古代北東北の旅
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概要 宮城、岩手、秋田、青森) 

概要 1.古墳・古墳群 2.城柵 3.環状列石(縄文遺跡) 4.その他の遺跡など



(訪問先遺跡の年代)
概要
7月26日から10日間余り、宮城から北東北(岩手、秋田、青森)の古代遺跡探訪の旅をした。「遺跡の現状と出土品の実物を出来るがけ多く見たい」と思っての旅である。関係ある埋蔵文化財センター・博物館も訪れた。
古代東北地方は、宮城・山形・福島の南東北と岩手・秋田・青森の北東北とに二分される。日本国(大和朝廷)成立時に、その支配が北東北に及ばなかったために、史書では蝦夷(えみし)の国として扱われた。奈良・平安初期に、大和朝廷が北東北を支配下に組み入れる際に、大和朝廷側から見れば「蝦夷征討」となる争いがあったが、802年、坂上田村麻呂・アテルイの戦いで一応の終結がなされている。

大和朝廷の頭となった近畿・倭王権は、その黎明期(4世紀初め)に、関東・南東北各地の首長とは密接な関係にあった。倭王権の象徴とも見られる前方後円墳の分布を見ると、南東北では、古墳時代前期(AD250−400)に、会津福島に会津大塚山古墳(114m)、山形南陽市に稲荷森古墳(96m)、宮城・名取市に雷神山古墳(168m)などの大型前方後円墳が築造されており、畿内の古墳文化は南東北へは極めて早い時代に浸透している。しかしながら北東北では、前方後円墳は北上市に角塚古墳(46m)が見られるだけで、所謂蝦夷塚(えぞづか)といわれる古墳群は、古墳時代の後期・終末期から奈良時代の円墳群である。

氷河期が去り地球が温暖化し、縄文海進(海岸線が内陸に進む)が極度に達したのは、縄文時代の早期末から前期始めである。現在の海水面に低下したのは縄文後期頃とされている。縄文時代の東日本は、落葉広葉樹林が生茂り、クリ、クルミ、トチ、ドングリなどの堅果類が豊富で、この森に住む鹿・イノシシ、沿岸に押し寄せるサケ・マスと併せて、動植物タンパク資源に恵まれていた。したがって東日本に人口が集中し、優れた縄文遺跡が集中する。東日本(とくに北東北)には縄文晩期に亀ヶ岡文化が完成する。これに対して西日本の縄文文化は、照葉広葉樹林の中にあり堅果類の恩恵を蒙ることが少なかったが、稲作技術および中国・朝鮮半島の技術・文明を導入・吸収し、弥生文化が急速に進展し、畿内勢力を中心として対外関係に耐えられる律令国家建設への道を歩んだ。この弥生・古墳時代の転換期に、北東北は遅れを取ることになった。

北東北の縄文文化は国家体制以前の日本の姿を伝える。縄文晩期の亀ヶ岡文化は美しい。「鼻曲り土面(蒔前遺跡出土)」を御所野縄文公園博物館で、眠るような目をした「大型土偶頭部(萪内遺跡出土)」を岩手県立博物館で、「赤漆塗りの木製品・弓」是川中居遺跡・埋蔵文化財センターで、実物を間近に見ることができる。今回とくに注目した「環状列石(ストーンサークル)」は、縄文人の信仰の場・祈りの場であり、鹿角市大湯で完成形を見ることができる。北東北の縄文文化を「もう一つの日本」と呼ぶことは、決して誇張ではない。北東北(岩手・秋田・青森)と道南地域を含む”北の縄文文化回廊”が出来上がっていた形跡もあり、中国東北部との遺跡・出土品との類似性も研究されているようだ。

本概要に引続き、時代は前後するが、以下の項目を順次掲載する。「1.古墳・古墳群」では、宮城県の大型古墳から始めて北日本の角塚古墳と蝦夷塚と呼ばれる古墳群を、「2.城柵」では、奈良・平安朝での大和朝廷の蝦夷政策の基となった城柵(じょうさく/じょうき)跡を訪ね、「3.環状列石(かんじょうれっせき)」では、配石(はいせき)遺構をもつ幾つかの縄文遺跡を訪れる。「4.その他の遺跡など」では、垂柳遺跡(弥生中期)の水田跡展示と八戸市の是川中居遺跡(縄文晩期)のことを簡単に記す。おわりに北上市立博物館と県立岩手博物館での展示について記す。北の縄文回廊に、もう一つの日本の精神文化の原点を見つけ出せるかもしれない。
1.古墳・古墳群 1/2 宮城 2.城柵 1/2 岩手 3.環状列石
  (縄文遺跡)
1/2 岩手 4.その他の遺跡
     青森・岩手
2/2 岩手 2/2 秋田 2/2 青森・秋田

北上川(石巻市近辺) 北上川(北上市、和賀川との合流点)
御堂観音(岩手町、北上川源流) 米代川(大館市付近)
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