ー美濃・大和を周回 5ー
  近江(壬申の乱・銅鐸) (岐阜県、滋賀県)
野上行宮跡不破関跡雪野山古墳銅鐸博物館大岩山古墳群

「美濃古墳巡り」から一拍置いて、再び美濃・野上行宮跡から不破関跡を超えて、畿内へと足を踏み込んだ。

古代ヤマトを知る上で、是非見て置きたい幾つかのポイントを訪ねる。一つには、邪馬台国時代の鏡・三角縁神獣鏡を多数出土し、その副葬配置が明らかとなっている雪野山古墳・椿井大塚山古墳・黒塚古墳、および「中平」金象嵌大刀出土の東大寺山古墳を見て回ること、二つには、ヤマト王権の陵墓が移動した佐紀丘陵・馬見丘陵を訪ねることを主たる目的としている。

先ずは、時代としては新しい壬申の乱(672年)の記念地・野上行宮跡から出発する。壬申の乱は、古代ヤマト王権から脱却して中央集権国家(律令国家)へと転換する重大な画期となった。
 

野上行宮跡 のがみあんぐうあと 岐阜県不破郡関ヶ原野上
壬申の乱(672年)では、大海人皇子(おおあまのみこ;天武天皇)は、最初桑名の群家に留まり、最前線に立った高市皇子(たけちのみこ;天武天皇の長男)と連絡を取っていたが、高市皇子の勧めで、大海人皇子(天武天王)は野上に行宮を設け、和蹔(わざみ:不破関辺りと推定される)の高市皇子と連絡をとりながら行動した。不破関と野上は約4kmの距離にある。高市皇子は壬申の乱の最高功労者である。その子・長屋王(ながやのおおきみ)は文武に優れ皇親勢力の巨頭となり、平城京の北東に居を構えたが、長屋王の変(729年)で自害に追い込まれる。藤原不比等と持統天皇の陰謀であったとする説がある。壬申の乱は、天皇家支配の始まりであり、奈良時代の皇統維持の暗争の始まりでもあった。
国道21号線(中山道)野上の真念寺東側の緩い坂道を登っていく。「壬申の乱・大海人皇子行宮跡(推定地)250m 5分」の小さい標識がある。 すぐ新幹線のガードをくぐる
道の右側が野上行宮跡。後方の山は朝倉山・南宮山につづく 今はただ静かな空気が流れるだけ
朝鮮式土器も出土し、乱後、行基が行宮廃材で南方六坊を建てたとも伝えられている地。 背後に南宮山系を控え、池田山系との合間に位置する。
右下方に、垂井・青墓の町。後方は池田山

美濃不破関跡 みのふわのせきあと 岐阜県不破郡関ヶ原町松尾21-1
壬申の乱(672年)勃発に際し、吉野宮に出家していた大海人皇子(天武天皇)は、「近江朝(大友皇子)が美濃・尾張両国の国司に命じて武器を集めている」との報を受ける。大海人皇子は、美濃国出身の舎人・村国連男依(むらくにのむらじおより)などに命じ、国司を説得し不破道をふさぎ、自らも吉野を脱出し鈴鹿・亀山経由で不破へ向う。乱後、不破道の重要性から関を設置し、大宝令(701年)では伊勢鈴鹿関、越前愛発関(あらちのせき)とともに美濃不破関として、三つの関・三関(さんげん)を定める。不破関には美濃国府の国司四等官が分番守固し非常時に備えた。延暦8年(789年)に三関は突如廃止される。経済的な負担とその必要性が薄らいだことによると考えられている。しかしながら、、天皇崩御や重要事件の際には固関使(こげんし)が派遣され形式的な儀式が行なわれたり、あるいは関銭を徴収したりしながら、不破関は江戸時代末までつづいた。不破関の規模や構造は不明であったが、昭和49年から52年までの岐阜県教育委員会の発掘調査により、その概要が明らかにされている。
発掘調査資料と出土品が収められる不破関資料館
広場から東(手前)に庁舎跡があった。
旧中山道(東山道)沿いに関守跡がある。関守は延暦8年の関の停廃後に任命された。旧中山道を少し東に行と、東城門跡・土塁跡がある。
不破関は藤古川(ふじこがわ)を西限として、左岸の河岸段丘上(写真中央)に主要施設が置かれた。河岸段丘は約10~20mの急な崖になっている。橋を渡った写真右側に「西城門」があった。藤古川は伊吹山南麓を水源とし、揖斐川支流の牧田川に合流する一級河川。 藤古川は、古くは「関の藤川」と称し、壬申の乱では、川を挟んで東(左側)に大海人皇子(天武天皇)軍が、西側(右)に大友皇子(弘文天皇)軍が陣を張った。乱後、東の松尾地区は井上神社に天武天皇を祀り、西の藤下・山中地区では弘文天皇を氏神として祭り、現在に至っている。

