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春夏秋冬 (23)
17/04/30 粥見井尻遺跡と中央構造線観測地 (松阪市)
前回の酒吞ジュリンナ遺跡につづき、縄文時代草創期の遺跡見学である。
粥見井尻(かゆみいじり)遺跡は三重県松阪市を流れる櫛田川左岸段丘上にあり、平成8年に発掘調査された。隆起線文土器、矢柄研磨器、石鏃など縄文草創期の狩人の活動道具に加えて、竪穴住居跡も4基見つかり、キャンプ地としてではなく定住生活をしていたことを伺わせる。住居跡からは本邦最古の土偶も見つかり、何らかの祭祀を伴う定住生活であったと推察される。平成29年に、粥見井尻遺跡出土の土偶と相似な(やや小振り)土偶が、滋賀県・相谷熊原遺跡で出土した。同年代の土偶とされ、両者ともに土偶発祥の起点とされる。
縄文時代の幕明けを「土器の使用」とすると、本邦最古の土器は先回も記した「大平山元遺跡出土の無文土器」となる。それに続いて「隆起線文土器」が全国各地でみつけられている。隆起線文土器は隆起線文幅や他の文様(爪型文など)との共存状態などにより編年されることもあるが、縄文時代の草創期前半(16,000年前~13,000年前)を飾る。この時期の遺跡では、旧石器時代から縄文時代への移行的要素が遺跡ごとに異なり、先の「酒吞ジュリンナ」のようにキャンプ地的な遺跡から今回の「粥見井尻」のような定住地を思わせるものもある。(13,000年前~9,800年前までを縄文時代草創期として、16,000年前~13,000年前を長者久保・神子柴文化期とする場合もある)
粥見井尻遺跡は、国道368号線バイパス工事でみつかり、現在はバイパス高架下に遺跡公園として保存されている。下調べで「粥見神社」をチェックしておいて、往路は伊勢自動車松阪ICから粥見神社に辿り着いたが、遺跡の位置が分からない。近くの「道の駅・茶倉駅」に行き尋ねると丁寧に教えて貰えた。「粥見井尻の信号を368号線方向に下るとすぐに小さな看板があり、右折して茶畑に入っていく」。国道166号線バイパス工事で、粥見井尻信号交差点から368号線の下りきった所(高架下)までが”粥見井尻遺跡公園”として保存されたようだ。
公園内には、出土した土器片、石器、土偶の模造品がケースに収められ展示されている。珍しい展示だが、ケースのウインドウに貼られたフィルムが劣化して水玉状になっていたり、敷紙に書かれた説明が不鮮明になっているのは惜しい。竪穴住居が2棟復元されている。縄文時代草創期の住居は、柱を使わず垂木だけで屋根を支えた構造で炉がないことを特徴とする。定住地として選んだ地は、櫛田川の段丘、周囲を囲んだ山々、小動物が生息し豊かな森の恵みに出会える地である。縄文人の好む一つの住居環境であろう。現在は茶畑が美しいほのぼのとした風景である。
隆起線文土器と国内最古の土偶
出土した土器片から想定される土器の図面が示されていた。口縁部の隆起線文・中間部は爪形文・底部は縄圧痕文の平底土器となる。石器は尖頭器、矢柄研磨器、石鏃の図面が示されていた。同時にこれらのレプリカが展示されている。
現在は、縄文時代草創期の土器片は各地で発見されているが、部分的な破片が多い。一ヶ所の出土品だけでなく、多くの地域の出土情況を知ることが、その時代の縄文人の生活を知る上で重要となる。縄文草創期の土器に伴う石器の種類・有様は、それ以前の旧石器時代文明への入口となり、興味深い。
日本最古の土偶:実物は三重県埋蔵文化センターに保管されている(県有形文化財)。別々の住居跡から2体出土した。一体はほぼ完全な形で、他の一体は頭部だけである。縄文草創期の粥見井尻遺跡と相谷熊原遺跡の土偶を起点として、縄文時代早期には近畿・千葉・茨木で乳房を強調した豊満女性の土偶が出土し、愛知県の入海貝塚、二股貝塚、天神山貝塚や鹿児島県・上野原遺跡からもこの時期の土偶が出土している。
