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春夏秋冬 総目次

春夏秋冬 (3)

 06/12/30 百舌鳥古墳群と古市古墳群 (大阪府)

堺市役所展望ホール(21F)から百舌鳥古墳群が見渡せる

暮も押し迫った12月21日と22日に、百舌鳥(もず)古墳群(堺市)と古市古墳群(藤井寺・羽曳野市)を歩いた。3世紀末から4世紀に三輪山山麓に築かれていた大和(倭)王権の陵墓は、5世紀半ばに、二上山を越えて河内の国に移る。このことが河内王朝への政権交代か、あるいは騎馬民族征服王朝の出現を意味するのかは別にしても、墳長470mに達する超特大の”巨大古墳”が出現し、墓制・埋葬品に大きな変化があったことは明らかである。王権の確立と次に来る律令国家への濫觴がここにある。

弥生時代後期から古墳時代前期で大和(倭)国家建設への動きが確とした形になる。九州・吉備・出雲国との確執や関東諸国との関係は、5世紀半ばを中心に大きな変化があった。これを理解するには、各地の古墳群からの考古学的知識は重要である。地方の大古墳がその地の首長・豪族のものであるのに対して、近畿中央部(奈良・大阪・京都)の多くの大墳墓は、天皇家の陵墓あるいは陵墓参考地と指定され、宮内庁管轄となり立入ることも調査することもできない。陵墓の指定は、8世紀以降に完成した記紀や延喜式をもとに指定されているが、陵墓をとりまく考古学的資料の検討からは疑門符が投げかけられている。例えば、百舌鳥古墳群の(日本の)最大古墳である大仙古墳は仁徳陵とされ、古市古墳群の誉田山古墳は応神陵とされているが、いずれも疑わしいようだ。

詳細は歴史(文献)学や考古学研究者の調査・議論を待つしかないが、朝鮮半島との交流と渡来人による日本文化の活性化が起こった5世紀半ばに、河内国(河内・泉南)に巨大古墳が出現したことは確かである。百舌鳥古墳群には、前方後円墳20基、円墳21基、方墳5基の計46基の大小古墳が、古市古墳群には、前方後円墳31基、円墳30基、方墳48基、墳形未確認14基の計123基の古墳が現存している。二日がかりで歩いてもほんの一部を見るだけであるが、陵墓とされる巨大古墳と大古墳の幾つかを巡るだけでも、その大きさと威容が今一度生身に感じられる。当時の中央政権・社会で何が起こっていたかを感じることが古墳探索の第一歩となる。

現在私の住む関東地域にも幾つかの古墳群が確認されていて、5世紀半ばを契機として地方豪族の有様の変化、中央政権人や渡来人の移動と影響が確認されつつある。祭り(祀り)と祈りの場であった古墳が政りの場に変貌していく姿も知りたいことの一つである。
                        

06/11/16 虎塚古墳 (ひたちなか市 茨城県)

虎塚古墳の彩色壁画(埋蔵文化財センターのレプリカ)
と古墳全景(
ロールオーバー=写真上にマウスを置く

11月13日、ひたちなか市の虎塚古墳に行った。虎塚古墳は全長56.5mの前方後円墳で、後円部(直径32.5m、高さ5.5m)内の石室に壁画が描かれている。7世紀前半の造築とされている。年に二度春秋に壁画が公開され、今秋は11/2-5と11/9-13だったので、この日が最終日だった。朝一番の見学だったので、一人で案内を受けたのは幸いだった。少し経つと団体の見学者がつめかけていた。

後円部の横に作られた入口から内部に入るとガラスで遮断された羨道と石室(1.5M×1.4M×3.0M)が見える。石室発見の当初(昭48)から石室内の微生物、温度、湿度などを厳重に調査して壁画を保存している。石室は平坦な軟質凝灰石で造られている。表面を白色粘土で塗装しベンガラ(酸化第二鉄)で、奥壁には上部に三角連続文が、垂直面に三角を組み合わせた文、環状文、円文、渦巻文などの幾何学模様、槍(鉾)、武具、馬具、装飾品と思われるものが描かれている。横壁にも同様な図が描かれている。奥壁の環状文の縁には下書きの円が黒く見え、それなりに丹念に描いた跡を残す。死者を悪霊から護る意味があるという。使用された凝灰石はすぐ近くから切り出したものらしい。石室内は特別な空気制御は無く、模様はやや薄れてきているとの話であった。