雪野山古墳 ゆきのやまこふん 滋賀県東近江市上羽田町
森林整備作業にともなう八日市市教育委員会の山頂調査で平成元年(1989)竪穴式石室を検出したのに端を発し、大阪大学・都出比呂志教授を団長とする雪野山発掘調査団の手により発掘された。まれに見る未盗掘石室の発見により、古墳規模・石室構造はもとより、副葬品としての三角縁神獣鏡を含む鏡の配置(原位置)について、新しい知見を提供した。
古墳時代前期中頃・4世紀中葉までに築造された前方後円墳で、全長70m、後円部径40m(高さ4.5m以上)、前方部長30m(高さ2.5m以上)、後円部は二段構成、葺石が施されていたが、埴輪は見つかっていない。石室は未盗掘のまま残っていたが、山頂部は中世に城郭として使用されたとも見られている。石室構造は、石室を築くための墓壙(南北約10.6m、東西6.7m)を二段掘りし、下段に盤石を積上げ石室を構成し、木棺を納め天井石を載せる。石室床面には砂礫を敷き、木棺(長さ5.2m)を支える粘土床が造られる。石材は雪野山の湖東流紋岩を使用している。石室の大きさは、長さ6.1m、幅1.5~1.35m、高さ1.6m。主な出土品は、内行花文鏡(径24.0cm)、鼉龍鏡(径26.5cm)、三角縁波文帯盤龍鏡(径25.2cm)、三角縁唐草文帯四神四獣鏡(径24.2cm)、三角縁シン出銘四神四獣鏡(径24.2cm)のほかに、石製品、農耕漁具、武具・武器、土器(壺形土器)、ガラス玉、漆塗製品など多数ある。 (八日市市教育委員会説明板より)
竜王町教育委員会案内板
雪野山山頂は、竜王町、近江八幡、東近江市にまたがる。
登山途中の「雪野山案内図」 左から登り、右の稜線を下った。
登山口から現在地まで15分。現在地から山頂まで20分。
名神・竜王ICより西へ、妹背の里を目指し、雪野山口で日野川を渡る。妹背の里にも駐車場があるが、その前の運動公園のPに車を置く。正面に雪野山を見て、一本道を龍王寺(山麓左)へ歩き出す。 雪野山ハイキングコース入口 
龍王寺を過ぎ、天神社の直前に西側から登るハイキングコースに入る。
ここを直進して東側から登る道、山麓の史蹟散策コースなど色々ある。

