九州の遺跡探訪 1b
王国
(早良国(福岡市)と 末盧国(佐賀県)、伊都国(福岡市)、奴国(春日市))
(九州)

早良国、末盧国、伊都国、奴国
3世紀末(紀元後280〜290)に書かれた魏志倭人伝(東夷伝倭人条)に、当時存在した約30の国が記載されいる。所在が定説化しているものは、対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県壱岐市)、末盧国(佐賀県唐津市)、伊都国(福岡県前原市)、奴国(福岡県春日市)である。

最近の考古学的研究では、弥生時代中期(紀元前200〜後50)には、遠賀川上流の飯塚市・立岩(不弥国?)、背振山地の南側に相当する神崎(吉野ヶ里)、筑紫野(隈・西小田)、朝倉などに大小共同体が存在し、クニ(大共同体)・国の形態をなしていたことが分っている。

ここでは、北九州玄界灘沿岸地域を占め、定説化した魏志倭人伝の国々と、それに先立つ王国とも言える「早良国」の遺跡を訪ねる
 *藤尾信一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書によると、弥生時代の第二段階は”金属器の登場から王国の成立・古墳時代への道”;弥生前期末〜中期前半(前4世紀〜前3世紀)、弥生中期後半〜中期末(くにの成立)、弥生後期(1世紀〜3世紀)

早良国  (さわらこく)
  吉武高木遺跡   福岡市西区大字吉武194
     弥生前期末〜中期初頭(前4世紀〜前3世紀:金属器の登場)
吉武高木遺跡(左・南側)から西正面の飯盛山にまっすぐ農道が延びる 福岡市教育委員会の説明板  (昭和62年3月)
福岡市西区を博多湾に流れ込む室見川に沿って南へ向う。西部運動公園が一つの目安となり、大野コンクリート吉武工場が二番目の目安で、その西側の水田地帯が吉武遺跡である。遺跡を示す看板に辿り着く。室見川中流の左岸に吉武遺跡、右岸に有田遺跡があり、下流の幾つかの遺跡(藤崎遺跡など)を含めて早良のクニ(国)を弥生時代前期末に形成したと考えられる。『遺跡は、飯盛山の東に広がる扇状地にあり、1984年の調査で34基の甕棺墓と4基の木棺墓が発見されました。その中の成人用甕棺墓8基と木棺墓4基に、たくさんの青銅器類(多鈕細文鏡1・細形銅剣9・細形銅戈1・細形銅矛1・銅釧2)と磨製石鏃1・玉類(勾玉4・管玉466)が副葬されていたこと、青銅器類は朝鮮製と考えられること、この墓地が弥生時代前期末から中期初頭(今から約2200〜2100年前)の時期に形成されていることが注目をあつめました。 特に第3号木棺墓には、多鈕細文鏡1・銅剣2・銅戈1と5点の青銅器と玉類が副葬されており、この墓域の中心的人物のお墓であることをしめします。・・・昭和62年3月 福岡市教育委員会』
吉武高木遺跡では、
昭和60年の第6次調査で巨大建物遺構が発見された。
建物跡は東西4間・柱間9.6m、南北5間・柱間12.6mである。福岡市埋蔵文化財センターで、高床式建物として復元された模型を見ることができる
吉武高木遺跡の墳墓と副葬品の分布  (上が南、下が北)
説明板の上隅に、墳墓と埋葬品の関係が示されている。M1〜M4は木棺墓で、他の茶色の囲いは甕棺墓である。M3(第3号木棺墓)は王墓と考えられている。周囲にも多数の甕棺墓が出土するが、上の地域は豪華な副葬品が出土する特別な区画を形成している
飯盛山に向う農道の南側(吉武高木遺跡)
飯盛山に向う農道の北側(吉武大石遺跡・吉武樋渡遺跡)

  吉武大石遺跡
吉武大石遺跡 福岡市教育委員会の説明板  (昭和63年3月)
吉武大石遺跡の王墓は、高木遺跡よりやや遅れてのものである可能性と、戦闘集団の王の可能性を含んでいる。『遺跡は、小川をはさんで吉武高木遺跡の北側100mの扇状地にあり、1985年の調査で弥生時代前期末から中期後半にかけての甕棺墓203基と土壙墓12基が発見されました。その中の吉武高木遺跡と同じ弥生時代前期末から中期初頭の時期の甕棺墓・木棺墓合わせて13基に、細形銅剣5・細形銅戈4・細形銅矛3・把頭飾1と磨製石剣先6・磨製石鏃1・玉類(管玉11)が副葬されていました。特に副葬品は、青銅器がすべて武器にかぎられていること、銅剣や銅矛には鞘や柄が残り実用状態を示していること、石剣は体内に刺さったものが残ったと考えられることから、吉武高木遺跡とは異なり、戦いを指揮した集団の墓地と注目されました。・・・・・昭和62年3月 福岡市教育委員会』


