ー美濃・大和を周回 2ー
    伊賀上野・松阪 (三重県)
御墓山古墳石山古墳城之越遺跡はにわ館宝塚古墳
不破・関ヶ原から鈴鹿山系が南に延び、御池岳(1247m)、御在所岳(1212m)を経て、鈴鹿峠(亀山市関町)に至る。鈴鹿山系は西と東を分断している。さらに南には、笠取山(842m)を最高峰とする布引山地・青山高原が南に延び、上野平野と伊勢平野を隔絶する。

古代の伊賀上野は、ヤマトから宇陀・名張を経て、鈴鹿関(亀山市関町附近)・東国へと通う交通の要所にあった。
現在の近鉄大阪線は、伊賀神戸で、伊賀上野へは近鉄伊賀線、松阪・伊勢へは近鉄大阪線と別れる。国道では、422号線と165号線に相当する。国道25号線・名阪国道は、伊賀上野と天理・大阪を結び、名張の丘陵地帯を抜けている。

ここでは、伊賀上野を起点として、国道422を伊賀神戸へ、さらに国道165で松阪に向かうルートをとり、三重県の著名な古墳を訪ねる。

御墓山古墳 みはかやまこふん 三重県伊賀市佐那具町字天王下 国史跡
5世紀前半に築造された前方後円墳。全長180m、後円部径100m(高さ14m)、前方部幅80m(高さ10m)を測る。墳丘は二段に造られているが、前方部裾から下方に葺石を伴う段築があり、見かけは三段に造られたようになっている。後円部から北西方向に張り出すような形で”造り出し”が設けられている。後円部には盗掘坑があり、副葬品の出土は知られていないが、本墳出土の埴輪破片は多く残されている。(説明板より)
孝元天皇の皇子で四道将軍の一人・大彦命の陵墓であるとの伝えがある。大正10年に国史跡指定。
古墳全景 (西側から) 左端が前方部前面 御墓山古墳入口
佐那具町自治会・府中地区住民自治協議会の説明板 入口から一段上がった所に、二段構成の前方部前面下
石碑が立つ。ここに到達するのに、最下段の斜面を登ってくる。
前方部の左(東)側にまわる。周濠か基段か分らないが墳丘周囲は広い ”くびれ部”近くから墳丘に登る。左が後円部
後円部墳頂は広い 穴のように落ちこんだ所(?)がある。
後円部から前方部を見る。 東側に下りて、後円部を右回りに周回。後円部の西側
後円部西側の”造り出し”はよく分らない。
前方部の西側 後円部周周囲は広い。石杭が墳丘の範囲を示している。 二段目下を一周してくると、後円部周辺は最下面につながっている。杭の位置が墳丘二段目下で、前方部前面が一段高くなっている。

  近鉄伊賀線・市部駅  
    「ようこそ和歌の里いちべへ  
小夜更けてたれその杜のほととぎす名のりかけても過ぎぬなるかな 西行法師」の立看板が、駅前にある。
伊賀上野より近鉄伊賀線に沿い、国道422で伊賀神戸(いがかんべ)に向う。途中、市部駅を過ぎ依那古・丸山で、石山古墳、城之越遺跡を探す。伊賀神戸からは、国道165で、青山高原を青山峠で横断し、榊原温泉を経由して久居ICへ、南下して松阪に至る。木津川は青山峠近くを水源とする。
市部駅(近鉄伊賀線) 史蹟垂園森(たれそのもり) 和歌の名所。「われならずたれ其の森の玉桜 たまさかにもや色にそむべき 紀貫之」 のほか、西行、後鳥羽院、藤原忠家など多くの歌人が、この森について歌を残している。

