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春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (22)

16/12/31 大晦日の内々神社 (春日井市) 

大晦日の内々(うつつ)神社を訪れた。春日井に来てすぐの秋以来で、既に4年経過した。
門松を立て準備万端、境内には焚火に使うのか薪が積み上げられ、年越し行事の準備が出来上がっていた。敬虔な参拝者が訪れ、「この1年の無事を感謝し来る年の幸せ」をお願いしていた。”出雲流”に四柏手していたのが印象的だった。

尾張・東海地域の古代を理解する一つのテーマは、ヤマトタケル伝説にあろうかと思う。ヤマトタケルは第12代景行天皇の皇子で、東奔西走・異端者を征伐した日本国建国時の将軍として記紀に描かれるが、実在性は疑わしいとされる。実在性の薄い皇子の話が何故歴史の理解に大切なのか・・・。ヤマトタケルを描く日本書紀・古事記に描かれる歴史的真実は、編纂された時代の政情・世相は当然のことながら、その時代の知識と認識に立脚していて、現代社会のそれとは同じでないことを考慮する必要があろう。

ヤマトタケル命の伝承地をつなげると、名古屋市緑区大高町火上山の氷上姉子神社近くのミヤズ媛命宅を出発し、あま市上萱津の萱津神社から一の宮市辺りを通り伊吹山に向ったらしい。岐阜県池田町周辺にもヤマトタケル伝承地があるが、伊吹山の神のタタリにより遭難するのは滋賀県米原市上野の伊吹山山麓となっている。ヤマトタケルは伊吹山からの帰路でミヤズ媛命宅に立ち寄る話もあるが、養老山脈東麓を南下し最初の埋葬地(三重県亀山市)”能褒野(ノボノ)”に至る各地に伝承がある。能褒野に埋葬されたヤマトタケル命はすぐに白鳥になり、大和・河内へと飛び去る。尾張・美濃・伊勢をつなぐヤマトタケル伝承地を結ぶと、古代の尾張・美濃・伊勢、更には近江・大和への交通路と海岸線が浮き彫りされて見えてくる。

内々神社は、ヤマトタケル命、タケイナダネ命(東征の副将)とミヤズ媛命を祀り、草薙剣を納めた熱田神宮と同じく、ヤマト王権と尾張氏の接点を示す。尾張氏は天火明命(アメノホアカリノミコト)を始祖とし、継体天皇の妃・目子媛を輩出する。壬申の乱(672)では、大海人皇子(天武天皇)軍は伊勢(天照)大神を遥拝し尾張・美濃から軍事援助を受け勝利する。尾張氏の氏神は内々神社にほど近い東谷山・尾張戸神社に祀られている。

気紛れに近江を含む尾張周辺の遺跡探訪を重ねるほどに、「継体・欽明朝から天智・天武・持統朝へと日本国が成長する段階で、ヤマトタケル像が誕生した可能性」を想像することが多い。

神社入口には門松が立てられ、
境内には焚火の準備がされていた
立川流の白木の龍も夢窓国師作の庭園も
掃除が行き届いていた



16/11/29 船来山古墳群(ふなきやまこふんぐん) (岐阜県本巣市) 

古墳と札所の町    
 願成寺西墳之越古墳群(池田町)、野古墳群と上礒古墳群(大野町)船来山古墳群(本巣市)を地図上で示す。西国33ケ所巡礼の結願寺「谷汲山華厳寺」    

国道157は、岐阜市ー本巣町・糸貫町ー温見峠ー大野市(福井県)を結ぶ。岐阜県側では本巣市以北で根尾川と併行し県境・温見峠を経由する。現在の根尾川は大垣市の北縁で揖斐川に合流するが、江戸初期までの根尾川本流は糸貫川で、長良川水系であった。
国道417は、大垣市ー池田町ー揖斐川町ー冠山峠ー池田町(福井県)を、揖斐川本流と併行して徳山ダムに至り、林道で県境・冠山峠を経由する。
いずれの国道も白山連峰からつづく山岳地帯を抜け、一味違ったドライブが期待できる。

根尾川あるいは揖斐川に沿う鉄道のフアンも多い。岐阜県側では、JR大垣駅と接続して、樽見鉄道が大垣ー糸貫・本巣ー谷汲口ー樽見(旧根尾村)まで、養老鉄道が大垣ー北池野(池田町)-揖斐(揖斐川町)まで通じている。この二つの路線の主要部は、根尾川(国道157)と揖斐川(国道417)沿いを走る。川沿いの田園風景とローカル鉄道はフアンが多い。

