九州の遺跡探訪 2b
甕棺墓 (吉野ヶ里(佐賀県)、奴国の丘(福岡市)、金隈遺跡(福岡市))
(九州)

 金隈遺跡・奴国の丘(岡本遺跡)・吉野ヶ里宇木汲田・三雲南小路・吉武高木・板付
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて、日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北九州で、朝鮮半島南部では紀元4世紀頃から始まった

弥生時代の北九州の墓制としては、前期には縄文晩期を引継いだ土壙墓・木棺墓(壺を副葬することもある)や、朝鮮南部に多い支石墓が見られる。前期末から甕棺墓が現われ、中期では北九州から佐賀、熊本・大分で主流を占める。後期に入って、甕棺墓は急激に少なくなり、箱式石棺墓・木棺墓などに変わる。中期には、上石(標石)や、墳丘墓が現われる

甕棺葬は縄文時代から小児用としては行われた。成人用としての大きな甕棺は、弥生前期後半の北部九州で現われる。この時期の甕棺は、韓国慶尚南道金海でも発見されたので「金海式甕棺」と呼ばれることがある。中期中頃には須玖式甕棺と称せられる大型甕棺が製作され、中期後半にかけて盛行する。朝鮮製の青銅器(銅剣・銅矛・銅戈)や楽浪郡を通して入手した前漢鏡、玉類、南海製貝輪などを副葬する甕棺もある。威信財の副葬は王墓の風格をもつ

ここでは、甕棺墓の埋葬状況の実際が見られる三つの遺跡を訪ねた

吉野ヶ里・北墳丘墓  佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843  
平成3年に国史跡に指定され、平成13年に歴史公園として整備され復元施設などが公開された。現在も北墳丘墓の北側では発掘調査が続行していて、列状に営まれた甕棺墓地跡や女性人骨の両腕に装着した36個の貝製腕輪、中国製鏡などが発掘されている。
吉野ヶ里遺跡は、弥生前期には2.5ha、中期には20ha、後期には40haを越す規模に発展した大集落跡である。中期前半から中頃にかけて北墳丘墓が築かれ、首長(オウ)が誕生していたことを示している。豊富な鉄製品が出土し、青銅器生産が行われた跡、建物跡、朝鮮半島に由来する土器も発見されている。古墳時代には前方後円墳などの墳墓地として利用された

北墳丘墓とその前に立つ大柱(復元)
前面の溝は、墓道
墳丘は南北約40m、東西約27m以上の長方形で、
4.5m以上(現存2.5m)の高さであったらしく、
何種もの土を層状につき固めたもの。
吉野ヶ里公園(遺跡)の全体図(吉野ヶ里パンフレットより)
発掘調査後、埋め戻されていたが、
平成20年に再公開された
復元された墳丘墓の内部に、
墳丘外壁を覆屋として発掘時の姿が再現されている。

北墳丘墓 14基の甕棺と出土銅剣の配置図
(吉野ヶ里パンフレットから)
14基の甕棺はいずれも大型成人棺で、うち8基からは把頭飾付き有柄細形銅剣、中細形銅剣を含む銅剣8本やガラス製管玉79個が副葬品されていた。埋葬された人は、首長または祭事を司った人と推定されている。14基の埋葬甕は、ほぼ同等の間隔と副葬品(銅剣)で扱われており、個々の身分差がそれほど大きくなさそうなのが特徴である