虎塚古墳と地続きの台地の崖には、多くの横穴群がある。古代の群集墓で300基以上あるという。300mほど離れた所にある”十五郎穴”を見に行った。子供用の穴もあり一族の墓である。台地上の虎塚古墳は、これらの一族を治めていた首長と思われる。虎塚古墳と隣合せに埋蔵文化財調査センターがある。虎塚古墳からの出土品や石室実物模型(上の写真)を見ることが出来る。装飾古墳は全国に600余りあるが、北九州に半数以上で、残りは茨城と福島に集中していることが示されていた。

鹿島神宮と香取神宮

小春日和の当日は、雪を被った日光・男体山が畑の向こうに鮮やかに見えた。年に1~2度の良い日だと土地の人が自慢していた。近くに那珂川が流れ、すぐ那珂港を控える当地は、古代東北の入口として重要な意味があったように思われた。

那珂川を渡り大洗海岸を左に見て南下すると、武甕槌(タケミカヅチ)大神を祀る鹿島神宮に到着する。国宝・直刀は天平期で師霊剣(フツミタマノツルギ)ともいう。利根川を越えて、経津主(フツヌシ)大神を祀る香取神宮にも立寄る。日本書記では武甕槌大神と経津主大神が、古事記では武甕槌大神が天鳥船神を従えて大己貴神(大国主神)に国譲りを迫る。いずれにしても、記紀成立時の古社である。中臣氏や太安万侶の出自がこの辺りであったことと関連づけられることもある。関東周辺部を歴史散歩した一日であった。



 06/11/07 テンプル・ステイ (韓国)


伽耶山海印寺(haei-sa)スライドショー

某大学の美術研究グループOB/OGが主催する韓国古寺巡礼の研修の旅にゲスト参加した。韓国三大寺院である通度寺(トンドサ)、海印寺(ヘインサ)、松広寺(ソングンサ)と慶州の仏国寺(ブルグクサ)・石窟庵(ソックラム)と古墳公園、ソウルの国立中央博物館とサムスン美術館を5泊6日で巡った。

海印寺は伽耶山を仰ぎ見る標高560mの山中にある。三宝(仏法僧)中の法宝の寺で、国宝の高麗八萬大蔵経版木が保管され、多くの修行僧を抱え、仏教大学の役割を果たしている。ツアー企画者の計らいで、寺院の学頭との質疑応答の講義が拝聴でき、テンプルステイ(寺院泊)して、夜7時からと朝3時からの二度の勤行に参加できた。

勤行は梵鐘閣の法鼓・梵鐘を合図に始まる。幾つかのお堂に明かりが燈され、僧侶一行が入堂し読経が始まる。早朝の闇のお堂に響き渡る韓国語のお経は荘厳で、修行僧の凛とした不動の姿も美しく、五体投地の礼が繰り返される。30分ほどで一人の僧侶と参拝者を残して僧侶団は退堂し、残った僧侶の読経が延々と続く。

訪れた韓国の寺院にはいずれも立派な梵鐘閣があり、法鼓・梵鐘・雲版・木魚がセットとして設置されていた。彩色の鮮やかさは他のお堂にも共通で、安置されている仏達も全て金色に輝いていた。海印寺では昨年二体の木造毘瑠遮那仏像が発見され、黄金塗装され公開されていた。発見から塗装への手順も写真で示されていた。日本のお寺にない煌びやかさが韓国にはある。

寺院内では五体投地を繰り返しお堂巡りをする敬謙な仏教信者に圧倒されるが、一生懸命にノートをとり歴史勉強をする小中学生の修学旅行集団も多い。周囲の登山道でピクニックを楽しむ若者や、紅葉を愛でて酔っ払い唄うオバサン達もいる。すべて健康的である。

                      

  06/10/16 奥志賀スーパー林道 (長野県)

奥志賀公園栄線の周辺地図
マウスを写真上に置くと、カヤノ平の紅葉

奥志賀と栄村とを結ぶ山岳道路で総延長60kmに達する。現在は「奥志賀公園栄線」と名称が変わり、県道502号線として管理されている。一時は有料林道として開放されていたが、平成7年の県道昇格(?)以後舗装が進み、全線無料の山岳舗装道路である。標高千米以上の山岳と豪雪地帯のため、冬季(11月から5月末まで)通行止めになる。

スーパーとかウルトラを冠することが流行った昭和30~40年代に、全国的に「スーパー林道」構想があった。峻険な山岳で隔離された村々を結び地域の活性化が意図されたが、莫大な費用と自然環境破壊から見直され頓挫した例は多い。長野県には、乗鞍スーパー林道や南アルプススーパー林道などがあり、前者は南ア登山者を運ぶ専用バス道として、後者は白骨温泉・乗鞍高原への連絡道として生き残っている。

