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春夏秋冬 (21)
16/09/10 尾張大国霊神社と尾張国府跡 (稲沢市)
名鉄名古屋本線国府宮(こうのみや)駅周辺を占める「尾張大国魂神社を含む尾張国府跡」を訪ねた。
現在の都道府県に相当する国(くに)が設定された歴史は古く、大化改新(645)にまで遡る。しかしながら、日本列島全土の国で画一的な行政が機能するには、幾らかの年月を要した。大宝律令(701)が制定された時期には東北の一部と北海道を除き中央から国司(こくし)が派遣され、国単位で行政が行われるようになる。国司は県知事に相当し執務した役所(国庁)を国衙(こくが)と呼ぶ。そして国衙のある都市を国府(こくふ)と呼ぶ。国府に近い周辺に、土地の霊力(神)を祀る神社を配置し、聖武期(741)には国分僧寺・国分尼寺が国単位で全国的に設置された。
奈良・平安~室町時代には機能した国府・国衙も、時代の経過とともに行政区画としての存在意味が変わり、現在ではその存在・位置すらも分からなくなっている場合が多い。、稲沢市教育委員会と愛知県埋蔵文化センターでは、過去において幾多の考察・発掘調査を進め、尾張国府跡、尾張国衙跡、国分僧寺跡、国分尼寺跡などが稲沢市に分布していることを解明している。国府宮駅の西側・松下地区と、東側の尾張大国魂神社(国府宮)周辺が、昭和52年から平成2年にかけて、稲沢市教育委員会により発掘調査され、松下地区の一画が国衙に、尾張大国魂神社周辺を併せた約800m四方が尾張国府所在地(尾張国府跡)とされるに至っているが、国庁建物自体はまだ発見されていない。稲沢市の周辺地域では、律令制度が実施された奈良時代から平安~室町時代にかけての重要遺跡(尾張国分僧寺跡(矢合町)、下津城址(中世の尾張国守護所;下津高田町)など)が見つけられている。
尾張大国霊神社の御祭神は令制尾張国にみなぎる霊力としての土地神・大国魂神である。尾張国の国司が政務を行う政庁(国衙)近くにあり、尾張国の惣社(そうじゃ)として、尾張国一の宮(真清田神社)・二の宮(大縣神社)・三の宮(熱田神宮)などを合祀していた。国司は土地神に畏敬を払った後に国分寺に鎮護を願い、仏教色の強い政務・行政を施行したものと思われる。
尾張大国魂神社とその東側・宗形神社を巡る北側周回道路(国府宮神饌田を含む)の外側に発掘調査域がある。国府跡を示す遺物・遺構が発見されたが平安朝以降のものが多い。礎石建物の断片、区画溝などは検出されているが、国庁そのものを捉えるに至っていないようだ。現在は埋め戻された発掘現場を遥かに想像するだけである。
国府宮駅西側・松下地区には国衙址や赤染衛門歌碑公園などがある。平安時代の女流歌人である赤染衛門の夫・大江匡衡は尾張守として赴任し、現稲沢市を蛇行する大江川の開削に貢献したとある。
考古学的な遺跡としては難解な国府宮であるが、その朧げな景色の垣間に、幾つかの古代の姿が浮び上ってくる。
1.日本書記には、壬申の乱(672)に当たり『・・・尾張国司守小子部連鉏鉤(おはりのくにのみこともちのかみちひさこべのむらじさひち)、二万の衆を率て帰りまつる・・・』とある。当時は国司制度はなく、小子部連鉏鉤は尾張に派遣された国宰と考えるようだが、二万の兵が尾張国で集められたことは興味深い。美濃の豪族は戦力として登場するが、尾張の豪族については尾張大隅が私邸を提供しただけである。近江朝の官吏である小子部連鉏鉤はむしろ裏切ったのである。あるいは、その行動は赴任先・尾張の意思だったのかも知れない。小子部連鉏鉤は戦後、『・・・山に匿れて自ら死せぬ。天皇の曰はく、「鉏鉤は有功しき者なり。罪無くして何ぞ自ら死なむ。其れ陰謀有りしか」とのたまふ。・・・』
