ー美濃・大和を周回 3ー
  三河・遠江 (愛知県、静岡県)
正法寺古墳吉良町歴史民俗資料館伊場遺跡兜塚古墳松林山古墳御厨古墳群
美濃の古墳巡りから始った旅であったが、近江・ヤマトに寄道して(別記)、太平洋岸の古墳・遺跡に立寄りながら帰京した。

4世紀末の矢作川流域では、その中流域の安城市周辺に、前方後方墳・二子古墳(墳長81m)を盟主とする古墳群が築かれたが、5世紀初頭に、西三河最大の前方後円墳・正法寺古墳が矢作川河口・吉良町に出現する。伊勢から三河に至る「幡豆(はず)」の海の海上拠点として位置づけられる。

遠江(とおとうみ)では、天竜川流域の兜塚古墳(5世紀初頭・円墳)と太田川流域の松林山古墳(4世紀半ば・前方後円墳)・御厨古墳群に立寄ることにした。
松林山古墳は、遠江で初期に前方後円墳が築かれたものの一つで、舶載三角縁神獣鏡を出土し、埴輪が使用され、鉄製武器・玉類など出土品が多く、興味深い古墳である。

正法寺古墳 (しょうほうじこふん)  愛知県幡豆郡吉良町乙川
古墳時代前期末〜中期初頭・4世紀末〜5世紀初築造の前方後円墳。全長94m、三段構成。各段には埴輪が並び、葺石でおおわれていた。前方部を西南西に向ける。 平成13・14年に発掘調査され、くびれ部に島状遺構が見つかった。埋葬施設は未調査。出土品は、円筒埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪など。西三河最大級の前方後円墳。(吉良町教育委員会説明板より)
吉良町教育委員会の説明板
県道316の白浜小東を東に入ると正法寺入口がある。石段を登った崖上に正法寺があり、その左奥に白山神社、正法寺古墳がある。古墳公園になっている
前方部(三段)からくびれ部   《東南方向から見る》  くびれ部から後円部(三段構成)
後円部墳頂から前方部を見る 後円部
前方部の下・南西側 正法寺からつづく古墳下・南東側
正法寺古墳から南を見る。 三河湾が広がる。 吉良温泉に向う道路・南側から正法寺古墳のある丘陵を見る

吉良町歴史民俗資料館 愛知県幡豆郡吉良町大字白浜新田字宮前59−1
正法寺古墳の500m南に位置する。岩場古墳の出土品展示を中心に、正法寺古墳、岩谷山1号墳、若宮1号墳(4世紀末〜5世紀初の径30mの円墳、獣形鏡が出土)の出土品とパネル説明がある。
吉良町北部・岡山丘陵上には、吉良家菩提寺・華蔵寺、消滅した中根山遺跡((弥生時代後期から古墳時代中期までの大規模集落遺跡、弥生時代の環濠が見つかった)、中世の善光寺沢遺跡などがあり、出土品が展示されている。吉良町は、吉良上野介・吉良仁吉・尾崎士郎と吉良温泉で有名な町だが、中世の東条吉良、国宝金蓮寺弥陀堂など史蹟が多い。資料館には、「吉良の里 史蹟めぐりマップ」が用意されている。
吉良町歴史民俗資料館
佐久島を望む三河湾・吉田港にある
  岩谷山1号墳(移築された)の10mを越える大型の石室
岩谷山1号墳は、7世紀前半築造の径約14mの円墳。大正2年に発掘され、金銅製大刀、鉄刀、鉄鏃、金環、須恵器、土師器などが出土した。資料館に展示されている
      岩場古墳出土品  大型の円筒棺(はにわ棺)が珍しい。全長193cmで、蓋がついている
岩場古墳は、古墳時代中期・5世紀前葉〜中葉に築造された墳長約30mの帆立貝式前方後円墳。墳頂から円筒棺が出土し、棺内からは勾玉・管玉、鉄刀2本が出土した。吉良CCの北側、勝楽寺東側の尾根先端に位置する

伊場遺跡 静岡県浜松市中区東伊場二丁目22−1
三方原台地南端の海食崖を北側にひかえた低地帯にあり、古い時代の砂州を基盤にして営まれた遺跡。東西300m余、南北180mと推定され、縄文時代から鎌倉時代まで、継続的に集落が営まれた。奈良時代には役所となっていた。 (説明板より) 重要遺跡が公園として残され、古墳時代の住居、高床式住居などが復元されている。JR浜松工場、社宅、JR貨物線、引込線、東海道線、新幹線など入混んだ場所の中央部に保存されていて、遺跡へは国道257・森田町から入る。昭和49年に土地開発に伴う静岡県の史蹟指定解除があり、遺跡保存運動グループは、その解除取り消しを求める訴訟を行なった。この伊場遺跡訴訟は、平成元年に最高裁で否決された。

