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春夏秋冬 (25)
17/12/30 大曲輪貝塚と古人骨 (名古屋市)
本年度(2017年)は、酒吞ジュリンナ(豊田市足助町)と粥見井尻遺跡(松阪市)の縄文草創期遺跡から始めて、神子柴遺跡(伊那市)・矢出川遺跡(南牧村)・野尻湖遺跡(信濃町)と、長野県の後期旧石器時代(1.5万年前から4~5万年前まで)を遡った。
そこにはムラ・クニの概念はなく、狩猟採集と氷河時代を生き抜くに必要な遺物(石器類)・遺構を考古資料として見た。この3万年にも及ぶ時代は、アフリカで誕生した現生人類(ホモサピエンス)が日本列島に辿り着き生活を始めた時代ででもある。したがって、考古資料は同時に”日本列島の人類史”の資料である。
21世紀の人類史探求手法は、従来の形態学的手法に加えて分子生物学的手法ー古人骨のDNAの抽出と分析ーを用いて急速に進展している。定住地の不明瞭な旧石器人のDNAを得ることは難しいが、縄文時代の人骨を得ることは稀ではない。縄文人骨が発見された身近な例として、大曲輪(おおぐるわ)貝塚を訪ねた。この古人骨は現在までのDNA解析の対象にはなっていないが、一般人が古人骨に親しむ機会を与えている。
瑞穂運動公園(左が北) (mouse-over) 名古屋市周辺の主な縄文旧石器遺跡と縄文遺跡(上が北) ●旧石器 ●縄文 ●旧石器・縄文 ★印 瑞穂台地 ①名古屋台地 ②高浜市 ③豊田市 青曲線 縄文前期海岸線 (名古屋市博物館図録の一部に付記) |
現在の名古屋駅周辺は、縄文時代には海の中にあった。その東側に”象の鼻”形に名古屋台地・熱田台地が南へつながっている。象の鼻の東側に、御器所台地・瑞穂台地・笠寺台地があり、東山・八事丘陵(東部丘陵)で尾張平野の東端を塞ぐ。これら台地の端々に縄文時代の海岸線があり、名古屋市の縄文貝塚が広がっている。
大曲輪貝塚は、瑞穂台地と八事丘陵の合間を流れる山崎川の際(標高7m)に位置する。名古屋市瑞穂公園陸上競技場(パロマ瑞穂スタジアム)の左正面に国指定遺跡として遺る。スタジアムは、陸上競技・マラソンの国際大会を催すほか、名古屋グランパスエイトのホームとしても有名である。山崎川を挟んだ瑞穂公園内には、縄文後期の下内田貝塚もあり、野球場の南側には円墳が3基(2号墳だけが現存)連なっている。6世紀から7世紀の築造とされるが、発掘調査はされていない。
大曲輪貝塚は、昭和14年(1939年)に瑞穂陸上競技場建設に際して発見され、小栗鉄次郎氏を中心とする愛知県史跡名勝天然記念物調査会により発掘調査された。当時の報告書では、「貝層の面積360㎡、含有層9,000㎡と推定しているが、調査面積は20㎡足らずであった。層序は、10cmの表土下に20~30cmの貝層があり、貝層下に10cmほどの黒色土があり砂礫地山に至り、貝塚周辺にも60cm厚さの貝を含む包含層が広がっていた」とある。昭和55年(1980年)、陸上競技場改修工事の際に名古屋市教育委員会により約1,200㎡が再調査され、史跡部分につながる前期の貝層の一部、縄文前期、晩期の多くの遺物と、晩期の住居跡、土器棺墓、埋葬人骨などを発掘した。(名古屋市博物館:愛知の縄文遺跡、2004)
遺物として特に目をひくのは、縄文晩期の完璧なまでの古人骨である。古人骨は、考古学的には、その埋葬方法や同時に葬られた遺物から、当時の精神性・宗教観を云々することが多い。同時に、人類学的には、形態学的な諸要素ー体型、歯型、頭部形状などが調べられ、他の考古資料と併せて、”列島人の出自”を推定する直接的な資料としてきた。