2.大仏造立を発願、国分寺の設立など仏教色の強い聖武天皇であっても、国府の設置では大国魂神社と国分寺を併行に設定している。このような行動パターンは、奈良後期・平安初期に新しい仏教(密教)を輸入し高野山、比叡山を聖地化した際の空海や最澄の行動にも見られる。
従来の霊的な信仰と外来の仏教については、共立または融合し易い風土・文化があったと思われる。
3.他の残存する国府跡の知識で、奈良朝から平安~室町の国府の有様を補足することができる。たとえば、武蔵国府(東京都府中市)は、尾張国府同様に大国魂神社と国分寺を持つ。美濃国府(岐阜県不破郡垂井町)は、近くに南宮御旅神社(国府宮と呼ばれることもある)があり、南宮大社(美濃一の宮)にも近い。南宮大社の御祭神は金山彦命とするが、古来より尊ばれた金生山の霊力との繋がりが想定できる。国分寺跡は大垣市青野町にある。
16/08/31 甚目寺とあま市歴史民俗資料館 (あま市)
境内「甚目寺観音御案内」より |
尾張の古刹「鳳凰山甚目寺(じもくじ)観音」を訪れた。
「推古天皇5年(597)に伊勢の甚目(はだめ)龍麻呂という漁師が近くの海中より紫金の聖観音菩薩像を網にかけ引き上げ祀ったこと」に興味を覚えたからである。海中より引き上げた聖観音は身丈1尺余で、本堂に安置される十一面観音の胎内仏である。十一面観音は50年に一度開帳されるが、胎内仏は絶対秘仏となっている。
この縁起は、文永元年(1264)の奥書がある「文永縁起」や尾張藩の地誌「張洲府志」(宝暦2年(1752))に見つけられる。
本尊が引き上げられた時代には、この地は海浜地域であったことになる。実際に、弥生~古墳時代の海岸線が現在の名鉄津島線(須ケ口駅~津島駅)に沿っていたことはほぼ確証され、「江上の庄」の入り江は甚目寺観音の南東すぐに比定地がある。
甚目寺創設が推古年代であることは、平成2年~4年に行なわれた甚目寺境内の発掘調査で「白鳳時代の軒丸瓦や年輪年代測定により650年~700年頃に伐採されたと見られる掘立柱根が発見されたこと」により、確認されている。現在の甚目寺の地に、当時は最先端であった寺院建設技術が投入されていたことを示している。甚目氏の権力の強さが伺える。
甚目寺観音境内:
甚目寺境内へは南大門から入る。南大門(重文)は建久7年(1196)からの聖観上人による中興の際の造営で、現存する甚目寺の建物中で最も古い。脚部に桃山時代(慶長2年)に造形された仁王像を納める。
参道を本堂に向かって歩くと、左に美形の三重搭がある。三重搭(重文)は寛永4年(1627)の造営で、搭内には愛染明王坐像が安置されている。愛染明王像は鎌倉時代・弘安7年(1284)以前の作と考えられている。この像にも9.8cmの合子に収納された像高6.6cmの精巧な愛染明王坐像が胎内仏として収められている。平成23年の名古屋市博物館での「甚目寺観音展」の際に解体修理・調査され、当時の図録に詳細が掲載されている。
参道右に鐘楼と十王堂がある。十王堂には冥界の裁判官・十王坐像が、奪衣婆(だつえば)坐像と一緒に収められている。十王堂の東側に東門(重文)がある。寛永11年(1634)建立の切妻造りの四脚門で美しい。
参道の突き当りに本堂があり、秘仏の十一面観音と胎内仏(絶対秘仏・聖観音)が厨子内に安置されている。
甚目寺観音の西側に接して漆部(ぬりべ)神社がある。甚目寺観音の鎮守社として境内を同じにしていた時代もあったが、明治の神仏分離で境内を別けた。
あま市歴史民俗資料館:
南大門を出てすぐ左(東)にある3階建てのビル(あま市甚目寺会館)の3Fにある。会館側壁には「避難所 海抜1.3m」とあった。