奥志賀スーパー林道の竣工は昭和32年に遡り、昭和40年代にほぼ全線が開通した。蓮池を中心にした志賀高原も焼額山・奥志賀の開発が進み、カヤノ平では戦後ブナ林が乱伐されその回復事業が進められていたので、林道整備はそれなりの意味があった。現在では奥志賀と野沢温泉村や栄村、或いは林道秋山線(雑魚川林道)を介して秘境・秋山郷との連絡道として機能している。

山岳ドライブ愛好者にとっては、奥志賀スーパー林道は志賀高原のスキー場を結ぶ多くの林道の総元締めみたいな位置づけであった。現在は、バイクや自転車ツーリング族が大挙して押し寄せている。紅葉の時期ともなると、中高年のアマチュアカメラマン団体がマイクロバスで乗り込んでくる。見通しのきかない一車線のヘアピンカーブの頂点に堂々と立派な三脚を据えつけている強者もいてびっくりした。林道秋山線との分岐点(清水谷小屋)までの奥志賀から数キロの区間は、紅葉が色とりどりでグリーンタフ(緑色凝灰岩)の一枚岩の川床と清流が美しく、それだけに一車線道に長時間駐車して三脚を担いで右往左往している。山岳道路といっても所を選べば、ゆっくり駐車する場所は見つかるものであるのに・・・。昔の素朴な崩れかかったダート道の頃が懐かしい。


 06/07/23 古代出雲への旅 (出雲・島根県)

海の幸と出雲の風景

7月14~17日、古代出雲を旅した。 
「出雲国風土記」でいう西部の出雲郡・杵築郷の杵築(出雲)大社、神門郡の神門水海、飯石郡・須佐郷を流れる神戸(かんど)川、中央部の大原郡を流れる斐伊(ひい)川、仏経山を挟んでの弥生中期の遺跡と古墳群、東部の意宇(おう)郡の熊野神社、神魂神社と国庁跡、さらに伯耆国の妻木晩田(むきばんだ)遺跡などを巡って、官製の記紀伝承では歪曲された古代出雲国の原風景に触れたいと思った。

記紀あるいは風土記伝承だけの出雲の神々は、御伽噺や説話的な要素が多いが、弥生中期の荒神谷や加茂岩倉遺跡での大量の青銅器(銅剣・銅矛・銅鐸など)の発見、日本海(とくに出雲)特有の四隅突出型古墳群、妻木晩田の弥生集落遺跡など考古学的調査が進むにつれて、大和朝廷成立時のもう一つの大きな国(首長)勢力が見直されている。古墳時代以前の渡来文化の重要性についても再認識することが多い。出雲大社の隣地に島根県立「古代出雲歴史博物館」が建設中で、平成18年春には開館される。

荒神谷博物舘では「荒神谷銅鐸のなかまたち」の特別展が催されていて、銅鐸の変遷や同笵銅鐸などを一堂に見ることが出来た。遺跡は公園になっており、古代ハスが群生していた。米子市淀江歴史民俗資料館では、重文の石馬、珍しい盾持人埴輪、出雲大社の原型(高層神殿)を印した絵画土器、飛鳥時代の彩色壁画の神将などを、福原館長が丁寧に説明して下さった。八雲立つ風土記の丘は唯一の再訪地であったが、展示室では「鬼の源流」と称して鬼神・祭祀・鉄に関する企画展が催されていた。妻木晩田遺跡の展示室ではボランティアガイドの方が説明用の資料を下さった。何処に行っても”出雲を理解して貰おう”という意識の深さが満ちていた。

出雲の西端の神西湖(じんざいこ)は古の神門水海の名残であるが、湖陵温泉からは朝日をあびる神名火・仏経山が見える。仏経山の山麓に西谷(にしだに)墳墓群、荒神谷(こうじんだに)遺跡などが位置する。出雲大東の海潮(うしお)温泉は、斐伊川の支流である赤川沿いにある風情のある宿だ。近くにスサノオ神を祀る須我神社があり奥宮は八雲山の頂上近くにある。神社に向かい合って神楽の里があり、神代神楽が演じられる。出雲国一の宮・熊野大社も近くて、スサノオの別名である櫛御気野命(クシミケノミコト)を祭神とする。風土記で出雲の山中で活躍するスサノオは農耕生産の豊穣神であり、那智熊野本宮の主祭神であるスサノオ(家津美御子)と神格が相通じている。スサノオは記紀伝承に見える荒ぶれた神ではない。 