縄文時代の土偶は、基本的にはその時期の土器製作技術に依っている。然しながら現在までの知識では、地域性・時代性については、土器よりも土偶の方が強そうである。土器が生活具であるのに対して、土偶は祭祀具であり特殊性があるからなのかも知れない。縄文時代の草創期には関西・東海に太目の女性像土偶が生まれたが、早期末から前期・中期にかけてに関東・東北で多数の分割可能な土偶(釈迦堂遺跡)、板状土偶(三内丸山遺跡)、立像土偶(棚畑・尖石遺跡の縄文ヴィーナスや仮面土偶など)、ポーズ土偶(風張遺跡の合掌する土偶など)と多様性が増し、東日本文化の傾向が強くなっている。粥見井尻遺跡の土偶は、この不思議な性格をもつ土偶文化の原点になっている。
中央構造線の観測地
粥見井尻遺跡を後にして、国道368号線を伊勢自動車道「勢和多気IC」へ向かうとすぐに櫛田川を渡る。櫛田川の流れに目をやりながら橋を渡っり切ると、「中央構造線粥見観測地」の案内看板を見つけた。すぐ左折して櫛田川に沿って桑渡橋脇にある観測地まで進む。今まで居た粥見井尻遺跡の対岸まで戻ったことになる。粥見井尻遺跡は、桑渡橋を渡った右奥にあり、中央構造線の真上に位置していたことになる。
中央構造線は日本列島を横断する(熊本・四国北部・紀伊半島中央部・渥美半島・伊那・諏訪湖南方・群馬埼玉・鹿島灘を結ぶ)断層で、日本列島がユーラシア大陸の一部だった時期(8,000万年前頃)に形成された。日本列島が大陸から分離する(日本海開裂)のは、1,900万年前頃~1,500万年前頃とされる。約1万年前の日本人が残した記憶を粥見井尻遺跡に尋ねて、思いがけずに約1憶年前の地球規模の記憶を同時に見ることができた。
(左) 櫛田川・桑渡橋 橋の袂の観測地からは、中州・川底に中央構造線を形成する岩石が一望できる。教育的・親切な説明板が観測地に立つ。 この地の中央構造線を形成する岩石 左;黒色片岩、右;花崗岩、 中央がマイロナイト(圧砕岩) |
中央構造線粥見観測地(図の現在地)に立つ親切な説明看板。 現在地のすぐ上のT字路(粥見井尻)の左が粥見井尻遺跡 |
17/03/30 酒吞ジュリンナ遺跡と足助資料館 (豊田市)
Google Map (別ウインドウで表示) 緑色マーカー:酒吞ジュリンナ遺跡と足助資料館、 茶色マーカー:縄文遺跡抜粋(足助資料館の地図と比較) |
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酒吞ジュリンナ遺跡の発掘調査場所に立つ案内板 民家に囲まれて石碑と案内板が立ち遺跡であることを示す |
県道343から県道487(写真中央の道)に入ってすぐ(写真突当り向かって左)に遺跡がある。 周囲の景色は穏やか。 |
酒吞(しゃちのみ)ジュリンナ遺跡は縄文時代草創期の遺跡である。豊田市足助町に広がる縄文遺跡群につながる最も初期の遺跡で、足助町と接する豊田市幸海町に属する。出土する遺物は、かつては縄文時代最古の土器形式とされた「隆起線文土器」を含んでいる。現在、最古の土器としては、大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡(青森県)から出土した無文土器が15,000年~16,000年前に遡るとされ、隆起線文(りゅうきせんもん)土器や豆粒文(とうりゅうもん)土器は15,000年から13,000年前の土器とされている。いずれにしても日本列島では、氷河時代の最終段階である最終氷期に、土器を使用する定住生活への道を歩んだ。隆起線文土器の分布は日本列島全土に拡がっている。我々の祖先は列島全土で、15,000年前からの温暖化・寒冷化を経た後氷期(完新生)に安定した定住生活に入る。