濃尾平野の西端に当たる上記地域は、日本の古代史上でも興味深い。事実上での日本国建国の画期となる「壬申の乱(672)」では、揖斐郡池田町の願成寺西墳之越古墳群の周辺に比定される大海人皇子の湯沐邑の長官・多臣品治に密命を勅したところから戦闘が始まった。

古代の郡(評)は、現行の揖斐川、根尾川を参考にして、1。揖斐川右岸の池田郡6郷と安八(あんぱち)郡6郷、2。揖斐川と根尾川に挟まれた大野郡12郷、3。根尾川左岸の本巣郡8郷と席田(むしろだ)郡4郷が、現行の池田町、大野町、本巣市にほぼ相当する。

1。の地域の願成寺西墳之越古墳群(6~7世紀)、2。の地域の上磯古墳群(4世紀後半~5世紀前半)と野古墳群(5世紀中頃~6世紀前半)については、過去に訪れたことがある。
今回、毎年11月中旬以降に開催される赤彩古墳の公開日にあわせて、3。の地域に造営された船来山(ふなきやま)古墳群を訪れた。船来山古墳群は、尾根筋に3世紀中頃~4世紀後半の古墳、一部に4世紀末~5世紀後半の古墳を含み、支尾根やその斜面に古墳時代後期(5世紀末~7世紀初め)と終末期(7世紀前半~7世紀末頃)の群集墳が築造されている。

船来山古墳群は席田郡に位置する。席田郡は霊亀元年(715)に本巣郡から分割された。この建郡には尾張国の席田君邇近と伽耶(朝鮮半島)からの渡来者集団が関係しているらしく、船来山周辺が以前より渡来者集団と密接な関係にあったことが想像される。船来山の群集墳と渡来人集団の関係が一つのテーマともなる。

船来山古墳群は地図上での船来山(左)・郡府山(右)からなる一つの独立丘陵上に広がる。山塊を西側から見る。
丘陵北西部の一部には遊歩道がつけられている。
290基の古墳が丘陵の尾根筋・支尾根・斜面に展開する(説明板より)。南西端に道の駅「富有柿の里いとぬき」があり、「古墳と柿の館」がある。船来山古墳群が存在する丘陵の大半は私有地である。
赤彩古墳272号墳が出土した現場の航空写真

船来山古墳群は独立丘陵(船来山(標高116.5m)と郡府山(標高110m)の二つのピーク)全体に分布している。古墳の密集する領域は幾つかの支群に分けられている。船来山山頂の北側からA群、郡府山山頂の北側にB群、北山麓にC群として、D群、E群、F群は、北側支尾根に名付けられている。更に、主尾根上を東側からG群、H群、I群、J群で郡府山山頂となる。郡府山の南側に張出した支尾根にL群、M群、幅広い支尾根の中腹にN群、山麓近くの幅広い領域が赤彩古墳など重要な発見があったO群である。O群西から主尾根に向かってP群、Q群があり主尾根上に戻る。S群とT群は、船来山西端近くの北山腹と南山麓に名付けられている。

船来山古墳群での前期古墳としては、船来山山頂にある5号墳(前方後円墳:墳長約65m)と船来山西端支尾根にある62号墳(前方後方墳:墳長約40m)がある。主尾根上I群の24号墳は造出しのある円墳で、後漢鏡を含む鏡5面と多数の副葬品を出土した。J支群の37号墳、N支群の35号墳と36号墳、R支群の99号墳などは方形を基調とする古墳として注目されている。前期の古墳・墳丘墓・土壙墓は、これらを含めて、21基以上が主尾根を中心に分布している。

O支群では、3世紀末の方形周溝墓、赤彩古墳が3基が造営された。5世紀末から6世紀初めの赤彩古墳19号墳(無袖式)、6世紀初めの赤彩古墳272号墳(山麓に移設された)などで、埋葬品も貴重な物が多い。石室内部を赤彩するのは魔性封じであろうが、その時期・場所を局限してこの種の古墳が造営された意味は不明である。

これら前期・中期の首長墓に混じって、6世紀後半から7世紀後半までの圧倒的多数の群集墳が見られる。南山麓には白鳳期の寺院・弥勒寺が遺り、古墳時代終焉期の当該地区の風景を偲ばせる。

