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日々是好日
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2019.08.09  オルドヴァイ遺跡(Google Map)

オルドヴァイ峡谷(遺跡) GoogleMap
火山性堆積物を介した湖盆沈殿物からなる
長さ15km・深さ100mの峡谷
拡大地図で峡谷の風景・博物館展示などの写真が見れる
 
旧石器考古学辞典(学生社)
2007.5  p.28
人類の進化と石器の出現

700万年前に、ヒト(人類)はナックル・ウオークするサル(チンパンジ―)と分岐して、直立二足歩行する道を歩み出した。人類の誕生である。

人類誕生以来、約500万年つづいたアウストラロピテクス属など「猿人」は、頭脳の発達段階にあり、EQ値(体長に対する脳の大きさを示す指数)は1.5止まりである。
240万年前頃から人類の脳は急激に大きくなり、EQ値にして2.0~4.0と増大する。ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトスなど「原人」と呼ばれる時代以降である。
50万年前以降になると、ホモ・ハイデルベルゲンシス、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・サピエンスが次々に登場する。
ホモ・ネアンデルタール(旧人)とホモ・サピエンス(新人、現生人類、現代人などと呼ばれる)が最終的に残るが、ネアンデルダ―ルも約3万年前に絶滅する。ネアンデルタ―ルとサピエンスは、同時代・同地域に生きていた証拠もあり、その交替劇は興味深い。

人類が石器(道具)を作り使うようになったのは、「原人」の時代からとされる。標識となる遺跡は東アフリカ・タンザニアの大地溝帯にある「オルドヴァイ遺跡」である。最下層の180万年前の玄武岩の直上の第Ⅰ層からは最終のアウストラロピテクス属(パラントロプス・ボイセイ)とホモ・ハビリス、165万年前の第Ⅱ層中部からホモ・ハビリス、第Ⅱ層上部・第Ⅲ層・第Ⅳ層からホモ・エレクトスの化石がみつかっている。
最古の石器群は第Ⅰ層で見つかり、オルドワン文化と呼ばれる。第Ⅱ層ではオルドワン石器群は発達し、第Ⅱ層上部(140万年前)でアシューリアン文化に移行する。第Ⅳ層(70万年前)ではアシューリアン石器群とともに発達したオルドワンC石器群もみつかっている。

オルドワン石器群は原石を別の石で打ち砕き刃を作った最も原初的な石器(礫石器)であり、オルドヴァイの初期人類は狩猟というより屍肉あさりをしていたとの説がある。アシューリアン石器群は「握り斧(ハンドアックス)」に使用する石器で、石器の両面が加工されたもの(バイフェイス)を特徴とし、人類が意図的に(計画的に)道具を作成・使用した初めとされている。
オルドヴァイ渓谷の礫石器(200万ー180万年前)と握り斧(140万ー120万年前)は、2015年大英博物館展(東京都美術館)など日本国内で展示されたことがある。ネットで探せばその素朴な姿(原石を打ち砕いたままの様)を見ることができる。
フランス北部地方で収集された
アシュール文化のバイフェイス、スクレイバー、削片
(1-3:アブヴィ―ユ 4-15:モンティエル出土  南山大学博物館)

オルドワン文化につづくアシューリアン文化の石器は、南山大学博物館(名古屋市)で見ることができる。1952-59年に滞日したマリンガー神父は、南山大学教授・考古学研究所長としての顔を備えていた。南山大学博物館には、神父が来日前にフランス・イギリスの旧石器遺跡で収集した多くの石器群が、マリンガー・コレクションとし展示されている。

アフリカ・西欧の「旧石器時代・時代区分」を復習しておく
前期(下部)旧石器時代は、約180万年前のオルドワン文化の始まりからアシュール文化の終焉(約35万年前)まで、ホモ・エレクトスが文化の担い手の中心であった時代である。
中期(中部)旧石器時代は35万年前~3万5千年前、ムスティエ文化、シャテルペロン文化よりなり、ホモ・エレクトスに加えてホモ・ハイデルベルゲンシス、早期ネアンデルタールの時代となる。握り斧は消滅し、ルヴァロワ技法など調整石核技法で剥離された剥片を素材とした削器、投槍用尖頭器が現れる。この時期の終末(5万年前~3.5万年前)には、ネアンデルタールが石刃石器群をともなうホモ・サピエンス(現代人)と西欧・近東で交替した。
後期(上部)旧石器時代は3万5千年前~1万2千年前、ホモ・サピエンスの時代である。ユーラシア大陸の各地に石刃技法が現れる。掻器、石錐、彫器、尖頭器などの道具が組織的に造られた。

