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春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (24)

17/08/31 野尻湖ナウマンゾウ博物館 (長野県信濃町)

長野県(旧信濃国)は山に囲まれた縦長な行政区域である。通常、長野市以北の北信、松本市・白馬方面を含む中信、諏訪・伊那・飯田市などの南信、軽井沢・佐久市を含む東信の四地区に分割され、それぞれに特徴的な文化・歴史環境を提供している。

野尻湖は、新潟県境に近い北信濃の野尻湖高原(標高654m)に位置する。西に斑尾山(1,382m)、東に妙高山(2,454m)・黒姫山(2,053m)・戸隠山(1,904m)・飯縄山(1,917m)の北信五岳を控えている。
野尻湖は斑尾火山から伸びる谷が7~8万年前の黒姫火山からの噴出物で堰きとめられて湿地を造り、4~5万年前の野尻湖西側地域が隆起して水を貯め始めたと考えられている。

この湿地の出来始めた時期に、野尻湖周辺でナウマンゾウ、オオツノシカなどを追って狩猟活動をした人々の痕跡が、後期旧石器時代から縄文草創期時代の遺跡として周辺多地点(約40ヶ所)で展開している。現在の野尻湖観光の起点ともなっている立ヶ鼻岬の南東浜湖底からは、ナウマンゾウ化石や狩人が使用した石器・骨器が多く発見されている。ナウマンゾウのキルサイト(解体場)であったらしく、ナウマンゾウ化石と解体に用いた石器が同地層から出土している。野尻湖で水中保管された骨類遺物が旧石器と共存して発見される奇有な遺跡である。

1948年にナウマンゾウの臼歯が湖底で発見されたのを機として、1962年に発掘調査が着手され、2016年までに21次の調査を数えた。調査対象・規模はナウマンゾウやオオツノジカなど古生物とその狩人(旧石器人)の痕跡・道具(旧石器)に広がった。湖底調査は水位が下がる春季に行なわれ、現在では「野尻湖発掘調査団」という全国的に組織されたボランティア団体による発掘(大衆発掘と呼ぶ)が支えている。

信濃町立「野尻湖ナウマンゾウ博物館」は、野尻湖発掘調査団事務局になっている。立ヶ鼻遺跡はもとより周辺遺跡の出土品や古環境が展示されている。立ヶ鼻岬の目前にある琵琶島は古くは地続きであり、縄文草創期の遺物(土器・石器)が出土する。人類が日本列島に到達した凡そ3.5万年前からの旧石器と草創期・早期の縄文文化が、野尻湖周辺の豊かな風景を背景に、一堂に集められている。

   
野尻湖立ヶ鼻岬(正面左に琵琶島の鳥居が見える)
(mouse-over)
岬の右手(南)が立ヶ鼻浜で、
ナウマンゾウ化石を含む野尻湖発掘調査の現場となる 
  発掘現場からすぐに「ナウマンゾウ博物館 」がある
(mouse-over)
大衆発掘の成果が展示されている。
発掘者の名前が遺物に書き添えられ、功績を称えている
 
博物館に入ると、ナウマンゾウの復元像
ナウマンゾウと古環境の展示がある
発掘現場、発掘した臼歯、
ゾウ狩りの道具
(骨製の削器・ナイフ・クリーヴァ―(ナタ)、
石製の礫・削器・錐器・彫器・楔形石器、骨製剥片など)
骨器製作工房の存在を確認
(mouse-over)
野尻湖発掘現場・湖底から剝ぎとってきた地層(実物)
右側の円内に層内で見つかった花粉化石
(層位年代の植生が分かる)  
 
