [神明鏡]
  相模入道この由を聞、大勢を差上せ、京都をも警固し、船上をも攻奉るべしとて、一
  家には名越尾張守高家、並足利冶部大輔高氏を大将として、その勢七千余騎、京着す。
  翌日に高氏は船上へ使者を以て、御方に参べく申入られけり。

4月17日 [結城文書]
**後醍醐天皇綸旨案
  綸旨せられて称く、
  前の相模の守平高時法師、国家のゲツ範を顧みず、猥に君臣の礼儀を背き、諸国を掠
  領し、万民を労苦せしめ、僭乱の甚だしきこと何事かこれに如かず。すでに朝敵とし
  て、天罰を遁れず。彼の凶徒を却けんが為に、義兵を挙げらるる所なり。早く出羽、
  陸奥両国の軍勢を相催し、征伐を企つべし。勲功の賞宜しく依請すべし。てえれば、
  天気此の如し。これを悉せ。
    元弘三年四月十七日       左中将(御判有り)
  結城上野入道舘

4月27日 [神明鏡]
  八幡山崎の合戦と定られけれは、尾張守高家大手の大将として七千余騎、作道より鳥
  羽に向はる。山崎八幡の官軍是を聞、さては馳向て戦へとて、大渡をそ打越て、赤井
  河原に扣たり。赤松三千余騎にて作道より寄けり。高家馳向、散々に戦けるか討死し
  給けり。

4月29日 [島津家文書]
**高氏密書
  伯耆国より勅命を蒙り候の間、参じ候。合力せしめ給い候はば本意に候。恐々謹言。
    四月二十九日          高氏(花押)
  嶋津上総入道殿
 

5月5日 [神明鏡]
  上野国より新田小太郎義貞、義助一族三十余人、宣旨を三度これを拝し、笠懸の野辺
  打出、その勢僅かに百五十余には過ざりけり。越後守馳来、その日二千余騎に成る。
  甲斐信濃源氏五千余騎にて、八幡庄にて馳付、また足利の若君千壽王殿上野国より二
  百余騎にて打出給て、上野上総常陸武蔵兵一日が内に二十萬騎に及べり。

5月7日 [鎌倉大日記]
  京都合戦、官軍敗北。一院、今上関東御開今、路次難儀す。時益江州に於いて亡命す。
  仲時自害。一院、今上敵方これを取り奉る。
[武家年代記]
  夜六波羅没落。同九、江州馬場谷に於いて自害す。
[皇年代略記]
  東国御没落(伯州上後醍醐院の御命に依って、高氏直義軍兵を卒し六波羅を攻むるに
  依ってなり)。仲時等主上上皇以下を伴い奉り、東国に赴く。(江州番場に於いて、
  仲時、時益等自殺す。三主以下御逗留)
[神明鏡]
  官軍京へ寄しと定けれは、諸方の寄手口に陣取、京は東一方を開たりける。足利殿二
  万五千騎の勢にて押寄給へは、六波羅にも六万余騎を三手に分けり。大手搦手同時に
  軍始て、打つ打れつ、手負死人数を知らす。六波羅かくては難儀なり。御幸を関東成
  奉り、重て大軍を催し、京都を責べしとて、主上を始進て、六波羅北南関東を指落給
  ふ。南方左近将監時益は御幸の御供にて候けるか、久々目路の辺にて流矢に中て死け
  り。北方越後守仲時駕の御供にて候けるか、近江番場の宿にて美濃尾張の大敵の事を
  聞自害、仲時を始として佐々木隠岐前司已下宗徒の人々四百三十二人、同時に切腹、
  主上をは官軍取奉る。

5月9日 [結城文書]
**道忠(結城宗廣)軍忠状案
  去る三月十五日の令旨、四月二日に到来し、謹んで承り候いをはんぬ。
  抑も一族已下の軍勢を相催し、伊豆国在廰高時法師等の凶徒を誅罰せしむべき由の事、
  仰せ下さるる旨に任せ、道忠と云い、愚息親朝、親光並びに舎弟祐義、廣尭等及び熱
  田伯耆七郎等、京都、鎌倉、奥州に於いて随分の軍忠を抽んず。すでに彼の凶党等を
  征伐せしめ候いをはんぬ。且つ都鄙貮無きの奉公、その隠れ無く候か。委細の趣、使
  者親類伯耆七郎朝保を以て言上せしめ候、洩れ御披露有るべく候や。道忠恐惶謹言
    元弘三年五月九日        沙弥道忠(請文)

5月10日 [皇年代略記]
  主上伊吹山太平護国寺に還御す(暫くこの所を以て御在所と為す)。両院以下また同
  じくこの寺に御す。この間伯州詔命の為に皇位を退き奉る(元号また廃す。正慶二年
  また元弘三年に復す)。

