5世紀 | 1/2. 百舌鳥(もず)古墳群 | 2/2. 古市(ふるいち)古墳群 |
百舌鳥・古市古墳群は、5世紀・宋書による倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に築造された。3世紀中頃に三輪山麓(大和・柳本古墳群)に築かれた倭王国の陵墓は、4世紀の中頃に奈良盆地の北の佐紀古墳群に移り、4世紀の後半から5世紀に古市、百舌鳥古墳群など河内平野に移る。この事実を、倭の実権が三輪王朝から河内王朝に移ったとするか、河内に誕生した新しい王権が倭王権を呑み込んだとするか、倭王権の河内進出とするかなど種々の説がある。 5世紀の日本は、中国・朝鮮などとの対外関係もひっ迫し、河内地域の政権の30%は渡来人が占め、渡来人による文明開化が進んだ時代である。須恵器、馬具、武器、鉄・金属文化が飛躍的に発達し、現在の大阪の中心部を占めていた河内湖の開拓や大規模な治水工事も可能になった。そのような技術革新が巨大古墳を生んだ。 その技術革新を生んだ聖王として、応神、仁徳天皇が登場するが、その実体についての確かな文献・文字資料はない。急激な技術革新は、むしろ、騎馬民族征服王朝として運ばれてきたとする説も提出されている。河内平野の百舌鳥・古市古墳群の陵墓の有様は、これらの事情を説明する有力な手懸りとなり、6世紀以降の大和朝廷確立への鍵となる。しかしながら、陵墓および陵墓参考地は宮内庁管轄になっており、明治以降は立入り・調査は許されず、もどかしさが残っている。 陵墓に埋葬された天皇名は、書紀や延喜式による文献、中国・南朝の宋書に記された倭の五王との対応、陵墓周辺からたまたま発掘された資料、過去の発掘品などから想像されているにすぎない。 |
百舌鳥・古市古墳群の陵墓について | 白石太一郎 「考古学と古代史の間」、筑摩書房、2004 森浩一 「巨大古墳」、講談社学術文庫、2002 |
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古墳名 | 陵墓名 | 墳丘長 | 備考 | ||
大仙古墳 | 仁徳陵 | 482m | 履中陵(5世紀前半) (注1) | ||
ミサンザイ古墳 | 履中陵 | 365m | 仁徳陵(5世紀初頭) (注1) 上石津ミサンザイ、百舌鳥陵山ともいう | ||
田出井山古墳 | 反正陵 | 148m | 陵墓としては小さい (注1) | ||
土師ニサンザイ古墳 | 参考地 | 288m | 反正陵(5世紀中葉) (注1) | ||
誉田山古墳 | 応神陵 | 420m | 紀に応神陵の記載がなく、応神の実在を疑問視する向きもある | ||
岡ミサンザイ古墳 | 仲哀陵 | 238m | 5世紀末葉の築造 | ||
市ノ山古墳 | 允恭陵 | 230m | 5世紀後半の築造 (注2) | ||
仲ツ山古墳 | 仲姫陵 | 286m | 河内平野で最古の陵墓 | ||
津堂城山古墳 | 208m | 河内平野で最古・最大の古墳 同時期に、佐紀古墳群や馬見古墳群(葛城)などに大古墳がある |
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注1 仁徳・履中・反正陵は、百舌鳥の中・南・北に並ぶとの記紀と延喜式の記載により、現在の陵墓名が指定された。円筒埴輪の編年研究を当てはめ、陵墓としては小さい田出井山古墳は大古墳の土師ニサンザイと入替えるべきか? (但し、河内平野の陵墓では、仲ツ山(古市))→ミサンザイ(百舌鳥))→誉田山(古市)→大仙(百舌鳥)と編年することも可能。百舌鳥に三代続けて陵墓が築造された事は疑わしい) |
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注2 持統朝での比定に際し、允恭陵は仲哀陵と「北と西」の関係にあるとした延喜式の記載による |
その他の予備知識 |
1.森浩一「巨大古墳」では、超大型古墳を墳丘長418m以上、大型古墳を160m以上、中型古墳を110m以上とし、それ以下を小型古墳としている。超大型古墳は、大仙古墳と誉田山古墳の2基で、高さはいずれも35〜35mである。5〜6世紀の大型前方後円古墳の墳高は、23〜24mのものが多い。 |
2.書紀によると、允恭の子が安康と雄略である。安康陵は奈良市宝来町にある古城1号墳(墳丘長50m)とされている。雄略陵は、明治政府により高鷲丸山古墳(羽曳野市)(75mの円墳と50mの方墳が合わさったもの)とされたが、最近では河内大塚山古墳(墳丘長375m)とする説が有力である。 |
3.倭の五王は、讃を(仁徳か履中)、珍を(履中か反正)、済を允恭、興を安康、武を雄略とするのが定説であるが、讃を応神、珍を履中とする(前田直典)説もある。 |
4.大仙古墳を允恭陵、誉田山古墳を反正陵とする(藤間生大)説もある。 |
5.河内王朝などという「河内(かわち)」とは、現在の河内市だけを指すのでなく、大阪平野一帯を指す。後に河内は、摂津(せっつ)と河内に分かれる。河内の中心は、ここで扱う百舌鳥・古市古墳群の周辺で、堺・藤井寺・羽曳野近辺である。6世紀に継体天皇陵などが攝津の現茨木市周辺に移るのも広い意味で「河内」内である。もともと大和川は、河内湖を北上して千里山の辺りから海に向っていた。この流れを変えて、河内湖の西中間にあたる上町台地を掘削し海に流し込む治水工事は、この時代の大事業であり、仁徳帝とか後には行基菩薩が腕を振ったと伝えられている。縄文海進はとっくに終わっていたとは云え、現在の地理とは相当異なり、大仙古墳などは相当海に近かったと思われる。このような事情は、ひとり大阪平野だけでなく、出雲や関東などでも見られることで、考古学的地理を想定しておかなければならない。 |
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