松江に泊った一夜、出雲にUターンした旧友(渡部君)が、自分達の仲間10人の宴会に招待してくれた。宿に迎えに来てくれ、加賀潜戸(かがのくけど)近くの島根半島の豪邸に連れて行ってくれた。加賀潜戸は、出雲の四大神の一つである”佐太(さだ)大神”の降臨地である。35年ぶりの渡部君との再会の喜びもあったが、招いて下さった当主が自ら潜って採ったという新鮮この上ないウニ、アワビ、サザエ、ニナ貝と、彫刻のひしめく豪邸と、お仲間のもてなしと人の良さに感動した。現代の出雲の人々の生き様と話題にも触れることができた。

岡山県・福山から米子自動車道と山陰自動車道で容易に出雲入りができる。前半の二日間は真夏日で後半は梅雨前線の停滞で集中豪雨の中の古墳・遺跡巡りであったが、まだまだゆっくり訪ねたい所も多く、今回の旅は「出雲入門」にとどまった。雨に煙る大山の大神山(おおかみやま)神社奥宮の参拝を最後に帰路に着いた。 


 06/06/02 母の納骨 (追谷墓地・神戸)

追谷墓地からの景観と神父様による納骨式

追谷墓地は神戸港を見下ろす市章山の直下にある。最近は樹木が茂って、神戸市の中心である三ノ宮界隈は隠されているが、新神戸・灘・六甲アイランドの向こうに大阪湾(芽淳の海)を挟んで泉南の山々(紀伊半島)が遠望できる。4月中旬、93歳の天寿を全うした母の納骨を5月末に行った。同行して下さった半田カトリック教会のナジ神父様が、納骨の祈りを捧げてくださった。

大正生まれの母は東京から阪神間に嫁入りした。凡そ一世紀の間に、関東大震災、太平洋戦争、父の戦死と子育てと激動の時代に生きた。2002年までは、こよなく大切にしていた追谷墓地の墓参りに、半田で同居していた兄夫婦と訪れていた。相当体が衰えていたにも拘らず、最奥にある我家の墓まで自分の足で登りつづけた。

祖父・父が勤めた神戸の街、嫁入りした芦屋の町、子供三人を育てた六甲の町などが一望できるこの墓に思い出が詰まっていたのだろう。戦争中に淡路島に疎開していたが、終戦直前に阪神間が大空襲を受けた。直後、末っ子の私を連れて焼け跡になった我家を見に来た。神戸港内には病院船やオンボロ潜水艦が漂っていたのを覚えている。

納骨を済ませて、神戸港内を遊覧船で巡回した。10年前の淡路・阪神大震災の蔭すら見えず復興した街の景観は美しく、ポートアイランドの先端には神戸空港が新設されている。昔は瀬戸内海航路の発着場であった中突堤は、メリケン波止場とくっつきメリケンパークとなり、豪華クルーズ船が着岸できる設備・ホテル・ポートタワー・海洋博物館が一まとめに建つ。基部の中央ターミナルビルから港内遊覧船が発着し、洒落たショッピング・グルメスポットの”モザイク”が東側にある。遊覧船は神戸港外に出て和田岬沖で明石海峡大橋を見る。海から見る市章山は新緑に包まれていた。


06/05/23 熊野への旅 (和歌山県、田辺・新宮)

中辺路・滝尻王子からの急な登り
往年の会社勤め時の寮仲間11人の「熊野の旅」の始まり。

「紀伊山地の霊場と参詣道」は、”吉野・大峯”、”熊野三山”、”高野山”、”参詣道”を含めて、2004年7月に世界文化遺産に登録された。2年前に世界自然遺産「屋久島」を訪れた仲間11人で、”参詣道”の一つである中辺路(なかへじ)と”熊野三山”を巡った。

「熊野古道」は、大峯奥駈道、小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路の総称である。熊野本宮大社を目指す道として、北側に、古代からの聖地である吉野(奈良県)と熊野(和歌山県)を結ぶ厳格な修験の道場・大峯奥駈道と弘法大師の聖地・高野山と熊野を結ぶ小辺路がある。南側には、院政時代(平安期)の上皇およびその後庶民に親しまれた中辺路(小栗街道)と田辺・那智を結ぶ海岸線沿いの大辺路、そして、伊勢に通じる伊勢路がある。熊野古道の中で古代の面影を残した部分と高野山町石道が”参詣道”として世界遺産に登録された。