縄文草創期の土器の例 (2008.11.08) 無文土器・微隆起線文土器・爪形文土器 (山形県高畠町郷土資料館) |
かつて私が居住していた東京都町田市のなずな原NO.2地区遺跡(南成瀬)からは、60点程の小破片に壊れた隆起線文土器が出土し、高さ23.5cmの丸底深鉢形土器に復元された。2008年に訪れた山形県高畠町郷土資料館では、日向洞窟出土の無文土器・微隆起線文土器・爪形文土器などの破片をまとめて見る機会を得た。
酒吞ジュリンナの隆起線文土器の実物が何処で見られるかは分からないが、遺跡を訪ねることにより、少なくとも10,000年前以前の最終氷期に我々の祖先が生活していた風景に接することが出来る。隆起線文土器の時代から次第に、本土の自然環境・植生は安定化したと理解されている。
隆起線文土器は草創期前半の土器で、土器表面に粘土紐を貼付たものであるが、貼付ける紐幅の太さにより隆起線文土器・細隆起線文土器・微隆起線文土器に別けてその変遷を論じることがある。このような隆起線文についての詳細な検討から、日本列島全土に広がる草創期土器の地域差・年代差を見通すこともある。
火焔土器に代表されるように、縄文中期の土器は、その派手さ・美的巧妙さにより心を奪う。後期・晩期に横行する様々な土偶は人類の精神的不安を表現する。しかしながら、縄文時代を通して最も素晴らしいのは、氷河期の終末に土器を用いて縄文文化を造り上げ始めた人類の英知であろう。列島全土で土器を使いはじめた痕跡が至る所にある。これらの痕跡は、諸元をなす土器文化・縄文文化が北(東)から南(西)へ、またはその逆方向、あるいは同時に伝搬したのかも内包している。遅ればせながら、隆起線文土器から押型文土器の周辺に、再び興味を抱いている
「酒吞(しゃちのみ)ジュリンナ」とは不思議な地名であるが、丘陵を跳ねる小動物を追い・木の実を採集し・隆起線文土器を使用していた縄文人を想像するに相応しい雰囲気が漂っていた。酒吞ジュリンナ遺跡をあとに、足助町の中心部にある足助資料館へ向かった。足助町は縄文の宝庫である。酒吞ジュリンナから始まった縄文文化がやがて近隣の縄文集落を創り出したと想像する。
豊田市足助資料館 香嵐渓・待月橋から国道420(北側)を望む |
足助資料館に示された「主な縄文遺跡」の地図 右上から左下(対角線)に、 北貝戸、今朝平、宮ノ後、則定本郷Bと並ぶ 縄文時代の時期区分と足助地区・縄文遺跡 のパネル展示があった |
尖底の深鉢(早期:北貝戸遺跡) 押型文土器(早期:馬場遺跡) |
足助資料館
大正12年に愛知県蚕業取締所足助支所として建てられた西洋風建物を使用している。
旧足助町関係の歴史・民俗などの資料を収蔵し、縄文土器、城跡公園足助城、三河土人形、三河漆を4っつのテーマに展示したと説明される。
足助町には古墳が少ない(1基)のも特徴らしい。弥生時代の壺も出土している。
今回は縄文土器についての豊富な資料を見学させてもらったが、他の分野も見応えがある。入場無料で、写真撮影も許されたので、帰宅してゆっくり復習できる。
以下にパネル展示の概要を示す。(太字項目はとくに注目した)
1.先ず、足助町全体に広がる縄文時代全期に亘る遺跡群の多さであり、多くの土器・土器片の出土、居住跡、炉址、配石遺構、祭祀跡、土偶、人骨など多彩な遺構を見る。
2.とくに早期の押型文土器、尖底土器
3.馬場遺跡の早期・押型文土器片約700点、押型文土器片前期のベンガラ片約100点、早期の住居址と野外炉址、後期の配石遺構、前期丹彩土器
4.大麦田遺跡の押型文土器片、
5.北貝戸遺跡:草創期・早期の土器片約100点、早期の住居址と集石8基、尖底深鉢(完形)、後期の集石1基
6.則定本郷B遺跡:草創期の表裏縄文土器片45点、早期の押型文土器片84点、早期の炉址1基と集石7基
草創期後半の表裏縄文土器片(土器の外部・内部に模様を刻む)は、土器表裏が見えるように鏡を用いて展示されていた。