最近では、古人骨のDNA分析技術の進歩により、新たな局面を迎えている。DNA解析は、人細胞内の小器官「ミトコンドリア」に存在するDNAを調べる場合と核「染色体」のDNAを調べる場合がある。ミトコンドリアでは約16,500の塩基対が環状になり、核では30億塩基対が直線状につながった構造をもつ。ミトコンドリアのDNA解析の取扱いの方が比較的に容易な点から、当初はミトコンドリアDNAの全塩基配列の決定が先行した。しかしながら、ミトコンドリアDNAは母系遺伝の系統・分岐を教えるが、男系遺伝系統を調べるには核DNAの解析を必要とする。分子生物学の急速な進展により、最近では多くの核DNA全塩基配列データが短時間で調べられるようになり、多くのデータが蓄積され、ミトコンドリア・核両者のDNAデータから、人類の起源・拡散の認識が深まっている。
古人骨は酸性土壌の日本では遺り難いとされ、また、たとえ古人骨の発見があっても熱に弱いDNAが保護され残っているか否かが問題となる。貝塚や石灰質サンゴ礁などアルカリ性の土壌や、北九州の甕棺など閉鎖空間で埋葬された場合に、良好な古人骨が発見されている。少量のDNA試料を有効とする分析技術の進歩などとも相俟って、現在では、縄文人のDNAと弥生渡来人のDNAのデータが多数提供されている。
縄文以前の古人骨の発見も望まれる。しかしながら、今年訪れた野尻湖遺跡のように、多くのナウマン象の骨が出る環境であっても、古人骨は発見されていない。旧石器人の古人骨の発見は難しそうだ。
形態学的には日本人の成立過程を、従来居住していた東南アジア系の縄文人と北九州に上陸した東北アジア系渡来人が混血したとする「二重構造論」がある。DNA解析データは、アフリカで誕生したホモサピエンス(現生人類・新人)が地球上に拡散していく課程での出来事として、「二重構造論」を支持している。
大曲輪貝塚の断面 昭和14年に発見したと思われる地層を 昭和55年の調査時に剝ぎとった (表層部から下部へ) 貝まじりの土層(縄文前期)、黒色土層、基盤 1.アカニシ 2.ハイガイ 3.イノシシの牙 出土した土器片の一部などは、 名古屋市博物館に展示 されている |
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縄文時代晩期の古人骨 昭和55年の再調査時に発見(名古屋市博物館に展示) 仰臥屈葬、成人男性、上下8本の抜歯などの特徴 左肩付近に犬の顎・歯が同時埋葬されている |
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昭和14年調査神時に小栗鉄次郎氏が撮影した発掘現場・出土品(土器など)のガラス乾板が残っている。鮮明で見事な出来栄えである |
17/11/30 東山動植物園 紅葉 (名古屋市)
植物園へは地下鉄東西線「星ヶ丘」から南へ、椙山女学園を左に見て坂を登って行く。東山が丘陵地帯であることが実感できる。坂の始め、右手に洒落たカフェが軒を並べる (mouse-over) 東山植物園に入り、トンネルを抜けると「星ヶ丘広場」 |
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動物園 | 植物園 |
「星ヶ丘広場」から坂を下るとT字路にぶつかる。右へ折れると「日本庭園」で、小さな池がある。池の北側に回り込む道に入ると、右上に屋根で覆った「古窯」が見える。H-G-102号窯跡の名称を持つ。Hは東山、Gは山茶碗(行基焼)窯の略号という。東海地方で山茶碗が焼かれたのは11~15世紀なので、平安時代の操業と見做されている。東山丘陵は、猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)に属する東山支群(東山窯)を形成し、植物園内はもとより、北側に位置する椙山女学園のキャンパス内にも古窯跡が点在している。H-G-102号窯跡は、名古屋市で実見できる唯一の古窯跡である。