5月16日、仲間11人は羽田発9:10のJALで白浜空港に飛び、バスで滝尻王子まで行き近露までの中辺路を歩いた。翌日は中辺路の最終行程である発心門王子から本宮大社・大斎原(おおゆのはら)へ、そして大日越で湯峯温泉まで歩く。三日目はバスで熊野川沿いに下り、速玉大社を詣でた後、那智山に向う。那智駅前の浜の宮王子と補陀落山寺に立寄った後、熊野那智大社・青岸渡寺・那智大滝へ大門坂から歩く。最終日・四日目は神倉山の石段を登り、ゴトブキ岩(天磐盾)を拝す。
熊野の信仰は、多彩な宗教が時代とともに導入された点に特徴がある。原始信仰を基とする古代神道、記紀に纏められた神話の世界、神仙思想(道教)、密教的な修験道、浄土思想の仏教と勧進聖による布教組織などを基底とする。「中辺路」では、院政期の”貴族・皇族の熊野詣”とそれ以後の庶民の”小栗判官の道”が絡み合う。「熊野三山」では、政治・経済を下敷きにした時代時代の”熊野の信仰”が総合的に顔を出す。山深い熊野(隅野)の一樹一草がこれらの歴史的な背景を物語っている。

古くは、熊野は二社であり、一社は「結神(むすびおおかみ)(那智の主神の夫須美神)」と「早玉神(はやたまおおかみ)(新宮の主神の速玉神)」であり、一社は「家津御子神(けつみこおおかみ)(本宮の主神の証請大菩薩)」であったという。那智・新宮の神と本宮の神は、本来別々の発祥と信仰があり、前者が海洋宗教に支えれれた”海の修験”であり、後者は山岳宗教に支えられた”山の修験”であるとの説がある。先ず”海の修験”が”山の修験”より先行し、次第に山中他界の”山の修験”に吸収されたとの見方ができる。”海の修験”の名残は補陀落渡海に見出される。

別の観点から、熊野の神々は、古くは家都御子神と速玉神・夫須美神など樹木・狩・農耕・漁猟など生産の神々であった。新宮と本宮(大斎原)は熊野川に関連する水の神であり、那智山は大滝を神と崇めた神仙思想・修験道など山の宗教であったとされる。

大和朝廷(中央政権)が、天照大神など高天原系の神々を中心にして確立したのに対して、熊野の神々は高天原を追放された非高天原系の神々が中心となる。家津御子大神はスサノオに、速玉大神はイザナギに、夫須美大神はイザナミに擬せられる。この事情はオオクニヌシを主祭神とする出雲の神々と似ている。出雲は独自性が強く、大和政権に屈服するのはかなり遅かったが、熊野も独立した勢力を誇っていた。熊野は海人集団の地として、海上運輸・海洋貿易に長けていて、政治・経済・軍事に独自の力を長く所持した。

熊野三山が成立するのは、三山検校が置かれた平安初期(白河天皇の時)になる。”末法の世”の到来流布の時代で、熊野の信仰でも本地垂迹説により神仏が習合し、本宮・新宮・那智の神々は熊野三所権現として全三山に合祀され、仏教的には阿弥陀・薬師・観音に擬せられた。平安後期には、一遍上人により浄土思想が”熊野信仰”に強烈に入りこみ、三山に拠点をもつ山伏と熊野比丘尼により、那智参詣曼荼羅などを使って”熊野信仰”が全国的に展開されるようになる。鎌倉・室町時代には、浄不浄を問わない熊野詣は庶民に浸透した。江戸時代には、庶民の”お伊勢参り”が盛んになり、熊野参詣道・伊勢路と繋がって、中辺路の主流は那智山・青岸渡寺を一番札所とする”西国33ケ所巡礼の道”に様変わりしていく。

明治維新の神仏分離、修験道禁止により”熊野詣”の歴史は抹殺・衰退したが、2004年の世界遺産登録を期として、日本の多神教文化の宝石箱である「熊野古道と三山信仰」が、日本独自の文化遺産として見直されるようになってきた。

熊野三山で催される例大祭は、熊野信仰の根源を示している。本宮では、渡御祭と湯登神事(湯峯温泉で潔斎し大日越えする)、新宮では、速玉大社と摂社の阿須賀神社で行う御船祭と神倉神社の御灯祭、那智山では那智の火祭り(扇祭)が例大祭として行われる。
           

06/04/12   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


06/03/25 田の神が降りる大原野(京都市・洛西)

洛西の山里・大原野にて

西国33ケ所の第二十番札所は、西山・善峰寺(よしみねでら)である。西山は文字どうり京都盆地を西側から囲む峰々を指す。阪急京都線・東向日(ひがしむこう)からバスで25分、山の中腹に位置する。バスは、平日は3本/日、土・日曜日には1時間に1本運行されている。善峰寺を起点として、大阪府との境界上のポンポン山(679m)や東海自然歩道で淳和天皇陵のある小塩山へのハイキングコースがある。