  野尻湖層位が明確な野尻湖周辺の出土石器群
(年代を追って種類・遺跡別)
局部磨製石斧、彫器・削器・石核、尖頭器など、
(mouse-over)
約3万年前から1.6万年前(御子柴期)まで
  貫ノ木(かんのき)、仲町、西岡B、清明台、照月台、
上ノ原、伊野見山など野尻湖周辺には40ヶ所余の旧石器遺跡がある
野尻湖層はJ列層・上部野尻湖層・中部野尻湖層・下部野尻湖層・基盤と区分され、さらに、上部はⅢ、Ⅱ、Ⅰなどと細分される。J列層以上は縄文早期以降の文化、上部野尻湖Ⅲ層~Ⅱ層が御子柴期からナイフ形石器文化期、上部野尻湖Ⅰ層から下部野尻湖Ⅲ層までがナウマンゾウ化石、狩用の骨器・小削片石器などが出土する地層である。  陸上層位と湖底層位の対応はほぼ連続的につながっている。 
   
 寄贈された野尻湖周辺遺跡から出土した記念碑的な石器・土器片
左端に展示される杉久保遺跡(立ヶ鼻の北東湖岸)の石器(ナイフ形石器・彫器)は1953年に芹沢長介らにより発掘された。
ナイフ形石器は杉久保型と命名され、野尻湖文化にとって記念碑的な遺物である。
ほかに、向新田遺跡の石器群(スクレイバー(削器、掻器、皮剥ぎ器)、石刃、細石核、尖頭器)、
海端遺跡の御子柴型尖頭器・局部磨製石斧・スクレイバー
 狐久保遺跡と仲町遺跡の縄文草創期の石器・流線文土器片、琵琶島遺跡の縄文早期の遺物が展示されている
(mouse-over)
「野尻湖周辺の遺跡と旧石器変遷と地質層位」のパネル展示
(野尻湖層位と南関東層位が対比して示され、野尻湖の文化変遷と主要石器変遷が示される)
現在から10万年前の地層として、野尻湖層位:『柏原黒色火山灰層・野尻ローム層・神山ローム層』が
南関東層位:『黒色土層・立川ローム層・武蔵野ローム層・下末吉層』に対応している
年代基準を与える「姶良Tn火山灰層(AT)」は2.5万年前に印されている
 

野尻湖周辺は旧石器・縄文遺跡で埋め尽くされている。野尻湖の起源、水と高地高台に恵まれ、狩猟採取する人々に適した環境、植生変化が勉強できる。夏休みの自由研究なのか、子供達が親に連れられて勉強していた。

日向林b遺跡 (水内郡信濃町富濃)
ナウマンゾウ博物館の南約4km、野尻湖周辺旧石器遺跡の一つである。上信越自動車道建設のために1993~1995年に急遽発掘調査された。約3万年前の遺跡で、直径25m~30mの環状ブロック群とその周辺から9001点の石器が出土した。とくに、蛇紋岩製の磨製36点を含む60点の斧形石器(局部磨製石斧)は国内最多の出土数であり、平成23年に国重要文化財に指定された。長野県立歴史館(屋代)で見学できる。

出土したナイフ形石器は杉久保系(中部から東北に分布)、茂呂系(関東)、国府系(近畿)と分析されており、石器の集荷・人的交流も推測される。
環状に物を配置する遺跡の一つとしても興味深い。環状配置は縄文・弥生・古代にわたり常に現れる普遍的な思想(信仰・原理?)であるが、それが何であるのかは結論されない。机上で考えるよりは、高速道下に隠された現場で、周辺に漂う風景を感じたい。遺跡は記録保存ということで、遺跡であることを示すものは何もない。説明板か標識が設置されれば有難い。

 
 上信越自動車道の西側から見た日向林b遺跡(道路下)
(mouse-over)
自動車道下の連絡道を潜り抜けて、東側から見る。
前方の小丘を切通して高速道は建設された。
  遺跡の最寄り駅は、
しなの鉄道北しなの線・古間(徒歩15分)
(mouse-over)
長閑な無人駅だ。



17/07/31 東山動物園 (名古屋市)