末盧国  (まつろこく)
  宇木汲田遺跡 (うきくんでんいせき)  佐賀県唐津市宇木字汲田
 吉武高木遺跡に次いで、宇木汲田遺跡は板付田端遺跡(福岡市)と同じく
   弥生中期後半〜中期末(前2世紀〜前1世紀):くにの成立時期
に、青銅器を副葬する墓を持つ有力者の出現を見る
吉武遺跡にしても、宇木汲田遺跡にしても、後世に三種の神器と称せられる「鏡、剣、玉」が、弥生時代前期末に王墓に副葬されていることが注目される。

    縄文時代晩期から弥生時代中期の集落跡
『甕棺墓・多鈕細文鏡・銅剣・銅矛・銅戈・勾玉・管玉など豊富な副葬品が出土しています。貝塚からは縄文時代晩期から弥生時代初頭期の土器、獣と魚の骨、貝類や炭化米も出土し、注目を浴びました。また、カメ棺内から副葬品が発見されることはごくまれですが、昭和3年(1928)にはそのカメ棺から銅剣・銅矛が出土しており、それらは国の重要文化財に指定されています。そのほか銅鐸舌・石製把頭飾なども出土し、弥生時代の農耕文化を考える上でも重要な遺跡です。出土品は末盧館、佐賀県立博物館に展示しています。  唐津市』

説明板があるだけの宇木汲田遺跡(背景は東側)
宇木汲田遺跡の南側 宇木汲田遺跡の西側
末盧館(菜畑遺跡)に展示された宇木汲田遺跡出土の銅矛、銅剣

  桜馬場遺跡  (さくらばばいせき)
桜馬場遺跡は、現在は町中の駐車場・住居になっている。水田遺跡である菜畑遺跡に近い。弥生時代後期の遺跡で、昭和19年に防空壕が掘られた時に発見され、昭和30年に明治大学により調査された。

末盧館の展示によれば、
桜馬場遺跡には、三代にわたる弥生後期の王墓が形成されていたと考えられ、方格規短鏡出土甕棺の第1王墓、広形銅矛(弥生後期後半)出土の第2王墓、内行花文鏡(後漢鏡)出土の第3王墓があったとしている。

流雲文縁方格規短鏡(23.2cmφ)は、「尚方作」で始まる43字の銘文をもち、類似のものが韓国慶尚南道金海郡酒村面良洞里で出土(20.0cmφ)している。日本では、前原市の井原鑓溝遺跡から巴形銅器3個とともに、方格規短鏡タイプの19枚の鏡が発見され、この中に面径14.1cmの流雲文縁方格規短鏡が出土している。
末盧館でのパネル展示
末盧館(菜畑遺跡)に展示された桜馬場遺跡の出土品
「尚方作・・・」の銘文をもつ流雲文縁方格規短鏡(上) と、
素縁方格規矩渦文鏡(下左)と昭和32年出土の鏡片(下右)のレプリカ
実物は佐賀県立博物館にある。
昭和19年の桜馬場遺跡出土記録 と、
広形銅矛(個人蔵)と有鉤銅釧(レプリカ)
(末盧館での展示)

久里大牟田遺跡の甕棺墓から出土した弥生中期の中細形の銅矛と銅戈
(末盧館での展示)

 千々賀遺跡や久里石ケ崎遺跡から出土の銅矛
(末盧館での展示)
末盧館(菜畑遺跡)では、宇木汲田遺跡や桜馬場遺跡のように末盧国全体を支配する国のほかに、地域的に分散した小クニが存在していたことが解説され、出土した銅矛、銅戈、が展示されていた。



伊都国  (いとこく)
 
  伊都国歴史博物館  福岡県前原市大字井原916

        2Fの展示室の全景 
平原1号墳の模型を中心に、出土した国宝の鉄素環頭大刀と前漢鏡40面(破片を含め)が全て展示されている。個々の撮影は遠慮して下さいとのことだった。三雲南小路1号墳出土の四乳雷文鏡、連弧文清白鏡、彩画鏡などを常設展示図録で確認しながら見学すると良い
平成16年(にリニューアルした伊都国歴史博物館
伊都国の王墓を中心とした常設展示がなされている。旧館展示室には糸島地方の古墳時代が出土品とともに常設展示されている 