猿投山古窯跡群は5世紀中葉(古墳時代)から操業を開始し、春日井市に遺る下原古窯跡群(尾北窯)との間で工人集団の行き来があったものと解されている。尾北窯最古のものは、6世紀前葉の下原2号窯とされ、春日井市で保存されている。(14/03/11 下原古窯跡群)
「古窯」と「日本庭園」の紅葉をひとしきり鑑賞して、T字路を先に進み、「合掌造りの家」・「奥池」周辺の紅葉の写真を撮る。上手く赤色が出ない。東山動植物園は車椅子用スロープや設備が整っていて、奥池周辺のベンチはお年寄りで賑わっていた。私は不自由ながらよたよたと歩いている。子供づれの若い夫婦がインスタ映えする自撮り写真をスマートホンで撮っている。老人カメラマンも多く、最新の一眼レフで傑作を狙っている。「結局は自己満足・・・」と話しかけてきた人が居た。
「古窯」 (mouse-over) H-G-102号 |
「日本庭園」 (mouse-over) 紅葉 |
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「合掌造りの家」 (mouse-over) 「奥池」周辺は、しっとりとした雰囲気 |
「お花畑」は尾根上に位置する (mouse-over) 桜の回廊を経て、四季に亘り気持ち良い下り道 |
再び「日本庭園」のT字路に向かう。道路沿い右側に「湿地園」がある。T字路から更に進むと、「ビオトープ」は東海の植物保存園、道なりに丘陵を登って行くと、「お花畑」に出る。ここまで来ると、東山動植物園が東山丘陵の尾根とその谷間に造られていることがよく判る。登ってきた方角と反対方向へ下る道は、九十九折になり桜の回廊・梅林となっている。樹木の種類は多く、春は早くから賑わいそうである。温室・洋風庭園を経て上池門の連絡道を動物園に入る。
「上池」はスカイタワーを見上げるボート遊びができる大きな池。動物園の紅葉はここが一番映える。動物園と植物園を結ぶ「スカイビュートレイン」は上池周辺を周回する。アミメキリンの遊ぶ広場は黄葉していて、その網目が一段と鮮やかに見えた。以前来た時に(17/07/31)今一つ接近できなかったスマトラトラと雄ライオンを見に行った。スマトラトラは岩山のある檻内に居て、強化ガラス一枚を介して見物人を見下ろしていた。立派なタテガミをもつ雄ライオンが、厩舎外に出て前庭を歩き回っていた。
17/10/30 上野国立博物館 平成館 (東京都)
国立博物館 本館前と平成館 |
久しく遠ざかった上野国立博物館を数年ぶりに訪ねた。平成館と東洋館の常設展示を見たが、ここでは平成館常設展示についての印象を記す。
遺跡は発掘調査後は埋め戻されたり他に転用される場合が多いが、そこに生活があった時の雰囲気が偲ばれる。発掘された遺物は、原則的には発掘地での管理となっているようだが、保管施設の有無、発掘担当団体の意思が優先され、発掘された遺物が分散される傾向にある。その結果、発掘作業に無関係な一般人は、遺物の在り処に到達し難い場合も多い。
上野国立博物館には、全国的な規模での考古学的観点からの優品が多く収納され常設展示されている。国立博物館の名に恥じない保管技術・設備が整っていることにも依る。数年前と幾分展示方法は変わり、中には里帰りした遺物もあるが、変わらない充実ぶりである。ここ数年来私が住まう名古屋近郊の遺跡からの発掘品も、新たな目で接することができた。
今回の目的の第一は、近年私の興味の中心になっている旧石器時代についての国立博物館での展示を見たかったこと、次に、移住先である春日井市で消滅した出川大塚古墳の出土鏡、最近訪れ現地では見ることが出来なかった船木山古墳群(本巣市)の出土品、東日本大震災の被害を受けたいわき市の装飾古墳(中田横穴墓)関連の展示品などを見ることである。東京を離れてますます国立博物館に常設展示された優品を思い返すことが多く、それらの確認も今回の訪問の楽しみででもあった。