表裏縄文は、隆起線文(草創期前半)に比べて、やや時代が下る。足助資料館では隆起線文は見れなかった。
7.沢尻遺跡:早期の押型文土器2点、集石遺構1基、中期の住居址3軒と野外炉址2基、埋め甕1基、晩期の甕棺墓1基・土器片・深鉢・埋設土器・耳飾
8.日陰田遺跡:中期の土器
9.宮ノ後遺跡:中期の台付き深鉢、後期~晩期の住居址1軒、晩期の甕棺墓(足助役場・巴水館・足助八幡宮辺り)
10.大屋敷遺跡:早期の押型文土器、中期の住居址1軒、晩期の甕棺墓1基(昭和41年より足助教育委員会が発掘調査を始めた遺跡)
11.大屋敷遺跡・紺屋貝戸遺跡・北貝戸遺跡の後期深鉢
12.寺ノ下遺跡:後期の竪穴建物址
13.小町森下遺跡:後期の配石遺構、動物の骨
13.今朝平遺跡:環状配石、土偶(縄文後期・晩期、縄文のヴィーナスと呼んでいるが、尖石遺跡(長野)のヴィーナスほど優美でなく造りが素朴である。東北地方や釈迦堂遺跡(長野)などの土偶に比べると、概して東海の土偶は太目である。多彩な土偶には祭祀道具としての使用法・祭り方の違いが伺える。)
17/02/28 小幡緑地と周辺の古墳 (名古屋市守山区)
小幡緑地は庄内川の左岸、東谷山から志段味地区を下り、小幡丘陵に到達した地点に位置する。庄内川は尾張平野に入り神領辺りから蛇行を繰り返し、沖積低地と河岸段丘を造り農耕地を提供している。背後に丘陵地帯を控えたこの地域は、縄文・弥生時代より生活に適した環境にあり、時代を越えての複合遺跡が多い。小幡緑地の北側、龍泉寺の庄内川寄りには、古墳時代の終末期に多く見られる古墳群(群集墳)も多く見られる。今回は広く守山台地に残存する幾つかの前期~後期古墳を見て回った。
小幡緑地は壮大な緑地公園で、本園・中央園・東園・西園からなる。本園には長短3コースの散策路が設けられている。丘陵地帯で森林浴を楽しみ歩く老夫婦、野鳥を呼ぶ自然人を見かけた。雑木林の中に3基の終末期の円墳(小幡緑地1~3号墳)があるという。少し歩いてみたが、位置を確かめるのは難しかった。
西園は本園から出て、環状2号線を跨いだところにある。野球場・テニスコート・児童公園があり、西南隅に牛牧遺跡(縄文後期後葉から晩期)がある。昭和30年代から調査され、土壙墓6基、土器棺7基、土器片と石器多数が出土している。現在、付近は住宅街となり都市化しているが、緑地に沿って西へ向う道路は守山台地を下る道となる。遠くに伊吹山を望み、太古からの生活地・小幡丘陵の先端であることを知る。
守山台地の古墳 | 守山台地の古墳(現存するもの) 小幡長塚古墳(5世紀中頃、前方後円墳、墳長81m) 小幡白山古墳(6世紀前半、円墳、径33m) 守山瓢箪山古墳(6世紀前半、前方後円墳、墳長63m) 守山白山古墳(4世紀後半、前方後円墳、墳長95m) ・・・・・(以下に尾張の古墳を抜粋)・・地図縮尺を小(-)に・・・・・ 尾張北部 東之宮古墳(4世紀前半、前方後方墳、墳長72m) 宇都宮古墳(4世紀中以降、前方後方墳、墳長59m) 楽田青塚古墳(5世紀初頭、前方後円墳、墳長120m) 庄内川右岸 高御堂古墳(4世紀中以降、前方後方墳、墳長63m) 味美白山神社古墳(5世紀中以降、前方後円墳、墳長86m) 味美二子山古墳(6世紀初頭、前方後円墳、墳長95m) 庄内川左岸 尾張戸神社古墳(4世紀前半、円墳、径28m) 白鳥塚古墳(4世紀後半、前方後円墳、墳長109m) 志段味大塚古墳((5世紀中以降、帆立貝式、墳長52m) 西大久手古墳(5世紀後半、帆立貝式、墳長37m) 勝手塚古墳(5世紀中以降、帆立貝式、墳頂53m) 名古屋・熱田台地 断夫山古墳(6世紀前半、前方後円墳、墳長151m) |
小幡長塚古墳 名古屋市守山区小幡4丁目地内 県道59・茶臼前西から西へ100m路地を南に入るとすぐ。
北西に接して喜多山幼稚園あり。