善峰寺は平安中期に源算上人が開いた古寺であり、鎌倉時代には青蓮院の宮様が代々住職となり、西山宮門跡と称している。応仁の乱で全焼したが、江戸時代に桂昌院(けいしょういん;徳川5代将軍綱吉の生母)により再建された。

善峰寺バス停から300m程下った所にポンポン山近道・三鈷寺の手書きの小さな看板がある。つれづれに、これに従い山を登っていくと三鈷寺に出る。三鈷寺(さんこでら)は源算上人の草庵のあった所で、現在は四宗(天台・真言・律・浄土)兼学の西山宗総本山として独立している。ここで道はポンポン山方面への上りと麓の灰方地区への下りに分かれる。竹の生茂った道を下っていくと金蔵寺に繋がるホソー路に出て、しばらく歩くと灰方バス停に到着する。

西山の麓できれいな段々畑を見かけた。農事にいそしむ家族の側に犬が立ちすくんでいる。「春には山の神は田に降り、田の神となる」を彷彿させるのどかな山里の風景である。

この辺り一帯は大原野と呼ばれ、在原業平が隠居した十輪寺、藤原氏が春日大社の分霊を移した大原野神社、西行ゆかりの花の寺・勝持寺、養老2年(714)創建の金蔵寺など京都の奥深い歴史を味わえる山里である。      


06/02/10 古代ローマの神々(イタリア)

南イタリアツアーコースをマウスオーバーで示す。
ここをクリックすると、訪問先の数枚の写真をスライドショーで見ることができます

ふとしたことから、中・高時代の親友(菊井君)と南イタリアの世界遺産を訪ねるツアーに参加することになった。ポンペイ遺跡がその観光先に入っていたことが気持を動かした。

古代ローマ文明は、メソポタミヤ・エジプトを起点として、BC300までの古代ギリシャ都市国家とアレクサンドロス大王のアジア遠征(BC334)の後を受けて、BC146に古代ローマが地中海世界の覇者となり、ローマ帝国が東西に分裂(AD395)する歴史の中で生まれた。

古代ローマの神々は、一部の土地神を除き、古代ギリシア、小アジア、エジプトの神々をローマに持ち込み、習合(または比定合一:シンクレティズム)したものが多い。この多神教の世界は、イエスの誕生とAD313年のミラノ勅令によるキリスト教公認とAD392年のテオドシウス帝によるキリスト教を国教にすることを契機として、次第に西欧宗教文化の一神教化にとって変わられる。

ナポリ近郊のヴェスヴィオ山が噴火し、その溶岩流がポンペイの町を呑み込んだのは、AD79年のことである。1748年以来、数度の発掘調査が行われ、現在では古代都市の全様が明らかにされている。逃場を失った人々がそのまま埋まった姿に目を奪われるが、古代の人々がおおらかに生活を享受している都市空間と都市機構および祭祀遺跡などを集中して見ることができる。古代ローマ人は神々を敬い、神々の声を聴き、神々とともに遊んだ。

人々が集うフォーロ(公共広場)にはヴェスヴィオ山を背景にしてユピテル神殿(ギリシャのゼウスと習合したローマの主神ジュピター)が、さらに広場近くにアポロ神殿(ギリシャの太陽神でローマ皇帝の守護神)とウエヌス神殿(ヴィーナスまたはギリシャのアフロディテが習合)、広場を取囲んでラレース神殿(ポンペイの守護神)とウエスバシアヌス神殿(当時の皇帝で現人神)、少し離れた三角広場にはイシス神殿(エジプト以来の来迎信仰神)、ゼウス・メイリキオス神殿、ドーリス式神殿(ギリシャのヘラクレス、アテナ神を祀る)がある。このほか各家庭ではバッカス神やウエヌス神を祀り、郊外にはディオニソス神(バッカス)との接触を儀式する秘儀荘があった。

これらの事情は、本村凌二著「多神教と一神教ー古代地中海世界の宗教ドラマー」(岩波新書 2005.9)に分かりやすく解かれているが、現地に立ってそのイメージを再現できるのが”旅の面白味”である。なお本年4月28日~6月25日には、渋谷文化村ザ・ミュージアムで「ポンペイの輝き 古代ローマ都市最後の日」(主催;朝日新聞社など)が催される。


05/12/18 伊勢朝熊岳・金剛證寺 (三重県)