雪野寺跡(竜王町) 法起寺式の伽藍配置の白鳳時代の寺跡。13m四方の石積基壇の塔跡だけが残る。安氏(この地の豪族)との関連を示す瓦が出土している。

                  山の神は立派な石
龍王寺北古墳群への道と分れ、雪野山古墳へ
登山道を標高差200m以上を登る。

頂上への登り

頂上が見えた。 雪野山古墳後円部に相当する。
頂上中央には一等三角点がある。標高309m
緩やかな鏡山(右)とその左肩に三上山(近江富士)が頭を出す。
 三神山方向が西南西方向になる。
墳頂下の埋葬施設を保護しているのか土砂流出防止の土盛が設置されている。元々は岩盤の上にもう少し高く土盛されていたと推定されている。
八日市市教育委員会説明板  前方後円墳の図に見るように、前方部がいびつな形で検出されている。未盗掘の竪穴式石室の写真も示される。 前方部は稜線を北に向う道となる
西側(左)は平坦面が幾らかあるが、東側(右)は直ぐ谷になる。
北(前方部)側から後円部墳頂を見る。 「墳丘上段の径25m・後円部径40m・全長約70m」という事で前方部先端を想像する。
佐々木憲一:「未盗掘石室の発見」雪野山古墳、新泉社、2004.8 によると、
木棺は長さ方向に三つの区画(北区画、(1.5m)、中央区画(2.4m)、南区画(2m)に仕切られ、遺骸は残っていなかったが中央区画に北枕で納められていたことが分った。副葬品は原位置のまま検出された。北区画では、鉄製農工具、紡錘車形の石製模造品、矢を納めた黒漆塗りの靫などが発見された。中央区画では、遺骸の頭部に鼉(ダ)龍鏡、三角縁波文帯盤龍鏡(3号鏡)、内行花文鏡と鍬形石と琴柱形石製品が、内行花文鏡の30cm南に管玉が1点だけ発見された。南区画では、仕切り板附近に三角縁唐草文帯四神四獣鏡(4号鏡)と三角縁シン出銘四神四獣鏡(5号鏡)が発見され、ほかに鉄刀、鉄剣、鉄鏃、ヤスと水銀朱を入れた壺などが発見された。鏡は全て自然に割れた状態で検出され、破鏡的な要素はない。中央部頭部附近の鏡については、内行花文鏡だけが棺床に表面を向けていた。いずれにしても、三角縁神獣鏡は棺内に大切に副葬されていて、黒塚古墳の場合のように棺外に置くというようなことはない。雪野山古墳で頭部に置かれている内行花文鏡は出来の良い最古段階の仿製鏡である。黒塚古墳の場合には、三角縁神獣鏡より一段古い画文帯神獣鏡だけが棺内に置かれていた。
雪野山古墳の三角縁神獣鏡の製作年代は、三角縁神獣鏡が製作された時期の中間段階に位置付けされる。天理市・黒塚古墳(33面出土)、神戸市・西求塚古墳や野洲市・古富波山古墳出土の三角縁神獣鏡の製作年代は、全体的な組み合わせという観点から、雪野山古墳の3面に比べやや古い。雪野山古墳と同様な製作年代を持つ三角縁神獣鏡の組み合わせは、神戸市・東求塚古墳や宇佐市・赤塚古墳に見られる。愛知県・東之宮古墳の場合は、雪野山古墳より少し新しい。山城町・椿井大塚山古墳(33面以上出土)や苅田町・豊前石塚山古墳出土の三角縁神獣鏡は、三角縁神獣鏡が製作された全時期のものを含んでいる。雪野山古墳の三角縁唐草文帯四神四獣鏡(4号鏡)の同笵鏡(鋳型が同じ)は、山城町・椿井大塚山古墳、天理市・黒塚古墳などから出土している。
山頂(後円部)を東側の登山道(馬の背を経由)から見る。東側のハイキングコースの山頂下は、大きな石が転がっている急な斜面。
大きな石がごろごろしてる所がつづく。山城の遺物かとも思う。 馬の背から 北東方向(安土・市辺)の景色
少し下って東方向を見る。名神高速道のカーブの右外に整備された古墳が見える。「蒲生町あかね古墳公園」で、天乞山古墳と久保田山古墳などがある。左・布施山の向こうには京セラなど工場地帯が見える。 枝道が幾つかあるが、天神社へと下る。
遊歩道・登山道が交差している。
          天神山古墳群(竜王町) 
6世紀後半から7世紀初頭の築造。、標高120m~150mの谷筋に立地し、3グループで形成されている。蒲生郡内で唯一の副室構造をもつ横穴式石室がある。大きな石材を用い、長方形プランの箱形の玄室をもつ。
天神社:天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祭神とする。
三上・田上・信楽県立自然公園(特別地域)
下りは、古墳を見ながら30分

野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)・大岩山古墳群 滋賀県野洲市辻町57番1
野洲市歴史博物館(銅鐸博物館)には、「大岩山銅鐸を中心とした滋賀県の銅鐸」、「銅鐸の組成・造り方など一般」、さらに「野洲の歴史と民俗」が常設展示されている。広い敷地内には、大岩山古墳群の一つである宮山2号墳が整備され公開されている。
明治14年(1881)、少年2人が大岩山で大中小の銅鐸3ケを発見した。翌日4人の大人が残る11ケを掘り出した。昭和37年(1962)、新幹線建設のための土取り工事の際に、明治の出土地点から40m離れた地点で、10ケの銅鐸が発見された。大岩山から計24ケ(2ケは行方不明)の銅鐸が掘り出されたことになる。

