百舌鳥・古市古墳群(大阪府・堺市/藤井寺市/羽曳野市)2/2


5世紀 1/2. 百舌鳥(もず)古墳群 2/2. 古市(ふるいち)古墳群
            仲哀陵允恭陵、仲姫陵、応神陵
2006.12.22 9:45 田出井山古墳(反正陵) 10:00 →(堺東(南海高野線)初芝(タクシー))→ 11:09 黒姫山古墳 11:33 →(バス)→ 12:07 河内大塚山古墳(陵墓参考地) 12:34 →(えがのしょう(近鉄南大阪線)藤井寺)→ 13:48 アイセルシュラホール → 15:00 岡ミサンザイ(仲哀陵) 15:25 → 15:41 津堂城山古墳 15:50 → 16:25 市ノ山古墳(允恭陵) → 16:37 鍋塚古墳 → 16:42 仲ツ山古墳(仲姫陵) → 17:01 誉田山古墳(応神陵) 17:33

黒姫山古墳 (前方後円墳)

     南側から見た黒姫山古墳全景。
墳丘長114m、後円部径67m・高11m、前方部幅64mの2段に構成された前方後円墳。後円部の埋葬施設は盗掘されていたが、前方部中央から竪穴式石室、大量の鉄製武具・武器が出土した。現在、鉄製の鎧・冑は、元興寺文化材研究所(稲荷山鉄剣もここで処理された)で保存処理中である。埋葬者はこの地方の豪族・丹比氏と見做されている。。黒姫山古墳の東北300mに「堺市立みはら歴史博物館」があり、出土品が展示されているが、ばたばたの影響で見逃した。
南海高野線で初芝まで行く間に、泉北高速鉄道に乗ってしまい、泉ケ丘まで行ってしまった。泉ケ丘には泉北考古資料館がある。泉北ニュータウン開発時に、多くの窯跡や古墳の発掘、須恵器の出土があり展示されている。残念ながら時間がないので中百舌鳥まで引き返し、高野山行きに乗換え初芝駅にたどり着いた。初芝駅から南海バス美原区役所行きで「下黒山西」で降りると良いのだが、タクシーでも¥1000程度で行けた
後円部へ右回りに一周する。 古墳まわりは公園になっている。

     説明板に描かれた墳丘全容と鎧


墳丘露出展示 築造当時には、斜面に葺石が整然と敷詰められ、二段になった墳丘の平坦部には、円筒埴輪と朝顔形埴輪が一定間隔で立ち並べられていた。中世に城郭として転用されていた跡がある。津堂城山古墳、河内大塚山古墳もそのような転用跡が見られると説明板にあった。
北部のくびれ部に造出しがある。
河内大塚山古墳 (前方後円墳)
黒姫山古墳近くの”下黒山西”で”河内松原”行きのバスに乗って終点まで。近鉄南大阪線沿いに”恵我之荘”方向に歩き、国道2号線を越えると右側奥に河内大塚山古墳がある。
中軸線の西側が松原市で東側が羽曳野市になっている。
墳丘長335m、後円部径185m・高20m、前方部幅230m・高4mの堂々とした古墳。6世紀後半の築造である。その巨大さから大正14年に陵墓参考地となり、それ以降は調査されていない。「雄略陵」とも言われるが、考古学的年代と合わない。最近では「敏達陵」とも言われる。写真のように、西北隅の前方部につながる道の入口に「大塚陵墓参考地 宮内庁」と石碑が立っている。
前方部の西側から見た墳丘の全景。前方部の端に墳丘への道がある。
後円部の周囲の濠は、水が涸れていた。後円部南東に横穴式石室が開口していたとの江戸時代の記録がある。後円部の段築がはっきりしない後期古墳の特徴があり、6世紀中葉の築造と見做されている。大古墳として最後期のもの。 墳丘の東側に回る。
前方部の東端にも、西端と同様に墳丘への道がある。このような道が何時作られたのか、中世に砦として使われた時なのか、あるいは近世なのか。 前方部の東端前面に帰ってきた。墳丘の前面は230mあり、周濠の直線部はもっと長く見通せる。前方部が広がっており、広大に見える古墳だ。

古市古墳群                   
黒姫山古墳と河内大塚山古墳は、約10km離れた百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間の南端と北端に位置した。いよいよ古市古墳群の中心に迫る。

