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日々是好日
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2019.12.19  岩屋山古墳・牽午子塚古墳 (奈良県 明日香村)

 
 
皇極/斉明大王を中心とした系図
数字は神武天皇を初代とした天皇の代
太田皇女は持統の姉 大海人皇子(天武)の妃として大伯皇女・大津皇子を生む 大伯皇女は初代の伊勢斎宮
(奈良時代) 42文武ーー45首皇子(聖武天皇)-46孝謙・48称徳ー
 

前回記した「天理」への旅は、古墳時代前期またはそれ以前のヤマトである。その旅の途中に、近鉄吉野線・飛鳥駅の西側地域にある岩屋山古墳と牽午子塚(けんごしづか)古墳に立ち寄った。古墳は、樫原市と高取町の間をぬって明日香村が細長く西に伸びた地域にある。牽午子塚古墳は考古学者の認める斉明(重祚前は皇極)天皇古墳として、現在(令和2年3月25日まで)、整備・公園化中である。

継体大王の時代を始めとした系譜を眺めると、日本国の誕生は、中大兄皇子(天智天皇)による乙巳の変(645年 大化改新)と天武・持統による壬申の乱(672年)を契機として体制が整ってくる。
天智・天武は舒明と皇極(斉明)の子である。男系天皇を重視する皇統では、押坂彦人大兄王子(即位せず)の存在が重要となる。押坂大兄(オオエ)と糠手姫の子・舒明と押坂系の茅淳王と吉備姫王の子・皇極との子が天智以下の皇統譜を作る。日本書紀では、皇極を皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼んだと記す。
実録としては、押坂の父・敏達から皇統は一時的に、用明・崇峻・推古と蘇我氏と深く関わる皇統に移った。昭和のある時期までは、蘇我系の厩戸皇子は聖徳太子として祭り上げられたが、戦後、実態が解明されるとともに、過剰な虚飾は拭い去られた。蘇我系の人物・家系を殊更に悪く言うことはないが、右の系図に見る押坂系の系譜が現在の皇統譜を形成していることは間違いない。

考古学者の認める継体以降の御陵は、継体・今城塚古墳、欽明・五条野(三瀬)丸山古墳、敏達・磯長中尾陵、舒明・段ノ塚古墳(桜井市)、斉明・牽午子塚古墳、天智・御廟野古墳(近江)、孝徳・大阪磯長陵、天武持統・野口王墓古墳となっている。

宮内庁は「車木ケンノウ古墳」を斉明天皇越智崗上陵として管理している。江戸末期・幕末に、対外政策として天皇陵同定が急遽必用となり、車木の辺りが天皇山と呼ばれていたことを根拠に指定されたという。この古墳は17mφの円墳で、古墳内容も不明で、斉明陵としては似つかわしくない。近鉄・吉野線とJR・和歌山線・玉手駅に挟まった丘陵(真弓崗、越智崗)の東側に牽午子塚古墳が西側に車木ケンノウ古墳が位置する。

日本書紀に「斉明天皇と間人(ハシヒト)皇女(孝徳皇后)を小市岡上陵に合葬し、太田皇女(天智皇女・大海人皇子妃)を陵の前の墓に葬った」と記されている。牽午子塚古墳の直近20m南に太田皇女の墓と思われる古墳が見つかった。「越塚御門古墳」という。牽午子塚古墳の埋葬施設は合葬可能な横口式石槨で斉明陵として妥当な編年を与え、野口王墓に見られる夾紵棺(キョウチョカン)断片、金銅製棺金具、ガラス玉など高貴な遺物が出土した。出土した臼歯は30~40才の女性で、間人皇女のものとの説もある。2010年(平成22年)の発掘調査で、牽午子塚古墳が八角形墳であることを示す石積みが見つかったことにより、斉明陵であることが決定的となった。墳形は対辺間距離18.5m~22.0m、外側二重に巡る砂利敷きを含めて約32mとなる。高さは4.0~4.5m。出土品は重文指定されている。

八角形は中国思想で「天」を表現し、中国思想に傾倒したこの頃以降・奈良時代にかけて、皇統の正当性の表章とされた。天皇の玉座は八角形である。八角形墳は押坂系皇統譜を継ぐ舒明陵(段ノ塚古墳・桜井市忍坂)で最初に採用され、天智陵(御廟野古墳・近江)および天武持統陵(野口王墓・明日香)も八角形墳である。斉明天皇(大王)については中国思想・道教に傾倒した話が多く、その陵墓が八角形墳である必然性は極めて高い。