野洲町は銅鐸の里、6ケ所から33ケ(伝承を含めると、9ケ所から36ケ)の新旧銅鐸がみつかっている。天智天皇7年(668)に崇福寺(大津)建造時に銅鐸発見の記事が日本書記にあり、奈良時代に石山寺建造の時にも発見されたとの記録が石山寺縁起絵巻にある。
野洲市歴史民俗博物館
大岩山銅鐸はレプリカを含め全数展示されていて、
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸、古い銅鐸と新しい銅鐸が一堂で見られる。
         銅鐸出土地の石碑 
大岩山の銅鐸出土地点や多くの三角縁神獣鏡を出土した大岩山第二番山林古墳は、土取り工事で消滅した。後方の大岩山の山腹一帯には多くの古墳群が残っている。
          宮山2号墳 (博物館敷地内)
大山古墳群の中で最後(7世紀初)に築かれた片袖型横穴式石室をもつ径15m(高さ3.5m)の円墳。
横穴式石室は南南西に開き、玄室には花崗岩を組合わせた棺が安置されている。棺の底石には側石を立てるための溝が彫られている。入口両側には四段に石が積まれ、石室内から須恵器や耳環が出土した。
大岩山古墳群 おおいわやまこふんぐん 滋賀県野洲市 国史跡
大岩山古墳群は、古墳時代~飛鳥時代に野洲川流域を支配した有力首長墓よりなる。のちに「安」氏と呼ばれる豪族の系統的な造墓が見られる。富波古墳・古富波山古墳・亀塚古墳・大塚山古墳・天王山古墳・宮山2号墳が国史跡に指定されている。
富波(とば)古墳は、全長42mの前方後方墳(前方部幅19m・後方部22m×20.7m)で、3世紀末築造で古墳群中最古である。古富波山古墳は、3世紀末~4世紀初の築造で、径30mの円墳といわれ、3面の銅鏡(いずれも舶載鏡で、径21.8cmの「陳氏作」三角縁四神二獣鏡(東博収蔵)、径22.0cmの三角縁三神五獣鏡など)が出土している。このほか、多くの鏡(東博収蔵)を出土した大岩山第二番山林古墳も4世紀初の築造とされる。これらは、現在平地に戻っていて、墳丘を見ることは出来ない。
野洲市歴史民俗博物館周辺 (銅鐸出土地
丸山古墳・天王山古墳・甲山古墳は、桜生史蹟公園として保存されている
大岩山古墳群分布図 
 丸山古墳 桜生史蹟公園内
6世紀前葉に築造された径28m(高さ8m)の円墳。横穴式石室(片袖型:4.3m×2.4m×高さ3.1m)を持ち、入口から玄室に向かい約1mの傾斜がつく。玄室には、刳抜式石棺と二上山(奈良)の凝灰岩を用いた組合式家形石棺が安置されていた。床面から武器を中心とした多くの遺物が出土している。
整備された丸山古墳全景 墳頂
桜生史蹟公園 西に入口をもつ横穴式石室
 天王山古墳 桜生史蹟公園内
6世紀前後の築造と見られる前方後円墳。全長50m、後円部径26m、前方部長24m、高さ8mで、前方部を北に向ける。埋葬主体は発見されていないが、前方部に西に入口をもつ小さな横穴式石室が検出されている。
野洲町教育委員会の説明板 前方部下から見上げる。丘陵を利用している。
前円部から後方部 後方部から前方部
 甲山古墳 桜生史蹟公園内
6世紀中頃築造の径約30m、高さ8mの円墳。 横穴式石室は、玄室長6.6m×2.9m×高さ3.3mで、奥からみて右に袖をもち羨道の天井石が奥に向って下がっていく構造をもつ。縄掛突起を備えた刳抜式家形石棺を納め、石室、石棺ともに滋賀県一の大きさとされる。石棺内外は朱とベンガラで赤く彩色され、床面に玉石が敷かれ、朱と雲母が散乱していた。飾金具や金糸、玉類、大刀、小刀、矛、鉄鏃、挂甲、金銅製の鐘形鏡板付轡や馬甲などが出土している。
説明板 甲山古墳全景
西に入口をもつ横穴式石室 桜生史蹟公園は、国道8号線(中山道)沿いの北側(写真の右側の森、Pの後)にある。野洲市歴史博物館の方は、国道を歩くのは危険なので、Pの手前の細い道(写真撮影場所)から公園裏に周って下さいと教えてくれた。

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