春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (9)

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2/09/22 弥勒山・道樹山 (春日井市)

「グリーンピア春日井」(植物園)には、果樹見本園、生垣見本園、見本庭園、花しょうぶ園・バラ園・庭木園・万葉苑、梅園・椿園・竹林のほかに、動物ふれあい広場・芝生広場・展望台・散策路などがある。
植物園の背後には、弥勒山(みろくさん)、大谷山、道樹山(どうじゅさん)があり、低山歩きができる。

9月半ば、春日井市・高蔵寺ニュータウンに転居した。リハビリの為のりハビリから脱して、生活空間の広がるリハビリへの転出である。ニュータウンの中心部には大型立体駐車場が完備し、市民センター(市役所・図書館)、幹部交番、銀行・郵便局・NTTをはじめ、大型商業施設・Apita・Joshin・ホームセンター、、トヨタ・ニッサン、および、スポーツ施設、多数の医院・介護施設など都市機能が集約している。ユニクロ、本屋、トイザラス、イエローハット、ファミレス、コンビニもある。この中に身を置いて、自分自身固有の生活に即したリハビリの段階に入る。用事で駆け回るだけでも、近来にない生活歩行である。

高層階の部屋から見る西に開けた眺望は素晴らしい。名古屋駅前の高層ビル群を含む尾張国(濃尾平野)を一望し、冬の晴れた日には、養老山系と御在所岳、関ヶ原周辺の山々と伊吹山の姿が現われることを期待する。一方東側は、岐阜県多治見市と愛知県瀬戸市の山々が重なり合い、その境界を庄内川が流れる。

高蔵寺ニュータウンの北東・高森台の北側が「少年自然の家」のある廻間(はざま)町であり、西高森山(215m)への道がある。向い合った東側に、「グリーンピア春日井」なる都市緑化植物園がある。植物園の背後には、弥勒山(436m)、大谷山(425m)、道樹山(429m)のピークが、内津峠と定光寺を結ぶ稜線にある。と言っても、いきなりの山歩きが出来る程にはまだ回復していない。ちょうど山登りから帰ってきた元気そうな初老の方にお聞きすると、「広い植物園の山側に沿った遊歩道から始めるのが適切ではないか・・・植物園は、子供達の遠足で、結構賑わっているので、不都合が起こっても助けが呼べます。」と教えて下さった。この方も、心筋梗塞のリハビリとしての山登りを続けて来られたという。

植物園附近にはPが多いので、車で出かけてのウオーキングが適切であろう。車で周辺を散策すると、庄内川の左岸には、志段味の古墳群が点在する。とくに、東谷山フルーツパーク近辺の上志段味の古墳群歩きは、適当な散歩コースである。庄内川に沿って多治見に向うと、谷間に佇む中央線の無人駅「古虎渓」に出会ったりする。知多半島・美浜町にない歴史と風景に期待しながら、引越・生活再建に慌しい日々を送っている。


12/09/10 稲穂 (美浜町)

9月初旬の野間駅を見渡す田圃。名鉄知多新線は全線高架である

6月末に田植えしていた稲穂は、暑い陽射(ひざし)の中ですくすく成長し、8月には刈り取られた早稲もある。リハビリのために歩き周った美浜町に、猛暑の夏が過ぎ、秋の気配が漂ってきた。最近ではあまり見られなくなった赤トンボが空を泳ぐ風景が、ここにはある。

脳梗塞発症後の一般的なタイムスケジュールでは、6ケ月間は回復期で以後は安定期のリハビリを行なう。同時に、発症後1年間を再発確率の高い期間として生活に注意する。発症後の1年のリハビリを真面目にこなし、再発確率の高い1年間と猛暑の夏を無事やり過ごした。1年を過ぎてのリハビリは、その効果を疑問視する立場もあるらしい。この状況下で、いよいよ、この穏やかな生活から少し刺激的な生活に復活する時期が到来した。

美浜町は、日本の建国に少なからず影響をもたらした尾張国の海岸沿いにある。次の復活の場としては、伊勢湾沿いに内陸部・春日井周辺に向かい、”尾張を中心とした日本国の曙”の原点を探す。春日井周辺は、森浩一氏(同志社大)が主催して、「春日井シンポジウム」が続けられて来た地である。朝日遺跡はじめ弥生の著名な遺跡が多く、また最近では、志段味古墳群の発掘など古墳時代中後期の話題も多い。今年春から、志段味古墳群発掘成果の展示発表会が名古屋中心部で度々催された。この秋には、ある考古学同好会が美濃・尾張を巡る計画がある。私にとっても、”現体調にあったリハビリを兼ねての遺跡巡りを、自分流にスケジュールする”、のが楽しみな今日この頃である。