斉明大王あるいは押坂系の大王は、明日香の不思議な石造物と関係が深い。斉明大王は「宮の東の山に石垣」(酒船石遺跡)、中大兄皇子は「漏刻」(水落遺跡)を遺した。酒船石遺跡では、岡の上に人体解剖図まがいの岡酒船石、岡の下の亀形石造物・小判型石造物・石敷き・石垣などよりなる導水施設を造った。漏刻は官僚達の出勤を促す”時報”らしい。土木・技術系の施策も多く、神秘性と合理性が見え隠れする。

 
 野口王墓古墳 (天武・持統陵)
 2005.3 撮影
明日香村 檜隈大内陵 5段築成の八角形墳(対辺約37m、高さ約7.7m、下方部外周列石の対辺約40m)
玄室は2室ある切石積の石室(全長約7m)に骨蔵器(持統)と夾紵棺(天武)が納められている(持統は火葬された最初の天皇)
牧野(バクヤ)古墳 (押坂彦人大兄陵)
2010.6 撮影
二上山北側・広陵町 馬見古墳群に属す 両袖型横穴式石室をもつ円墳(55mΦ、高さ約13m、3段構成)である
皇極天皇(乙巳の変)
2005.03 レプリカ撮影
談山神社で見る乙巳の変の図 中大兄と中臣鎌子が蘇我蝦夷の首を切捨てる 御簾内に皇極天皇
(mouse-over)  雪の日/談山神社
 

 牽午子塚古墳の石室(横口式石槨)

押坂大兄の墓・牧野古墳の横穴式石室(玄室)は(7.0m×3.3m×(高さ)4.5m)で、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の玄室(7.7m×3.5m×(高さ)4.7m)に次ぐ大きさである。
牽午子塚古墳の埋葬施設は中央に幅0.45mの仕切り壁のある(長さ)2.1m×(幅)1.2m×(高さ)1.3mのほぼ同規模の東西二室構造
、巨大な二上山凝灰石を刳り貫いた一体構成の横口式石槨である。二室にそれぞれ棺を治める棺台が設置されている。越塚御門の埋葬施設も刳り貫き型の横口式石槨であり、こちらは天井部と床石の二石構成である。(長さ)2.4m×(幅)0.9m×(高さ)0.6mと測られるが、天井部は欠損部が多い。墳丘部は墓道の存在は認められているが、詳細は不明である。



益田岩船 (橿原市) 
花崗岩で造られた一体(刳り貫き)式の横口式石槨 牽午子塚古墳の石槨と同じ構造 精巧・正確な工作に驚く
 
   鬼の雪隠(蓋石)・ (mouse-over)
 鬼の俎(床石)  (明日香村)

終末期古墳の横穴式石室(玄室)は、薄葬化への趨勢とともに7世紀の後半に、豪勢な切石積みの石室から簡素化した横口式石槨へと変化した。

一昔前に明日香を歩くと、「飛鳥の謎の石造物」として、須弥山石、石人像、猿石、酒船石、亀形石造物、小判形石造物などとともに、益田岩船を見受けた。これらの或る物は、石神遺跡、酒船石遺跡、苑池遺構などの発掘調査が進むと、饗宴広場の装飾品・噴水、苑池の導水施設などであることが分かった。

益田岩船は、丘陵上にあることから以前には、天体観察台、天神への祭祀台などの案も提出されたが、現在は、横口式石槨の未完成品として牽午子塚古墳・越塚御門の石槨と同時代、鬼の雪隠(セッチン)(マナイタ)に続く年代のC型(羨道なし)横口式石槨とされている。この型式の横口式石槨としては、石の宝殿古墳(寝屋川市)が古い。

岩屋山古墳と牽午子塚古墳(工事中)
 
近鉄吉野線「飛鳥駅」 駅前に案内所
(mouse-over)
駅から線路沿いに少し戻り線路を越え左へ、
すぐに岩屋山古墳の入口
石段上に岩屋山古
一片45mの方墳または八角形墳 
斉明の墓所と見られたこともあるが、書紀の云う”合葬”に難

