百舌鳥・古市古墳群(大阪府・堺市/藤井寺市/羽曳野市)1/2

 
5世紀 1/2. 百舌鳥(もず)古墳群 2/2. 古市(ふるいち)古墳群
       仁徳陵履中陵反正陵 

 
 昨秋、三輪山西麓の大和・柳本・箸墓古墳群を見て歩いた。3世紀後半から4世紀中期に陵墓を含む大型古墳が築かれた三輪山山麓から、5世紀には、奈良盆地を横切り二上山を越えて河内平野に陵墓が築造されるようになる。百舌鳥(もず)と古市(ふるいち)の古墳群がそれである。陵墓の大きさは超特大(巨大)となり、5世紀の倭王権の力強さが感じられる。墳丘の巨大化だけでなく、埋葬品にも馬具、鎧、金属加工品など軍事用品が祭祀器具に取って代るようになる。須恵器、円筒埴輪を専門に作る渡来集団・土師氏の活躍が目立つ。5世紀は、倭の五王の時代である。倭の五王の権力は、関東地域にまで及び、関東の豪族集団も次第に倭王権に従属していく。
百舌鳥・古市古墳群の探訪は、午前中に神戸で用事を済ませ、JRで新今宮まで来て、南海荒野線で堺東に到着し、堺市役所21Fの展望ホールからの360°眺望を見渡すところから始めた。
2006.12.21 堺市役所展望ホール 13:00 → 13:22 丸保山古墳 → 13:32 大仙古墳(仁徳陵) 14:30 → 14:36 堺市博物館 16:05 → 七観音古墳 → 16:19 ミサンザイ古墳(覆中陵) 16:38 → 16:58 イタスケ古墳 17:05
2006.12.22 9:45 田出井山古墳(反正陵) 10:00

堺市役所の21F展望ホールからの360°の眺望は素晴らしい。東南に百舌鳥古墳群の主要な大古墳が見渡せる。二上山の麓に古市古墳群がある。展望ホールの東北方面の窓からは、真下に田出井山古墳を見ることが出来る。堺市のもう一つの観光スポットである整然とした街路で仕切られた商家の街並みは、西側の窓から見ることが出来る。

堺市役所から大仙古墳(仁徳陵)へ向う。大仙古墳の2つの陪墳を見て、大仙古墳の円形部から「古代のロマン 仁徳陵周遊路案内」と説明札のある道を、左周りに二重外濠の外縁に沿って歩く。

前方部の正面にある礼拝所から大仙公園に入り、堺市博物館に立寄る。ボランティア説明員の熱心な説明を聞いた後に、大仙公園を南に横切り、七観音古墳を見て、ミサンザイ古墳(履中陵)の後円部から右周りに外濠沿いに前方部正面の礼拝所へ歩く。

イタスケ古墳へは、JR阪和線を横切り、住宅街の中を行く。前方部の正面近くから右回りに一周し終えた時は、既に夕暮れ時であった。

堺市で一泊した翌日、田出井山古墳(反正陵)に立寄り、堺東駅から黒姫山古墳・河内大塚山古墳・古市古墳群に向った。
残念ながら、百舌鳥古墳群の御廟山古墳と土師ニサンザイ古墳には行けなかった。
丸保山古墳(帆立貝型前方後円墳)
周囲に濠がある。墳丘長87m、後円部径67mで高さ9m。前方部幅40mと極端に狭いのは開墾のため削られた為と立看板があった。大仙古墳の陪墳である。構造・副葬品は未調査。写真は前方部左隅から撮影したもの。
永山古墳(前方後円墳)
大仙古墳の陪墳で、丸保山古墳と対面して、国道310号線の向う側にある。周濠がある。
現在、大仙古墳の陪墳は13基残っており(昔はさらに2〜3基あった)、外提と内提に跨ったものもある。
大仙古墳 = 「仁徳陵」 (前方後円墳)
国道310号線沿いに後円部を囲む二重の濠の外濠がある。外堤の向うに内提があり、その更に内側に墳丘があるのだが、ただこんもりとした林を見だけである。ここから正面礼拝所へは、東(左)周りで1,200m・徒歩20分、西(右)周りで1,500m・徒歩25分となっている。 左周りで巡る。後円部の先端に当たる所に、昔の礼拝所跡があり、修復か取り壊すのか工事している。現在の礼拝所は何処の陵墓でも前方部正面にあるが、昔は後円部の頂点にあったようだ。前方後円墳の正面は、現在前方部となっているが、祭祀は必ずしもそこで行われたのでなく、造出し(だいたい”くびれ部”にある)や墳頂で行われた。
外濠は円形に沿って形作られ、遊歩道のすぐ左には生活空間がある。 後円部から前方部までの外濠沿いは、直線道となる。前方部側から歩いてきた道を撮った写真。
前方部右隅から後円部に向う外濠を撮った写真。外提と内提が繋がった部所もある。 前方部に沿っ外濠は礼拝所に向って一直線に延びる。大仙古墳の広さに圧倒される地点である。
礼拝所が設けられている。外提から外濠を越えて内提の一部に入れる唯一の場所でもある。古墳の前方部と内濠の広さが実感できる。守衛所があり威厳を保つ。
明治5年に、前方部で竪穴式石室が自然に露呈し、内部に長持形石棺があり、ボストン美術館に陳列される銅鏡や刀の柄の部分の環頭も、この時の発掘と関連して流出されたとされている。
  堺市のパンフレットに見る大仙古墳 
外濠の外側を歩いて来たが、大仙古墳の偉容は内濠の大きさにあることが、改めて理解できる。内提に犬防止用のフェンスを張る際に、貴重な円筒埴輪列を見出したという。
大仙古墳(仁徳陵、大山古墳とも記す)の規模は、
墳丘長486m、後円部径249m・高35m、前方部幅305m・高33m、面積464,124mである。
孫太夫山古墳(帆立貝形前方後円墳)
墳丘長56m、後円部径48m、前方部幅30mで、幅10mの周濠があったとされている。埋葬設備などは不明。後円部は宮内庁、前方部は堺市の管轄である。左が前方部で墳墓は西向きである。
堺市博物館
http://www.city.sakai.osaka.jp/hakubutu/index.html
仁徳陵石室石棺図、甲冑図、出土人物埴輪、馬形埴輪や、イタスケ古墳の出土・衝角付冑形埴輪などのレプリカが常設展示されている。女性のボランティア説明員が、須恵器を含めてのこの地の古代文明を丁寧に説明してくれた。
古墳関係の他に、自由都市・商業都市としての堺が常設・紹介されている。
大仙公園が仁徳陵と履中陵をの間を占める。遥かに見えるのが、履中陵(ミサンザイ古墳)。 七観音古墳(円墳)
公園の南出口にある整備された円墳。径25m、高さ3.5mで、葺石や埴輪がみつかっている。1950年頃までは、すぐ西側に七観山古墳(径50mの円墳)があり、鎧、冑、金メッキした帯金具、刀、馬具など多くの埋葬品が発見されている。両古墳ともにミサンザイ古墳(履中陵)の陪墳とみなされ、七観山古墳の出土品の編年から、ミサンザイ古墳が大仙古墳より早期の築造であることが分った。

