ー美濃・大和を周回 4ー
  南山城とヤマト  (京都府・奈良県)
椿井大塚山古墳山城郷土資料館東大寺山古墳黒塚古墳その他
多くの三角縁神獣鏡を出土した南山城・椿井大塚山古墳を見学した後に、いよいよ古代ヤマト王権の中枢部に入る。国道24号・大谷から地方道754に入り、奈良坂(般若寺の辺り)を越えて、国道169号を南下する。国道169号は天理市・桜井市へとつづくき、古代の「上つ道」にほぼ沿っている。奈良・天理・桜井を結んで、もう一つ山(東)側に「山辺の道」がある。天理市から桜井市の間に、古代ヤマト王権発祥の地があり、古墳時代前期の大きな古墳が集中する。

邪馬台国の所在地論争は未決だが、最近は、2世紀末−3世紀中頃は「邪馬台国の時代」という表現がよく使われている。邪馬台国の時代に、天理市から桜井市にかけて、後に大型古墳を築く勢力を持つ豪族(首長)が台頭したことは事実である。その最古の巨大古墳が箸墓古墳であり、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳などがつづく。

東大寺山古墳と黒塚古墳は、3世紀末から4世紀半ばにかけての築造とされる。ヤマトの古墳は陵墓又は陵墓参考地と指定されている場合が多く、発掘調査はおろか立ち入ることも許されていない。その中で、発掘調査された数少ない古墳の一つが、東大寺山古墳であり、黒塚古墳である。東大寺山古墳からは後漢末の年代を示す「中平」銘の金象嵌大刀が、黒塚古墳からは三角縁神獣鏡33面が出土し、邪馬台国時代から引続く古代を考えるに重要な情報を与えている。

椿井大塚山古墳 (つばいおおつかやまこふん) 京都府木津川市山城町  国史跡
古墳時代前期初頭・3世紀後半築造の前方後円墳で、全長約175m、後円部径約110m(高さ約20m)、前方部長約80m(高さ約10m)、前方部幅約76mを測る。後円部は4段構成で、葺石はあるが、埴輪はない。昭和28年(1953)JR線の改良工事の際に、偶然発見された竪穴式石室から、三角縁神獣鏡32面を含む36面以上の銅鏡や、多数の副葬品が出土した。自然地形を利用し、部分的に盛土している。埋葬施設は、南北6.9m、幅1m、高さ3mの竪穴式石室に、板石・割石を積み壁となし、床には板石、礫、砂を敷き、粘土床の上に長大なコウヤマキの割竹形木棺を安置し、天井に板石を置き粘土で厚く覆っていた。石室内には朱が塗られ、粘土床には10kgを越える水銀朱がまかれていた。三角縁神獣鏡以外の鏡としては、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面などが出土した。

JR奈良線に乗っていると、棚倉駅と上狛駅の中間で、大塚山古墳の白い立杭が見える。どちらの駅からでも1km程度である。車では、国道24号から棚倉駅または上狛駅に出て、その間を結ぶJR線西側の地方道から入る。大塚古墳の北側・JR線のガードの前に、古墳見学の正式な駐車場なのかどうかよく分らないが、空地がある。附近の人に尋ねると駐車OKだった。前方に後円部の残った部分が見える。右上の部分に前方部が一部残っているが、見ることは難しい。
墳頂に設置されている木塚川市教育委員会の説明板
後円部の西半分近くが線路により削られ、前方部も残り少ない。
JR奈良線のガードをくぐった右上が後円部で、線路とガード前の右上(ほとんど削平)が前方部となる。 大塚山古墳の後円部の残骸への登り
後円部墳頂から西を見る。木津川が南北に流れる      墳頂下には、前方部を分断してJR奈良線
線路左が前方部
墳頂部 奥に説明板が立つ
その手前が埋葬施設があった場所
後円部の裏(東)側斜面
後円部から東側  後円部の東側に墳丘下に降りる道が付けられている
後円部を裏(東南)から見る。ここから見ると古墳らしい景色になる
墳丘を南から東側へと周回する。左に墳丘 北側 右が墳丘

京都府立山城郷土資料館 京都府相楽郡山城町上狛千両岩
先史時代より近世までの南山城の歴史と文化を紹介している。大阪湾に流入する淀川は、大山崎で桂川・宇治川・木津川に分れ、京都・近江・木津に向う。昭和初期までは、この分岐点の東側に巨椋池(おぐらいけ)が存在した。縄文・弥生時代に、大山崎周辺と木津川沿いの山麓には定住集落・ムラができた。木津川は大山崎より東南方向に南下し、南山城・木津町で丘陵を巻いて東に流れる。山城の古墳時代には、前期に木津の椿井大塚山古墳(全長175m)、中期に城陽の久津川車塚古墳(全長180m)と乙訓の恵解山古墳(全長120m)を盟主として幾つかの前方後円墳が築かれる。ヤマト王権に最も近い椿井大塚山古墳の首長が、ヤマトの勢力と協調して先陣をきった姿が想像される。奈良時代・聖武朝には、木津町の東に「恭仁京」が、乙訓に「長岡京」が開かれ、多くの寺社が建設される。
山城郷土資料館 資料館は、木津川を眼下に見る高台にある
東南を望む