あま市の文化財マップを見ると、七宝焼で有名な七宝区域、蜂須賀城址、福島正則生誕地のある美和区域、と甚目寺区域に分かれる。甚目寺区域には、甚目寺・法性寺などの古代寺院や五条川・鎌倉街道に沿って建つ妙勝寺・光明寺・實成寺など鎌倉時代創建の寺がある。あま市歴史民俗資料館は、美和区域と甚目寺区域の2ヶ所にある。
展示品で興味深いものを上に幾つか示した。単弁蓮華文軒丸瓦の中で右端のものは境内遺跡(甚目寺遺跡)出土の最古の軒丸瓦で、7世紀後半(白鳳期)のものと思われる。境内遺跡から出土した鎌倉時代の古瀬戸と常滑の壺は甚目寺が創建から現在まで同じ場所で営まれ続けた歴史を感じる。
境内遺跡より出土した木柱根が白鳳期のものと結論付けられていることは最初に記した。古代寺院としては、甚目寺、法性寺(甚目寺の北西1km)の他に清林寺があった。清林寺遺跡は本郷花ノ木(甚目寺の南東1.5km)にある。これらの遺跡から出土した古瓦の年代は7~8世紀と見られている。
ほかに弥生土器が系統的に展示されていた。あま市は北東に、清洲市・貝殻山貝塚を含む広大な弥生遺跡(朝日遺跡)と接している。
甚目寺開基が甚目龍麻呂という伊勢の漁師と伝えられているのは興味深い。甚目氏一族は松阪・雲出川流域など伊勢湾岸各地に拠点をもつ海人と考えられていて、伊勢湾が濃尾平野に深く入り込んでいた古墳時代後期には、尾張・伊勢が尾張氏・甚目氏など海人集団の協業により支配されていたことが想像できる。
甚目氏の私寺として創建された甚目寺であるが、鎌倉時代(12世紀)には氏寺としての性格が薄れ、地縁によって寺院が維持されるように変化した。この頃伽藍の再整備が勧進僧・聖観上人を中心に行われた。13世紀後半には真言宗系統の密教が導入された。三重搭内に安置されている愛染明王がその事実を物語っている。現在は真言宗智山派の寺院である。
16/07/27 斎宮跡と斎宮歴史博物館 (三重県明和町)
近鉄山田線斎宮駅 駅前に国史跡斎宮跡の案内図がある |
海の日(7月18日)に斎宮跡を訪れた。35℃越えの猛暑日だったが、直射日光に曝された広い野面を通り過ぎる風は、幾分暑さを和らげだ。
近鉄山田線・斎宮駅(無人駅)を北側に出ると広大な遺跡が広がる。線路を挟んだ南側も遺跡の範囲だが街並みとなっている。遺跡全域を示す案内図を見て、「いつきのみや歴史体験館」の裏側に周ると、「歴史ロマン広場」となり”1/10史跡全体模型”に出会う。この珍しいプレゼンテーションに戸惑っていると、ボランティアガイドのご婦人が現れ、史跡の全体像の説明を始めとして、「さいくう平安の杜」・「古代伊勢道」・「祓川」を経由して「斎宮歴史博物館」まで案内してもらえた。斎宮の公式ホームページにはウオーキングマップがあるが、初見の広大な遺跡を見渡して要所・要点を瞬時にイメージするのは難しい。ガイドさんに当たればそれが一番で、見学客の少ない猛暑日訪問ならではの特典である。
7世紀末、壬申の乱を画期として、律令国家としての日本国建国が加速した。天智・弘文天皇の近江大津宮から天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮・藤原京の時代、古墳時代の終末期に相当する。政治の仕組み・対外政策が進展すると同時に、「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」・「不改常典(ふかいじょうてん)」を原則として天皇即位が原理化された。同時に、アマテラス大神を伊勢神宮に祀り国家神の中心に据え、天皇の名代としてアマテラス大神に奉仕する斎王(さいおう・いつきのみこ)が制度化された。斎王の常駐する宮を斎宮(さいくう・いつきのみや)という。斎王は未婚の内親王や皇族女性から選ばれる。大津皇子との姉弟愛を万葉集に残した大来皇女(おおくのみこ)は、天武天皇の娘で正式な斎王第1号であった。元正~聖武期の井上斎王は、聖武天皇の娘で、退任後に白壁王(天智天皇の孫;光仁天皇)に嫁ぎその娘・
