九州の遺跡探訪 
幾つかの古墳
(佐賀県 と 福岡県)
(九州)
西隈古墳船塚古墳久里双水古墳谷口古墳一貴山銚子塚古墳今宿大塚古墳
「伊都国散策」古賀崎古墳、井原一号墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳、築山古墳、端山古墳

唐津湾沿岸地域の前方後円墳としては、4世紀始めに築造された双水柴山2号墳があったが、発掘調査された後に主体部を残して消滅したようだ。これに続く前方後円墳としては、4世紀前半築造の久里双水古墳、4世紀後半築造の谷口古墳がある。佐賀平野の大型前方後円墳としては、4世紀中ー後半築造の金立銚子塚古墳(今回は行けなかった)と5世紀半ば築造の船塚古墳がある。玄界灘を望む糸島地区には、多くの前方後円墳が発見されているが、大きな墳丘をもつ4世紀後半築造の一貴山銚子塚古墳と6世紀前半築造の今宿大塚古墳を訪ねた。また、伊都国の中心地域であった三雲・井原地区近辺にある4~6世紀築造の古墳の幾つかを「伊都国散策マップ」で訪ねた。

西隈古墳(佐賀県)  佐賀市金立町西隈大字金立2936-5
5世紀末の築造とされ、石棺系装飾古墳の代表例。金立山南麓の傾斜段丘上に位置する。直径30m、高さ4mの二段構成の円墳である。円筒埴輪がめぐらされ、葺石が設けられていた。玄室内部に、1.3m×1.2m×1.3m(高さ)の凝灰石製の横口式の家形石棺が置かれ、石棺の正面に円形及び山形などの幾何学文様が陰刻されている。昭和30年佐賀県教育委員会で調査されたが、すでに盗掘にあっており副葬品は見つからなかった。同じ金立町(大字金立字八本杉)には、佐賀平野での最古期の前方後円古墳である金立銚子塚古墳(全長98m)がある。
佐賀市教育委員会の説明板 (石棺は長持型と記されているが、家型らしい)石棺に線刻と彩色がなされていて、装飾古墳の一つと数えられる。 九州自動車道で西に向かい金立SAの直前の左側の段丘下にある。自動車道の側壁に「西隈古墳」とある。
古墳は2段構成になっている
住宅の建て込んだ奥地にあり、
主道から見つけて入るのに苦労した
よく見ると、小さな標識が幾つかあるが・・・
墳頂部に、西方に開口した石室
玄室が奥行3.3m・幅1.5m高さ1.7m、羨道が長さ2.8m、幅1.2m。施錠されている
夕方遅かったので、入口が狭く中を覗いても見えなかった

船塚古墳(佐賀県) (ふなつかこふん) 佐賀市大和町大字久留間4768-2     
古墳時代中ー後期(6世紀)築造の前方後円墳。全長114m、前方部幅約40m(高さ9m)、後円部径62m(高さ10m)。3段構成で、主軸は南北を向いている。前方部と後円部の高低差がなく最下段では盾型になっている。幅12~18mの周濠があり、古墳の北側に陪塚があったという。美しい墳丘がそのまま残されていて、周囲をとりまく畑地と相まって美しい。軽トラで夫婦が来て農作業をしだした。
大和町教育委員会の説明板
(昭和28年11月)が前方部先端に立つ
左側が前方部、右側が後方部