 
地下鉄東西線「東山公園駅」から徒歩3分に正門がある。
動物園の入場口。東山スカイタワーが左奥に見える
 
いきなり、フクロテナガザル(小型霊長類)の
奇妙な叫び声に迎えられる。
オスの大きなノド袋が特徴で、膨らませ大声を出す。
 フクロテナガザルの叫び!(動画) 
 
地元のテレビなどでもよく紹介されるが、
酔っ払ったオッサンのガナリ声(動画)
を時々発すのが面白い。
  正確には「東山動植物園」である。植物園側の入場口は「星ヶ丘駅」から徒歩7分にある。
正門を抜けてすぐ左手の北園橋(陸橋)で道路を跨ぎ、坂を登っていくと、遊園地・北園に入る。左側が遊園地で右側が霊長類(チンパンジー、ゴリラなど)やアフリカゾウの居る北園である。
正門から真直ぐに進むと、インドサイ、アジアゾウ、ライオン、スマトラトラ、キリン、などを経て、ボート池(上池)を望むコアラ舎に到達する。その先の上池門が道路を挟んだ植物園門に通じている。
 
   
  現在、アフリカの森(新ゴリラ・チンパンジー舎)が整備中である。霊長類研究所との連携により更に充実した展示が期待出来る。
携行水1.5リットル、木陰、動物舎、カフェを利用しながら、北園→動物園本園→スカイタワー→北園と時間をかけて見学した。植物園には古窯などが残っていて興味深いが、またの機会にする。

大型霊長類 
   
 チンパンジー
(mouse-over)
京大霊長類研究所(犬山市)との連携による「チンパンジーの知性についての展示」
野生で見られる知的行動と東山で見られる知的行動
   ローランドゴリラ(シャバーニ♂)
堂々たるイケメンゴリラ:190kg:20才
(mouse-over)
家族(二匹の母親:73kg・44才と105kg・14才と夫々の子:35kg・4才と32kg・4才)
を一段高所より見守る父親であるシャバーニ)
  霊長類は動物分類学上で、霊長目に相当する。サル目ともいう。猿人・原人・新人など人類は、霊長目ヒト科に属している。私たち現生人間は、ヒト科ヒト属ヒト種である。ホモ・ハビリスはホモ属(=ヒト属)ハビリス種、ホモ・サピエンスはヒト属ヒト種のこと。

ヒトを含めた霊長類(ヒトと近縁の霊長類)は、大型類人猿と呼ばれ、チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ボノボを含む。ボノボは日本の動物園では見ることが出来ない。
最近では、ゲノム配列の決定により、ヒト・チンパンジーまたはヒト・ゴリラが近縁であるとされている。オランウータンはそれより外にあるらしい。ヒト・チンパンジーの分岐年代は490万年前~660万年前と推定される。

(フクロテナガザルを含むテナガザルは小型類人猿) 
 スマトラオランウータン
(mouse-over)
ボルネオテナガザル
 

めったに来ない動物園は新鮮だった。
「北園→動物園本園→スカイタワー→北園」と時間をかけてゆっくりと周回した。
スカイタワーからの展望は素晴らしい。広々した動植物園の全容が手に取るように分かる。晴れた日には、鈴鹿・伊吹・白山・御嶽の山々が見渡せる。
本日お目当ての霊長類は、最初と最後に時間を跨いで二度見学できた。二度目にゴリラ舎を訪れると、ゴリラたちはお昼寝の時間だった。
子ゴリラ二匹は昼寝を嫌ってか、舎内で遊んでいた。シャバーニが起きると待ちかねたように、皆が舎外に出てジャレ始めた。シャバーニが見守っている。

 
 アフリカゾウは元気 (mouse-over) カバはぐったり    サイは水の中 (mouse-over) アジアゾウは元気
     
 ライオンは貫禄 (mouse-over) スマトラトラは忙し気    キリンはマイペース
     
 ジャガーは悠然 (mouse-over) ユキヒョウは高地住い    葉を貪るコアラ (mouse-over) ボート池と東山タワー



17/06/30 南山大学人類学博物館(マリンガーコレクション) (名古屋市)