小幡長塚古墳の前方部から左側面を見渡す。非常に残りが良い。墳丘に登ることが出来る。 |
小幡白山古墳 名古屋市守山区小幡中1-13-8 小幡白山神社:名鉄瀬戸線・小幡駅から歩6分(600m)
白山神社正面 後円部に社殿がのる |
守山瓢箪山古墳 名古屋市守山区西島町4 市立守山小学校の西側を目印とする
守山白山古墳 名古屋市守山区市場 守山白山神社:名鉄瀬戸線・矢田駅から歩10分(800m)
墳丘側面を東側道路より。守山白山神社の社殿が後円部にある。後円部に沿って周回できる。 前方部が築造時の高さをそのまま残しているとは思えないが、墳丘範囲は石垣通りなのだろう。 |
小幡茶臼山古墳ほか
環状2号線を県道59号が跨ぐ交差点は「茶臼前」と名付けられている。交差点のすぐ北東部の丘陵地帯に新興住宅地”翠松園ハイツ”がある。その一角に「茶臼山古墳の頂に大山祇神はじめ諸神をお祀りした」との石碑がある。古墳はほぼ消滅しているが、石碑の辺りが小幡茶臼山古墳の後円部となる。この前方後円墳は小幡地区で最古の古墳とされていたが、主体部や出土品が顕かになると、むしろ長塚古墳よりは新しい後期後半の古墳と認識された。墳頂63m・後円部径40mの前方後円墳であるが、現在その面影はない。
交差点の南には池下古墳(消滅・調査報告書が残る)があった。5世紀末築造とも言われる。池下古墳、長塚古墳、茶臼山古墳が小幡地区の古墳である。
17/01/30 愛知県陶磁美術館 (瀬戸市)
愛知県陶磁美術館は、猿投(さなげ)山麓に拡がる猿投窯の資料保存を目的とした資料館として昭和53年に発足した。平成25年には美術館と名称を変え、広く国内・国外の陶磁美術品の展示企画・紹介を行なっている。名称の変遷が示しているように、当美術館は陶磁美術の鑑賞と陶磁資料の閲覧・見学という二面から楽しむことができる。
古墳時代半ば(5世紀半ば)からの須恵器生産活動は、当時気運が熟してきた日本国誕生へ向かってハイテク分野で貢献した。端的には、生活の具はもとより、古墳装飾埴輪や副葬品・供献品の制作、古墳終末期には寺院建設の瓦の制作に携わった。これら須恵器生産の拠点としては、近畿南部の陶邑(すえむら)窯跡群が主としたものであるが、尾張国での猿投窯(さなげよう)・尾北窯(びほくよう)も確固とした役割を果たしている。
中部地域に渡来人集団によりもたらされた須恵器生産技術は、6世紀になると猿投窯、尾北窯、更には美濃須衛窯などの興隆・衰退とともに歩み、8世紀後半に猿投窯の寡占状況が出来上がったようだ。その延長上として、奈良・平安朝での日本最初の高火度焼成による優品・灰釉陶器の完成があった。
これら尾張または東海の古窯を知ることは、日本国建国時に渡来人集団が持ち込んだハイテク技術の伝搬と我国内での技術革新の情況を見ることになる。猿投窯群を造り上げた渡来人集団は、陶邑(すえむら)窯跡群を造り上げた渡来人集団と出自が異なるとも言われている。東海地方の古窯としては、尾張の猿投窯と尾北窯と各務原山地南麓の美濃須衛窯と浜名湖西岸の湖西窯がある。
リニモ「陶磁資料館南」駅は高所にあり、 濃尾平野が一望できる。 駅から約600mで南館・西館前を通過して、 陶磁美術館・本館に着く。 |
南館近くの駐車場から猿投山が一望できる 広大な敷地とゆったりした陶磁美術館本館建物は格調高い |
本館1Fの展示室では特別企画展「ヘレンドー皇紀エリザベートが愛したハンガリーの名窯ー」が開催されていた。
本館2Fの常設展は、縄文土器、弥生土器、古墳時代の土器と人物埴輪(琴を弾く男子)、平安時代の灰釉陶器など当館所蔵の優れた陶磁品が、青色発光ダイオードの柔らかい光の下に展示されていた。「縄文土器・弥生土器と世界の土器」の展示が興味深い。一昔前までは、縄文土器の世界は我国固有のものとされたが、現在ではロシア(アムール河流域)や中央アジア、西アジアに濫觴を求めている。この展示では、縄文・弥生土器を中國、南アジア、西アジアの土器と並べて「皆様どう思いますか?」と問いかけていた。猿投窯については、時代による生産種目の変遷を窯跡からの発掘片を展示し説明していた。