石山古墳 いしやまこふん 三重県伊賀市才良
4世紀末〜5世紀初の前方後円墳。全長120m、後円部径70m、前方部幅40m、後円部の同一土壙内に3っつの粘土槨があり、鏡、玉類、甲、冑、石製模造品、鍬形石・車輪石・石釧など出土品が多い。後円部墳頂に方形埴輪列の埴輪配置があった。昭和23〜26年に京都大学により調査された。
丘陵上に位置するが、現在は入る道がよく分らない。 農作業をしている人に聞いても、鉄塔の下にあったが、現在は木が茂り、入ったことがないという。
結局、石山古墳は見ることが出来なかったが、
城之越遺跡のガイダンスに、紹介されていた石山古墳の「後円部墳頂方形埴輪列配置についの説明展示が興味深い。
「後円部墳頂外周に沿って円形に並べられた円筒埴輪列と、埋葬施設の上面に並べられた二重に巡る方形埴輪列があり、二重方形埴輪列の内側に、家型埴輪と囲形埴輪が置かれていた。
二重方形埴輪列の内側の列は、器材埴輪で構成され、四隅に蓋形埴輪を置き、その間を北・東・南側は盾形埴輪で、西側は「鞆(とも)」形埴輪を含む甲冑形埴輪が並べられる。外側の列は、前方部の一部に埴輪列が欠け、それ以外は上部に立飾りのない蓋を載せた鰭付(ひれつき)円筒埴輪で構成され、北側だけ鳥形埴輪と鳥形装飾をもつ円筒埴輪が含まれる。北側には、外側の方形埴輪列のさらに外側に、4基の靱形(ゆきがた)埴輪で構成された埴輪列があった。盾や靱などの形象埴輪は、全て表を外側にむけていて、埋葬部を護る意図が読み取られる。」

城之越遺跡 じょのこしいせき 三重県伊賀市比土字城之越4724  県史蹟・国名勝・国史跡
平成3年度の三重県埋蔵文化センターによる発掘調査により、古墳時代(4世紀後半)の大溝などの遺構が確認された。旧上野市教育委員会による平成4年度の大溝周辺の発掘調査により、古墳時代の竪穴住居・掘立柱建物・土坑、飛鳥から奈良時代の竪穴住居・掘立柱建物・溝・土坑、中世の溝などが検出された。大溝に立石・貼石が配された4世紀後半の大溝周辺には建物遺構は存在せず、独立した祭祀空間であったことが窺える。5世紀以降・飛鳥時代に至るまで、大溝から少し離れた所に竪穴住居が見られ、奈良時代・中世まで周辺遺跡は継続している。初期の祭祀空間である「貼石や立石をもつ大溝」を、最新の保護技術を用いて屋外展示している。祭祀広場とともに、古代の造園技術としても注目される。古墳時代や飛鳥奈良時代の祭祀・水宴の場は、群馬県・三ツ寺T遺跡や明日香・酒船石遺跡に伺えるが、その実際を見ることが出来るのは興味深い。
入口・ガイダンス施設より、大型掘立柱建物跡・マツリの広場を経て、「水の祭祀」場に臨む。後方は、近鉄伊賀線で電車が通る。 三つの井泉からの湧水は、北西への大溝に流れ込み、大溝は近鉄伊賀線を越えて西でも発見され、やがては木津川にそそぐと考えられている。合流点に階段があり、水辺に下りられる。
  
三つの井泉
下流の合流点に階段があり、貼石が施されている。 貼石と立石
三つの井泉・祭祀の広場・掘立柱の建物とつづく。
掘立柱建物は、二重に列柱がめぐる非常に大きなもの
ガイダンス施設内は、城之越遺跡の「水の祭祀」、出土品(壺など)の一部を展示する。祭祀用の木製の刀・黒漆で飾られた弓などが面白い。ほかに、近隣の弥生・古墳時代を紹介し、石山古墳、美旗古墳群の展示説明がなされている。美旗古墳群ハイキングマップが貰えた。また来てみたい。