12/08/20 日本の神話

古事記の神代(上巻)、あるいは、日本書紀の巻一・二(神代上・下)は、オオゲツヒメ(ウケモチ)神話、イザナギ・イザナミ神話、海幸彦・山幸彦神話、アマテラス・スサノオ神話、オオクニヌシ神話、天孫降臨神話などで構成されている。ここに集められた神話(記紀神話)について、気懸りとなることが二つある。一つは、個々の神話の表現・思想が、地球全域に広がる「神話の世界」の中でどのような位置を占めるかであり、二つは、日本を「神国」に祭り上げる論理の在り方である。これらの問題を、“吉田敦彦著「日本神話の源流」、講談社学術文庫、2007”を下敷として探ってみた。

記紀に収められた神話については、自然神崇拝・呪術・宗教としての理念から眺めての問題も興味を曳くが、日本の先史時代(縄文時代・弥生時代・古墳時代)の何時頃から伝承されたものか、あるいは、記紀編者によって新たに付け加えられたものかは興味深い。8世紀における記紀編纂の目的は、天皇家支配の国家体制を造り出すことにあり、「天孫降臨・天壌無窮の神勅」でそれを導いている。然しながら、記紀神話全体としては、神話の背景に広がる個々の景色は夫々に独立している。

神話は、人類の進化の過程で人間が持つ共通の思考・思想形態と見做すことができる。すなわち、アフリカを基点として地球上に飛び出した人間の祖先は、世界の各地域で似たような発想の下で、同じ様な神話を残していたり、あるいは、一地域で特別に編出された神話を、他の地に伝播させたりした。

記紀神話との類似性が強い神話は、世界各地域で見付けられている。日本の神話の原郷として、南洋(インドネシア・ポリネシア・ミクロネシア)起源、東南アジア(とくに中国江南地方)起源、さらに、ギリシャ・スキュタイ神話との共通性(騎馬遊牧民により運ばれた神話)が論じられる。過去に、南洋起源説に重点が置かれたこともあったが、現在では、東南アジア起源のものが、南洋に拡散したとの考えが強い。このような比較神話学の分野での議論の正否は、安直に結論づけられるものではないが、正しい神話の認識には欠かせないものであろう。

日本の先史文化は、多起源的要素の累積・混交を通じて形成されている。すなわち、縄文時代の北方ユーラシアの原始的狩漁撈民文化、弥生時代の中国江南地方から東南アジアにかけての「モンスーン地帯」に発達した稲作文化、さらに、古墳時代のステップ地帯の馬匹飼育遊牧民文化へと続く。記紀を纏め上げた7~8世紀は、極東地域の政治的再編成に向かうと同時に、騎馬民族的支配者思想が重畳していた時代と見ることが出来よう。

この件に関して、上書では以下のように述べられている。・・・『古事記』『日本書紀』に見られる神話体系の成立にあたって、決定的な役割を演じたのは、朝鮮半島を経由し支配者文化の一環として入り込んできたと思われる、印欧系文化に源流を発する神話の影響であった。われわれの所有する天皇家の神話は、この系統からの影響に、多くの個別的要素はもちろん、その中心をなす構造とイデオロギーを負っていると考えられるのである。・・・

いずれにしても、記紀神話は、日本だけが特別な「神国」であることを保証するものではなく、神話自体の骨格は、広く世界的な視野の中にある。


12/08/03 朝日遺跡・貝殻山貝塚資料館 (清須市)

清洲JCT 
写真は、R302を東から西へ(名古屋第2環状(有料)の下)走行。直進すると「名二環・四日市方面」である。JCTで直交する道路は、「左方向に名古屋高速6号清州線、右方向に名古屋高速16号一宮線」と名岐バイパスである。ややこしいJCTで、しかも別料金の有料が含まれている。JCTを直進・通過し、愛宕の交差点を左にとるとすぐに
「貝殻山貝塚」
に至る。JCTを中心に、東西1.4km・南北0.8kmの「朝日遺跡(弥生時代の全期,間)」が広がる
貝殻山貝塚(国史跡)・資料館
弥生大集落・朝日ムラ南西の貝塚を再現している。この周辺は、弥生初期の居住域であるが、弥生中・後期の土器も少量出土している。。ほかに、松菊里型住居を復元展示している。資料館があり、円窓付土器、パレス・スタイル土器(弥生後期)などこの地の特徴ある出土土器が収納されている。骨角製漁労具も出土している。 資料館の展示内容は、「朝日遺跡インターネット博物館」で解説されている。