伊勢朝熊岳金剛證寺と山頂から伊勢志摩の海

金剛證寺(こんごうしょうじ)は伊勢神宮・内宮の東側に聳える朝熊山(あさまやま)の頂にある。江戸時代の「伊勢参宮の絵図」には朝熊山が神体山として描かれたものもある。神宮の祭神・天照大神が朝熊山に降臨する姿が見受けられる。「お伊勢参らば朝熊かけよ。朝熊かけねば片参り」と俗揺に唄われた。

金剛證寺の寺伝では、欽明朝の頃(550年)、修験者・暁台上人が虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を朝熊山で厳修したのを開創とする。聖武天皇は自ら”雨宝童子虚空蔵菩薩”を刻み、阿弥陀・釈迦・観音菩薩像とともに奉納し、一山の体制が整ったという。弘法大師(空海)もここで求聞持法を修行・感得した。
神の住む山、修験者の山としての朝熊山は、平安時代には”末法思想での極楽浄土”として、”冥界への入口としての卒塔婆建立の聖地”として庶民間に広まった。鎌倉時代以降は”智慧と福徳の仏・虚空蔵菩薩の浄土”としての意味合いが深まり、徳川幕府の手厚い庇護も受け寺勢も高まった。お伊勢参りも盛んになり、”神宮の鬼門を守る寺”として意味づけられた。

古代から朝熊山は”神の住む山、現世から冥土への境”として崇められてきた。伊勢神宮が皇祖神を祀る神社として確立されたのは、第41代持統天皇(在位686-697)の頃である。神宮の成立については日本書紀に次の記述がある。第10代崇神天皇(在位BC97-29とされるが実在は4世紀か?)の頃、宮中にアマツカミ”天照大神”とクニツカミ”大物主(大国主)大神”を一緒に祀っていたが疫病・災害が絶えなかった。そこで大物主の子孫のオオタタネコを召して伺いを立てると別々に祀れと託宣された。そこで大物主大神を三輪に残し、天照大神を他所に移した。ここで天照大神の流浪の旅が始まり、近江・美濃を経て伊勢の国に来た時に「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜(うまし)国なり。この国に居まま欲し。」と鎮座した。”伊勢”は、律令国家成立への画期的な事件”壬申の乱(672年)”の時、大海人皇子と鸕野讃良皇女(後の天武・持統天皇)が兵を整えた地でもある。

古代日本人の信仰は、神仙思想を基にした道教思想の影響を如実に受けている。朝熊山は、”神仙の住む崑崙山(仏教的には須弥山)、人間の生死を司る泰山府君の住む泰山(東岳)、神仙の島・瀛州(えいしゅう)”を内包している。朝熊山には道教・神道・仏教の神仏が共生している。むかし神体山と崇められた山は、現代から見ると比較的低くて形の良い山が多い。 崇神伝承の多い三輪山は467m、飛鳥・奈良朝での天香具山は152mである。朝熊山は標高555mである。

朝熊山へは”お伊勢参り”の仕上げとして、神宮から山頂への急峻な参道を喘ぎながら登れる。伊勢志摩スカイラインでは一登りで、眺望の良い展望台に到着する。付近は季節季節の花が咲く見晴公園になっている。五十鈴川から汲み上げた水を沸かした足湯に浸りながら、伊勢湾に浮かぶ島々を眺めることが出来るのも珍しい。


05/11/27 久しぶりの大和路と西国33ケ所 (奈良県・京都府・滋賀県)

山の辺の道(三輪山)と西国33ケ所(三室戸寺) 
(ロールオーバー写真) 

4月から9月一杯までC型肝炎治療のためインターフェロン注射を行ってきた。色々な副作用のため思い切った行動は控えめになった。年に一度の会社勤め時仲間との旅行にも行かれず、昨年の旅行時にK君と登った宮之浦岳以後は山行きも途絶えた。K君は今年も9月半ばの北海道旅行のあと旭岳に登り、早めの紅葉の写真を見せてくれた。

11月になって薄皮を剥ぐ勢いで体調が回復した。近くの多摩丘陵散歩、丹沢山麓のハイキングなどで体力を確かめることから始め、ついに11月終わりには”山の辺の道(奈良県)”と”西国33ケ所”の三室戸寺(宇治)、醍醐から上醍醐寺・岩間寺・石山寺まで(京都・滋賀)の峠越えのウオーキング巡礼”もこなした。遅ればせながら、関西地方まで進んだ紅葉前戦に追いつけた。