古墳と柿の館 船来山古墳群へは、国道157の道の駅「富有柿の里いとぬき」を目標にして行く。秋には地元の名産品”富有柿”の直売場が賑わう。道の駅に接して公園化した広場がつづき、その奥に「古墳と柿の館」がある。船来山古墳群O支群から移設された赤彩古墳(船来山272号墳石室)は、柿の収穫期である11月の3日間に公開される。272号墳は円墳で、主体部が未盗掘・上半分欠損の状態で、支尾根部の南斜面(O支群)で発見された。古墳と柿の館近くには、船来山154号墳も移設して常時屋外展示されている。 

赤彩古墳の館
船来山272号墳石室を移設。横穴式石室の四面がベンガラで赤彩塗彩されている。玄室は2m×5mの「羽子板形」で、石室全体は片袖型である。
古墳と柿の館 左に船来山154号墳の屋外展示
154号墳石室が復元されている。組合式石棺が石室主軸に直交して設置されていて、石棺と石室奥室に多くの副葬品が詰まっている。
装身具(玉類、勾玉、ガラス玉、水晶玉など ガラス環もある) 
耳管(金・銀・銅製、鍍金、雲母片など)
馬具・武具類(方形板革綴短甲、複環鏡板付轡、素環鏡板付轡、杏葉、雲珠、辻金具など)    トンボ玉と須恵器類

「古墳と柿の館」の1Fには、船来山古墳群からの出土品が展示されている。24号墳(4世紀後半の円墳)からは仿製三角縁神獣鏡、内行花文鏡など銅鏡5面を含む豊富な出土品がある。これらは現在、東京国立博物館に収蔵されているので見ることは出来なかったが、他の出土品も見ごたえのあるものが多い。多くの装身具、耳管、馬具・武器、トンボ玉と須恵器類、の他に、槍・矛・鏃と装飾付大刀や珍しい土器(角付盌、三足壺)など多彩な出土品が展示されていた。

船来山古墳群は、群集墳と首長墓を含む古墳群であり地域の奥津城と解され、古墳時代の地域の全容を伝えるものとして興味深い。したがって、古墳時代(3世紀半ばから7世紀)を通しての土地環境や人的資源環境の変化が基礎となっている。特に人的資源として、渡来人の存在・配置が時代を大きく変え、彼等が寄与した馬匹文明・先端技術・文字文明と群集墳の関係は注目される。古墳時代後期・終末期での仏教寺院の造立、火葬の普及、更には大王支配から天皇支配への移行、律令国家の成立などに応じた社会変革の一端が墓制・葬送祭祀を変えた。船来山古墳群は、これらの時代変革を理解する為の優れた教材と思われる。

* 「古墳と柿の館」に展示された船来山出土品については、フラッシュなしでの写真撮影が許可されている。本巣市教育委員会「船来山古墳群」(2015.3と2015.12発行の2冊)により古墳群の概要が理解できる。上に記した内容は、これらを基に後日整理し直したものである。


16/10/20 富士見台高原 (岐阜県中津川市) 

夏の終りから雨の日がつづき、10月になってようやく晴れ間が期待出来るようになった。以前に神坂峠(みさかとうげ)の古代祭祀遺跡を訪ねて以来、峠の北側すぐに位置する富士見台高原(1,739m)に登る日を心待ちにしていた。富士見台高原からは、深田久弥「日本百名山」のうち23座の大パノラマが展望できる。空気の澄み切った秋晴れを、天気予報と首っ引きで狙っていた。10月15日、ようやく見事に晴れ渡った日を迎えた。

中央道・園原ICで降り10分も走れば富士見台高原ロープウエイ山麓駅に着く。ロープウエイ(ゴンドラリフト)で標高差610mを約15分上り、短いペアリフトで色鮮やかな花園上の緩い傾斜を下った所が「ヘブンスそのはら」と名付けられた山上遊園地の中心地である。冬には三方向からのゲレンデの集合地点となる。さらに、展望台へは標高差206mを約7分、やや恐怖感のあるスキーリフトを利用する。
展望台からは山小屋萬岳荘へ高原バスが走っている。ただし、このバスは以前はむしろ不定期であったが、現在では季節・利用客により融通性のある運行状態にあるようだ。この日は多くの人で賑わいフル回転状態で、30分毎の便があった。(以前利用したように、中津川市から林道を神坂峠に向かう手もあるが、峠には駐車スペースは少ない)