東名阪自動車道と名岐バイパス(R22)が交差する清洲JCTは、まさに朝日遺跡の中心部上に建設されている。地名・キヨスは、市名では”清須”、町名では”清洲”と表記されてるようだ。
朝日遺跡は、戦前より注目されていたが、本格的な発掘調査は、JCT(ジャンクション)建設に伴う昭和47年以降である。JCT設置が先行していたので、遺跡保存は難題を抱えていたようだ。
庄内川下流域のこの地の周辺は、水田耕作を伴う弥生遺跡の宝庫であり、幾つかの著名な弥生遺跡と隣りあっている。

JCT西南の貝殻山貝塚附近は、環濠に囲まれた弥生集落・朝日ムラ発祥の地であり、弥生前期の複数の貝塚よりなる。
名岐バイパスR22の下には、銅鐸出土地と巴形銅器出土地が眠る。弥生後期の環濠の外から銅鐸が出土した。
JCT中央部には、逆茂木のある防御施設(弥生中期)があり、港湾のある生活空間、玉作り工房(中期前半)なども見つかっている。北側には、水田、墓地などがみつけられていて、東側には、一辺30m以上の方形周溝墓を含む300基以上の墳墓群がある。
貝殻山貝塚は、弥生前期の貝塚で、ハマグリ・カキとシジミからなり、付設の資料館に写真展示がある。資料館には、朝日遺跡出土の遺物が展示されている。当遺跡のインターネット博物館の説明パネルは分り易いので、展示室内にパネル展示でもしてくれると有難いのだが・・・。予備知識なしに現場に来て、現物を見て納得する古代マニアも多いと思う。

朝日遺跡周辺は、2~3世紀に濃尾平野に栄えた弥生王国であり、朝日遺跡の2km西に廻間遺跡(弥生後期~古墳前期)、7km北に猫島遺跡(弥生中期前半)など注目すべき遺跡が多い。邪馬台国大和説をとる学者は、邪馬台国と対峙した狗奴国の存在と重ね合わせることもある。古墳時代に入っての美濃(岐阜)の前方後方墳、さらに、信州(長野)、越(福井)・能登での弥生墳墓と古墳時代での前方後方墳など、日本海沿岸までつながる中部地域の2~4世紀の風景は興味深い。更に、この中部地域の古代史は、継体大王の時代(6世紀前半)と壬申の乱(7世紀後半)前後で大きく動き、ひいては日本国成立に繋がっている。この変動期での伊勢湾沿岸の海人の活躍、伊勢神宮の成立などにも注目したい。


12/07/26 セントレア空港 (常滑市)

冨具崎公園(野間)から見るセントレア(中部国際)空港
遠く右上に見える橋を渡ると、中央左の管制塔下に滑走路がある。
知多半島沖のセントレア空港に、名鉄・有料道路が繋がっている

中高時代の親友二人が示し合せて見舞に来てくれた。横浜からのU君と大阪からのM君は新幹線・名古屋駅で落合い、名鉄でセントレア空港へ昼近くにやってきた。猛暑日が続き、知多半島見学というわけにもいかず、冷房の効いた食堂街のある空港を選んだということである。

この3人の結びつきは、中学生の頃、まだ半分は米軍に接収されていた戦後の神戸港に外国航路の船を見に行き、船内を見学させて貰う仲間として始った。その後、U君とはバスケット仲間として、M君とは東京生活が重なった事もあって、寄席通い・飲み仲間など殆ど途切れることなく親交を深めた。したがって、セントレア空港での再会は、我々にとっては意味のあることでもあった。

それでも、別に飛行機の離発着や滑走路を見学する訳でもなく、もっぱら喫茶や食堂で取り留めなく話をするだけである。「まだ大丈夫・生きて行ける」と確認し、安心してくれる友人達であった。たった百何十人かの同窓生であるが、年々その数が減っている。まさかの彼が故人になっている。そんな話がごく自然に出来る歳になっている。

2月~4月に長い距離を歩き、5・6月には、冨具神社の上り下りを中心とする自主トレを繰り返してきた。7月になり猛暑日が続きだすと無理しないように、風の通る海岸などの散歩が主となっている。7月16日、脳梗塞発症後1年が経過した。最近の正規のリハビリでは、片足上げ・バランスボール上での体制維持・体側面の伸展など、体幹を整えるトレーニングが中心となっている。バランス感覚は、まだまだ改善出来そうである。それでも、猛暑下では避けた方がよさそうで、夏を乗り切ることを意識している。