酒人内親王、更にその娘朝原内親王(父は桓武天皇)三代に亘って斎王となる。井上内親王は聖武天皇の第一皇女で第二皇女が孝謙・称徳天皇である。この時代は天平文化を産み出した華やかな時代であるが、奈良時代の終焉、次の時代への激動の時代ででもある。朝原内親王の斎王在任期間は782年~796年とされている。
伊勢神宮を祀り斎王制度を始めた天武・持統期、仏教文化と共存させながら斎宮文化の原点となった聖武期、そして、その後約650年間の斎宮の繁栄・衰退期の三時代に分けると、前の二つの期が私の興味の中心となる。そして、伊勢神宮から10km以上離れたこの地に斎宮が存在し、斎王(斎宮)とそれを支える官人(斎宮寮)の”祈りの世界”が存在したことに驚きを覚える。
斎宮駅のすぐ北側に 1/10史跡全体模型(後方に斎王の森) 平安初期に造営された「方格地割」(東西7列、南北4列)の各区画が台形の芝生ブロックで表現され、建築群もミニュチュア化し復元されている。東から3列目・北から3列目区画(コンクリート台)が斎王の住む内院と考証されている。 東方は祓川方面、東北の杜内に斎宮歴史博物館 |
国史跡斎宮跡 昭和45年(1970)より計画的に発掘調査は始まり、現在も継続中である。昭和54年に、東西2km、南北0.7km、総面積約137ha (甲子園球場35個分)の領域が、国史跡に指定されている。遺跡南東部は、8世紀末頃(平安初期)に造営された計画的な区画割り(「方格地割(ほうかくちわり)」)の領域が含まれている。各区画の性格は不明な点が多いが、発掘作業を通して斎王の住まう内院や斎宮の長官が居た中院、斎宮の事務を司る外院など全体像が明らかとなりつつある。全区画が同時に機能したものではないにしろ、都から(伊勢神宮からも)離れたこの広大な地域が、斎宮として約650年間存在し続けたことは不思議な気がする。
飛鳥~奈良時代の斎宮推定地は斎宮歴史博物館の南側・旧竹神社跡・「古代伊勢道」近くらしい。博物館近くには5世紀末~6世紀初めの塚山古墳群があり、この地の豪族の代々の奥津城近くに斎宮があったことになる。ここに眠る豪族の末裔が斎宮を呼んだのかと勝手な想像をする。古代伊勢道から祓川への道を歩いていると、発掘中を示すテントがあった。運が良ければ、発掘作業を見る機会があるかもしれない。
伊勢斎宮の最も盛んだった時期は、8世紀末から9世紀前半(平安時代)のようで、発掘された遺構・遺物も多い。9世紀後半以降12世紀までの遺物としては、ひらがなを用いた墨書土器など時代の様相を反映しているが、10世紀後半以降は斎宮の規模も縮小されたようだ。12世紀末頃(鎌倉時代)になると斎王制度の実行が怪しくなり、南北朝(14世初め)の後醍醐天皇期に消滅する。
「斎宮跡/明和町ホームページ」を検索すれば、遺跡の”歩き方”など多くの情報が得られる。現地でもらった”斎宮今昔”というシートには航空写真に遺跡範囲と方格地割が書き込まれていて全体像がつかみやすかった。
斎宮歴史博物館に隣接して塚山古墳群がある。5世紀末~6世紀初めの円墳と方墳で構成される。 |
斎宮歴史博物館 (観覧料:一般¥340、大学生¥220、高校生以下無料) プレゼンテーションは二つの展示室と映像展示室より成っている。
”展示室Ⅰ文字からわかる斎宮”では、斎王の乗り物、居室などが復元され、「斎王概説」「斎王の誕生」「斎王の旅立ち」「斎宮の造営」「王朝の暮らし」「王朝の遊び」「斎宮の一年」「神宮への参宮」「斎王のその後」の九コーナーが壁面に沿って配され、「伊勢物語絵巻」はじめ「源氏物語」「大和物語」「大鏡」など王朝文学の世界」が中央に展示されている。