   
 南山大学人類学博物館
展示室内部 (対面にマリンガーコレクションの展示、
左にグロード神父の紹介と左棚に縄文土器の数々が並ぶ)
 

南山大学人類学博物館(名古屋市昭和区山里町18)に、マリンガーコレクションを見に行った。考古学者でもあるマリンガー神父は1952-59に日本に滞在した。コレクションは、神父がフランス滞在中に収集したヨーロッパの旧石器時代を中心とする資料である。前期旧石器時代から中期旧石器・後期旧石器時代までの幅広い人類の遺産を含んでいる。

日本国内の旧石器遺産は、約3.5万年前の後期旧石器時代(ホモ・サピエンスの遺産)が主流となるが、ここでは、約70万年前までの地球規模の人類の進化と遺産を見ることが出来る。このような教育的・時代を概観する展示は、数少なく貴重である。一つ一つの展示品をじっくりと確かめたい。幸いに、フラッシュ無での写真撮影は許可されているので、帰宅後記憶をたどり精査することになる。

展示の導入部で、時代区分・文化区分・石器文化の変遷・人類進化・地質年代の関係を明示している。
時代・文化区分については、後期旧石器時代が1.9万年前までをマドレーヌ文化、約2.2万年前までをソリュートレ文化、2.8万年前までをグラベット文化、3.4万年前までをオーリニャック文化とする。中期旧石器時代は、4万年前までをシャテルペロン文化、35万年前までをムスティエ文化とする。前期旧石器時代は、70万年前までをアシュール文化、それ以前をオルドヴァイ文化とする。
人類進化は、地質年代との関係で示され、100万年前までの後期更新世以降にホモ・エレクトス、ホモ・ネオンデルターレシス、ホモ・サピエンスが出現する。それ以前、200万年前までの後期更新世、500万年前までの鮮新世、それ以前の中新世はアフリカでのみ発見される化石人類の時代となる。

収集品は後期旧石器・マドレーヌ文化期の資料(石器)が多いが、アシュール文化期でのバイフェイス(両面加工石器でハンドアックス、握小槌ともいう)やムスティエ文化期の石器群展示は興味深い。マドレーヌ文化期はフランス南部からスペイン北部で洞窟壁画が盛行した時代で、神父はその地を度々訪れたらしい。コレクションはフランスでのものが多いが、ヨーロッパ各地、アフリカ、アジア、中国なども含まれている。


時代区分・文化区分・石器の変遷
(mouse-over)
人類進化・地質年代
 

アフリカの旧石器: 
(左上から)1-3;バイフェイス:南アフリカ・アシュール文化
4-6;ルバロア石核、剥片:エジプト・ムスティエ文化
7・8;彫器:サハラ・ムスティエ文化
(mouse-over)
アジアの旧石器: 1-6;スクレイパー、削器:イスラエル、 
7-23;細石器:イスラエル(ナトゥ―プ文化) 
 
     
 マドレーヌ文化期
石器と骨角器 (掻器、細石刃、骨角器など)
(mouse-over)
彫器、骨角製品(女体像、イモリ像、尖頭器、馬)、
掻器、削器、石刃など、 
                    (マリンガー神父)
 アシュール文化期 
バイフェイス(1-3;フランス、4-12;イギリス。 
(mouse-over)
ムスティエ文化期
1-2・尖頭器、3・削器、4-6・掻器  

ヨーロッパでは、ホモ・サピエンス(新人;現在ー19万年前?))とホモ・ネアンデルターレンシス(旧人;3.5万年前ー10万年前)が共存した期間があり、何れが関わった遺跡であるか分からない場合もある。20万年前ー80万年前を生きた人類は、ホモ・ハイデルベルゲンシス(旧人~原人)とホモ・エレクトス(原人)なので、アシュール文化とムスティエ文化は彼等のものであろうか・・・。