12/06/27 味美二子山古墳 (春日井市)

二子山古墳を西側の史跡公園側から見る。
公園内にガイダンスがあり、ハニワレプリカが展示
されている
南側から見た味美二子山(あじよしふたごやま)古墳の前方部 
史跡公園東側に名鉄が走る 

濃尾平野(美濃・尾張)を横切り、四つの大河川が伊勢湾に流れこんでいる。西から順に、揖斐川、長良川、木曽川、庄内川である。前二者は平野の西端を北から南へ、後二者は平野の東から中央部に一端出た後に南へ向い、伊勢湾に流れ込んでいる。
揖斐川・長良川・木曽川周辺の古墳の幾つかを、一昨年に訪れた。古代には、伊勢湾の海岸線が現在より相当奥まっていた事もあって、北西の丘陵地帯の山肌または山頂に、古墳時代初期の権力者達の奥津城が築かれていた。最たるものは、象鼻山の山頂一帯の古墳群で、象鼻山1号墳は3世紀末の前方後方墳で、邪馬台国と相対した狗奴国の奥津城とも言われている。木曽川周辺では、犬山の東之宮古墳、更に上流・可児の長塚古墳など4世紀初めの初期古墳が保存されていた。

これらの東山道沿線の時代を遡る古墳とは別に、庄内川流域では、5世紀中葉以降に古墳造営が活発に行なわれるようになった。味美(あじよし)古墳群を築いたこの地域の有力者の造営活動は、5世紀末には名古屋台地上に進出し、東海地方最大の断夫山古墳を築いた。尾張地域では、5世紀後半に東山窯の開始、知多式土器製塩の定着、伊勢湾海産物採取の経営という生産活動が見られ、その中心をなしたのが尾張連氏と考えられている。5世紀末から6世紀初めには、継体大王の妃・目子媛を尾張連(草香)から出している。7世紀(672)の壬申の乱に於ては、美濃・尾張の豪族は、大海人皇子(天武天皇)を全面的に援助し、壬申の乱前後の大海人皇子の伊勢大神遥拝は、その後の日本の姿に直結しているように思われる。

味美古墳群としては、史跡公園内の二子山古墳と白山神社古墳(全長86mの前方後円墳)と御旅所古墳(直径36mの円墳)、春日山公園内の春日山古墳(墳丘長74mの前方後円墳)が残存している。


12/06/12 野間海岸-海開き

風の強い日曜日、それでも夏を待ちわびた若者たち、マリンスポーツの準備に忙しい若者たちで、野間海岸は活気づく

知多半島・伊勢湾岸沿いには、途切れることなく海水浴場が並ぶ。南知多町には、名鉄知多新線終点で人の賑わう内海海岸、静かな雰囲気の山海海岸、師先対岸の篠島と日間賀島に海水浴場があり、美浜町には、奥田から野間の海岸、小野浦海岸に海水浴場がある。野間海岸は、他の海水浴場のように大型ではないが、海辺の旅館からブラリと海岸に出る事ができるところが良い。6月終りには、各所で海開きが催される。

連休が過ぎた5月初旬から、冬の強風で吹き溜まった砂浜を均し、徐々に海水浴場が整備される。6月になれば、倉庫に眠っていたジェットスキー(カワサキ)とかマリンジェット(ヤマハ)とか呼ばれる水上オートバイが、海岸に勢揃いし、メンテナンスと試走に余念がない。休日の人出がめっきり多くなり、周辺道路は渋滞し出す。まもなく梅雨シーズンに入るが、海岸は一日一日夏の姿に変わって行く。

去年のメモを見返すと、6月中旬に、北信濃(長野・新潟)・富山・高山・塩尻の遺跡を巡り、帰京した6月末頃から、脱力感・目眩・吐気が続いた。「暑さのせいだ」とタカを食っていたが、ついに7月16日、脳梗塞で緊急入院した。脳梗塞は、血栓を溶かせば一過性の病気だが、一瞬に襲った脳細胞の壊死は回復することなく、以後、引起こされた障害を取除く(軽減する)リハビリと、再発防止の処置・観察のため、一年を費やした。