伊場遺跡資料館
説明板 奈良平安時代の掘立柱建物群跡
弥生時代の環濠の一部が保存されている。3重の環濠が掘られ、環濠からは大量の弥生土器、木の鋤や鍬が出土した。日本最古の木のよろい(短甲状木製品)も発見されている        大溝(古代の小川の跡) 
大溝から土器、木製品、貝殻などの食べかす、木簡などが大量に発見された

兜塚古墳 (かぶとづかこふん) 静岡県磐田市見付4075
かぶとづか公園内、磐田市総合体育館の東側にある。
昭和19年、塹壕掘削中に鏡・玉類が発見された。昭和34年に墳丘が測量され、昭和53、61、62年に周囲の環境整備に伴い周濠の調査が行なわれた。

古墳時代中期・5世紀頃築造された径80m、高さ8mの円墳。円墳では県内最大。墳丘は二段構成で、中段のテラスは幅広い平坦面となっている。裾部はかなり削平されているが、南側は比較的旧状をとどめている。葺石が貼られ、中段には埴輪が並べられていたと推定されている。

墳頂部から出土したと伝えられる鏡、玉類、大刀があり、鏡は三神三獣鏡で、表面には布跡と朱が付着している。主体部は、戦時中に掘られたため不明だが、石室と推定されている。
(平成19年、磐田市教育委員会の説明板)
遠江の大型古墳(前期・中期)は天竜川流域と太田川流域に集中している。天竜川流域は、さらに三方原台地東縁、磐田原台地西縁、磐田原台地西南縁に分かれ、兜塚古墳は磐田原台地西南縁に属する古墳である。先行する古墳としては庚申塚古墳(前方後円墳)がある。太田川流域は、磐田原台地東南縁と磐田原台地東縁に分かれる。松林山古墳など御厨古墳群は、磐田原台地東南縁に位置する。(参考;石野・岩崎・河上・白石編:古墳時代の研究、第11巻 地域の古墳U 東日本、p.28(中嶋郁夫)、雄山閣、1998)
南側最下段より 墳頂附近

松林山古墳 (しょうりんざんこふん)
松林山古墳は、磐田原台地の南東部にある御厨古墳群の一つ。4世紀半ば築造の前方後円墳。全長107m、高さ10.6mを測り、三段構成である。昭和6年の発掘調査で、長大な割石積みの竪穴式石室から、三角縁神獣鏡1、内行花文鏡2、四獣鏡1、勾玉、管玉、貝釧、石釧が出土し、ヤマト王権成立時において重要な地位にあったと考えられる。出土品としては、他に短甲、剣、大刀、鎌、鉾、埴輪などがある。
東京国立博物館では、『松林山古墳出土三角縁二神二獣鏡は、新山古墳(奈良県広陵町)の三角縁三神三獣鏡、二神二獣鏡と同系列』として展示されていた。
兜塚公園の看板で松林山古墳の位置を確認する 松林山古墳は、前方後円墳だが、西側(写真の手前側)の前方部が削平(一部は新幹線の線路になり消滅)され、後円部だけが残る
後円部へは登れる。高さを感じる 墳頂は広く、石碑が立つ
後円部の東北角。大きな古墳であったことは偲ばれる 説明板
松林山古墳の北側を新幹線・JR線が通り、その向こうに、秋葉山古墳(円墳)と稲荷山古墳(前方後円墳:前方部を北に向ける)がある 南を見ると、松林山古墳(右端)の南側に高根山古墳(4世紀後半の築造、直径52m、高さ8m、二段構成の円墳)がある。左奥に御厨堂山古墳が見える
 御厨古墳群 ((みくりやこふんぐん) 国史蹟
御厨(みくりや)とは、寺社に稲を供給した場所を示す言葉で、
古墳のある鎌田地区はかつての伊勢神宮の御厨だったことが名称の由来

うさぎ山公園 御厨堂山古墳や兎山古墳に囲まれている
磐田市教育委員会の説明板  うさぎ山公園を囲む御厨古墳群
松林山古墳(前方後円墳)、高根山古墳(円墳)、御厨堂山古墳(前方後円墳:全長34.5m、高さ4m)稲荷山古墳(前方後円墳:全長46.5m、高さ6m)、秋葉山古墳(円墳:長軸50m・短軸46m、高さ8m)が御厨古墳群を代表する古墳。説明板では4世紀代の古墳群として記されている。松林山古墳が4世紀半ば、高根山古墳が4世紀末、御厨堂山古墳が5世紀半ばの築造と編年される。(古墳時代の研究 東日本、p.28(中嶋郁夫))
御厨堂山古墳と八王子古墳 兎山古墳は公園西側の丘陵上にある。登って行ける
兎山古墳から鎌田神明宮まで、丘陵上を南に向け歩く。シイやカシの大木が茂り、本来の磐田原の植生が残っている。古来の杜を感じる 鎌田神明宮がある。前身は式内社である嶋名神社ともいわれ、白鳳時代の白雉2年(651年)の創建と伝わる。豊受大神を祭神としている。ここ鎌田地区は伊勢神宮の御厨であった。”虫封じ”という珍しい神事が伝わり、民俗学的にも重要な社という

伊賀上野・松阪
南山城