(mouse-over)
横口横穴式石室は羨道つき
石室内は全室と奥に玄室
(mouse-over)
玄室高は高く、広く精密な切石の積上げ
牽午子塚古墳へ900m、
真弓かんす塚古墳へ1.5km
牽午子塚古墳公園
史跡地の整備をしています
(mouse-over)
令和2年3月25日まで
牽午子塚古墳を拡大(望遠) 
越塚御門古墳(大田皇女の墓)は墳丘か覆屋に復元される予定
(mouse-over)
明日香(飛鳥)の景観
牽午子塚の下部が八角形であることは発掘調査によって確定したが、上部の様子は確定されたとは言えない。
復元案でも、牽午子塚古墳については、(A)上部の段築を行わない案と(B)最上部まで想定し3段に段築する案、越塚御門古墳については、(A)裾部レベルで覆屋と墓道の一部復元案と(B)想定復元墳丘を模した覆屋と墓道の全復元の案が検討されている。(明日香村「整備基本構想」、平26.3) 上の写真では何れが採用されているのかは分からない。
構想では、古墳周辺は昭和30~40年代の景観の復元を目指している。シイ・カシ・果樹園を中心とした樹林地、谷地・水田・田園が調和した姿での公園化が意図されている。出来上がりに期待したい。
     
 
 

重見泰(橿考研):大和考古学講座「斉明天皇と飛鳥の陵墓群」、名古屋、2018.2 によると、
真の欽明陵を五条野丸山古墳とすると、梅山古墳(現欽明陵)は敏達未完陵、カナヅカ古墳(欽明陵陪塚)は吉備姫陵、鬼の俎・雪隠古墳は建皇子(斉明の孫)と斉明の合葬陵とする。
日本書記によると、吉備津姫没は643年、建皇子没は658年、斉明大王崩御は661年、間人皇女没は665年、太田皇女没は667年、斉明大王・間人皇女の合葬と太田皇女を陵の前に葬ったのは667年である。

”吉備嶋皇祖母”と呼ばれた吉備姫は、現欽明陵(梅山古墳)脇の古墳に、4体の猿石(僧・山王権現・男・女)とともに形式的に祀られてきた。カナヅカ古墳(方墳)はより似つかわしい。建皇子(持統・太田皇女の姉弟)が早死(8才)した際に、斉明は深く悲しみ、建皇子との合葬を望んだと伝えられている。斉明は661年、百済復興を期して九州に赴き、7月、朝倉宮で崩御した。10月、亡骸は帰路につき、11月、飛鳥川原に殯した。天智の御代になり百済救援は急務となった。故斉明は先ず鬼の俎・雪隠古墳に建皇子と合葬され、後に、天智は近江遷都直前に、斉明と間人皇女を牽午子塚古墳に合葬・改葬し直したと思われる。
牽午子塚古墳・梅山古墳・カナヅカ古墳・鬼の雪隠/俎古墳、野口王墓古墳は、飛鳥板蓋宮跡・亀形石/酒船石遺跡を含めて”飛鳥の謎の石造物群”と絡み合って、明日香村の東西に並んでいる。斉明期を特徴づける”飛鳥の石の文化”は、この時代の飛鳥を物語っている。




2019.11.30  天理参考館・石上神宮 (奈良県天理市)

JR・近鉄「天理駅」からアーケード商店街を東へ向かうと天理教本部(神殿)に至る。天理教は江戸末期に教祖・中山みきが興した一神教の新興宗教で、神殿には天理王と教祖を祀る。神殿は総檜造りの純和風で、その大きさに驚かされる。天理教本部から真南へ幅広い道路を下ると天理参考館に至る。正式には天理大学付属天理参考館で、1930年(昭和5年)に天理教を海外布教するための海外事情参考品室を始めとしている。2001年(平成13年)に天理教風建物に新築リニューアルされ、現在約30万点の資料を有し、約3千点を公開している。街中で見る天理教関連の大きな建物(大学・病院・詰所(宿泊施設)など)はデザインが統一されていて、下の写真に見られるように、コンクリート建物に瓦屋根が幾つか乗っかかる湯屋風である。参考館も正にその代表的な建物であるが、館内・展示方針は通常の博物館と変わりはない。

天理市には古代遺跡が多い。天理教本部周辺は古代豪族・物部氏の居住空間であり、古墳時代の標識土器(布留式土器)を出土する”布留遺跡”である。弥生時代から古墳時代への土器形式は、弥生Ⅴ期・庄内式・布留式と変わる。弥生後期の土器壁が4~5mmあるのに対して、庄内・布留式土器は1.5~2mm程度に薄くなる。布留式土器は布留0式、1式、2式と分類され、実年代はAD300~470年とされる。箸墓古墳からは布留0式土器が出土している。今回は訪れなかったが、参考館より南側に広がる杣之内(そまのうち)古墳群は、物部氏の奥津城として、古代を探るに興味深い。