現在、全世界にホモサピエンスは拡散している。ミトコンドリアDNAあるいはY染色体(核DNA)を解析、系統樹を調べ分岐年代を求めると、日本列島にホモサピエンスが到来したのは3万5千年前頃と推定される。過去には、本州に明石原人などホモサピエンス以外の古人骨の存在が議論されたこともあるが、現在は基本的には否定されている。本州で見つかった最古の化石人骨は、静岡市浜北市の脛骨の断片(浜北人)で約2万年前と推定されている。日本列島の旧石器時代は”後期旧石器時代”とするのが普通である。
しかしながら、遺跡調査により3万5千年前の地層から礫石器が見つかることがある。これらは偽石器(自然石の偶然の石器に似た形)と見做される場合が多いが、全てが偽石器と確定されているとは言えない。日本列島に「原人」が生活していた可能性は一部残されている。

人類700万年の旅において、180万年前から現在まで、殆どが旧石器時代の範疇にあり、新石器時代(日本列島での縄文時代以降)は僅かに1万年余りにしか過ぎない。そして、我々は極めて最新の技術・道具に振り回されている、あるいは振り回されそうになっている。人類の進化と滅亡の将来像は不確かである。




2019.06.28  弥生時代の始まり・朝日ムラ(愛知県)

(弥生時代の開始と全国展開)  
全国各地で弥生文化導入の指標とする
遠賀川系土器のふるさと
夜臼(ゆうす)式土器(縄文終末・弥生早期)
上段に甕(口縁の刻み目・胴部の条痕文・上げ底の底部が特徴)
下段に、深鉢、壺、浅鉢と大型壺、
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板付式土器(弥生前期) 
上段(小型壺、甕)、下段に、内部に籾痕の付いた壺、大型壺
弥生文化発祥の地
立屋敷遺跡(遠賀郡水巻町)
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遠賀川右岸 前方は鹿児島本線と国道3号線遠賀川橋
 2009.09.18 (九州の旅 板付遺跡弥生館にて)    2009.12.17(続九州の旅)
     
弥生時代の始まりについては、ヒトとしては土井ヶ浜人を含む北九州渡来系弥生人と西九州渡来系弥生人、モノとしては水田跡、支石墓、夜臼・山の寺式土器などを資料とする。国立歴史民俗博物館(歴博)では、代表的な縄文晩期、弥生初期の水田跡より採集した土器に付着した炭素付着物の炭素14年代を、高精度AMS(加速器質量分析器)法により測定し、標準とする木材の年輪が示す暦年代と炭素14年代から得られる較正曲線を用いて、測定した炭素14年代の暦年代(較正年代)を求めた。
その結果、北九州の弥生時代の開始は、従来縄文晩期の土器とされた夜臼式土器・山の寺式土器の時代ー10世紀半ばーと結論され、改めてこの時期を弥生時代の早期と設定した。ここで注意すべきは、日本列島全般についての水田農耕を含む弥生文化の開始時期は、北九州地域と同じにならないことである。水田稲作を含む弥生文化は、100~150年、北九州に留まった後に全国展開したとされている。

二次的な受け入れ先では2~3世紀の変遷期幅(南関東では6世紀以上の幅)をもって徐々に弥生文化は浸透する。この変遷期では、各地域の遺跡から縄文土器と弥生土器(遠賀川系)が併行して出土することになる。各地の弥生文化の導入時期は、”遠賀川系土器”の各地での出現時期となる。
弥生文化が定着する下限は、近畿地方が前6世紀初め、中部・東海地方は前6世紀半ば、東北(砂川遺跡)は前4世紀初めであり、関東南部は前3世紀末と遅い。東北地方へは、津軽の砂沢・田舎館遺跡へは前4世紀前葉に伝わったが短期間で水田稲作は放棄され、岩手・秋田・青森には続縄文文化として縄文文化が継続した。これだけの時間差・幅、準備期間が受け入れ先にあれば、水田農耕・弥生文化の普及には必ずしも直接的なヒトの移動は必要としない。土着の縄文人が徐々に生活を変えていったと想像する。