   
ヘブンスそのはら・山麓駅
富士見台高原ロープウエイ
(全長2,549m、標高差610m) 
  ペアリフト(全長290m、標高差35m)
で下った所に、
マウンテンロッジがあり、「ヘブンスそのはら」の中心
  展望台リフト(全長635m、標高差206m) 
で上った所がヘブンスそのはら展望台
高原バスで山小屋萬岳荘へ(約15分) 

萬岳荘がこの日のハイキングのスタート・ゴールとなる。富士見台高原山頂までは、標高差150m、1.1kmで、足早の人で25分、通常人で40分という。よれよれ歩きの私は60分の上りを予定する。目的は山岳パノラマ風景と少しの山歩き気分を楽しむことである。萬岳荘を出発するとすぐに笹原が広がる。5-7月頃にはササユリが淡いピンクの花を咲かせるという。よく整備された遊歩道を登って行く。先が全て見通されるので何の心配もない。

富士見台高原からのパノラマ展望

西から北側には、南木曽岳の向こうに、御嶽山、乗鞍岳、中央アルプス(木曽駒ケ岳、空木岳)がすぐ目に入ってくる。注意深く凝視すると、南木曽岳の左肩後方、乗鞍岳の右に北ア・奥穂高連峰がみえる。西方向・中津川市街の向こうには、白山連峰や伊吹山が見えるはずだが、霞んでいて見えなかった。本来は見つけやすいと思う。中津川市街へは南木曽岳・中央アルプスと御嶽山の間を縫って木曽川が流れ込み、木曽路が通う。丌岳(はげだけ)は珍し名前の山で、阿智村と飯田市の境にある。伊那谷は丌岳の右側(東側)になる。

東から南側には
、南アルプスの山々が連なる。南端近くの聖岳と赤石岳は見つけやすく、北へ、荒川岳・東岳、三伏峠と塩見岳、さらに間ノ岳、北岳、鳳凰三山、仙丈ケ岳、甲斐駒ヶ岳の岩塊まで見える。富士見台高原南側すぐに、恵那山が大きな山塊を見せているのは言を待たない。高鳥屋山(たかどやさん)と南アに挟まれて天竜川が流れ、伊那路が通う。高鳥屋山は飯田市の西側に位置し中世の山城があった。古代には中津川市(神坂山・恵那山の西麓)から神坂峠を越えて伊那谷へ東山道が通じた。縄文の昔より古代・中世を通し、神坂峠(神坂山の右肩辺り)は交通の難所で、旅人の生死を祀った祭祀遺跡が遺った。

{ーー西ーーーー北ーーー} 
 
{ーーー東ーーーー南ー}

中央アルプス(微かに北ア)と南アルプスの山々を山座同定する

富士見台高原から眺望できる山々の名称を明らかにしてみる。最近では、「カシミール3Dソフト」により地図上で容易に山座同定ができる。PC上での作業は天候に左右されず、明確なイメージが得られる。ロープウエイ山麓駅などで入手できる中津川市観光協会パンフレット「富士見台高原 登山ルートマップ」などに掲載されている「360°パノラマイメージ」も、その種のものと思われる。このパンフのイメージ図と実際に見える眺望より、当日見ることが出来た山名を追いかけた。

   
 御嶽山乗鞍岳、(笠ヶ岳)
御嶽山噴煙を真直ぐ上にたなびかせていた
   南木曽岳の左後方には奥穂高岳、(焼岳、常念岳)がじーっと凝視していると見えた。(写真には難しい)    中央アが重なって見える。最奥の右から空木岳・・宝剣岳、駒ケ岳・・など。これは迫力がある。
   
 中央のピークが北岳、右に幅広な間ノ岳・農鳥岳、北岳と重なるように左に鳳凰三山、少し離れた左に幅広な仙丈ケ岳、更に甲斐駒ケ岳、鋸岳、少し離れて(赤岳(八ヶ岳))    右の最大ピークが聖岳、その右の小ピークは上河内岳。聖岳の左に、浮雲をかぶって兎岳・大沢岳・赤石岳、すぐ左に荒川岳・悪沢岳から三伏峠・塩見岳(小ピーク)とつづく    神坂山の後方には、南アの南端の山々が連なる。左端近くの小ピークが光岳か?
結果として、