5月11日 [神明鏡]
  辰刻に武蔵国小手差原に打莅、源氏の陣を見渡せは、その勢雲霞の如く、両陣相近成
  て、互時を動と作る。矢合鏑を射違程こそあれ、源平の大勢入乱、散々合戦。打つ打
  れつ手負死人その数を知す。その日源氏は引退、入間河に陣を取。平家もまた引退、
  久米河に陣を取。両陣その間僅か二十里なり。

5月12日 [神明鏡]
  都より千種頭中将忠顕朝臣、足利冶部大輔高氏、赤松入道圓心か許より早馬を立て、
  両六波羅没落の由船上へ奏聞。叡慮斜ならす感し思召す。

5月15日 [神明鏡]
  夜未明、分倍押寄て時を作る。平家荒手大勢と一つに成て、源氏を中に取籠て余さず
  と責けれ共、電光の激めかするが如に戦けり。去れどもその日打負て、源氏は掘兼を
  差て引退く。爰三浦大多和の平六左衛門尉義勝相模勢相具て、夜に入て源氏の陣に馳
  来。義貞斜ならず喜で、軍談有て義勝に任せらる。去程に義勝三浦四萬余騎が最前に
  進で、

5月16日 [神明鏡]
  寅刻に分倍川原へ押寄る。態と旗手をも下さず、時の声をも揚げず。平家の勢を出た
  し抜かんが為なり。平家は数日の合戦に人馬も疲たる上、今敵寄べし共思寄けるにや。
  馬に鞍をも置かず、物具もせず。或酒に酔臥るもあり、或遊君と枕を双もあり。懸け
  る所へ大多和大勢にて馬を閑々と打近ければ、少々騒立者も有けるを、去比より三浦
  の大多和相模勢率して御方に参由聞べし、目出しとてさざめきける処に、源氏三方よ
  り時声を動と作て平家の陣へ切て入る。その時声に周章迷て、馬よ物具よと拠きあへ
  る処へ、義貞大手より切入、大多和を始として大勢は搦手より切入。散々に責ける間、
  平家一戦に破られて、大将四郎左近大夫入道殿を始として、皆鎌倉へぞ落上りける。
[三浦古尋録(大多和村)]
  三浦平六兵衛義村の妾腹義継久しく奥州に在けるを、三浦一門滅亡の後北條時宗のこ
  の義継に大多和の郷を賜りこの人より三浦大多和家興起す。三浦平六と号し、その子
  義縁大多和平六と云。その子義勝大多和平六左衛門と云て、元弘三年新田義貞鎌倉責
  の時、先陣に有て武功を顕し、その後後醍醐天皇御賞翫なきゆえ恨み奉りて、足利尊
  氏を責て後降参して生捕れ、楠正成に預られ終に誅戮せらる。
[鎌倉大日記]
  所々官軍宮方蜂起し、味方敗軍。新田襲来、山内に於いて村岡守時自害。

5月18日 [神明鏡]
  卯の刻に、村岡藤沢青船片瀬十間酒屋五十余処に火を懸て、敵三方より寄懸たれは、
  武士東西に馳違ふ。男女山に逃迷。平家も三手に分て相防。一方は金沢越後守有時を
  大将にて三万余騎攻防る。一方は大佛陸奥守貞直を大将にて五万余騎極楽寺の切通を
  防かる。一方赤橋相模守守時を大将として六万余騎洲崎を防る。同日方々合戦始。

5月21日 [神明鏡]
  義貞宗徒の兵二万余騎を率して、夜半計に片瀬腰越へ打廻て、極楽寺坂へ打臨、平家
  の陣を見給へは、北は切通の山高、路険きに城戸固く調て、数万の兵陣を並ひ居たり。
  南は稲村ヶ崎にて、浪打際に逆木を繁く引き掛て、沖四五町か程には、大船並櫓を掻、
  横矢を射させんと構へたり。(中略)自佩給へる金作の太刀を解て、海底に沈られけ
  り。誠に龍神納受し給けん。稲村ヶ崎、俄に二十四町干上て、平沙正に渺々たり。前
  代未聞の事なり。夫より大勢切て入、処々軍も是より破立て、敵鎌倉中に乱入、所々
  に火を懸たり。