ここで用いられた土器年代は夜臼Ⅰ式:前900~前880、夜臼Ⅱb・板付Ⅰ式:前850~前700、板付Ⅱa:前670~前600、板付Ⅱb~Ⅱc:前600~前400であり、夜臼Ⅱb・板付Ⅰ式~板付Ⅱcを弥生Ⅰ期(前期)としている。 各地が北九州的な弥生文化(水田農耕を含む)を積極的に取りこんだ指標は、遠賀川土器(板付Ⅰ・Ⅱ式を上限とする)である。2009年に北九州を旅した時、遠賀川右岸・国道3号近くの立屋敷遺跡に「弥生文化発祥の地」のモニュメントを見た。新しい弥生時代の年代観にあっても、このモニュメントは健在である。多少の誤差はあっても各地で遠賀川系土器を指標として設定された弥生前期が、水田農耕・弥生文化を受け入れた年代となる。
(参考:藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」、講談社現代新書、2015.8)

 
 朝日遺跡(清洲市・名古屋市)
南西角の緑で囲った部分が貝殻山貝塚を含む弥生前期の環濠集落・朝日ムラ 東西に走る名二環の高架下に弥生中期の方形周溝墓群が目立つ
 
私の住む愛知県には朝日遺跡(清洲市・名古屋市)がある。高速道ジャンクション建設のため大々的に発掘調査された全国的にも重要な弥生時代の大環濠集落遺跡だが、道路建設の事前調査であったために、工事完了した現在では大部分が地上にはない。そんな事情にあっても、この遺跡の始まりの地区(弥生前期の遺跡)はジャンクションから離れて、遺跡の西南角に貝殻山貝塚・資料館とともに「朝日ムラ」として健在である。貝殻山貝塚の最下層から発掘された土器群は、東海地方の最古の弥生土器であった。貝層からは貝塚上部から崩れ落ちたと見られる二体の弥生中期の人骨も発掘されている。 縄文晩期の小海進時には朝日遺跡の周辺には海水の影響が及んでいたという。

発掘された朝日遺跡の初期の土器は、遠賀川系土器が主体であり、前期の土器として扱われている。この地域の弥生前期の土器は、縄文的な模様の土器、縄文晩期突帯文土器の系譜を引く土器・遠賀川系土器、中間的な土器が入り混じっている。
(参考:原田幹「朝日遺跡 東西弥生文化の欠節点」 新泉社、2013.4)

朝日ムラ周辺には五条川沿いに北へ犬山扇状地に向かって八王子遺跡・元屋敷遺跡(一宮市)、南へ名古屋市に向かって西志賀遺跡・高蔵遺跡など遠賀川系土器を主とする弥生前期の環濠集落遺跡が点存する。東に向かって庄内川沿いには松河戸遺跡があり、鍬・竪杵などの木製農具が出土し、稲作農耕との深い関わりが指摘される。庄内川の更に上流の神領・大留・気噴町一帯の遺跡には銅鐸埋納地もあり、弥生後期のムラの展開が見られる。

弥生時代後期の朝日遺跡は、その広大さ(推定80万㎡)、居住地域を囲む逆茂木、方形周溝墓の形状・大きさの時期による変化と前方後方墳の成立、巴形銅器や銅鐸の出土など、むしろ弥生中期・後期の様子に注目を集める。古墳時代になると、一宮市・犬山市など五条川に沿っては、昼飯大塚古墳、東之宮古墳などが現れ、庄内川沿いの上流部、志段味地域には古墳時代前期の尾張部神社古墳、白鳥塚古墳など、地域のあるいは大和王権と結びついた大豪族の台頭がみられる。邪馬台国が近畿・大和にあったとすると、対抗した「狗奴国」を愛知県に設定できることも関心事の一つとなる。
尾張地域の考古学は昔の姿を良く写し出しているが、その礎となる弥生初期のこの地域のヒトの顔形・姿体についての手掛かりはまだ少ない。


2019.05.14  今朝のニュース(社会面)
             1.国立科学博物館による礼文島(北海道)縄文人の全ゲノム解読 
             2.百舌鳥・古市古墳群(全49基の陵墓)世界遺産登録へ  3.亀卜(キボク)による斎田点定(皇位継承での祭祀)

2019.04.30  平成の最終日です(土井ヶ浜弥生人)         

企画展 「砂丘に眠る弥生人」
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土井ヶ浜遺跡・最初に出土した女性人骨(鵜を抱く女)
 