久里双水古墳(佐賀県) (くりそうすいこふん)  唐津市双水字迫2776-1      
古墳時代前期(4世紀前半)の築造。全長108.5m、前方部幅42.8m、後円部径62.2mで、墳丘構成は後円部と前方部下半分が地山削り出しで、前方部上半部が盛土の自然地形を利用したもの。久里双水古墳の周辺には、弥生時代の王墓と見られる遺跡(久里大牟田、久里石ケ崎、山本中尾)などがある。縄文晩期より栄えた末盧国の王墓が、弥生時代を通じて宇木汲田から桜馬場遺跡に移行したのと同じように、古墳時代前期には久里双水の地に、或いは次に訪ねた谷口古墳の地に移行したかも知れない。立派な古墳である。4世紀前半には、関東・東北にも地山削り出しの前方後円墳が多く造営されている。
古墳整備の経過は以下のようである。昭和56年4月、宅地造成事業の際に前方後円墳であることが確認され、昭和63年に市史跡に指定され、平成元年に公有化し、レーダー探査による調査、平成3年から3年間で範囲確認調査が行なわれた。平成5年度に石室を発見、平成6年には遺存状態をファイバースコープにより確認した。
久里双水古墳は公園として管理されている
説明板が各所にある
公園と墳丘の見取り図
 公園内の藁葺覆屋で公開されている
「粘土に覆われた石室」(レプリカ)
発掘時は砂岩製の天井板3枚で密閉されていた。内径が2.5m×0.9m×1m(高さ)の竪穴式石室。石室は砂岩や玄武岩の板石を粘土と交互に積み上げたもので、壁や天井石の裏には一面に赤色顔料が塗られていた。舟形木棺に埋葬されていた可能性が指摘されている
  久里双水古墳から出土した遺物    
石室内の粘土床と遺物
後漢の「盤龍鏡」(径12.1cm、縁の厚さ1.2cm)は埋葬体頭部辺りから、管玉2が床面中央部から出土した。
刀子(長さ7.0cm、幅1.3cm)は祭祀に関わる物らしく、別の所から発見された。「盤龍鏡」は末盧国が後漢から直接入手したものと考えられている
公園から登っていくと、一段目の平坦部に出る
この丘陵を改造して前方後円墳が築造されたようだ。標識先の小高い部分が前方部の先端となる
前方部の向こうに後円部が見える。
後円部への道が付けられている
前方部は盛土で築造された
  松浦川を望む後円部の広い墳頂   松浦川は伊万里・武雄・有田の境界に近い黒髪山を源流として、武雄町を東北進し、唐津市肥前久保で厳木川と併せ北流する。その中・下流域は縄文・弥生を通じての遺跡が多い 後円部墳頂より前方部を望む
街中の至る所から双水古墳の姿は美しく見える
公園内に示された発掘調査時の写真
(上の現在写真と比較)
双水迫(さこ)古墳群 
久里双水前方後円墳につづく南東丘陵に、方形、円形の5基の周溝墓がある。墳径は10~12mも規模で、幅0.4m~1.2mの周溝をもっている。4世紀後半から5世紀の築造で、久里双水につづく人々の墳墓と考えられている

谷口古墳(佐賀県)  唐津市浜玉町谷口字立中866-2      
古墳時代前期後半(4世紀末)の築造の前方後円墳。全長77mで主軸は南北方向。前方部が低い古式形態(前方が低く未発達)で、葺石が敷かれ、墳丘には家形・朝顔形の埴輪、円筒埴輪が並べられていた。主体部は、平成元年の調査で初期横穴式石室の要素をもつ竪穴系横口式石室と判明した。石室は2室あり、天井部が特異な合掌式である。東室が2.95m×1.6m、西室が3.16m×1.85mで、両室ともに松浦砂岩製の豪壮な長持型石棺を納める。また、石室外に刳り抜き式の舟形石棺と土師器壺棺も見つかっている。出土品は、国産の三角縁神獣鏡のほか位至三公鏡、変形四獣鏡など銅鏡7面、石釧11、玉類、鉄器類と極めて豊富である。十坊山南西麓・城山の丘陵上(標高20~25m)にある。朝鮮半島の古墳技術の流入が考えられる。
正面の森が谷口古墳で右奥に公民館がある。
背景の山が城山
谷口古墳への登りは、
民家をかすめて入り、石段を見つける
下右図のように、前方部をよぎって登っていく
この辺りが前方部斜面に相当する。入口附近の無愛想な風景と裏腹にしっとりして気持ちが良い
後円部の石室附近に説明板(碑)などが多くあり、
古墳の全容や出土品の様子がよく分かる
前方部から後円部の正面に開いた東石室入口
測量図を見ると、前方部は平坦で、
後円部は段差から2段になり、後方へ広がっているようである
谷口古墳の測量図と豪華な副葬品
東石室が西石室より早く造られ、
西くびれ部から壺間基が発見された。
左が東石室出土(鏡2、玉類)、右が西石室出土(鏡5、石釧)
後円部全景 
3段の最高部に石室を含めた墳丘があるように見える。東石室の扉は施錠されている。西石室は左側の茂みの裏にある
谷口古墳・西石室の長持形石棺(複製)が墳丘下の谷口公民館の横に展示してある

谷口古墳から唐津街道(国道202)を海岸線に沿って北上する。「ようこそ伊都国へ」の看板が現われる。一貴山は二丈町と前原市の境界近くにある地名である。糸島半島の西の付根にあたる。