天理市の東端・龍王山山麓には「山の辺の道」が通る。奈良と桜井を結ぶ最古の古道で、天理(石上神宮)から三輪(大神神社)の南コースはとくに歩く人が多い。竹之内と萱生の環濠集落、大和神社、黒塚古墳、行燈山古墳(崇神陵)、櫛山古墳、渋谷向山古墳(景行陵)、巻向川を越えて桧原神社、狭井神社と大神神社、磯城宮伝承地を経て桜井駅に到達する。

布留遺跡より北へ、名阪国道の北側に東大寺山古墳(古墳時代前期中葉・4世紀後半)がある。この古墳からは、「中平」(2世紀末(AD181~190)後漢の年号)の紀年銘を含む24文字が金象嵌された鉄剣が出土している。古墳は天理教施設内にあり、以前に、墳丘内に立ち入るに際して施設に声掛けすると、墳丘内の地図を描いた案内図を頂いたことがある。この鉄剣(長さ110cm)は東京国立博物館で見ることができる。東大寺山古墳の周辺は、5~6世紀の豪族・和邇氏の本拠地であり、弥生後期に奈良県最大の高地性集落が営まれた跡地である。中平銘鉄剣の存在は、和邇氏の祖先が中国大陸と何らかの交渉に関わっていたと解される。

天理参考館
1Fと2Fは「世界の生活文化」の展示、
アイヌ、朝鮮半島、中国・台湾、バリ、ボルネオ、インド、アジア、メキシコ・グアデマラ、パプアニューギニア、日本
伝統社会、祖霊信仰、伝統美、精霊、ヒトの暮らしなどをテーマとする
3Fは「世界の考古美術」が展示されている
日本、朝鮮半島、中国、オリエント、布留遺跡
縄文/土器・土偶、弥生/甕棺・銅鐸・矛・剣・絵画土器、古墳時代/石釧・石製品・大刀・武具・馬具、
飛鳥奈良/軒瓦・須恵器、富雄丸山古墳(奈良市大和田町)の三角縁神獣鏡、東日本大震災復興支援(大洞貝塚など)などの展示がある

以下に、天理市街風景と参考館での考古美術展示を数枚の写真で示す
布留遺跡(赤枠)は、
東西に流れる布留川の扇状地(約2km)に広がる。右(東)に石上神宮、中央(現在地)が天理参考館、左上(西)に天理駅
写真下半分(南側地域)に杣之内古墳群がある 
天理大学附属天理参考館(南側) 湯屋風の建物 
(mouse-over)
天理教本部側から天理参考館を見る
 

 参考館1F入口(エントラントホール)
古代メキシコ・オルメガ文明を象徴するオルメガ石頭像(レプリカ)が出迎える
   
  地中海地域 ギリシャの陶器・ガラスなど
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エジプトの神像、神鳥、スフインクス
     
  西アジアは、
1万年前に始まった農耕遺跡と都市国家の成立がテーマ
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朝鮮半島 多岐に亘る興味深い資料が多い
  中国  青磁神亭壺(三国~西晋 3世紀)
多くの建物・人物・動物で飾られた葬送儀式用の壺  
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龍山文化の黒陶と馬家窯文化の彩陶 仰韶文化に次ぐ
     
 
縄文土器・土偶の展示
戦前に東北・関東で発掘されたものが多い 
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弥生時代の滋賀の銅鐸、九州の青銅製矛、
唐古・鍵遺跡の絵画土器など
 青銅製酒つぼ(前10世紀)
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殷(前13~11世紀)の玉(ぎょく)
中國では玉が最も権威ある象徴・宝器・神器であった
 
     
 布留遺跡(アラゲ地区) 4世紀後葉~末
円筒埴輪・朝顔形埴輪がまとまって出土 出土情況から、
埴輪は住居空間での祭祀で結界として用いられた配置を復元 
円筒埴輪の一段に二列の透かし穴にも注目

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布留遺跡(杣之内火葬場:奈良時代)出土の海獣葡萄鏡
  布留遺跡出土の馬型埴輪
時代を反映する数々の馬具により飾り立てられた姿に注目