マリンガーコレクションは、イメージが得にくく敬遠しがちな旧石器文化と人類の進化について、ヨーロッパの旧石器時代の遺物でもって概観を与えてくれる。日本列島には辿り着かなかった人類進化の足跡が伺える。現在では、遺伝子による人類進化の探求、環境考古学の発展、年代測定法の改良などにより、旧石器時代復元の精度は増している。

マリンガー神父の日本滞在は1952年から59年までで、その間に南山大学人類学科教授と神言会(カトリックの修道会派)の運営する考古学研究所(千葉県市川市)の所長を兼務した。神言会運営の考古学研究所を設立し初代所長となったのは、オランダ人・グロード神父である。グロード神父も考古学者であり、1931年に来日し戦時中の抑留期間を経て、46年に千葉県市川市国府台に日本考古学研究所を設立した。戦後間もない時期に、当時の日本を代表する新進気鋭の考古学者がそこに集ったという。
グロード神父は日本の縄文時代に強い関心・愛着を持ち、関東周辺の縄文遺跡の発掘調査に尽力した。「縄文土器は世界で一番美しい」と称賛した新聞記事を見かける。現在の南山大学人類学博物館には、グロード神父の関係した稲荷台遺跡(縄文早期)出土土器片、花輪台貝塚(縄文早期)出土土偶と土器片を始めとして、二ツ木式土器、黒浜式土器、阿玉台式土器、勝坂式土器、加曾利E式土器など縄文全期にわたっての土器が殆ど完形の美しい姿で展示されている。

ほかに当博物館では、パプアニューギニアの民俗資料、オセアニア・ミクロネシアのコレクション、東海の弥生式土器、大須二子山古墳出土品(衝角付兜、挂甲、杏葉、轡、円筒埴輪など)など多彩な展示物を見ることができる。


17/05/30 神子柴遺跡と創造館 (長野県伊那市)

 中央高速・小黒川PAから見る残雪の南アルプス主要部
(左から甲斐駒ケ岳(2967m)、仙丈ケ岳(3033m)、北岳(3192m)、間ノ岳(3189m)

神子柴(みこしば)遺跡
長野県上伊那郡南箕輪村7897に位置する縄文時代草創期の初期または旧石器時代最終期の遺跡である。土器を伴わないことから旧石器時代の遺跡とする立場もあるが、最古の無文土器を出した大平山本1遺跡や、隆起線文土器を出す幾つかの遺跡(16,000年前~12,000年前)では神子柴型石器を伴う。いずれにしても、神子柴遺跡と神子柴型石器は、「縄文時代以降の日本国誕生の歴史」や「旧石器時代を遡る日本列島での人類の出現」を考える上で、一つのメルクマール(指標)とすることができる。

神子柴遺跡から出土した石器群は次のような特徴をもっている。尖頭器(槍先)・局部磨製石斧・打製石斧などは大型の物が多く、全てが美しく精緻な完成品である。「神子柴型石斧」とは分厚く断面が三角形の刃部を持ち、「神子柴型尖頭器」は大型で精緻なつくりの木葉形である。しかも、出土した87点の石器が6m×3mという限られた範囲に、あたかも何かを意味するように配置されていた。神子柴遺跡に住居・土器は見つからず、この6m×3mの領域は非日常的な謎ともされる。

神子柴遺跡が我々に語りかけることの一つは、遺跡をとりまく自然環境である。南アルプスと中央アルプス、二つの山脈を代表する山々に挟まれ、天竜川を底部とした伊那谷に位置する。中ア・経ヶ岳からつづく丘陵部の先端にあり、遺跡周辺を大清水が流れる。多くの旧石器遺跡・縄文遺跡は山深い山中に、あるいは谷間に見つけられるが、神子柴遺跡は東西を険阻な大山脈に塞がれてはいるが、南北に伊那谷という連絡路をもつ平坦な地にある。