松阪市文化財センター「はにわ館」 三重県松阪市外五曲町1番地
平成11年から平成17年までの宝塚古墳の発掘調査にともない、宝塚古墳公園を整備するとともに、平成15年に「はにわ館」を開館し、出土した多彩・多数の埴輪をまとめて展示している。宝塚古墳からの出土埴輪は多彩で、1号墳からは、円筒埴輪、壺形埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪、靱(ゆき)形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、甲冑形埴輪、高杯形埴輪、囲形埴輪、柱状埴輪、鳥形埴輪、船形埴輪など、2号墳からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪の5種類が出土している。
松阪市文化財センターの奥に「はにわ館」がある 展示室入り口 ”宝塚古墳の謎”が常設展示
    他に類例を見ない飾りを持つ大型の船形埴輪
全長140cm、高さ92cm。全国での船形埴輪出土例の中で最大。
船上に、左(船首)から大刀、威杖(大)、威杖(小)、蓋(きぬがさ)が並ぶ。船首・船尾の横木、大刀と蓋の左右の障壁、中央のピボット、円筒台2と船体を含めて、10固体が組み合わされて構成される。
  「湧水」を表現する囲形埴輪(かこいがたはにわ)
囲の中に家がある。家の屋根部分を取ると、「湧水」の場であることが分る。非常に珍しい。造り出しの西側では、「湧水」の囲形埴輪2点を中心に、柱状埴輪(出入り口を表す)と二重口縁壺が置かれていた。
他に、囲の中の家に「導水」する囲形埴輪(兵庫県行者塚古墳に次いで2例目)もある。囲の中に水を流す「首長の水のまつり」を表現する。

宝塚古墳 たからづかこふん 三重県松阪市宝塚町、光町
平成11年から平成17年まで、宝塚古墳の保存整備事業にともなう現地発掘調査が松阪市教育委員会により行なわれた。発掘調査は古墳の規模と構造を知るため最小限・部分的なもので、後円部の埋葬想定部分は除かれている。
  宝塚1号墳 
5世紀初に築造された前方後円墳。全長111m、後円部径75m(高さ10m)、前方部幅56m(高さ7m)、三段構成で前方部を東に向ける。各段上に埴輪が並んでいた。北側くびれ部にある”造り出し部”は、墳丘とは細い土橋でつながる18m×16mの方形壇で、全国で類を見ない。方形壇上には、多彩な140点を越す埴輪が、設置当時のままの状態で見つかった。旧伊勢国で最大規模の古墳で、松阪市外南3kmの丘陵上にあり、広い地域に影響を及ぼした首長の墓と考えられる。この周辺には、40年以前には80基を越す円墳などが存在したが、市街地拡大により殆どが消滅した。
国史跡・宝塚古墳は、1号墳と2号墳よりなる。 他に見たことがない広い造り出し部が目立つ。
造り出し部には葺石が貼られ、土橋で墳丘とつながる。
後円部墳頂より前方部(東向き)を見る。北側下に造り出し部 後円部墳頂(西側の景色)
造り出し部(西側)を墳丘側から 西辺中央に涌水囲形埴輪があり、南側・墳丘との間に大型の船形埴輪と家形埴輪がある。葺石の状況もよく分る。  造り出し部(東側)を墳丘側から 方形壇は円筒埴輪で囲まれる。
  宝塚2号墳 
帆立貝式前方後円墳。全長90m、後円部径約89m(高さ10.5m)、前方部幅約40m・長さ19m(高さ2,9m)、前方部二段・後円部三段の構成で階段的に築造されている。前方部を南に向けているが、前方部の一部は道路で削られている。1号墳の後継者の墓と考えられる。1号墳では見られた壺形埴輪は出土せず、朝顔形埴輪が使用されている。
円墳に見えるが、短い前方部をもつ帆立貝式前方後円墳である。 前方部側から見る2号墳 道路で前方部は削られる。

美濃・大和を周回 1 三河・遠江へ