     
天理教本部(神殿) 
東・南・西と北の礼拝場、それらを結ぶ回廊は総檜造り
PM2:00に通りかかると、音楽が流れ信者たちは一斉に深々と拝礼
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正面(南礼拝堂)、3157畳の大広間 
商店街は参道 背に天理教を染抜いた法被姿が通る
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アーケードが途切れて休憩所(庭)があった
信者の奉仕活動なのか、掃除の行き届いた庭

天理教本部から更に東へ進むと石上神宮に達する。石上(いそのかみ)神宮は「ふつのみたまの大神」を祭神とし、記紀神話に見られる「ふつのみたま」なる霊剣を御神体とする。霊剣は古代軍事氏族物部(石上)氏によって伝えられ、崇神天皇の世に物部氏の総氏神として祭られた。かつては本殿はなく、現在の拝殿裏の禁足地に主祭神が祀られていた。
神宮号は、日本書紀では伊勢神宮・出雲大神宮(大社)・石上神宮に限られていた。平安時代に成立した延喜式神名帳では伊勢神宮内宮(大神宮)・鹿島神宮・香取神宮となっている。現在の拝殿は鎌倉時代初期の様式で、現存する最古の拝殿として国宝指定されている。今の時期、布留川・石上神宮辺りの紅葉・黄葉が美しい。

石上神宮には七支刀(ななつさやのたち)という不思議な形をした刀が伝わる。この刀の金象嵌銘文には「泰和4年(369年)に百済王が倭王に贈るために特別に製作した」とある。東大寺山古墳の中平銘刀(2世紀末)と石上神宮の泰和4年銘七支刀(4世紀半ば)と比べると、1.5世紀の隔世がある。この1.5世紀の間に、朝鮮半島では楽浪郡・帯方郡の時代から百済・伽耶・新羅・高句麗の時代へ、、本邦では邪馬台国の時代から歴代大王の時代(古墳時代)へと大きく変遷した。

石上神宮
石上神宮 ニワトリがたむろする手水舎 右へ「山の辺の道」
(mouse-over)
右側の池の紅葉
楼門(鎌倉時代 重文)
(mouse-over)
楼門に面した石段上に 摂社 出雲建男神社がある
拝殿は元内山永久寺の遺構で、安土桃山時代の国宝
ニワトリが十数羽


拝殿(国宝) 祭神は剣 拝殿裏は禁足地
(mouse-over)
御朱印 七支刀(ななつさやのたち)(国宝)
   
石上 神宮の北側を流れる布留川
龍王山を水源として、石上神宮・布留遺跡を流れ
初瀬川、大和川と名を変えて大阪湾に流れ込む




2019.11.13  令和の初秋 (都市緑化植物園・春日井市)

公園内の所々に秋が訪れた 西陽が紅葉を照らす 冬を迎える作業に忙しい
  <万葉苑>

栴檀(センダン)(あふち)に多くの実がついた
春には紫色の花が咲く

「妹が見し あふちの花は 散りぬべし
わが泣く涙 いまだ干なくに」
山上憶良



2019.10.19  国府型ナイフ形石器 (二上山博物館ー奈良県)        


 近鉄「松塚駅」から見る二上山
   
Google map 二上山周辺
拡大表示でGoogleにログイン、又は、Google Chromeをブラウザにすると、共有した周辺の古代遺跡地点を表示します
   香芝市 二上山博物館
奈良県香芝市藤山1丁目17-17
ふたかみ文化センター1階
二上山(にじょうさん、ふたかみやま)は、大阪府と奈良県にまたがり、雄岳(517m)と雌岳(474m)よりなる双耳峰の優美な姿を、古代より崇拝の対象としてきた。難波・河内平野と飛鳥・大和盆地を結ぶ官道としての竹内街道と長尾街道は、二上山の南山麓と北山麓を巻いて、東山麓で合流する。河内平野に広がる5世紀の大王墓群(百舌鳥古市古墳群)、大和盆地に広がる3-4世紀の豪族・大王墓群、二上山の北と南に広がる馬見古墳群と近つ飛鳥・磯長の王家の谷(主として6~7世紀)など、二上山は古代天皇制(日本国)の成立を周辺眼下に見てきた。
二上山の役割はそれだけではない。古く、日本列島にヒトが到来した旧石器時代の後半に、二上山に大露頭を呈する火山岩類・サヌキトイド(サヌカイト)を用いて、この地域を特徴づける”瀬戸内技法による国府(こう)型ナイフ形石器”が造られたことにある。姶良丹沢(AT)降灰期を機に活発化した列島におけるホモサピエンスの生活に、他の地域で見られる縦長の石刃技法に対して横長の石刃技法を発達させた。ここでは、旧石器遺跡としての二上山に注目する
香芝市・二上山博物館を訪れた。
瀬戸内技法”として最も教科書的な「翼状剥片と国府型ナイフ形石器」を生んだ二上山を知ることを目的とした。
     