神子柴の石器は、在地系の黒雲母粘板岩・砂岩・緑色岩・安山岩のほかに、岐阜(湯ケ峰)の下呂石、信州(和田峠)の黒曜石、新潟以北の珪質頁岩・玉髄・碧玉と多地域から集まっている。移動生活を基本とした旧石器人(縄文人も)は、山岳の稜線や谷底を連絡道とした。近代のマタギの世界を連想する。神子柴遺跡は南北に伊那谷が通じ、北東に高遠・杖突峠で信州へ、北西に経ヶ岳の南側鞍部にある権兵衛峠あるいは中アの南端から木曽谷・岐阜方面に連絡道が確保されている。これらの旧石器・縄文のネットワークの拠点・遊動連絡路の交叉点の一つとして、神子柴遺跡は位置していたのかも知れない。

神子柴型石器は、東日本を中心に分布し、沖縄を除いて全国展開(214遺跡)している。その起源は、大陸からの伝搬説と列島内発生説とがある。

 
 神子柴遺跡に行くには、伊那インターを出て左へ(県道87)、信号駒見を左(県道88)、2km信号なし交差点を右、約2km下りになって左側崖の上にある。行き過ぎると白山八幡神社が左に現れる。引き返すと、上の写真位置に出る。この位置からは➡の付いた小さな標識を見つけることができる。見学用の坂道を登る。登った所に発掘現場跡がある    神子柴遺跡の石碑と丁寧な説明板がある。
神子柴遺跡の特徴は、出来上がった石器が6m×3mの限られた範囲から出土したことである。意図的配置とすると、遺跡の性格として「祭祀場」、「墳墓」、「埋納」、「住居」など多くの説が唱えられている。
 
説明板の背後は広場になっていて、そこからは南東方向に残雪をまとった大仙丈(南ア・仙丈ヶ岳)が、戸倉山の背後に堂々とそびえる。
(mouse-over)戸倉山をつたって左に山影を探すと、甲斐駒ケ岳の雪姿が覗いていた。 
   説明板の北側は開けていて、遺跡が丘陵端に位置していることが分かる。6m×3mの石器集中地点は、写真中央左辺りと想像した。
丘陵縁下道路の外側(フェンス外)には、経ケ岳(中央アルプス)を水源として天竜川へと大清水が流れる。

伊那市創造館 (長野県伊那市荒井3520:火曜日休館)
昭和5年に創建された「壮麗完備天下に誇る」と謳われた旧上伊那図書館の建物をリニューアルし、現在は社会教育施設として利用している。神子柴遺跡出土・石器群(国重文)は、御殿場遺跡出土・顔面付釣手型土器(国重文)とともに2Fに常設展示されている。御殿場遺跡は伊那市の南東約4kmにあり、顔面釣手型土器は諏訪地方で展開した井戸尻文化(縄文中期後葉)に属している。伊那と諏訪の古くからのつながりの一端を示している。伊那市は高遠・諏訪への道筋(杖突街道)沿いに多くの遺跡を抱えていて、これらの遺跡が大地図・遺跡地図模型として展示されていた。かつて私は八ヶ岳山麓・中央道沿線の遺跡を訪ねることが多かったので懐かしかったが、今回は神子柴遺跡に集中した。

神子柴遺跡に関して、展示された石器群は全て実物で、写真撮影もフラッシュ無で許可された。自分が目的とした石器に出会った瞬間の印象・喜びを記憶するには有り難いが、神子柴石器の美しさを引き出すことは出来なかった。参考文献1)には、縄文土器の撮影などで定評のある小川忠博氏の写真が掲載されているので、神子柴石器の美しさはそちらを見て戴きたい。黒曜石の尖頭器などに見られる剥離面の美しさを抜きにしては、神子柴石器群は語れないと思うからである。

神子柴遺跡の年代については次のよう記述がある。文献1) 1.石器群がみつけられた地層は、姶良Tn火山灰(29,000年前)層よりも上位(新しい)にあった。2.出土した12点の黒曜石石器の水和層年代測定によると、約13万年~約1万年前の年代幅でとらえられた。3.神子柴遺跡の炭素14年代較正値は得られていないが、炭素14年代較正値が得られている新潟県の荒屋遺跡(約17,000年前)と青森県の大平山本1遺跡(約16,000年前)の年代との間にあると考察されている。荒屋では神子柴系石器は出土せず、大平山本では神子柴系石器を伴う。 