  三雲南小路遺跡  (みなみしょうじいせき)  前原市大字三雲
 弥生中期後半〜中期末(前2世紀〜前1世紀):くにの成立時期
春日市須玖岡本の奴国の王墓とともに、副葬品の豪華さから見て、弥生時代中期後半に出現した「王の中の王」の墓である。三雲・井原地区の王は、西の石崎曲がり田遺跡を中心とした地帯、南の今津湾と糸島半島の諸クニ(大共同体)の王を統括する「伊都国の王」に成長したと解せられる。
左写真は前原市教育委員会の説明板。『弥生時代中期末の伊都国王の墓 墓の周囲に幅3〜4m・深さ0.5〜0.7mの溝で、東西32m・南北31mの方形区域を設けた国内最大の弥生王墓です。墳丘の中央部には2基の長持大の合わせ口甕棺(全長2.5mほど)があって、1号甕棺から35面、2号甕棺から22面、合わせて57面にのぼる前漢鏡、青銅製武器、金銅製四葉座飾り金具、ガラス製壁、装身具など豪華な副葬品が出土しました。・・・前原市教育委員会』 1号甕棺は残存していないが、出土した2号甕棺は伊都国歴史博物館に展示されている。右写真は三雲南小路遺跡で、王墓の跡が示されている。 

  井原鑓溝遺跡  (いはらやりみぞいせき)


近年の鑓溝地区の発掘調査は、平成16年と平成18年度に前原市教育委員会によって行なわれており、弥生時代後期の墓群が見つけらた。主な遺構は、木棺墓18基、甕棺墓26基、祭祀土抗9基で、木棺墓や甕棺墓から破砕された鏡(方格規短鏡1面、内行花文鏡5面分)やガラス小玉多数が見つかっている。未発見の井原鑓溝王墓は、三雲南小路王墓と同じ丘陵(西側丘陵)にあると想定されている。(前原市教育委員会 文化財ニュース Vol.7)
説明板『井原鑓溝遺跡は、江戸時代天明年間(1781〜1788)に甕棺が発見された遺跡です。甕棺は三雲村(当時)との境界に近い井原村の鑓溝ではっけんされたとされ、その経緯は福岡藩士の青柳種信(図1)が書き記した「柳園古器略考」に伝聞記として記されています。  「日照り続きであったある日のこと、井原村(当時)の百姓であった次市さんが田に水をひきいれようと水路の土手をつついたところ、その一角が崩れて大きな壺が顔を出し、中から赤色の顔料(水銀朱か?)とともに20面を超える銅鏡や、鎧のような鉄板などが出土した。」  種信がこの記録を書いた当時、すでに発見から40年ほどたっていましたが、出土した銅鏡破片(図2)の他、巴形銅器の一部(図3)も残っていました。 甕棺の発見地点や出土したこれら宝器の所在は明らかではありませんが、多数の銅鏡をはじめとする豪華な副葬品から、被葬者は弥生時代後期に葬られた伊都国歴代王の一人と考えられてます。・・・・・・前原市教育委員会』

寺沢薫:日本の歴史02「王権誕生」では、『後漢書』東夷伝に印された紀元107年の記事「安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口(奴隷)百六十人を献じ、請見を願う」の国王帥升は、この遺跡に眠るイト国王であろうとしている。

井原鑓溝遺跡は、明確ではないがこの辺りらしい。説明板が立っている。遺跡気辺りは草地で、南側(背振山地方向)を見る。百姓次市の銅鏡発見の姿を想像するのも楽しい。 水田がきれる道路右の森が細石(さざれいし)神社である。太閤検地により田畑を召し上げられるまで神田も多く大社であったという。道路を挟んで左に三雲南小路遺跡がある。この辺り一帯が三雲・井原遺跡である。