東大寺山古墳とその周辺  天理市櫟本町
 ワニ氏の里・櫟本高塚遺跡 (いちのもとたかつかいせき)
東大寺山古墳のある天理市北部(櫟本町(いちのもとちょう)・和爾町(わにちょう))は、古代ヤマト王権の武力に優れた豪族・和爾氏の本拠とみられている。東大寺山古墳・赤土山古墳・和爾下神社古墳は、「東大寺山古墳群」と呼ばれ、和爾氏の墓所と考えられている。東大寺山古墳の北側にある櫟本高塚遺跡では、特殊な形態をもつ掘立柱跡が発掘調査により見つかり、古代の祭祀場跡ではないかと思われている。
天理市説明板 公園になっている。東大寺山古墳は後方の山つづきであるが、ここからは行けない
 東大寺山古墳 とうだいじやまこふん  奈良県天理市櫟本町
4世紀後半築造の前方後円墳とされ、全長140m、後円部径84m(高さ約15m)、前方部幅50m、前方部を北に向ける。墳丘全体に葺石が施され、墳頂部と墳丘中段と下段に埴輪が巡っていた。後円部中央に墳丘主軸方向に竪穴墓壙(長さ12m、幅6.5〜8m)が掘られ、墓壙底には砂利を敷詰め、排水溝が完備されている。砂利敷きの上に木棺(残存せず)を安置し粘土槨が覆う。木棺は棺床に撒かれた水銀朱の範囲から長さ7.4m前後の長大な棺であったと推定されている。
副葬品としては、棺内から、鍬形石27ケ、車輪石26ケ、石釧2ケの碧玉製腕飾類と、硬玉製勾玉・棗魂・碧玉製管玉などの頸飾類が出土した。27ケもの鍬形石を一括で納めた例は珍しい。一方、棺外の粘土槨と墓壙の間から、大量の武器・武具が出土している。東西に振り分け置かれた合計20本の大刀は、東側の6本は素環頭把頭鉄刀で、5本は銅製環頭を装備している。(出土品は東京国立博物館に所蔵)
とくに注目されるのは、銅製環頭の鉄刀の中に、金象嵌された紀年銘があることで、刀背(峰)に「中平□年五月丙午造作支刀百練清剛上応星宿下辟不祥」の24文字が切先部分から金象嵌されていることである。「中平」とは中国後漢末の中平年間(西暦184〜189年)を指し、刀製作年が明らかとなる。この時期は魏志倭人伝によると「倭国大乱」(170〜180年)の時代に当たり、大乱集結後の邪馬台国の時代にこの刀は渡来したものであり、和爾氏が何時の頃かに手にいれ、東大寺山古墳に副葬したものである。最近の分析によると、この金象嵌の「金」は99.3%以上の純金で、不純物の銀を取り去った技術としては、5世紀の稲荷山鉄剣では銀が10〜30%含まれているのと比較して、高度な技術が用いられていることが分る。

天理市教育委員会の古墳案内(古墳への登り口に立つ)


 天理教域法大教会から見る東大寺山古墳
東大寺山古墳墳丘図と副葬品配置図
大教会に行き、古墳見学をお願いし出てくると、教会の方が追っかけてきて、古墳解説冊子など資料を持ってきてくれる。山頂に築かれた古墳なので、これがないと地形確認も出来ず、随分助かった

教会裏に回ると古墳案内があり、
標識どうりに竹林の中を登る
墳頂(後円部)を北側から見た全景 中心部右寄りの地表下に粘土槨があったことになる。標高130m。
登りきった場所を墳頂側から 北方向に尾根は続き、墳頂部(後円部)は金網で仕切られているが、金網の一部は開けられている
金網まではやや急な斜面になる
右の墳頂(後円部)と左側(東側)の傾斜と竹やぶ 墳頂(後円部)北東側には段差ができている。
金網の向こう側が前方部らしい 金網を通り越し、写真中央右寄りに赤い小杭があり、その辺が前方部端らしい。その辺りから尾根は平坦になる
そのまま尾根先端まで行ってみた。
尾根下に、竹の子取りの人が居た。
赤い小杭(写真下から1/4左寄り)附近から後円部方向(金網方向)を見る。距離的にもこの辺りが前方部先端となる
山を下る。南東側に見える森は赤土山古墳の辺り 大教会のすぐ西側には、和爾下神社古墳がある
 石釧    車輪石          東京国立博物館(10.5.21)             鍬形石          
     花形環頭飾金象嵌銘大刀(「中平」銘)       東大寺山古墳出土品  石製坩・石製台付坩  
硬玉勾玉・硬玉棗玉
「中平」(後漢の年号) 大刀の切先の峰に金象嵌されている               