上野国立博物館は、私の知る限り最も早い時期から特別な展示品を除いて写真撮影を許可した博物館である。江田船山古墳(熊本県)、東大寺山古墳(天理市)、高崎観音山古墳(高崎市)などでは、国立博物館で撮影した出土品の写真を見ながら現地(古墳)を見学した思い出がある。
1.平成館での旧石器時代展示、
旧石器の石材分布 黒曜石、頁岩、安山岩(下呂石、サヌカイトなど)の原産地 |
北海道の黒曜石と石器 BC18,000 1.細石刃 2.細石刃核 3.尖頭器 4.彫器 5.削器 6.掻器 |
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貫ノ木遺跡(長野県信濃町) 後期旧石器前半始め BC35,000 (17/08/31記載の野尻湖周辺遺跡の一つ) 1.局部磨製石斧 2.台形石器 3.ナイフ形石器 |
荒屋遺跡(新潟県長岡市) 後期旧石器後半終り BC16,000 1.舟形削片 2.細石刃核 3.細石刃 4.彫器 5.掻器 6.石錐 7.鏃形石器 |
最近訪れた野尻湖周辺遺跡群では、貫ノ木遺跡や日向林B遺跡が後期旧石器時代の始め(ナウマンゾウが発掘される立が鼻遺跡(湖岸)より1クラス上位層”ナイフ形石器文化層”)に相当する。日向林B遺跡での出土品は長野県立博物館にあり遺跡も訪れた。貫ノ木遺跡は黒姫駅と野尻湖ナウマンゾウ博物館の中間にあり、出土品も博物館にも展示されていた。ここでの展示は、後期旧石器時代始めの典型的な石器の展示で、局部磨製石斧を石器時代の始めから使用するのは世界的に珍しいという。ちなみに、日本列島に人類が到達した年代は、考古学でいう後期旧石器時代の始め(約3.5万年前)に相当する。それ以前の礫器などの存在は謎となる。
荒屋遺跡は御子柴遺跡(長野)より古く田名向原(神奈川)より新しい、または矢出川第Ⅰ遺跡(長野)と同時期の年代遺跡と思われる。掻器・細石刃の存在が、その年代の寒さと狩猟方法が投てき中心に変化していることを物語る。
旧石器時代から縄文時代への変遷期も興味深い。草創期を物語る「隆起線文土器」の完形は、中部ではなかなか見ることが出来ないが、関東ではここに見る花見山遺跡の土器のほか多摩丘陵で幾つかの著名な土器がある。縄文中~晩期の石器・装身具・祈りの道具は、縄文時代の調査・研究が進んだ関東地方には豊富である。
2.縄文草創期・早期・前期の土器と縄文時代の石製品
3.古墳文化の展示
個人的に興味深かった展示品を列挙する。
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3-1.出川大塚古墳(春日井市)の三角縁三神三獣鏡(4世紀)、谷口古墳(唐津市)の三角縁三神三獣鏡(4~5世紀)、新山古墳(奈良県)の三角縁三神三獣鏡(4世紀)、甲斐銚子塚古墳(甲府市)出土の三角縁神獣車馬鏡(4世紀)、大岩山古墳(滋賀県)出土の三角縁神獣車馬鏡(4~5世紀)、前橋天神山古墳(高崎市)出土の三角縁四神四獣鏡(4世紀・国重文)、佐味田宝塚古墳(奈良県)出土の変形方格規矩獣文鏡(4~5世紀・国重文)、新山古墳(橿原市)出土の直弧文鏡(宮内庁)、柳本大塚古墳(天理市)出土の変形内行花文鏡(宮内庁)、
3-2.東大寺山古墳(天理市)出土の国宝として著名な「家形飾環頭柄頭(4世紀)と金錯銘花形飾環頭太刀(4世紀、刀身は中国製・2世紀)」。
東大寺山古墳は天理市北部にあり、当地の古代豪族・和爾氏の本拠地とされる。古墳は天理教大教会の敷地内にあり、発掘出土品は全て国立博物館が管理している。金錯銘太刀は刀背に24文字が金象嵌され、その文中に「中平□年」の記載があり、中国後漢末(2世紀末)の刀であり、邪馬台国時代の渡来品と見做される。埼玉県・稲荷山古墳の金象嵌鉄剣(5世紀)などとともに、年代の推定できる数少ない古墳時代の出土品である。