 
 二上山遺跡群
(展示地図に加筆)茶色地点が旧石器時代遺跡
色々なサヌカイトの原石
 中央に二上山の普通輝石シソ輝石安山岩質サヌキトイド、上:春日山、下:穴虫
左に 鬼の鼻山の普通輝石シソ輝石安山岩質サヌキトイド(佐賀)、
右に 複輝石安山岩(広島)
黒雲母ガラス質デイサイト(下呂町)の展示
国府型ナイフ形石器
(鶴峯荘第1地点(穴虫))
翼状剝片
(鶴峯荘第3地点(穴虫))

1.5万年前       
  Ⅵ期 ナイフ形石器の消滅、細石刃石器群の全列島展開、湧別技法、矢出川技法
  Ⅴ期 尖頭器石器群、細石刃石器群の拡がり
 2万年前      
  Ⅳ期 台形石器(九州)、ナイフ形石器の展開(中部、関東)、細石刃(北海道)
  Ⅲ期 ナイフ形石器の地方色(瀬戸内技法、東山・杉久保・男女倉・砂川・広郷)
2.9万年前  姶良Tn火山灰(AT)降灰期
  Ⅱ期 ナイフ形石器群の確立
  Ⅰ期 台形様石器群 
 4万年前      
列島の後期旧石器時代(堤隆:旧石器時代、p.25、2011、河出書房新社)による
  石刃文化を獲得したホモサピエンスは、出アフリカを果たし本列島に渡来し、列島の考古学が始まる。
AT降灰期と前後して(Ⅱ-Ⅲ期)、石器作りの地域的な特色が確立する。東北・北陸地方の杉久保・東山型、関東・東海・中部の茂呂型など縦長な石刃を作る技術に対して、中国・四国・近畿では瀬戸内技法による横に長い石刃と国府型ナイフ形石器を作る技術が主流となる。この基礎技術の地域差は、列島各地で独自に開発されたのか、数次に亘って渡来したヒトの出自・年次に関係するものか、興味深い 
石刃文化は「匠の技を標準化して量産化技術とした技法」により支えられている。量産技術としての石刃を作る業は、縦に長い剥片(石刃)を作る業と横に長い剥片(石刃)を作る業に分かれる。”縦長の剥片(石刃)”と”横長の剥片(石刃)”の違いは、その制作方法に依存する。”横長の剥片(石刃)”とは「剥片(石刃)が石核より剥がされる方向を垂直にして、左右が上下より長い剥片(石刃)」と定義される。
原石から石刃製作用の石核を打ち出し。石核から剥片(石刃)を打出す。匠は石材の材質・性格を熟知して、石核形状・打点・剥がし方向を定め、縦あるいは横に長い剥片(石刃)を生み出す。石器研究者は、遺跡から発見された石器と残滓を接合することにより、ここで用いられた工程を探り出し再現する。この接合作業は緻密さ・根気・熟練を要す作業となる。 
横に長い剥片(石刃)の利用は、二上山の石器アトリエを中心に行われ、近畿・瀬戸内地方・全国に広まった。この技法は瀬戸内技法、横剥ぎ文化と呼ばれ、工程上で翼(つばさ)状剥片が生ずることを特徴とする。瀬戸内技法で作ったナイフ形石器は、1957年(昭和32年)に最初に発見された国府遺跡(大阪府藤井寺市)を記念して、国府(こう)型ナイフ形石器と命名された 
 
桜ヶ丘第1地点(穴虫)出土
           翼状剥片       敲石
翼状削片(ファーストブレーク)             
  切出型  ナイフ形石器   楔形石器 石刃 石刃核
国府型ナイフ形石器      剥片
    鶴峯荘第1地点(穴虫)・サヌカイト探掘坑出土 
(香芝市文化財)
  翼状剥片     
翼状剥片(ファーストブレーク)     楔型石器
 国府型ナイフ形石器   石錐    XXX  XXX
     