一貫山銚子塚古墳  (いきさんちょうしづかこふん) 福岡県糸島郡二丈町大字田中字大塚100-1       
古墳時代前期後半(4世紀後半)築造の前方後円墳。昭和32年国史跡に指定。 全長103m、前方部幅29m(高さ6m)、後円部径61m(高さ9.5m)、墳頂部径28mで、主軸方向は北。前方部2段、後円部3段の段築が認められるが、周濠などの外部施設は確認されていない。主体部は後円部の中央部で確認され、3.4m×1.4m×0.8m(深さ)の竪穴式石室で、内部は組合式木棺と推定されている。
出土遺物は、石室内外より銅鏡10面、鉄製素環頭太刀3口、直刀3口、短刀1口、鉄剣14口、剣形槍身14口、鉄製長頸鏃、硬玉製勾玉2個、碧玉製管玉33個などで、ほぼ、埋葬時の位置を保って検出されている。石室附近の封土から土師器二重口縁片も出土している。
昭和25年(1950)に、古墳は荒らされていないままの状態で発見され、副葬品の配置がよく分かる数少ない古墳の例として貴重である。被葬者の頭部両脇に鍍金方格規短四獣鏡、長宣子孫銘内行花文鏡各一面(いずれも後漢鏡の伝世品)が置かれ、左右に四面ずつ計8面の仿製三角縁神獣鏡(谷口古墳出土鏡と同笵鏡)が配されていた。糸島地方を制した大首長(王)の墓と考えられる。ここで発見された三角縁神獣鏡をもとに、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡、邪馬台国近畿説が展開された
『長野川流域の洪積台地上に立地する糸島地方最大の前方後円墳である。地元では「金の銚子が埋まっている」との伝説から「銚子塚」とよばれており、古くは貝原益軒の『筑前国続風土記』に「神在村の西にあり、此処に大なる塚有。塚の内方三間程あり。南の方に口あり。内は石垣なり。人入る事なし。内には人の骨多し。」と紹介されていた。また明治期に掘削された後円部の通風溝から、石室材である板石が露出していたため、昭和20年代前半には既に古式古墳の可能性がある事が日本考古学協会・古墳調査特別委員会において想定されていた。調査は、1950年(昭和25年)3月に日本考古学協会と福岡県教育委員会の合同で進められ、地権者満生氏を始とする地元有志、糸島高校の学生、一貴山村役場関係者などの援助を受けて、実施されている。・・・平成16年3月 二丈町教育委員会』

二丈町教育委員会の説明版を頼りに墳形(右図)を探る
   後円部への上り口(右図上端から見る)


古墳全景の航空写真が説明板にある。
(写真は上が南) (築肥線一貴山駅は南西300m)
後円部に登ってみる。 後円部と前方部は切通しになっていて、その先は樹木が生茂っている。
後円部の東側には大きな民家がある。 北側の前方部の先端附近に出た。

今宿大塚古墳 (いまじゅくおおつかこふん) 福岡市西区今宿字大塚       
古墳時代後期(6世紀前半)築造の前方後円墳。墳丘主軸を東西におき、前方部を西に向ける。墳丘全長64m、後円部の高さ約6mの2段構成。墳丘の周りに幅8~12mの外堤がめぐる。さらにその南半分側に幅5mの浅い濠があり、全長は約100mの規模となる。墳丘の下段斜面に葺石がめぐるが、上段斜面には認められない。墳丘の段テラス、外堤上、外堀外線に円筒埴輪が並べられ、外堤の南西部の埴輪列部に、人物、馬形などの形象埴輪も加えられていた。主体部は未確認であるが、後円部の南側に入口をもつ横穴式石室と推定されている。
今宿平野の高祖山から叶岳の北麓には、前方後円墳が14基確認されており、こうした古墳は地域を治めた豪族や首長(王)墓で、大塚古墳はこれら古墳群の首長墓(オウ)の一つと考えられている。
福岡市教育委員会の説明板 後円部の南側(石室入口があると推定されている)
前方部南西から(段付きの様子がよく分かる) 前方部北西から

伊都国散策マップで(前原市)          
古賀崎古墳  前原市大字西堂909-2
古墳時代後期(6世紀前半)の築造と考えられる円墳。昭和34年の造成工事で墳丘は破損され、墳丘規模は不明。出土品は、須恵器、土師器、馬具(鏡板、杏葉、革金具)、武具(大刀、小刀、胡ろく金具)、農工具(鉄斧、鋤先)、装身具(金環、管玉、銀製丸小玉、ガラス玉)と豊富で質も高い。現在も土地の人々により、4月に古墳祭りが開かれる。
前原市教育委員会の説明板 
緑円の中心が玄室。緑色の部分(直径20m)が墳丘と考えられる
忠魂碑の裏側の柵の中に横穴式石室の玄室入口が見える。南(左側)が僅かに残った墳丘部。玄室は幅2.3m×長さ3m