3-3.江田船山古墳(熊本県玉名郡)出土品一括展示は、当博物館の目玉となっている。
75文字の銀象嵌太刀は、埼玉県・稲荷山古墳の金象嵌鉄剣とともに、雄略(ワカタケル)大王に仕えた官吏についての記載がある。江田船山古墳では文官・ムリテについて、稲荷山古墳では武官・ヲワケに関してである。大王(天皇)の実在・年代・政治体制を推測する資料として貴重となっている。稲荷山古墳の金象嵌鉄剣は、「さきたま風土記の丘」の”さきたま資料館”に展示されている。
3-4.新沢千塚126号墳(5世紀・長方形墳・奈良県):「金銀の装身具と渡来文化」と題して、豪華な出土品の一括展示。
3-5.岐阜県・船木山古墳群は本巣市船木山一帯に広がり、多くは終末期の古墳群である。その一画に前期古墳があり、24号墳(20mΦの円墳・4~5世紀)から豊富な副葬品が出土した。昨年末、現地を訪れた際に見ることが出来なかった出土品の一部をここで見ることができた。上方作銘獣形鏡、変形三角縁六神鏡、変形半円方形帯神獣鏡、変形六神鏡、硬玉勾玉・滑石勾玉・瑠璃勾玉、石釧、碧玉管玉、鉄鑿(てつのみ)、鉄鎌、銅鏃が一括展示されていた。
3-6.「紀年銘鏡と伝世鏡」のコーナーには、考古学上での年代基準と古代史上でのヤマト王権成立の一級資料である鏡が並ぶ。目を引くのは、和泉黄金塚古墳出土の画文帯同向式神獣鏡(景初3年銘)(4~5世紀・国重文)、蟹沢古墳(高崎市)出土の三角縁同行式神獣鏡(正始元年在銘)(4世紀・国重文)など。
3-7.東日本大震災の被害を受けたいわき市の装飾古墳関連、中田横穴墓出土品、八幡12号横穴の播金具など出土品。装飾古墳は九州・西北部(熊本・佐賀・福岡県)と本州では茨木・福島県の太平洋岸地域(いわき市・相馬市など)に限って分布する後期・終末期古墳である。朝鮮半島、とくに北部との関連を推測させる。
3-8.三重県伊賀市の群集墳・高猿1号墳(6世紀)出土の鏡・勾玉など一括寄贈品を展示。
船木山24号墳(岐阜県本巣市)出土品 4~5世紀 上方作銘獣形鏡 変形三角縁六神鏡 硬玉・滑石・瑠璃勾玉 碧玉管玉 鉄鑿 鉄鏃 変形半円方形帯神獣鏡 変形六神鏡 石釧 鉄鎌 |
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中田横穴墓出土品(いわき市 6~7世紀) 八幡12号横穴出土(いわき市 7世紀) 金銅製馬鈴 幡金具 |
17/09/30 野辺山高原 矢出川遺跡と南牧村美術民俗資料館 (長野県)
野辺山高原 矢出川遺跡・南牧村美術民俗資料館・JR最高標高地点・国立天文台 (南牧村) 大深山遺跡・川上村文化センター・馬場平遺跡 (川上村) |
長野県(旧信濃国)は交通路としての海がない内陸地である。日本列島の臍となる長野県中央部は、姫川または信濃川を下り日本海に、天竜川を下り太平洋に繋がる。
姫川(水源は白馬岳)と天竜川(水源は諏訪湖)は、糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ)にほぼ沿っている。フォッサマグナ(大地溝帯)は日本列島の成立と深くかかわり、列島を東西に分けている。
信濃川は延長367kmの大河であり、新潟県で信濃川、長野県では千曲川と名を変える。水源は甲武信ヶ岳(長野・山梨・埼玉の県境)にあり、千曲川は信濃川上を経由して八ヶ岳高原線(JR小海線)に沿って北上し、佐久平・上田平を経て、善光寺平(川中島)で松本平からの犀川と合流する。
野辺山高原は八ヶ岳連峰の東麓・南佐久郡南牧村に位置し、広義には東隣の川上村(信濃川上)をも含んでいる。この地への連絡道としては、JR小海線または韮崎・佐久を結ぶ国道141号線のほかに、東へは三国峠越への中津川林道、川上村から南へ信州峠越へに国道106・610で甲府へ、西へは八ヶ岳東南山麓を清里・小淵沢・原村経由する幾つかの地方道がある。