”山の辺の道”では、大和朝廷成立にまつわる三輪神話、崇神朝伝承、畿内邪馬台国説などを秘める大和古墳群を尋ねた。最古の前方後円墳とされる箸墓古墳や、西殿塚・東殿塚古墳、行燈山古墳(崇神陵)、渋谷向山古墳(景行陵)など前期古墳時代(AC300-400)に築造されたものが多い。首長・大王の墓が青垣(大和の山々)を背に威容を誇る。中期(AC400-500)以降の大型墳墓築造は河内・和泉方面に移り、山の辺の道周辺では茅原大墓古墳など小型のものが多い。後期(AC500-600)では珠城山古墳などがある。古代の人々が神と崇めた三輪山は現在も神秘に満ちている。
”西国33ケ所札所巡礼”では、宇治の紅葉を愛でた後、醍醐から出発して上醍醐寺・岩間寺・石山寺への峠越・のどかな山村風景に癒された。紅葉は真盛りだった。


 05/03/10 飛鳥・奈良の春 (奈良県)

談山神社は春の雪 
(画像の上にマウスを置くと飛鳥散策地図)

東大寺・二月堂の修二会(お水取り)は、春を呼ぶ”火と水”の行事で、”天下泰平・五穀豊穣”を祈願する。天平勝宝4年(752)から1250年間一度も途切れることなく続いている。
3月1日からの2週間が本行で、毎日午後7時から10本の「おたいまつ」が二月堂へ上って行く。童子が練行衆の道明かりとして大松明を持ち二月堂への階段を駈け上り、縁廊下を走り火の粉を降らす。降り注ぐ残り火を浴びるとゲンが良いと言う。12日にクライマックスを迎え、松明は連続して上り、一勢に火の粉を降らす。この日の夜半(翌朝午前1時)に「お水取り」が行われる。若狭の霊水を東大寺の若狭井(閼伽井)で汲み出す秘行である。 (3月4日の「おたいまつ」をビデオで見る。977KB)

3月3日の夜、飛鳥には春の雪が舞った。多武峰(とうのみね)の談山神社(だんざんじんじゃ)へは石舞台から2km奥の上(かむら)からハイキングコースを登る。40分足らずで到着する。桜と紅葉で有名な談山神社であるが、淡雪で化粧された姿もまた格別である。藤原鎌足の長男・僧定慧が父の追福のため建立した十三重塔が美しい。中大江皇子(天智天皇)が鎌足と”大化改新”を目指し談合したのがこの地である。拝殿には多武峯縁起絵巻が展示されていた。中大江皇子が刎ねた蘇我入鹿の首が御簾の影の皇極天皇に向って飛ぶ。鎌足の次男が大政治家・不比等である。斉明(皇極が重祚)天皇の両槻宮(ふたつきみや)は多武峰に建立されたという。
「田身領に、冠らしむるに周れる垣を以てす(田身は山の名なり。これをば大務(たむ)といふ)。復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦天宮と曰ふ」(日本書紀)。道教マニアの斉明天皇が道教寺院(道観)を建てた可能性がある。

「道教」が伝来したかどうかは確証がない。僧侶(道士)・寺院(観)・教義の確証がない。中国においても道教は時代時代によってその姿が変化している。なにしろ紀元前5世紀の時代から、祭祀・易・妖術・呪い・神仙術、陰陽五行の自然哲学、さらには薬医学と儒教・老荘哲学が加わって道教の道(TAO)は変化している。大和朝廷が安定化し律令国家が形成されるのは天智・天武・持統朝(645~702)の頃であり、この時代の朝廷は道教マニアとして有名である。それは隋・唐との往来に加えて亡命百済人などが大挙飛鳥の地に渡来し、当時の道教や仏教を克明に朝廷・貴族に伝えたことにもよる。かくして、古事記神話が誕生し、仏教を宗教として、道教的な朝廷祭祀が定着する。旧来の極端な呪いを含む鬼道(古い道教の形)は左道として嫌われるが、自然の正順な運行を祈る道教は公式な祭祀として現代に残っている。

飛鳥散策の旅は、最後の大王として勢力を誇った葛城・鴨氏の金剛葛城山麓から入り、渡来の東漢(やまとあや)氏が大挙入植した檜隈(ひのくま)、律令形成期の多くの宮遺跡が残る磐余(いわれ)・豊浦(とゆら)の歴史を尋ねる。甘橿丘から万葉の世を感じ、藤原京の聖なるライン(道教でいう朱火宮(煉獄)があるライン)にある天武持統陵、中尾山・高松塚古墳、文武陵を確認し、道教遺物かと云われる益田岩船・亀井石・猿石・石人像・須弥山石・酒船石などを見て古代人の信仰を考えた。これら飛鳥の石像物は道教の霊水信仰の苑とも関係する。
  

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