そのほかに、「朝鮮半島の陶器」については、新石器から三国時代(BC5000~AD7世紀)、高麗の時代(918~1392)、朝鮮の時代(1392~1910)に分けて概要を、「世界の染付」のコーナーでは14世紀前半に中国・景徳鎮窯で開発された染付技術の世界的伝搬を、それぞれ実物を添えて解説していた。
縄文土器 弥生土器 |
須恵器 (古墳時代) 灰釉陶器 (平安時代) |
縄文土器・弥生土器と世界の土器 後段の世界の土器は、左から彩陶刻文壺(タイ、BC1000)、彩陶双耳壺(中国、BC3000)、 彩文魚文鉢(パキスタン、BC2000)、彩文把手付同心円瓶(キプロス、BC9-6世紀)、 ブラックトップ土器(エジプト、BC4000)、彩文幾何学文尖底壺(イラン、BC3500)、彩文格子文鉢(イラン、BC4500) 猿投窯跡からの出土品 須恵器生産の始まり(5世紀中頃)、須恵器の文明開化(7世紀)、須恵器生産の転換(8世紀中頃)、 須恵器と灰釉陶器((8世紀末) が窯跡出土破片とともに示される。 中世の猿投窯は、11世紀末に灰釉陶器から三筋文四耳壺、経筒外容器、瓦類など特殊器種に、 12世紀には無釉陶器・山茶碗 と生産器種を変えた。 |
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縄文時代~平安 時代の陶磁 | ||||
本館から北へ歩道橋を渡ると復元古窯と古窯館がある。復元古窯は、瀬戸や美濃で使われていた江戸時代の連房式登窯(19世紀)と室町時代(16世紀)の大釜とが左右に並んで復元されている。「古窯館」は当敷地内で発見された平安時代~鎌倉時代の窯跡(南山9号窯)で、覆屋内に保存され間地かで見学できる。
南館1Fでは、”愛知のやきもの「今」”として、瀬戸、常滑、名古屋、高浜の現在の陶磁の世界を紹介している。自然環境、原料土、伝統的な技法などが微妙に異なる。あま市で明治期に発展した七宝焼、現代のファインセラミクスなども紹介されていた。5世紀半ばにもたらされたハイテク製品としての須恵器技術の伝統が、21世紀の現在もファインセラミクス技術を加えたハイテク技術として生きている。
南館2Fには、縄文から江戸時代までの愛知の陶磁の変遷が紹介されている。瀬戸市の縄文土器(深鉢3点)と愛知県の縄文遺跡を示した図があった。愛知県の窯跡の発見は愛知用水工事と関連している。その歴史がパネル展示されていた。リニア新幹線工事に先立ち窯跡の破壊が問題になっている新聞記事を思い出した。さらに、愛知県に焦点を絞った弥生土器(パレスタイル、円窓土器など)および古墳と須恵器の関連が説明されていた。愛知県の陶磁の特徴が理解できる。
西館には瀬戸・美濃で作られた狛犬が多数展示されていた。
南館には陶磁器産業の現在と未来、 瀬戸市の縄文土器の展示などがある |
西館には瀬戸・美濃で作られた 多くの狛犬が展示されている |
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復元古窯 (左:登窯、右:大釜) | 南山9号窯 (当敷地内で発見されたもの) |
日本列島に人類が定住しだした縄文時代の土器、おそらく気候が急変し新しい食料確保・集団生活を必要とした弥生時代から古墳時代の初期の土器の時代を経て、渡来者集団のもたらした土師器と須恵器の世界は、ハイテク製品・祭祀用品・贅沢品・生活用品としての須恵器・瓦、灰釉陶器、緑釉陶器、山茶碗などを産み出した。風光明媚な広大な敷地をもつ美術館で、陶器発展史とその背景などに思いを馳せた。