ミサンザイ古墳または百舌鳥陵山古墳
 = 「履中陵」    (前方後円墳)
ミサンザイは、上石津ミサンザイ、石津ケ丘とか百舌鳥陵山ともいう。百舌鳥耳原三稜の南陵で、履中陵に指定されているが、河内平野の王墓(陵)では、古市古墳群の仲ツ山古墳(仲姫陵)に次いで築造され、誉田山古墳墳(応神陵)、大仙古墳(仁徳陵)はその後に築造されたと考証されている。ミサンザイ古墳が”真の仁徳陵”ではないかとされている。大仙陵、誉田山陵に次いで日本第3位の大きさの前方後円墳であり、仁徳陵であってもおかしくない。
ミサンザイ古墳が造られた時代の地方の古墳としては、吉備の造山古墳があり、極似の墳丘構造を持ち、大きさもほぼ同じである。関東・群馬の太田天神山古墳(全長210m)もこの時代に造られた。当時の大和王家と地方首長の権力が拮抗していたことを暗示していると説明される。
上の写真は、北西端・後円部から見たもの。後円部から周濠に沿って、西(右)周りに礼拝所に歩いた。
周濠の西側に沿って遊歩道が直線的に続く。右側は住宅街。この街に住む子供達は古墳を身近に感じて育つのだろう。 前方左端(西南端)から 造り出しが見える。


16:38 履中陵礼拝所は、前方部正面にある。

墳丘長365m、後円部径205m・高25m、前方部幅237m・高23mの日本で3番目の巨大古墳である。墳丘は3段構成で、くびれ部に造出しがある。
主体部の構造、副葬品は不明であるが、平成6年に、現在の周濠の外側に幅10m程度の外濠が見つかっている。
イタスケ古墳 (前方後円墳)
16:58 夕暮れに、イタスケ古墳の後円部北東端に到着する。イタスケ古墳は、墳丘長146m、後円部径90m・高12m、前方部幅99m・高11mの前方後円墳で、3段構成で南側のくびれ部に造出しがある。 子供広場や住宅街を通り、古墳を左回りに半周する。南側は、周濠沿いに古墳を見渡すことが出来る。後円部から衝角付冑の埴輪が出土した。この冑が堺市の文化材保護のシンボルマークとなっている。市民運動で、古墳を保存したことを誇りとしている。
くびれ部のある付近に壊れた(壊した)橋がある。イタスケ古墳にはタヌキが住みついており、これが人気になっていると聞いた。夕暮れにも拘らず、橋の上に2匹出てきていた。 前方部の西南隅からイタスケ古墳を見る。

田出井山古墳 = 「反正陵」 
  (前方後円墳) 
堺市役所展望ホールから東北に、田出井山古墳(反正陵)がつつましく見える。後方のツインタワーは、堺市立文化館で、堺市出身の文人・与謝野晶子を記念した文芸館がある。
田出井山古墳は、百舌鳥耳原北陵として反正陵ということになっている。前方部は百舌鳥耳原中陵(仁徳陵)、南陵(履中陵)と同じく、南西方向を向いている。
南海高野線の堺東駅から10分足らずで礼拝所に着く。
周濠を東(右)周りで後円部へ歩き、後円部を東側から見る。
田出井山古墳は、墳丘長148m、後円部径76m・高14m、前方部幅110m・高15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさで天皇陵としては小さく、土師ニサンザイを反正陵とする説がある。
後円部の周堤にある方違神社から見る古墳の姿。方違(ほうちがい)神社は、遠方に出かける時に、その方向が凶と出た場合に一度別方向に向って出かける風習があり、その際にお参りする神社で、道教っぽい風習である。 ほぼ一周して、板塀の素敵な民家と近代的な街の重複する所を抜けて、堺東駅に帰る。

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