5月22日 [保暦間記]
  高時一族共悉く滅す。
[鎌倉大日記]
  高時、茂時一家譜代の輩悉く自害す。前将軍守邦親王出家。
[神明鏡]
  相模入道殿は千騎計にて葛西か谷東勝寺へ打籠給ふ。長崎の次郎高重は、太守に自害
  を勧奉らんと思、東勝寺へ馳帰。相模守自害を進て自害す。是始宗徒の一族四十三人、
  凡この門葉たる人二百八十人、各自害をはんぬ。然と雖も四郎左近大夫入道恵性と、
  諏訪木工左衛門入道眞性か子息に諏訪三郎盛高は、相模殿の次男亀寿丸を懐取て、恵
  性盛高数万敵中遁、信濃国へそ落行ける。平氏の一門その恩顧芳命の輩を始として、
  鎌倉を数るに、死亡者六千余人なり。

5月23日 [神明鏡]
  船上を御出あつて、腰輿を山陰の東へ促されける。早晩月卿雲客前駈後乗し、塩屋判
  官高貞千騎にて先陣仕り、浅山の太郎後陣に打、金持大和守は錦の御旗を指て左に候
  す。伯耆守長年は帯劔の役にて右に副。

5月25日 [山田文書]
**島津道恵目安状写
  目安
    嶋津大隅左京進宗久法師(法名道恵)抜群の軍忠を抽んずと雖も、未だ恩賞に浴
    せず。愁吟極め無き子細の事
  去年(元弘三)四月二十八日の綸旨、五月二十二日に嶋津惣領上総入道道鑑これを下
  賜す。同二十五日一族以下の群勢を卒し、鎮西管領英時の城郭に押し寄するの刻、道
  恵脇大将として別の群勢を差され、身命を捨て先を懸け、同じく攻め戦うの間、自身
  疵を被る。親類郎従等分取生虜を致し、軍忠を抽んずるの條、道鑑並びに大友近江入
  道具蘭等検見を遂ぐるの子細具に状を勒す。奉行人大外記頼元が方に与奪されをはん
  ぬ。凡そ脇大将に於いては惣大将一烈抽賞せられ候條、傍例勝計うべからず。爰に道
  恵一人に限り、雑兵群勢等に准えられ、相漏れ偏に徳化無くば、忽ち弓箭の面目を失
  うべき者なり。仍って目安。
    建武元年二月二十六日 (二條殿、久観、大外記以上三方これを進す)

5月27日 [神明鏡]
  播磨の書写山行幸。

5月28日 [皇年代略記]
  新院等京都に還幸す。
[神明鏡]
  法華山行幸。

5月晦日 [神明鏡]
  兵庫福厳寺に朝飼を点て御坐あり。その日午の刻早馬二騎参て、羽書を捧。諸卿驚騒
  て披て見に、新田小太郎義貞か許より相模入道已下の一族去二十二日に追罰、東国す
  でに静謐の由注進せり。
 

6月*日 [塙又三郎文書]
**塙政茂軍忠状
   常陸国塙大和守平政茂申す軍忠の事
  右、鎌倉高時入道御対治の大将として、御発向するの間、五月十六日武蔵国入間河御
  陣へ馳参し、陣々供奉仕り、同十九日極楽寺坂合戦に於いて、先手に馳せ向かい、家
  人丸場次郎忠邦怨敵三騎討ち捕り、同山本四郎義長討ち死にの事、徳宿彦太郎幹宗、
  宍戸安芸四郎同時に合戦するの間、見知らる。忠節を抽んじ奉る上は、御證判を賜り、
  後胤の亀鏡に備えらるべきなり。目安言上件の如し。
    元弘三年六月 日
    「承りをはんぬ。(義貞花押)」

6月2日 [神明鏡]
  腰輿を廻さる処に、楠木の多門兵衛正成三千余騎にて参向す。主上は御簾を高巻て、
  正成を近召して、大儀早速の功偏に汝忠戦に有と感し仰られ、前陣仕。

6月4日 [皇年代略記]
  東寺に着御す(西院を以て御所と為す)

6月5日 [皇年代略記]
  二條富小路殿に還幸し皇位に復す(去る五月の詔、去々年已来の任官以下の勅裁、悉
  く停廃すべし。賢所予め禁中に御座す(去る五月八日頭中将源忠顕伯州の詔命を含み、
  迎え奉るの案禁中に申す。七日夕三主没落の時、女官の沙汰として権大納言公宗卿の
  北山第に入れ奉る。彼の第より禁中に入れ奉るなり)