”恵我之荘”から”藤井寺”まで近鉄南大阪線で2駅だ。藤井寺駅前で風邪薬を買い、昼食時に服用する。アイセルシュラホールの場所を尋ね、一度訪れた藤井寺を通り過ぎ少し行くと、船の形をした妙な建物が見える。これがアイセルシュラホールで、藤井寺市の生涯学習センターである。郷土の歴史と文化を再認識するように、船形埴輪と修羅の形をイメージしたそうで、平成6年にオープンした。



   アイセル シュラ ホール
アイセルシュラホールの歴史展示室には、修羅(土師の里遺跡から出土した古墳時代の二股の木ゾリ)や西墓山古墳出土の鉄器と農耕具、津堂城山古墳出土の水鳥形埴輪、一片32mの方墳(岡古墳)から出土した日本最大の船形埴輪、一辺37mの方墳である野中古墳で11ケの冑や4万点以上の白玉が出土したこと、須恵器の技術を応用した甕棺などの展示があり、この地域特有の豊富な出土品を以て、巨大古墳から小さな古墳、大王から一般人までの生活を紹介していた。「倭の五王の時代」と題した当センターの小冊子も¥1000で分けてもらえた。そこには、この地で活躍した土師氏について住居跡、古墳造り、窯跡などが紹介されている。登り釜を導入して円筒埴輪を造り、古墳築造現場には土師氏の作業集団が居住したようだ。古墳築造のゼネコンの頭首だったようだ。

岡ミサンザイ古墳 = 「仲哀陵」  (前方後円墳)            
墳丘長242m、後円部径148m・高20m、前方部幅182m・高16mで周濠と周庭がある。造出しが東側だけにある。3段構成で墳丘が築造されている。埋葬施設・副葬品は不明である。
中世に城郭として使用し、相当変革された跡があるが、墳丘に葺石が敷かれていたこと、外堤の埴輪が確認されていること、「埴輪の編年からボケ山古墳(仁賢陵)より古く、市ノ山古墳(允恭陵)より新しい5世紀後半の築造と考えられる」と藤井寺市教育委員会の説明看板があった。
記紀によると、仲哀天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の第二子で、応神天皇の父である。皇后は神功皇后で、九州で神託に従わなかったので病死する。その後神功皇后の新羅征伐の話になる。延喜式に、恵我長野西陵(仲哀陵)とあり、恵我長野北陵(允恭陵)と対比して持統朝に比定されたと考えられている。
アイセルシュラホールのすぐ西にある。すぐ後円部の周濠に達する。フェンスが張られている。 周提(周庭)に沿って前方部に歩く。来る人も居ず、葦が茂っていて気持ちが良い。
礼拝所には、確かに允恭陵であることを示す屋根付き立札と石碑がある。守衛所はない。 宮内庁の調査によると、中世に墳丘は城郭として利用され、墳形が大きく変わっているというが、典型的な木の生茂った古墳の保存状況をただ眺める。

津堂城山古墳  (前方後円墳)                
4世紀末から5世紀初頭に築造されたもので、墳丘長208m、後円部径128m・高17m、前方部幅121m・高13mで造出し・二重の周濠を持つ。後円部頂上に竪穴式石郭と長持形石棺が見つかっており、副葬品として銅鏡・玉類・金銅横櫛、鉄剣などの武器具などが多数出土した。周濠の外側に幅80mの周庭帯が見つけられた。前方部は南東を向いていて、周濠東側から総高1mに達する水鳥埴輪が3体とそれらを据える特殊方墳丘が見つけれた。この時代の祀りを彷彿させる。  
特筆すべきは、河内平野(大阪平野)に最初に築造された大古墳である事で、その時代には佐紀陵山古墳や佐紀石塚山古墳が奈良北部の佐紀古墳群に、西南部の葛城の馬見古墳群とその周辺に200m級の大古墳が築造されている。
森浩一「巨大古墳」によれば、百舌鳥古墳群と古市古墳群は、中間の黒姫山と河内大塚古墳を加えても、飛鳥への道である竹内街道を東西中央線(大仙古墳と誉田山古墳を結ぶ線)にして、同じく飛鳥への道である長尾街道を北端としている。津堂城山古墳だけが、長尾街道の北側に位置しているという特徴がある
岡ミサンザイから津堂城山までは、近鉄を跨いで北へ30分ほど歩く。前方部から古墳に入るが、周濠は涸れていて、横断道路となり、子供達の遊び場となっている。 墳丘への登りは子供達の絶好の遊び場である。藤井寺陵墓参考地であるが、藤井寺市の管轄で、宮内庁ほどの生真面目さがない。したがって、発掘調査も進み、貴重な出土品がある。
南側から見る前方部とそれに続く後円部(木が茂っている) 前方の墳丘上(後円部から見る)この左側の濠内から水鳥埴輪など貴重な出土品を得た。
南西には神社がある。 ガイダンス棟があると書かれているが、誉田山古墳までたどり着けないのでやむなく割愛する。一見の価値がありそう。
市ノ山古墳 = 「允恭陵」  前方後円墳                  
墳丘長227m、後円部径157m・高23m、前方部幅157m・高23mで、3段構成で両側にくびれ部がある。二重の周濠を持つ。延喜式に、恵我長野北陵(允恭陵)とあり、恵我長野西陵(仲哀陵)と対比して比定された。
日本書紀によれば、允恭天皇は仁徳天皇の第3子で、17代履中、18代反正につぎ19代の天皇である。三子ともに、母は葛城ソツヒコの娘・磐之媛である。允恭の子が、20代安康と21代雄略である。履中と反正が百舌鳥古墳群に葬られてるのに対して、允恭は古市古墳群にあり、その子・安康は奈良市宝来町の古城1号墳(疑問が残る)に、雄略は高鷲丸山古墳に(河内大塚山説や墓を潰されたとする説もある)に葬られている。允恭の崩御以降は大王家に内部分裂が絶えない時代となる。
允恭陵を示す看板と礼拝所 周濠は涸れている。