HPの見直しをしていた3月末、東京・国立科学博物館の企画展「砂丘に眠る弥生人ー山口県土井ヶ浜遺跡の半世紀ー」(協力:土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム、九州大学綜合研究博物館)を日帰りで見に行った。日本人の成立は、約3万5千年前の旧石器・縄文時代から始まった何度かのヒトの到来によるものと理解されている。とりわけその長い歴史の中でも、たった2~3千年余り前の弥生・古墳時代からの大陸・朝鮮半島よりの集団的なヒトの渡来が、現生日本人の行動様式の基盤を担っている。第2次世界大戦後、昭和・平成を通過して、全ての局面で変革の急な時代に入ったようにも見える。新しい令和時代の日常が、その延長上にあるのか又は別の方向に向かっているのか、即断するには難しい。

弥生時代の開幕を告げる農事・水田耕作は、東シナ海・玄界灘・響灘をのぞむ北九州地域への渡来人により持ち込まれた。この弥生時代の開始期に当たって二つの論点がある。一つは開始実年代と全列島への拡散過程であり、二つは渡来人の出自である。開始実年代については近年、歴博により約500年ほど引き上げられ前10世紀半ばとされ、列島全域へは地域差が大きく緩やかに拡散したとされている。

土井ヶ浜の弥生人は渡来系弥生人の出自と関連する。水田耕作開始期の北九州地域の弥生人の形態学的な特徴を比較すると、九州島全域でのヒトの広がりが見えてくる。土井ヶ浜遺跡は、東シナ海・玄界灘に面した長崎・佐賀・福岡県の延長上、本州の西端、響灘の沿岸、山口県の一画に位置する。大陸起源の水田農耕技術が山東半島あるいは朝鮮半島南部を経由して伝わった経路上に相当している。土井ヶ浜遺跡は、昭和の始め(1930年)に弥生人の墓地遺跡として発見された。戦後(1953年)以降、九州大学医学部・金関丈夫教授を中心に発掘調査が進められ、現在までに約300体の弥生人骨が出土している。
 
 企画展は5章で構成されていた。
第1章 日本人の起源論争と弥生時代人骨ー謎の弥生時代人   第2章 弥生時代人骨の発見ー土井ヶ浜遺跡の発見 
第3章 弥生人の誕生と広がりー縄文人と土井ヶ浜弥生人の違い  第4章 弥生時代人骨の受傷痕ー受傷痕が語る弥生の社会 
第5章 弥生人をめぐる最新研究ー弥生人のDNA研究の最前線
 以下では、企画展に示された個人的に興味深いトピックスを2~3挙げておく。
1.土井ヶ浜遺跡の埋葬法は幾つかあり、砂中に穴を掘って簡易に埋葬されたものが多い。その素朴さ故に砂中の石灰分が骨の保存に役立っているらしい。箱式石棺や簡単な配石・墓石もあるらしいが、北九州の早期弥生時代に特異な支石墓は見受けられない。頭骨を一ヶ所に集めた集骨墓があり、抜歯習慣があることも認められている。
埋葬品は貝製装飾品や南海産貝輪(ゴボウラ・イモガイ)などが多出している。
2.頭骨でみる発掘分布図があった。  頭骨を見て、その違いを見つけることは素人には難しい。
「顔が高い・低い(顔高が大きい・小さい)とは、眉間と顎の先端を顔高とする」とあった 
渡来系弥生人(土井ヶ浜)
顔が高く、鼻が低い 
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金隈遺跡(福岡県)出土人骨
西北九州弥生人(大友遺跡・佐賀県)
顔がやや低く、鼻が高い
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南九州弥生人(広田遺跡・鹿児島県) 
顔が低く、鼻が高い
3.弥生人のDNA
福岡県・安徳台遺跡の甕棺に埋葬された渡来系弥生人骨の次世代シークエンサによる核ゲノム解析が行なわれた。その結果を、縄文人、西北九州弥生人、現代日本人と比べると、渡来系弥生人は現日本人に近く、次に西北九州弥生人、離れて、縄文人となる。東北弥生人は縄文人に近い。

2019.04.01  新元号は「令和」です
             初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 (万葉集巻五)
             初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす

2019.03.27  改訂版ホームページ

 
20年来のホームページを一新した。改訂の目的・要点は、数年前の脳梗塞と加齢に伴う体力低下のため山旅・長旅・過密計画の旅が容易でなくなり、今後の行動に併せて一区切りとすることにあった。一方、今回改訂した「遺跡・考古資料館」には、Yahooジオシティに掲載した古い記事を転載した。20年前のホームページ作りは、インターネットプロバイダーを契約するとそのサーバーの一部(数メガバイト)がホームページ用として提供されることから始まった。現在のホームページ用レンタルサーバーが、数十・数百ギガバイトのサーバー契約するのとは雲泥の差がある。Yahooジオシティはホームページ用の大きなサーバーを用意して、あらゆる分野を網羅する斬新的な仮想社会を作ろうと意図したものであった。IT社会の変化とともにその役割を終え、3月末に閉鎖された。

阪神間で育ったこともあり子供の頃から”日本の昔”に接することが多かった。小学6年生時に、当時では珍しかった”吉野への一泊卒業旅行”があった。宿泊した僧坊の大部屋で、山伏さん(修験者)が絶妙な語り口で講じる南北朝秘話「桜井の別れ」に胸を躍らされた。大学卒業時には、中高校時代の友人と斑鳩の地を訪れた。事情は忘れたが、夕暮れ時に、当時解体修理を控えた法起寺三重塔の内部をお寺の方に案内して貰った。現場は夕飯前の子供の遊び場にもなっていた。今では国宝として凛として立つ塔であるが、親しみを持って眺めることが出来る。

理系の仕事に就き遠ざかった”日本の昔”であったが、定年近くになって”日本の昔”が再燃した。斑鳩・飛鳥の姿は日本の象徴となっていた。”もっと昔”へと心は動き、北海道のアイヌ集落を仕事の合間に10年間通い続けた。”先住民”と呼称されるアイヌは、中世に欧州人が世界進出した際のワード”先住民”の流用であり、必ずしも日本人の祖先を意味しない。しかしながら、シャッフルされる機会が小だった民族という意味で、アイヌの存在は貴重となる。DNAより日本人の源流を求める際には一つの集団として重視される。北海道に暮らした旧石器人、その旧石器に特徴的なスポール接合資料などを、現場で見る機会を今探している。

生涯学習として”日本の本当の昔”に接することを意識しだした平成12年(AD2000年)、日本の旧石器時代は”捏造事件”に揺れていた。私の入門の扉は古墳時代・縄文時代とし、それも”実際に現場・現物を見ることから始める”を主旨とした。当時住んでいた多摩丘陵近傍、関東から東北の古墳・縄文遺跡探訪から始めた。関東の古墳は保存状態が良くない場合も多いが、陵墓の制約のきつい本場・近畿の古墳よりも”有りのままの姿”が見られる利点もある。東北の縄文遺跡・土器に関しては、明治維新・文明開化以来の豊富な研究成果が残されている。

明治維新では真先に考古学・人類学が近代学問として取り込まれ、考古学は土器研究の分野で独自な成果を残している。日本の考古学の基幹をなした縄文土器の見方をある程度理解した上で、弥生土器(土師器・須恵器)の時代への変遷を理解する必要がある。詳細に築き上げられた縄文・弥生土器の編年は実年代と結びつく。実年代が測定可能な炭素14(14C)較正年代と一致することが広く認知されたのはごく最近のことである。弥生時代の始まりは、北部九州で従来設よりも約500年程溯り、関西、関東、東北での地域差も明らかにされた。

現在の私の日本国誕生イメージでは、皇極(重祚して斉明)天皇の時代と壬申の乱(天武・持統朝)を重視している。斉明・持統女帝は人口に膾炙される”卑弥呼像”と重なっている。斉明天皇は敏達ー押坂彦人大兄王ー(舒明)・茅淳王皇極ー天智・天武ー持統とつながり、蘇我氏が重用された用明系の系図と並立する。斉明天皇は「日本国誕生」を宣言した「日本書記」では、譲位の記事中で”皇祖母命”と称された。天皇(大王)を皇祖とする思想の発現をここに見る。

従来過度に意識された「米作りと神祀り」概念の強い弥生時代は、現実の考古遺跡・遺物と新しい年代観で見直される。これと関連して、戦中に持て囃された”紀元2600年観”ではなく、人類出現からの700万年間、現実的には、”現代的人類が日本列島に到達した3~4万年前(後期旧石器時代)からの年代観”を重視する。ここでも古年代の正確な測定がベースとなる。これらを意識して今後さらに理解を深めたい。私にとっては、遺跡・遺物と人類史はあくまで学習であり、知的好奇心を絶やすことなく人生を送る糧となり、”日々是好日”を実現するための課題となる。
 

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