6月9日 [結城文書]
**道忠軍忠状案
  去る四月十七日の綸旨謹んで承りをはんぬ。抑も陸奥、出羽両国の軍勢を相催し、前
  の相模の守平高時法師以下の凶徒征伐せらるべき由の事、道忠並びに一族等折節鎌倉
  に在り仕るの間、先ず鎌倉に於いて道忠舎弟田嶋与七左衛門の尉廣堯、同子息一人、
  同片見彦三郎祐義、同子息貳人並びに家人等を相率いて、今月十八日より合戦を始め、
  毎日連々数戦を企て、同二十二日既に鎌倉の凶徒等を追い落としをはんぬ。且つは親
  類家人等軍忠を抽んずるの次第、上野国の新田太郎存知せしむるの上は、注進せしむ
  べきか。その隠れ無く候か。両国軍勢催促の事、親朝等殊に忠節を致すべきの由、下
  知候に就いて、随分その沙汰を致し候。直に請文を捧げ候か。次いで委細の趣、使者
  親類伯耆又七朝保を以て言上せしめ候。この趣を以て洩らさず御披露有るべく候。道
  忠恐惶謹言
    元弘三年六月九日        結城入道道忠

6月13日 [神明鏡]
  大塔の宮御入洛あり。一番には赤松入道、二番には殿の法印、三番には四條少将、四
  番には中の院の中将、数万騎を打せ、その次ぎに宮。後陣には湯浅山本を始として、
  二万七千余騎なり。

6月15日 [鎌倉大日記]
  先帝御入洛。富小路殿に還幸、皇位に復す。
[極楽寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  当寺元より勅願寺たる上、当時殊に御祈祷の誠精を抽んずべし。就中寺領等当知行所、
  領掌相違有るべからず。てえれば、天気此の如し。仍って執達件の如し。
    元弘三年六月十五日       左中将(花押)
  謹上 極楽寺長老

6月26日 [皇年代略記]
  後伏見院御落餝(四十六、法諱理覺、後行覺と改む。御戒師前の天台座主二品慈道親
  王)。
 

7月8日 [皇年代略記]
  主上江州より京都に還幸す。

7月12日 [円覚寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  正続院領当知行地、相違有るべからず。てえれば、天気此の如し。仍って執達件の如
  し。
    元弘三年七月十二日       式部少輔(岡崎範国花押)
  夢窓上人御房
 

8月*日 [熊谷家文書]
**熊谷直経軍忠状
   武蔵国小四郎直経孫子虎一丸申す親父平四郎直春討ち死にの事
  右、亡父直春今年(元弘三)五月十六日御方に馳参し、数ヶ度の合戦を致すの刻、同
  二十日新田遠江又五郎経政の御手に属し奉り、軍忠を致すに就いて、鎌倉霊山寺の下
  に於いて討ち死にしをはんぬ。これ等の子細は、大将軍御検知の上、同所合戦の軍勢
  吉江三位律師齋實、齋藤卿房良俊等見及ぶ所なり。早く御證判を賜り、恩賞を浴せん
  が為に恐々言上件の如し。
    元弘三年八月 日
    「承りをはんぬ。(花押)」

8月16日 [高階文書]
**後醍醐天皇綸旨
  当寺領尾張国富田庄の事、召し返され、中納言三位の局に下さるる所なり。綸旨此の
  如し。存知らるべし。てえれば、天気此の如し。仍って執達件の如し。
    元弘三年八月十六日       皇太后権の大進(花押)
 

10月5日 [浄光明寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  当寺領上総の国山辺北郡内堺郷並びに鹿見塚、相模の国波多野庄内平澤村一分等、知
  行相違有るべからざるの由、天気候所なり。仍って執達件の如し。
    元弘三年十月五日        右兵衛の督(花押)
  浄光明寺長老如仙上人御房
 

12月7日
  立后節会。当日京都空騒動す。

12月10日 [皇年代略記]
  主上(光厳院)太上天皇の尊号を献ぜらる(御年二十三)。

12月14日
  御進発。将軍の宮並びに相州(直義)関東に下向す。

12月20日 [浄光明寺文書]
**成良親王令旨
  相模の国浄光明寺、御祈願所として、御祈祷の忠を致さるべきの旨、御気色に依って
  執達件の如し。
    元弘三年十二月二十日      散位(花押)
  如仙上人御房

12月21日 [覺園寺文書]
**後醍醐天皇綸旨
  相模の国覺園寺、勅願寺として、宜しく御祈祷を致さしむべし。てえれば、天気此の
  如し。仍って執達件の如し。
    元弘三年十二月二十一日     右中弁(中御門宣明花押)
  如日上人御房

12月24日 [鎌倉大日記]
  成良親王(後醍醐第四皇子、下野の守)関東に下向す。二階堂小路山城美作の守の屋
  形を以て御所とす。
[保暦間記]
  主上の宮成良親王と申に尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副て関東八ヶ国守護せんが為に下
  向あり。鎌倉の将軍とぞ申ける。されども出羽奥州を取放さるる間、東国の武士多は
  奥州へ下る間、古の関東の面影も無りけり。