仲ツ山古墳 = 「仲津姫陵」   前方後円墳           
仲ツ山古墳に行く途中に近鉄”土師の里”駅がある。駅前にある鍋塚古墳は、一辺50m、高さ7mの方墳で、方墳としては大きい。葺石の使用が認められ、出土した埴輪の編年から、この地域で初期に出来たものとされている。すぐ近くの仲ツ山古墳との関連が注目されている。この近くには多くの古墳があったが、戦後の土木工事の犠牲となった。”土師(はじ)の里”は、須恵器を作る土師氏の一団が住んでいた。土師氏とは、後に「菅原」氏と名前を変え、菅原道真を生んだ名門のことである。道すがら、道真を祀った道明寺天満宮を見かけた。
仲ツ山古墳は、
墳丘長286m、後円部径168m・高26m、前方部幅188m・高23m、くびれ部幅113m・高18mの大古墳である。

仲姫陵と指定されている。仲姫命(なかつひめのみこと)は、応神天皇の皇后で、仁徳天皇の母とされている。

後円部から前方部に沿って歩く。周濠は涸れていて、造り出しが見える。前方部正面に礼拝所がる。

誉田山古墳 = 「応神陵」   前方後円墳               
誉田山古墳は羽曳野市にある。墳丘長415m、後円部径267m、前方部幅330m、で幅60〜70mの濠をもつ。墳丘の体積では大仙古墳を上回るという。濠の深さも大仙古墳より深い。応神天皇を神格化して「大菩薩御舎利の処」とした平安時代からずーと「応神陵」とされている。古事記には「川内恵賀之裳伏岡」とあるが、日本書紀には応神陵の記事が全くなく、応神天皇の実在が疑われることもある。
鎌倉時代に造られたと伝わる放生川に架かる花崗岩製の反橋。応神天皇を祀る誉田八幡宮の秋の大祭では、神輿が濠の側まで運ばれ、祝詞や神楽が奉納される。昔は、誉田山古墳の頂上まで運ばれたという。 誉田山八幡宮の境内
誉田山古墳の後円部の外側(南)にある。
誉田山八幡宮から古墳西側を、住宅街を抜けて前方部に歩く。 古墳は二重の濠と堤を持つが、外濠は涸れていて、外提は遊歩道になっている。東堤に、応神陵に先立って築かれた「二ツ山古墳」がある。誉田山古墳には多くの陪墳があり、北側に接して造られた「丸山古墳」からは、金銅製鞍金具(国宝)が出土している。新羅の古墳の出土品を想像する。


ものものしい御影石の看板を頼りに、闇の中を礼拝所に向う。
前方部・礼拝所への入口(事務所もある) 応神陵礼拝所

今回の二日足らずの探訪では見逃した所が多い。百舌鳥古墳群のニサンザイ古墳、泉ケ丘の泉北考古資料館、黒姫山古墳と津堂城山古墳のガイダンス、仲ツ山古墳の礼拝所、三ツ塚古墳と窯跡、誉田山古墳より以南の古市古墳群などなどである。日を改めて探訪したい。

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