九州の遺跡探訪 2a
支石墓群 (原山(長崎県)、金立(佐賀県)、志登、石ケ崎(前原市))
(九州)

長崎・佐賀・福岡県の支石墓を訪れた 
 ドルメン、メンヒル、ストーンサークルなどの巨石遺構についての日本での研究は明治時代に遡るが、ドルメンと見られた巨石が実は自然石であったり、石室であったという例が多い。大正時代以降、朝鮮半島や中国東北部(特に遼寧地方)の支石墓が注目されたが、昭和・戦後に入って、朝鮮北部の卓子(テーブル)型の支石墓は日本列島には無く、朝鮮南部に広く分布する碁盤型の支墓石墓が北九州(とくに佐賀県と福岡県玄界灘沿岸)に存在することが調査・発掘の結果明らかとなった

九州の弥生時代の開始に当たり、朝鮮南部からの渡来人の役割は重要だ。未だ国の概念の無かった縄文晩期から弥生初期には、朝鮮半島南部と北九州は領域的な隔たりがなく、往来は自由に行なわれたと思われる。集団の移動は墓制を伴って移動する。北九州に遺された支石墓は、朝鮮半島南部との関係を如実に物語っている。
早良国、板付田端、伊都国、奴国などの王墓とされる木棺墳丘墓や甕棺墳丘墓の上に置かれた上石(または標石)もこの流れの中で理解されるべきかも知れない。ここでは、発掘調査された支石墓の幾つかを見学した。始めて見る支石墓は珍しかったが、それ以上のことは分らなかった
 支石墓データは、乙益重隆「日本における支石墓研究の歴史」(八幡一郎ほか編「アジアの巨石文化ードルメン・支石墓考」 六興出版 1990.11)を引用
支石墓についての年代区分は確かな証拠は難しい。、今のところ、縄文末期ごろから 
= 弥生早期に、大陸または朝鮮半島南部から、水田耕作技術とともに移入されたとされている 

原山支石墓群  長崎県南島原市北有馬町原山 (国史跡)
雲仙岳の南、標高250mの台地上にある。現存するのは46基とされる。下部構造が箱式石棺のものが多い。(他の地域では見られない)
   
長崎県では、北松浦郡鹿町町の大野台支石墓群(国史跡)や、諫早市と大村市の市境・風観岳の風観岳支石墓群など15ケ所が確認されている。
*昭和27年(1952)に発見されていたが破壊されるものが多く、昭和35から2回全面的な学術調査が行われた。その結果、上石の下に、下部構造として小型箱式石棺、土壙、小型甕棺、小型壺や浅鉢を副葬するものなどがあり、時期は縄文終末期の夜臼式土器の段階であると判明した。かつては200基近くあった支石墓も、昭和47年(1972)の国史跡指定時には計61基に減少している。
原山第三支石墓群には40基ほどの支石墓がある 支石墓を含めて「農村公園」となっている
「原山ドルメン」の立札もある
原山第三支石墓群全景 6〜7基の碁盤型(南朝鮮型)支石墓が集まり、幾つかのグループに分かれている
左奥のグループ 右手前のグループ
支石と上石の様子がよく分かる 39号(下部構造は箱式石棺)
34号(下部構造は土壙) 下部は土壙なのか、甕棺があったのか?
36号、38号、100号、112号 雲仙岳の南、標高250mの台地上にある。