黒塚古墳 (くろつかこふん) 奈良県天理市柳本町1118番地2
黒塚古墳は柳本公園の中にあり、中世に城・陣屋の一廓として利用されたので、古墳形状は著しく変形を受けている。
4世紀初頭〜前半の築造の前方後円墳で、全長約130m、後円部径約72m(高さ約11m)、前方部幅約60m(高さ約6m)で、葺石や埴輪は認められない。前方部を西に向け、後円部の竪穴式石室は主軸と直交して南北に向く。周濠を示す池(変形)が遺存している。

大和古墳群学術調査委員会による1997年度からの発掘調査により、全長約8.3m、北小口幅約1.3m、南小口幅約0.9m、高さ約1.7mの竪穴式石室が発見された。石室内には、(6.2m×1m)の粘土で作られた断面がU字形の棺台が置かれ、クワの巨木をくり抜いた木棺が安置されていた。木棺安置場所には水銀朱が残っていた。棺内からは、画文帯神獣鏡(13.5cm)1面、棺外からは三角縁神獣鏡33面(平均径22cm)をはじめ、多数の鉄製武器、工具が出土した。1998年度からの前方部の調査によって、作業道及び排水溝が検出された。
周濠西側から見る黒塚古墳(左・前方部、右・後円部)
黒塚古墳総合案内図より 展示室は右上 前方部から後円部を見る
前方部から階段を登り、後円部墳頂を見る。 竪穴式石室の位置は石を貼って示している。右の三本の木の向こう(東南東)に行燈山古墳がある 階段を降り、展示室へ向う。後方(東)の龍王山が綺麗だ
天理市立黒塚古墳展示館: 竪穴式石室レプリカを一階の中央に置き、周囲の壁向こうに説明パネルが並ぶ。吹抜けの二階周囲に、出土鏡のレプリカが並ぶ。説明パネルは、黒塚古墳、中山大塚古墳、下池山古墳、ホケノ山古墳、西殿塚・東殿塚古墳の調査に関するもの


画文帯神獣鏡(レプリカ)


三角縁神獣鏡(1号鏡〜5号鏡)
       
北側から見た石室のレプリカ: 下部3〜4段が人頭大の自然石の積上げ、それ以上は天井まで板石により強く持ち送りながら、断面が三角形状(合掌式)になるように壁面を形成している。粘土床の上に水銀朱が残り、木棺安置場所と推定される。棺内・頭部位置に相当する所(写真では中央やや上)に、画文帯神獣鏡が立った状態で、その両脇に刀剣が2振り置かれていた。三角縁神獣鏡は棺外に鏡表面を中に向けて置かれていた

向(JR巻向)周辺を散策 (気になる遺跡・古墳・神社)
纏向遺跡 (左側がJR巻向駅)

巻向駅の北側JR線路を挟んでの東西広範囲で、邪馬台国時代の祭祀遺跡・宮殿遺跡の発掘調査が続いている。

上の地点からは、
大きな掘立柱建物跡などがみつかった。
他田坐天照御魂神社(オサダニマスアマテルミタマジンジャ) 手洗水鉢石に「天照御魂神社」とある。巻向駅の西300mの太田にある。「日本書紀」敏達天皇6年(577)に、「詔して日祀部(ひまつりべ)を置く」とあり、日祀部を置いた地とされる。当時の天照御魂(アマテルミタマ)は純粋な太陽神(自然神)であり、皇祖神の天照(アマテラス)の前身とする説がある。祭神は、天照御魂神であるが、天照大神荒魂、天照国照火明命、志貴連祖天照饒速日命とする説もある。
 前方部遠景        箸墓古墳 (箸中山古墳) 倭迹迹日百襲姫命大市墓 全長278m       前方部拝所 
       鏡作坐天照御魂神社 (田原本町)
    (かがみつくりにいますあまてるみたまじんじゃ) 
祭神:天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命 
由緒:「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。・・(田原本町)
天平2年(720)正倉院文書に初出の旧社である。
鏡作氏は、自然神である日神(アマテルミタマ)を人格化し、祖先神とする時に、天火明命(ホアカリノミコト)と呼んだ。同じ日神を人格化する時に、天皇家は天照大神(アマテラスオオミカミ)とし、皇祖神としたのと比較される。
        唐古・鍵遺跡 (田原本町)
奈良盆地のほぼ中央、初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に立地する弥生時代の大規模な環濠集落跡。1936年に、遺跡を横断する国土24号線の建設工事に伴い、唐古池の大規模な発掘調査が行なわれ、出土した木製農具や炭化米や土器により、弥生・農耕社会の基準が定められた。
集落規模は約42haで、唐古・鍵遺跡の周囲1km以内に衛星集落や墓地がある。絵画土器がみつかった清水風遺跡、方形周溝墓がみつかった法貴寺遺跡などが有名である。唐古・鍵遺跡は、河内潟(現在の大阪中心部)から大和川を遡り最初に到達できる港であり、奈良盆地の流通の中心的役割を果たしていたと考えられる。
弥生時代600年に亘り姿を変えながら存続したが、後期末に集落は縮小し、取って代るように、より東に祭祀を中心とした纏向遺跡が出現する。

三河・遠見 近江へ