井原一号墳  前原市大字井原字京龍541番地  (平成16年市指定史跡)
古墳時代前期(4世紀)築造の前方後円墳。平成14年に発掘調査をし、墳丘の全長43m、前方部幅25m、後円部径25m、高さ3.6mを測る。前方部2段、後円部3段構成で、斜面には葺石が配されている。後円部中央に主軸を南北に向けた全長2.5mほどの大型箱式石棺が発見された。石材は殆ど抜き取られていたが、北木口の石が残っていた。抜き取られた側石の一枚が今も墳頂部に残されている。石棺の棺外に鉄剣、鉄鏃とともに鋸、斧、ヤリガンナ、錐などの鉄製工具が副葬されていた。被葬者は怡土平野南部を治めた首長(オウ)の一人と考えられている。(前原市教育委員会・説明板より)
小さな川に沿って北へ、農道を入る。古墳をはっきりと確認できる 前原市教育委員会の説明板 
前方部・前方から 後円部墳頂  石棺側壁が置いてある。

銭瓶塚古墳 (ぜにかめつかこふん) 前原市大字曽根字中   曽根遺跡群として国指定史跡(昭和57年指定)
古墳時代中期(5世紀後半)築造の前方後円墳。標高62mの丘陵上に位置し、前方部を西に向ける。墳丘全長50m、前方部幅28m、後円部径37m(高さ5m)の帆立貝式の形状をもつ。周囲に幅5mほどの馬蹄形周濠をもつ。墳丘は3段に土をつき固めて造られ、各段の斜面には川原石を積み重ねた葺石を施してある。発掘調査では、くびれ部の葺石が良好な状態で残っていることが分っている。周濠から円筒埴輪、朝顔形埴輪、動物形埴輪や自然石を彫って作られた岩偶などが出土し、後円部墳頂附近から家形埴輪が発見されている。怡土平野の首長(オウ)墓とみられている。
前原市教育委員会の説明板 
本来の前方部の部分に立っている。
前方部は削られ、道路を挟んで後円部がある
道路の向こうに後円部 段差がはっきりと見て取れる。
墳頂は大きくない

ワレ塚古墳  前原市大字曽根字中   曽根遺跡群として国指定史跡(昭和57年指定)
古墳時代後期(5世紀末)築造の帆立貝式前方後円墳。平成16年度発掘調査の結果、墳丘全長42m、後円部径30mと測られる。墳丘は2段構成で、前方部を北に向ける。円筒埴輪や朝顔形埴輪が並んでいて、前方部の周濠から、馬形の形象埴輪や壺や高杯などの須恵器が出土した。埴輪を用いた祭祀の様子が分る古墳として重要とされる

前原市教育委員会の説明板

説明板
各所の様子、埴輪出土状況などが写真で示されている
南側から見たワレ塚古墳 東側から見たワレ塚古墳

築山古墳 (つきやまこふん) 前原市大字三雲字寺口 
古墳時代前期(4世紀末)に「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳。前方部は北西を向くが、現在、前方部、後円部ともに一部破壊されている。昭和49年(1947)の調査では、墳丘全長約60m、前方部幅約25m、後円部径49m(高さ約8m)の帆立貝式前方後円墳であることが確認された。斜面には葺石が施され、周囲に盾形の周濠が廻っていた。主体部は未調査だが、周濠から壺形埴輪や円筒埴輪が出土していて、築造年代は4世紀末頃と考えられ、この古墳の北にある端山古墳に後続して築かれたと考えられている

後円部墳頂は広く、社がある
前原市教育委員会の説明板 (図面は復元図)
後円部墳頂へ登る石段が南西側にある。墳丘周りは周濠だった 南東後方から後円部を見る

端山古墳 (はやまこふん) 前原市大字三雲字塚廻り 
古墳時代前期(4世紀始め)に「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳。前方部は北に向くが、現在は後円部だけが残っている。昭和49年(1974)の調査により、前方部の石列が検出され、先端部が横に突出していたことが確認された。墳丘規模は、全長78.5m、前歩武幅23m、後円部径42m(高さ約8m)とされ、前方部は3段構成で斜面には葺石が施され、周囲に盾形の周濠が廻っていた。周辺から出土した土器から4世紀始の築造とされる。主体部は未調査。三雲・井原地区に古墳時代の始に築造されていることから、代々続いた伊都国王の末裔の墓と見られている
前原市教育委員会の説明板 (図面は復元図) 北側から見た端山古墳(後円部)

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