”展示室Ⅱものからわかる斎宮”では、斎宮発掘調査とその成果・遺物が展示されている。斎宮復元模型が斎宮跡航空写真と関係付けて示され、発掘現場の模型、斎宮発掘史が示されている。現時点で斎王が暮らした内院と考えられている鍜冶山(かじやま)西地区の遺構模型もある。大来皇女の名が記された飛鳥京の木簡や奈良時代の遺物(レプリカ)、8世紀~9世紀前半の斎宮全盛期の遺物、そして衰退期と消滅への時代と続く。
”映像展示室”に、斎宮跡から出土した土器編年表が現物とともに示されていた。土器編年が威力を発揮する先史時代に比べ文字資料が重要視される時代になっても、考古遺物は客観的な情報を与え、文字資料の主観的な情報に勝る場合がある。映像展示としては、美しいハイビジョン画像での「斎王群行」を見た。
当然のことながら、どちらかというと斎宮が安定して存在した平安時代(華やかな王朝文化)の展示が多い。飛鳥・奈良時代初期の遺物は興味深いが多くはない。今後の充実が期待される。。斎宮跡から出土した土器編年展示は地味だが興味深かった。
古代日常の生活を知るには、木簡の発見が期待されるが、この地は乾燥台地でその可能性は低い。斎宮の隆盛期には方格地割が造成され、延喜式により律令体制の一部として、斎王制度が機能した。政治は文書にもとづいて施行されたので、種々の硯(すずり)が出土するのも特徴である。
フラッシュをたかなければ写真撮影は許可されたが、斎宮歴史博物館の総合案内の図録や「斎宮歴史博物館公式ホームページ」も充実し、発掘調査報告書も完備している。博物館展示は宮都全体に亘るので、古代~中世の多様な知識・興味に対応している。古文書展示の前を離れずに熱心に見入る人も居た。艶やかな王朝衣装に憧れる若いカップルも見かけた。
16/06/30 歴史の里(志段味古墳群) (名古屋市守山区)
志段味古墳群は2014年10月に国史跡に指定された。約5年前より、古墳群を包括する「歴史の里」として調査・整備が進み、その進捗状況を傍観していた。久しぶりに、今回その半分のコース(アクセス図の黒破線)を歩いて、「歴史の里」構想がゆっくりと確実に進展しているのを見た。
多くの日本人は”明治維新”が好きである。日本の近代化・富を築いて呉れたと信ずるからであろう。古墳時代の終末から律令国家誕生時期は、明治維新と同様に、外国の知識・技術を貪欲に輸入した時代である。古墳時代(3世紀半ばから7世紀半ば)は、日本国誕生の時代と考えられる。この時期はまた、日本列島の各地に芽生えた地方豪族(首長)支配から中央政権(大王)に政治の実権が移譲して行った時代である。天皇が神格化されるのも明治維新と似ている。個性的な地方の姿が画一的な中央の姿に変わって行く時代とも受け取られる。
地方の力が確固としていた時代から中央支配への変貌を、志段味古墳群による「歴史の里」に見ることが出来る。そこには、この地ーおそらく尾張発祥の地ー特有の古墳の姿が時代を越えて残存している。庄内川左岸の河岸段丘・東谷山山麓と山頂(標高198m)に広がる田園風景の中を歴史散策したい。
勝手塚(かってづか)古墳:6世紀初めの帆立貝式古墳(墳長約55m)で馬蹄形周堤が北側(写真は南側から撮影)半分残っている。後円部テラスに埴輪列(円筒・朝顔形・蓋形・人物)が密に並べべられていたとある。墳頂に拝殿付の立派なお社がある。後円部墳丘や周堤の残りの良さは、このお社のお蔭でもあり、それ以上の発掘調査は拒んでいる。
6世紀初めとは継体大王の時代で、断夫山古墳(熱田区)、味美二子山古墳(春日井市)など尾張氏関連古墳の築造時期と前後する。
西大久手(にしおおくて)古墳を北側から見る位置に、大理石のベンチが二つある。案内看板の右背後が後円部で、その右側に帆立貝式の短い前方部がある。