出土品中、掻器(そうき)・削器が19点含まれることに注目する。いずれも切削用の工具であり、掻器は石器の長軸端に円形の刃部を設けたもの、削器は石器の側縁に直線的な刃部を設けたものとされる。掻器の石材は、黒曜石、珪質頁岩、玉髄などであり、毛皮の加工用(皮なめし)としての機能がある。神子柴時代を含む旧石器最終期から隆起線文土器が現れる縄文草創期(約17,000年前~約14,000年前)は、寒冷期・温暖期を繰り返しながら、氷河期(更新世)から温暖期(完新世)の境目(11,500年前後)に向かっている時代であった。温暖化に向かっている氷河期終末であっても、神子柴時代には掻器は必須の道具だったことを示している。

   
 伊那市創造館
正面左手(東南)に仙丈ヶ岳が大きい
   2Fに、常設展として神子柴(みこしば)遺跡の全様・出土品が展示されている。
縄文中期後葉の顔面付釣手形土器の展示もある。
   パネル展示「遺跡が残された時代」に見る
神子柴遺跡の時代区分
神子柴遺跡の不思議な石器出土情況の配置図
 

神子柴遺跡から出土した石器87点の中、
18点が尖頭器(槍先)で最も多く、優美であった。
神子柴遺跡出土石器には通し番号が打たれている。
(重要文化財指定番号)
写真は、No.14-No.22(尖頭器)
(mouse-overで)
No.23-No.31(尖頭器) 
 
  尖頭器の材質と寸法(抜粋:左から)
No.20 黒曜石(和田土屋橋北群) 9.0cm
 No.21 下呂石 16.4cm           
 No.22 黒曜石(諏訪星ケ台群) 14.2cm 
(mouse-overで)
No.16 玉髄 13.9cm     
No.17 凝灰質頁岩 17.6cm
No.18 下呂石 25.1cm   
   

No.1-No.13
:(左から)

(No.1-No.9)局部磨製石斧
(No.10-No.13)打製石斧 
 

 
局部磨製石斧の材質と寸法(抜粋:左から)
No.4砂岩 20.9cm、 No.5黒雲母粘板岩 21.2cm
No.6 黒雲母粘板岩 20.8cm 

打製石斧の材質と寸法(抜粋:左から)
No.10砂岩 21.2cm、 No.11緑色岩 23.0cm、
No.12 砂岩 22.2cm 
  No.32-No.85
掻器、削器、敲石、砥石、石核、接合資料など
(mouse-overで)
上列:No..42(掻器)No.43-No.50(削器)
下列:No.32-No.41(掻器)
文献1に書かれた
夭折した下村修により見つけられた
小鍛冶原遺跡出土石器と遺品
神子柴文化をつぐ
と思われる石器の数々・・・

神子柴文化は、その出自はともかく、その石器群の完成度・美しさでもって、考古学としての石器への興味を喚起してくれる。そして、人類が初めて出会った道具・石器への興味は、約3万5千年前に幾つかの石器を携えて日本列島に辿り着いたホモ・サピエンス(現生人類)への関心につながる。
神子柴時代以降(縄文・弥生・古墳時代)では、定住した人々の生活がムラを作り・クニを作って、壬申の乱(AD672)を経て日本国の建国へと歩んだ。これに逆行して、神子柴時代を遡る人類の姿を想像することは容易ではない。旧石器時代人の生活の基礎は、「移動・浮浪・遊動・植民など」の概念の上にある。神子柴石器群を見ることにより旧石器時代への興味が更に深まった。

文献1)堤隆:「狩猟採集民のコスモロジー・神子柴遺跡」、2013、新泉社


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