 香芝市指定文化財 接合資料 
鶴峯荘第1地点遺跡
   接合資料  左写真の右下(外)部分を拡大
翼状剥片石核+翼状剥片  盤状剥片石核+盤状剥片
破砕した盤状削片の一片を削器に加工  盤状剥片石核+盤状剥片
二上山文化は、サヌカイト・凝灰石・金剛砂(ガーネット材)の三つの石に支えられた。
二上山は神の山であるとともに、工業・技術集約の山として、旧石器・縄文・弥生・飛鳥奈良・平安時代に、常に足跡を残してきた
縄文時代の二上山遺跡
縄文早期の押型文、前期の羽状文(北白川下層式)、爪形文土器
 
縄文石器として、石匙、剥片、槍先型石器、石核、磨製石斧など
(mouse-over)
弥生時代の二上山遺跡
槍先形石器の原産地生産拠点となり、周辺地域(河内平野や
奈良盆地、唐古・鍵遺跡など)に原石を含めて供給していた
古墳時代(二上山凝灰石で造られた石棺)
5・6世紀の王者の棺は二上山凝灰石で造られた
(mouse-over)
二上山の金剛砂(ざくろ石)
奈良時代以降、研磨剤として利用された金剛砂
       (ざくろ石:ガーネット)
参考:シリーズ「遺跡を学ぶ」136 佐藤良二「サヌカイトに魅せられた旧石器人 二上山北麓遺跡群」 2019.8 新泉社 
     香芝市二上山博物館 展示解説「よみがえる 二上山の3つの石 第4版 2000.4



2019.09.18  人類の進化と石器 (名古屋大学博物館)
         名古屋大学博物館(古川記念館)は東山キャンパス内にあり一般公開されている。名古屋の財界人・古川為三郎氏寄贈の図書館・資料館の建物を改修、
         2000年に国内で5番目の国立大学博物館として、名古屋大学所蔵の学術標本・資料・研究成果を収蔵・公開している。
         前回につづいて、日本の旧石器時代を理解するために、ホモ属(原人・旧人・新人)の石器作りの変遷を覗いてみた          

博物館を入ってすぐに、常設展示:「人類の進化と石器」のコーナーがある。双方が関連する二つの課題をみる。一つは、大参義一氏の「名古屋大学アフリカ考古学調査隊」 (1968-1980)の記録が、当時の映像を中心に紹介されている。二つは、門脇誠二氏の西アジアでの調査(現在進行中)で、「ネアンデルタ―ル人(旧人)とホモサピエンス(新人)の石器文化」の概要が展示されている
現生人類(ホモ・サピエンス)は約30万~20万年前に北ー東アフリカで誕生した。その起源に関しては三つの仮説
= ①多地域起源説 ②アフリカ単一起源説 ③同化・ 吸収説 = がある
①と②を比べると、人類の進化を証明する化石がアフリカだけにみつかること、最近の分子生物学(遺伝子の系統樹)では現代人の起源を10~20万年前のアフリカを導くことなどにより②の方が優位に立つ。③は、②の立場で独立なホモ属(ネアンデルタ―ルとサピエンス)間に混血が起こったことを認める説で最有力といえる。約20万~5万年前に、ネアンデルタールとサピエンスが共存・共生していた。両者はともに石器を作り・使用した。ここでは考古学の立場として、両者の作り出した石器、作り方と使用などを比較・考察している。
 ”アフリカ”
前回(19.08.09)オルドヴァイ遺跡について記した
名古屋大学博物館には「オルドヴァイ文化での石器(レプリカ)」が展示されている
ケニア、クービ・フォラKBS遺跡の石器(レプリカ)
約180万年~160万年前に原人(ホモ・エレクトス)の作り出した石器 
 
 アフリカの下部旧石器時代(約180万年前~約35万年前)のハンドアックスとスクレイバーの実物展示 (名古屋大学博物館) 
”西アジア(レヴァント)”
ネアンデルタールとサピエンスは長期間共存していた。レヴァント・南ヨルダンには、両者の遺跡が混在する地域がある。レヴァントは北アフリカからヨーロッパへの出口・入口である。後期ムステリアン(約5万~7万年前)に、ヨーロッパに出向いていたネアンデルタ―ルが、何らかの理由でアフリカに一時帰還した。その際にこの地で、その頃出アフリカしたサピエンスと出合ったと考えられている

 (名古屋大学博物館)
  ネアンデルタール人がいた頃の石器
(後期ムステリアン 約5万~7万年前)