この日に展望できた
深田久弥:日本百名山23座として・・・

当日見つけられた山を、太字で(16座)、
当日見つけられなかった山を(・・・)で(4座)、
当日霞んでいた3座(伊吹山、荒島岳、白山連峰)

となった。


注:一連の写真では、山影を明確にするためトーンを上げて載せた

大画面・高画質「富士見台高原ハイキング」はこちら
富士見台高原のすぐ南、峰つづきに、中央アの最南端の秀峰、恵那山(2,191m)が鎮座する

神坂峠を経由しての登山道は、約9kmの恵那山ルートを筆頭に、約6kmの古代東山道ルート、約5.1kmの恵那山広河原ルートなど多彩だ。富士見台高原山頂からは、横河山・南沢山を経由して清内路の「ふるさと村自然園」への約10.5kmのコースもある。
1時間以上も山頂を楽しみ下山にかかった。”下りは上り以上に慎重に”、トレッキングポールで体を支えながら一歩一歩下った。初老夫婦が、旦那がペット犬を抱いて登ってきた。「ペット犬は歩かせていたが、ガレ石道の歩き難さを訴え恨めしそうに顔を見上げるので、仕方なく抱いて登る」とのことだった。 



16/10/04 東谷山の古墳(志段味古墳群) (名古屋市守山区) 

志段味古墳群は、庄内川左岸段丘部の古墳群と東谷山(とうごくさん)に築かれた古墳群よりなる。国史跡「志段味古墳群」として整備が進んだ機会に再訪し、段丘部の古墳については『16/06/30 歴史の里(志段味古墳群)』とし現状を記した。今回はその続きとして、前回訪れなかった東谷山を、上志段味から山頂・南麓のフルーツパークへと歩いた。先回が14,900歩、今回は14,485歩であった。
東谷山山麓の白鳥塚(しらとりづか)古墳と山頂周辺の三つの古墳、尾張戸(おわりべ)古墳・中社(なかやしろ)古墳・南社(みなみやしろ)古墳は、「4世紀前半~中葉」に造営され、志段味古墳群創生の出発点として位置付けされる。志段味古墳群の終焉は、山麓の東谷山古墳群などの群集墳に見ることが出来るが、残念ながら群衆墳の多くは宅地造成により消滅しており、僅かに残った横穴墓も農園・ブドウ園の敷地内で、農繁期には作業の邪魔になり覗くことはできない。農閑期の冬の日に訪れ、僅かに残っている横穴墓の残骸を見せてもらったことがある。

新しく整備された「歴史の里」は、東谷山の古墳と先に訪れた河岸段丘上の「5世紀中葉から6世紀前葉」の古墳(志段味大塚、西大久手、東大久手、勝手塚)と「6世紀後半~7世紀」の古墳時代終焉を告げる山麓の群集墳からなり、古墳時代全期間がコンパクトに詰め込まれている。以下には、古墳公園として整備された東谷山の現状を見ること、消滅した東谷山3号墳の石室の残骸を見ること、山峰に囲まれた狭い空間に造営された古墳のパノラマ写真撮影を目的とした散策について記した。

 
庄内川にかかる東谷橋から標高198.3mの東谷山を見る。
上流に見える青いアーチ橋の橋詰辺りが東谷山登り口となる 
東谷橋を渡り国道155号線を少し上流に歩くと、東谷山への登り口(角にラブホテル)がある。道は住宅街の中の急坂となる。すぐに右側ブドウ園への分岐路が出てくる。ブドウ園内の群集墳については、『14/01/07 東谷山周辺』で訪れ、不完全ながら残存する東谷山12号墳と16号墳を見ることができた。35基あったとされる横穴式石室墳からなる東谷山古墳群の殆どは、宅地造成で姿を消した。
分岐点からやや東谷山へ向かった左側の住宅地に、かつては東谷山3号墳があった。6世紀中葉に造営された径20m・高さ1.8m以上の円墳であったとされる。須恵器や尾張型埴輪、朝顔形埴輪など埋葬品も多く出土し葺石もある。盟主墳と見られる。 
    林道は普段は車両通行止めになっている。林道終点の駐車場が神域との境界であり、その片隅に麓の東谷山3号墳の天井石が、模して造られたと思われる石室とともにある。
地元の篤志により保存されたと記された石碑がある。東谷山3号墳は大正末より調査され、消失直前にも緊急発掘調査された。東西23m・南北21.5mの円墳と推定されている。 写真中央奥に石室を跨ぐ天井石が見える。地元ではストーンテーブルと呼れているら しい。