墳丘を覆いとして、発掘時の姿をを再現している。 
本物の甕棺を設置
版築(つき固め)工法での層の重なりも見ることができる

甕棺内の
人骨出土状態
北墳丘墓前の甕棺墓列(後方に墳丘墓が見える)
甕棺墓列の甕棺埋葬状態の復元。角度をつけて埋葬している
把頭飾付き有柄細形銅剣を副葬していた1002号甕棺(配置図で中央の左)をモデルに埋葬甕棺を復元したもの。内部が水銀朱で真っ赤に塗られたものが埋葬甕のうち6基あり、外部は14基全てが黒漆塗りとなっている
展示室には、出土した甕棺が並ぶ
    吉野ヶ里遺跡
昭和61年(1986)からの発掘調査後の平成元年(1089)に「邪馬台国のクニ」と新聞紙上を賑わしたが、現在は弥生時代を通じて人が住み着いたクニまたは国の典型例として評価されている。弥生時代前期に水田農耕を始めたムラは、3haの環濠集落を築き、前期後半に青銅器鋳造を始めた形跡がある。中期には、20haまで拡張され、北墳丘墓が示すように支配者層が現われ、青銅器の耳飾や朝鮮系無文土器も出土する。後期には、集落は北に伸び、40haを越す国内最大といわれる大環濠集落となり、物見櫓や大型の祭殿、高床式建物(市の高床倉庫として復元)が建つようになる。3世紀後半頃に、環濠は埋められ、神殿は機能を失い、吉野ヶ里の地には前方後方墳が4基築かれ、墳墓・埋葬の地となる。
  絵画土器(鳥文土器)  朝鮮系無文土器(青銅器工房附近から)  漢鏡(レプリカ)(中期後半の甕棺より)
青銅器工房と見られる遺跡から、銅剣、銅矛巴形銅器の鋳型や錫塊、銅滓などが見つかった
   南内郭には物見櫓         北内郭には神殿        祭壇とされる地より北方向のムラを見る  


奴国の丘(須玖遺跡)  福岡県春日市岡本3丁目57番地
甕棺埋葬に際しての祭祀遺構や竪穴遺構(建物跡)が、埋葬状態のままで見られるのが特徴である。
奴国の丘公園には、甕棺の埋葬状況が見られる覆屋A棟と覆屋B棟が建つ(右がA棟、左がB棟、その左下に住居跡がある 住居跡(縄文中期)の復元 
時代のずれた3軒が重なっている
覆屋A棟:甕棺墓と祭祀遺構(手前;土器) 甕棺(中期中頃)の埋葬状況が分る
覆屋B棟:
甕棺、土壙墓、木棺墓と竪穴遺構(祭祀用と見られる)
甕棺は弥生中期後半の成人用で
木蓋をしていたと見られる
 奴国の丘歴史資料館の前にある「王墓の上石」 と 「設置状態の想定図と草葉文鏡(復元)の写真」
春日市岡本で見つかった30面前後の前漢鏡を含む豪華な副葬品が出土した甕棺墓の上石
3面出土した草葉文鏡は、直径20cmを超えるもので、中国でも王侯クラスの墳墓から出土するという。

金隈遺跡 (かねのくまいせき) 福岡市博多区金の隈1−39−52  国史跡
弥生前期の中頃から後期の前半までの400年間の共同墓地としての状況を見ることが出来る。福岡平野の東を流れる御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央に位置する。昭和43年に発見され、昭和47年に国史跡に指定された。金隈遺跡からは348基の甕棺墓と119基の土壙墓と2基の石棺墓が発掘された。
博多のホテルにあった福岡観光ガイドブックに、福岡市埋蔵文化財センター、板付遺跡弥生館とともに紹介されていた。
展示する甕棺墓群に沿うように展示館が建てられている。
展示館は覆屋の役目をしている。
400年間の長きにわたっての墓地なので、時代を示す色分けテープ(前期中頃、前期後半、中期、中期後半、、後期前半、土壙墓)を甕棺に付けて展示している。(入口側から)
覆屋内遺構分布図(入口は左側) 薄青色は土壙墓 土壙墓と甕棺群(入口反対側から)
時代区分された甕棺の埋葬状況
写真展示;
発掘時全景、103号甕棺、146号甕棺、貝殻とゴボウラ
南海産のゴボウラ貝とゴボウラ製の貝輪が多く発見された
103号甕棺では貝輪をつけた人骨が見つかった。
身分差を思わせる
写真展示;
甕棺で発見された
金隈の弥生人

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