現在の南ヨルダンのカルハ山周辺は砂岩の大地であり、浸食された谷や岩陰があり、その岩陰に石器を包す遺跡がある。ネアンデルタ―ルがいた中部旧石器後葉のトールファラジ岩陰を取り巻いて、上部旧石器初頭~前葉のトールファワズ岩陰(上部旧石器初頭~前葉)など、幾つかの上部旧石器前葉(前期アハマリアン)の岩陰遺跡群がある。

ルヴァロワ技法による打製石器
(ルヴァロワ技法は基本的には旧人の技術)
左側;石核(トールファラジ岩陰出土) 打面を定めて、石核から削片を打ち剥がす方向が示されている
右側;ルヴァロワ・ポイント(尖頭器)など石器群(トールファラジ岩陰とトールファワズ岩陰出土の石器群)が展示され、中央部に石槍としての使い方が説明されている
     
 
(名古屋大学博物館)
   新人が拡散し始めた頃の石器
(上部旧石器時代初頭 約4万~5万年前)


トールファワズ岩陰(上部旧石器初頭~前葉)、ワディアガル岩陰(上部旧石器初頭)の石器群
上段5つの石器;
左端と右から2番目の石器については、「石器の展開写真」が示され、石器作りの剥離痕と剥離方向が示されている。
左から2・3番目の石器は「石器が剥離痕が残る石核」。
右端は「ルヴァロワポイント(ワディアガル)」で、この時期にはまだネアンデルタ―ルの石器製作技術が残っていたことを示す
下段の11の石器;
左側8ケの石器は、この時期の石刃が寸法として大きいこと、この石刃を素材として2次加工しての石器作り(石刃技法)が始まったことを示している。(トールファワズ)
右から3番目の石器は、ビュランと呼ばれる石刃から作られる彫刻刀のような道具。(トールファワズ)
右側2ヶの石器は、エンド・スクレーバーと呼ばれる先端の丸い削る道具(トールファワズとワディアガル)
    新人が定着した頃の石器
(上部旧石器時代前半 約3万~4万年前)


トール・ハマル岩陰出土の土器
(上部旧石器前葉・前期アハマリアン)

上段の2つの石器は、「石核:石器作りの素材として用いられた岩石の残り、石刃が剝ぎとられた痕がある」
下段の左から7つの石器は、石刃と小石刃、石刃の小型化が特徴
8・9番目;エンドスクレーバー、10番目;ビュラン、
右側5つの石器は、エル・ワド尖頭器、射的具の先端部、ヨーロッパに拡散した新人にも同様な道具があると解説されている 
  (名古屋大学博物館)    
  (参考) 堤隆:列島の考古学 旧石器時代、2011、河出書房新社、p.25 後期旧石器時代クロニクル によると、
約3万~4万年前の日本列島は、姶良カルデラ巨大噴火(約29,000年前)以前の旧石器時代であり、
Ⅰ期(前半期前葉:台形様石器が特徴)からⅡ期(前半期後葉:ナイフ形石器出現・定着)に相当する  
 
 ホモ・サピエンスのアジアへの拡散ルートが、東アフリカからか、あるいは北東アフリカからだったのかは興味深い。
遺伝学者はアフリカ北東部からレヴァントからユーラシア大陸内部・東南アジア・オーストラリアへのルート、さらに中國・朝鮮・日本、さらにアメリカ大陸のルートを描くことが多い。考古学的な資料からは、東アフリカからアラビア半島南沿岸、ユーラシア大陸の沿岸・インドに拡散したとする場合もあるこれらのルートに遺された考古学的証拠(石器など)の比較が重要となり、ルート上の地域での石器の変遷(編年)を比較することが大切になる。その際に問題となるのは、「技術の進歩がヒトとともに伝搬したのか、個々の地域での独自の開発によるのか、あるいは両者が絡み合ってのものなのか」を見定めるが、必ずし自明なことではない。いずれにしても、全地球上に進出したホモ・サピエンスは、それまでの他の人類に比べて貪欲さが優っていた
 東山動物園「アフリカの森」でチンパンジー・ゴリラなどサルたちと向かい合った後に、
東山丘陵を名古屋大学博物館、南山大学人類学博物館と見て歩き、”人類の進化と石器の変遷”に想いを馳す
日本列島の旧石器は、僅か4万~3万年前に到来した文化であり、その源郷は時間的にも距離的にも遥か彼方にある
内外の多くの考古学者により発掘された数々の石器は、人類の進歩・発展してきた痕跡を伝えてくれる
長い歴史を経て発現した石器には、人類の進化を秘める深い美しさがある  自分好みの石器を見つけ楽しむ
 

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