  平原遺跡 (曽根遺跡群)   前原市大字曽根
 弥生後期(1世紀〜3世紀):古墳時代への道
弥生時代中期末より、三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡など三雲・井原地区に代々築かれた王墓が、弥生時代終りには、西側の曽根丘陵地域に造営された。『「曽根遺跡群平原遺跡」として、昭和57年10月に国史跡指定された(平成12年追加指定)。昭和40年(1965)に農作業中に偶然に発見され、考古学者原田大六氏を中心に発掘調査された。昭和63年〜平成11年度にかけて、前原市教育委員会により範囲を広げて発掘調査した。中心となる平原1号墳は、弥生時代後期終末(2世紀後半)に築かれ、東西14m、南北11mの長方形の墳丘を周溝が囲んでいる。中央部に東西方向に主軸を向けた4.6m×3.5mの墓壙を掘り、長さ3m、幅82cmほどの割竹形木棺が納められていた。木棺の内外から総数40面に達する破砕された銅鏡、鉄素環頭太刀、豊富な装身具が出土した。(公園説明板より)』 出土した銅鏡は伊都国歴史博物館の2Fに全面展示されている。直径46.5cmの内行花文鏡(国産)は圧巻である
右奥に小高く1号墳が復元されている
(北から南方向を見る)
1号墳の左側(2軒の家の左の白い所)に大柱が立ち、1号墳から見てその背後の日向峠に太陽が昇る設定。
太陽信仰を軸としていると推定されている
 平成10年(1998)の発掘現場
(説明板写真に墳墓位置などを追記)
1号墳が弥生後期終末、2号墳は弥生終末〜古墳初頭、3号墳は古墳時代の前期前半とされ、5号墳が隅丸方形の墳丘墓で、小児を埋葬した土器棺が出土した墓群中最古の墓。1号墳だけが復元されている
平原1号墳は、2〜3世紀の北九州倭国の王墓として注目される。同時代の西日本では、イヅモ(出雲)に西谷3号墳(四隅突出墳丘墓)、キビ(吉備)に楯築墳丘墓(双方中円墳)、タニワ(丹後)に赤坂今井墳丘墓(方形墳)などの王墓(首長墓)が見られる。それぞれの地域で、墳墓形式や祭祀形態に差異がある。

平原1号墳では、銅鏡の粉砕や太陽信仰と見られる祭祀用大柱の構築、楯築墳丘墓では、弧帯文石と立石群や破砕された弧帯文石・特殊器台と特殊壺による供飲供食、西谷3号墳では、特殊器台と特殊壺吉備的な祭祀と墓上に四本柱を立てた祭祀形態、赤坂今井墳丘墓の墳丘規模の大きさなどが注目される。

弥生時代の終末期には、政治(祭りごと)の中心が西から東に移行し、ヤマト王権の前方後円墳が生み出され、古墳時代を迎える


奴国  (なこく)
 弥生後期(1世紀〜3世紀):古墳時代への道
  奴国の丘歴史資料館 岡本遺跡   福岡県春日市岡本3丁目57番地
奴国の領域は、博多湾に流れ込む那珂川と御笠川の東西周辺のクニ(大共同体)を含んでいたと考えられ、須玖岡本遺跡はその最北部地帯に存在する。弥生時代のテクノポリスとして、また「王の中の王」を輩出した所と考えられる。春日市の奴国の丘歴史資料館にも方格規矩鏡、銅矛多数、銅矛鋳型など見るべきものが多いが、いずれも写真撮影は許可されていない。考古資料館では、奴国の遺跡分布、須玖岡本遺跡の出土品、青銅器の(銅戈)の埋納、甕棺による埋葬とともに、奴国の生産工房として、青銅器生産(鋳型など)、ガラス生産などが展示され、銅戈鋳造実験も紹介されている。埋納出土品として銅矛、銅戈がまとまって展示されているのは見応えがある。志賀島でみつけられた「倭奴国王印」は、福岡市博物館に燦然と輝く。

公園内の説明石板より

弥生時代後期のテクノポリスファクトリー
が春日市の街中に広がる。鉄器工房(高梨)、ガラス工房(五反田)、青銅器工房(永田、黒田、タカウタ、坂本B,岡本、尾花町)など

奴国の丘歴史公園には、
甕棺墓が覆屋内に保存され公開されている

   奴国の丘歴史資料館


王墓の上石
青銅器生産技術は、弥生時代の中期初頭前後に朝鮮半島から伝わったと考えられている。九州での青銅器鋳型の出土総数300の中、その半数が須玖遺跡群とその周辺となっている。奴国が弥生のテクノポリスと言われる所以である

中期後半になると、生産された青銅器(銅戈、銅矛)は、個人の威信財から集団の祭器としての性格が高まり、数十本をまとめて埋納されるようになる。埋納行為は、戦勝祈願の場合もあるが、農耕儀礼・海上交通安全祈願などの意味を持つと考えられている

銅戈・銅矛の埋納は、春日市周辺では、原町遺跡(中細〜中広形銅戈48本)、紅葉ケ丘遺跡(中広形銅戈27本)、盤石遺跡(中広形銅矛9本)、岡本ノ辻遺跡(広形銅矛10本)、西片遺跡(中広形銅矛10本)がある
花崗岩製で、長さ3.3m、幅1.8m、厚さ0.3m、重さ4トン。明治32年に春日市岡本で副葬品の豪華な甕棺墓の上で発見された。現在、奴国の丘歴史公園に設置されている。副葬品には、30面前後の前漢鏡、10本以上の青銅器やガラス壁、ガラス勾玉、ガラス管玉で、単独で墳丘墓に埋葬されていた可能性が強い。紀元57年に後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を下賜された奴国王より数世代前の奴国王と考えられている

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