金立支石墓群(久保泉丸山遺跡)  佐賀市金立町 
昭和58年に、九州横断自動車道建設にともない、久保泉丸山遺跡(現在地の南東500m)を古墳などとともに、ハイウエイオアシス金立(きんりゅう)SAに隣接する金立公園内に「丸山遺跡」として移設・復元した。サービスエリア(SA)からの往来が可能である。復元されたものは、支石墓16基、甕棺墓1基、箱式石棺墓2基、古墳8基、中世墓3基である。
*昭和52年(1977)自動車道建設事前調査において、丸山遺跡(佐賀県久保泉町大字川久保字丸山)で多くの墳墓群と古墳群が出土した。上層には竪穴式石室、舟形石棺など13基が検出され、それらは5世紀前半から6世紀にわたるものであった。下層には縄文終末期から弥生初頭にわたる壺棺6基分、甕棺2基のほかに、箱式石棺3基と、上石を失った支石墓の下部構造だけが19基分残っていた。中には上石の残るものもあり、長さ3m近い板石を5〜6個の塊石で支えたものも見られ、それらの時期は副葬された土器から、縄文終末〜弥生初頭に比定された。
公園内には、石製の説明板が各所にあり、移設工事の概要、遺跡の概要、墳墓の説明などがされている。 高台広場より 手前右から1号墳、2号墳、1号墳の後方に6号墳とその左に支石墓が見える。台地の下に金立SAがあり、遠方は佐賀平野。
古墳群は、5〜6世紀に造られた群集墳。2号墳は日本でも初期に属する横穴式石室をもつ。3号墳では阿蘇凝灰岩で造られた舟形石棺が出土した。9号墳は中〜後期の石棺系石室をもつ。佐賀県立博物館には、丸山遺跡の縄文晩期の支石墓からの出土品として、ジャポニカ種の籾形のついた朱塗りの壺が展示されていた。稲作が行われていたことを示す
丸山遺跡の支石墓の下部構造は木棺で、その上に供献土器などを置き、支石で空間を確保して上石(トウ石)を置く。
右端が支石墓30号
支石墓8基と右奥に古墳(6号墳)
右上写真の最左の支石墓(支石墓6号)の近撮 金立サービスエリア 中央の山合いに久保泉丸山遺跡がある

志登支石墓群  福岡県前原市大字志登 (国史跡) 
弥生時代前期から中期に及ぶ甕棺墓を含む墓地跡である。糸島半島の南に広がる平地のほぼ中央の水田面との比高約1mの微高地に位置する。
伊都国の領域の支石墓は、糸島半島東部の小田支石墓、西部の新村遺跡、半島基部の前原市に志登支石群、三雲井田地域に三雲石ケ崎支石墓など4ケ所、二丈町・石崎周辺に3ケ所、長野宮ノ前支石墓などが発見されている。いずれも朝鮮南部形(碁盤型)であり、中には5tを越す巨石をつかったもの、朝鮮半島と関係深い柳葉形磨製石鏃や壁玉製管玉などの副葬品があるものもある。志登支石墓群からも柳葉形磨製石鏃が出土している。(伊都国歴史博物館)

*昭和28年(1953)の文化庁主催の調査で、支石墓10基のうち4基と甕棺8基が発掘された。中でも6号墓には黒曜石の石鏃6本、8号墓には朝鮮半島系磨製石鏃4本が副葬されていた
前原市教育委員会の説明板
畑の中に台地が確保されている 台地の中心部
台地前方に支石墓の上石が見える 草陰にも

石ケ崎支石墓  前原市大字三雲   
*昭和26年(1949)、我国初めての組織的な支石墓の学術調査が、原田大六・井上勇らによって行われた。出土したのは小児壺棺・甕棺、土壙墓、成人用甕棺など26基と支石墓1基であった。墓群の最高所に支石墓がある。上石は差し渡し3mほどの花崗岩の板石を用い、埋葬施設は組合わせ式木棺と考えられる。棺内から12個の碧玉製管玉が出土した(東京国立博物館で保管)。伊都国歴史博物館の歴史散策地図に場所が明記されている
前原市教育委員会の説明板 (平成11年3月) 説明板の右側に支石墓のしくみが記されている。上石の下に木棺跡がある。上から見た図には、管玉が中央近くに9ケ副葬されている。上石は、差し渡し3m近くの楕円状 現在、森のように樹が茂り、中に入る術が分らなかった

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