西大久手古墳は、5世紀中頃の築造で、墳長約37m・後円部径約26m・前方部長約13mであり、馬蹄形の周濠も検出されている。墳丘は見る影もなく削られているが、円筒、朝顔形埴輪の他に、巫女形埴輪や鶏形埴輪や須恵器が出土した。5世紀中頃とは、中央では”倭の五王”の時代で、巨大大王墓が和泉・河内(百舌鳥・古市)の大古墳群に造営された。
東大久手(ひがしおおくて)古墳がすぐ東側にある。 同じく帆立貝式古墳(墳長約39m・後円部径約27m・前方部長約12m)で、5世紀末の築造、後円部1段目テラスに170本の埴輪列が設置されていたと推定されている。写真は西側から撮ったもので、木の茂みに後円部、手前に前方部がある。 円礫の葺石が見つかっている。 |
(北西端から撮影)
志段味大塚(しだみおおつか)古墳:帆立貝式古墳(墳長約51m・後円部径約39m・前方部長約1m)で、5世紀後半の築造。周濠は馬蹄形とされる。1923年に梅原末治により本格的な発掘調査がなされた。埋葬施設は粘土槨と木棺直葬であり、粘土槨からは5世紀後半を代表する最新鋭の武器・武具・馬具さらに五鈴鏡などが出土した(京大綜合博物館に所蔵)。墳丘の残存情況も良く今回の整備で葺石(隣り合う石と石との隙間が目立つ貼石風であることに特徴)と造り出し部が復元された。「歴史の里」の一つの目玉となっている。
(南東側の周濠外の高台から撮影 右が後円部で左が前方部 後円部墳頂への階段とくびれ部を跨ぐ階段が付けられた))
白鳥塚(しらとりづか)古墳:4世紀前半に築造された前方後円墳。墳丘長115m・後円部径約75m・前方部長約43mを測る。葺石は角礫と円礫と調べられているが、復元はされていない。長い年月を経て保存されたままの姿も良いものだ。周濠が取囲み、北西側に渡土堤を検出している。1972年に国史跡に指定されている。
墳頂は整備され説明板がある。 説明板によると、昭和初めに発掘調査されたが、埋葬施設は見つからず、平成18年のレーダー探査では、南北方向に主軸をもつ二の埋葬施設の存在の可能性が指摘されたとある。 墳頂や後円部斜面に石英が敷かれていて、前方部の長さが短いことと相まって、奈良県柳本行燈山古墳との類似が指摘されている。 行燈山古墳は現在、崇神天皇陵に宮内庁指定されている。奈良盆地の巨大古墳の築造期と大王墓(天皇陵)の関係は、種々議論されるが、箸墓古墳・西殿塚古墳が先行し、行燈山古墳・渋谷向山が次に続くとする説、その前に桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳が入るとする説、行燈山・桜井茶臼山・メスリ山・渋谷向山と続くとする説がある。 いずれにしても、卑弥呼の時代に続くヤマトの実力者と比肩し交友のある実力者が、古墳時代の初期にこの地に居たことを示している。 |
東谷山白鳥(とうごくさんしらとり)古墳:6世紀末~7世紀初めの築造。 東谷山西斜面に造営された群集墳の唯一の完全な形で残っている横穴式古墳。 石室の幅が奥から入口に向かって徐々に狭まっていく形態で、羨道と石室は 床面に並べた人頭大の石列で区切られている。東谷山を少し登った畑地に幾つかの上石を欠いた石室が遺っているが、石室形態は類似している。 この日は施錠っされていたが、休日には石室内部が公開されている。 |
ここまで、15,000歩の散策であった。東谷山を登れば(アクセス図で赤破線)、頂上に尾張戸神社古墳(4世紀前半)、フルーツパークへの下りに中社古墳・南社古墳(4世紀中頃)と「歴史の里」は続いている。
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