展望台から庄内川の蛇行を見る


尾張戸神社西側には瀬戸市街の向こうに三国山・猿投山
古墳見学と東谷山散策路を楽しむ

志段味古墳群としての整備は進み、東谷山の尾根上に古墳名を記した立派な御影石の石碑が立っていた。真新しい図面・写真入りの説明板とイラスト入りの説明板・案内板が設置されていた。各古墳の周囲には「史跡範囲」と刻印された石杭が見える。以下、古墳のパノラマ写真と説明板に記載された要点を挙げる。

 
尾張戸神社古墳;4世紀前半の造営、円墳(約27.5mφ) 、2段構成、斜面葺石(角礫の上に石英)あり。白鳥塚古墳と同じく墳丘面への石英装飾があること、埴輪をもたないことから、白鳥塚古墳と同年代、中社・南社古墳より一世代先行するとされる。中社古墳にも石英による墳丘装飾はあるが石英散布密度は低い。

尾張戸神社の拝殿が正面にある。本殿は2段目の上部を削平して敷瓦の上に建てられている。
尾張戸神社古墳は、山麓にある前方後円墳・白鳥塚古墳の埋葬者を支えた有力者の墓と推定されている。

中社古墳;4世紀中頃の造営、全長63.5mの前方後円墳(写真右側が前方部)、くびれ部に葺石と埴輪列を再現・左側が後円部、後円部3段・前方部2段、葺石あり、墳丘各所に埴輪が並べられていた。後円部北側に最古級の円筒埴輪列が元の状態を保ったまま埋まっていた。
中社・南社古墳は東海地方で最も早く埴輪を導入した古墳で、その円筒埴輪は奈良盆地東南部から直接的に伝播してきたものと推定されている。*

前方後円墳である。尾張戸神社古墳と同じ稜線上のやや下った所に造営されていて、前方部を南に向けている。庄内川流域を治めた首長の墓と推定されている。


南社古墳; 4世紀中頃の造営、円墳(約30mφ)、2段構成、1段目斜面に東谷山の角礫・2段目斜面に山麓段丘の円礫を使用、使用された埴輪は中社古墳のものと同時に製作されたもの。

中社古墳の峰から長い急階段を南に下り登り直した峰に位置する。中社古墳の埋葬者を支えた有力者の墓と推定されている。
東谷山(志段味古墳群)散策の道筋で
 
 立派な御影石の史跡石碑(尾張戸神社古墳
日本語・英語・中国語・ハングルで書かれた説明板
   中社古墳の葺石・埴輪列の例示
中社古墳から南社古墳へは急な階段を下り登り返す
   優しい説明板と志段味古墳群巡りの案内図(南社古墳
東谷山の古墳巡りは「東谷山散策路」

付記:
* 深谷淳「尾張の大型古墳群 国史跡志段味古墳群の実像」、六一書房、2015.3 によれば、
1.4世紀前半~中頃に造営された白鳥塚古墳と東谷山の三つの古墳を営んだ集団として、庄内川中流域下位(名古屋台地北側の沖積平野に広がる遺跡群(志賀遺跡群))の蓋然性が高いことを述べている。倭王権と関東・東北を結ぶ首長ネットワークの構築と関係して、庄内川を利用した交通路の要害地として東谷山周辺に権威の象徴としての古墳が築かれたと推定される。尾張の倭王権との密接な関係を示すランドマークとして東谷山の古墳を見ることが出来る。
2.志段味古墳群で4世紀後半から5世紀中葉まで古墳の造営が滞るのは、上の首長ネットワークが庄内川流域経由から離れて、伊勢北部・美濃西部を通って東進するルートに転換したことによると解釈されている。5世紀中葉~6世紀前葉に原東海道と原東山道が確立し、それに伴う連絡道としての庄内川経由道の重要性が再び増し、古墳の造営も再開した。
3.6世紀末以降に造営された志段味古墳群の群集墳は、そこで行われた葬送儀礼や尾張戸神社の「某戸」が渡来人集団の可能性を考慮して、王権によって組織されたもの、間敷屯倉(マシキミヤケ;勝川付近に所在か?)との関連が議論される。


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