野辺山の周辺を見渡すと、野辺山の西南、清里高原(山梨県)は近代日本の初期から開発された避暑地であり、野辺山の東隣、川上村は戦後昭和期に高原野菜生産地として開拓された歴史がある。野辺山駅周辺は四方を山塊で囲まれ余計な光を遮り、高原の澄み渡った大気で星空が美しい。この環境を利用して、昭和40年代より国立天文台・宇宙電波観測所が設置された。JR野辺山駅はJR最高地点駅(標高1,345m)で、清里駅との間にJR最高標高地点(1,375m)がある。鐡道フアンの聖地でもある。
矢出川遺跡
戦後昭和20年代より始まった地元研究者を始めとした多くの考古学者・グループによる遺跡分布調査により、野辺山周辺(標高1,200~1,300m)、矢出川と三沢川の分岐地点を中心とする約3km四方のエリアが、後期旧石器時代の遺跡として注目をあびた。現在国史跡として指定され標識の立つ通称矢出川遺跡は、矢出川遺跡群(11の遺跡、77の石器分布地、92の散布地)の中の一つで、正確には「矢出川第Ⅰ遺跡」である。この遺跡からは、644点の細石刃石核が出土し、日本での細石器文化の最初の発見地として重視されているが、ナイフ形石器・尖頭器・削器・掻器・石斧・礫器・剥片・石核なども多く出土している。
矢出川遺跡の第一の特徴である細石刃(マイクロブレンド)については、「長さ1~4cm、幅4~8mm程度の極めて小さな石刃。骨や木の柄に溝を彫り、そこにはめ込んで槍やモリとして使用した。」と資料館で説明されている。
国史跡 矢出川遺跡 :遺跡の中心部。台地になっていて、前方下に矢出川が流れ、右下辺りで三沢川と分岐する。道路をはさんだ背後の一部も石器取集地 | 付近は畑地で、遺跡は村有地。高原野菜収穫のトラクターが目の前を通り過ぎた。八ヶ岳は雲がかかっていたが美しい。 宇宙観測所のパラボラが見える |
南牧村美術民俗資料館 | |
国道141に面して、JR小海線「野辺山」駅前にある。入場料は大人・中高校生¥300で、国道141号線に面している。12月~2月は冬季休館となる。民族・考古学関係の展示室と時期により開催される様々な展覧会場に分かれる。今回は、考古関係のみ見学した。写真撮影は許可されているので数多い石器類はカメラに収めて、帰宅後にゆっくりと精査できる。
民族・考古関係の展示は、野辺山開拓の歴史から始まる。①八ヶ岳山麓に生息する動植物②古生代から新生代第四期の古環境③縄文・弥生時代④安土桃山、江戸時代⑤家具・民具・農具⑥矢出川遺跡より出土した石器群に分かれる。
八ヶ岳特有の岩石、ハシバミ群生の野辺山高原の古植生、最近の矢出川遺跡群からの発掘出土品、土屋忠芳氏など地元収集家寄贈の細石刃、京都女子大考古学研究会収集の旧石器など、野辺山の旧石器時代の全貌が展示されている。縄文・弥生時代の土器類の展示もあるが、縄文土器は八ヶ岳南麓や山梨の博物館に見るものとの共通性が目立つ。
旧石器展示の一角に、”矢出川Ⅶ遺跡から、30,000年前の特長をもつ水晶石器が見つかった”という平成26年3月の新聞記事・展示があった。
野辺山高原の旧石器遺跡 | 野辺山編年(後期旧石器時代) |
野辺山高原の名所散策
R141は昔は清里から最高地点まで小海線を突っ切って線路の東側を通ったが、今では線路の西側を通る。最高地点の近くで旧道が合流する。それでも以前からあった高原野菜直売場は少し場所を移動して健在であった。旬の焼きトウモロコシ(¥300)が美味かった。
大気の澄んだ野辺山に設置された宇宙電波研究所のアンテナは、光を放たない低温のガスや塵(星間物質)からの電波を全天空に追いかける。「星の誕生を見つめ、生命の起源に迫る」とあった。昼夜、138億年の謎を追いかけている。