”NHKためしてガッテン”で「脳卒中リハビリ夢の最前線」が取り上げられていた。発症後6ケ月は壊死した脳神経細胞に代る周囲の細胞で新しい神経回路作りがなされ、リハビリ効果が著しい回復期とされるが、6ケ月を過ぎると維持期に入り、リハビリ効果は上がらなくなる。この常識を打破るべき「ボツリヌス療法」と「脳に磁気刺激を与える方法」が紹介されたが、患者の障害・麻痺の程度により期待される効果は異なるようだ。自分を含めて、障害の程度は患者の数ほど異なるので、一般的な治療法ではなく、誤解を与えそうだ。ただし、脳の損傷により健康な脳の働きが強く出すぎての運動抑制を、脳に磁気刺激を与えてその活動を弱めるという考え方は、私の場合の、「大きな筋肉中心の活動を小さな筋肉を意識した活動に代替させる」リハビリ指導に似ていると感じた(正しい解釈かどうかは分らない)。
現在の私は維持期に入っているが、脳梗塞による障害の他に、一年間の安静に近い体の”なまけ”が障害に重なっているような感じがある。少なくとも体の”なまけ”は取除いておいて(自主リハビリ)、正式なリハビリを受けて来た。今後は、再発に注意を払いながら、適度な運動を中心とした根気強いリハビリを続けて行く事が必要となろう。


12/05/26 冨具神社でのリハビリの仕上げ

冨具神社(美浜町野間)北側参道 100m登ると金毘羅神社に、更に100m登り冨具神社に至る  北側参道 (右)と(左)の狛犬
04/06の記事に、右足の足裏感覚としてのゴルフボールを踏みつけた感じに対する対策として、右足指の反り返し、足首捻転・右腿・右関節の曲げ伸ばし、貧乏ゆすりなどで刺激を加えて、マッサージ効果を期待する事を述べた。
この自主リハビリは、ベッドに横たわり体を楽にして行なう事より始めたが、より積極的には、坂道の登り下りで効果的に出来ることに気づき、05/14より、お馴染みの冨具神社の北側参道を利用して日課としている。(北側参道は国道247に面していて簡易舗装された道)
そろそろ陽射しがきつくなり、木陰での運動が必要になってきた事や、山道の木陰では私の苦手な虫が纏わりついて来たり、蛇との遭遇が心配になるので、自主リハビリのフィールドは冨具神社頼みとなる。この前後に野間海岸を歩くまたはジョギングすることで一連のリハビリともなる。

冨具神社北側参道入口の狛犬の表情は、前回に紹介した東参道のものと異なるが、その面相の特異性は負けていない。北側参道は、入口から100mの急坂で金毘羅神社に到着し、そこからは勾配がやや緩くなって、100m登り冨具神社に至る。ここを一気に、正確に爪先立ちで登り、下りは歩幅の小さいジョギングで、時間をかけて下ってくる。勿論、頂上の神社では形ばかりの参拝をする。時には、紫の縞模様でそれと分る”さすらいの蝶々・アサギマダラ”が神前を優雅に飛ぶ。アサギマダラは、日本本土と南西諸島の間を北上・南下を繰り返す蝶々である。風の神に守られた冨具神社と岬は、蝶にとっても、羽を休める景勝地になっている。

”アサギマダラ”は直線距離1,500km以上移動した例もあるようで、会社OB仲間でもよく話題になる。つい先日も、奄美大島で見つけたと写真メールが駆け巡たが、「それはリュウキュウアサギマダラで属が異なる」と議論されていた。虫嫌いの私は、蝶々でも怖いのであまり話しに乗れなかったが、冨具神社の御由緒には飛来地として紹介されている。当神社の神主さんがアサギマダラの好物のヒヨドリバナを育てているという。隣接する「冨具崎公園」では、野間小学校の子供達がフジバカマを育てて、アサギマダラの飛翔履歴を調べるマーキング観察に参加しているようだ。

この登り下りを二週間続けると、効果が日に日に感じるようになってきた。拇指丘下にあったゴルフボールはコッペパンのように扁平に拉げて、土踏まず辺りまで移動してきた。発病初期の頃のK病院でのリハビリ時以来、久しく忘れていた感覚である。この状態が維持出来れば、何とか成りそうな期待が湧いて来た。
 

12/05/09 運気が上がって来た

冨具神社(美浜町野間)東側の石段下 上り口の両脇を占める狛犬さん

冨具神社(美浜町野間)への登り参道は、北側からと東側からの二つがある。北参道は、国道247号に面し、お祭りには車で登ることも出来るが、普段は車止めされている。東参道は、脇道の石段を登る参道で、その入口となる鳥居の内側に、石燈籠と狛犬とお百度石がある。お百度石には「備後尾道」と刻まれていて、江戸時代に遥々広島から冨具の湊に、千石船で運ばれて来た歴史を物語っている。石段両脇の狛犬の面相が良い。初めて見た時には一寸戸惑うが、見慣れると、なかなか味があり見飽きない。

大竜巻が茨木県を襲った日、知多半島にも風が舞った。夕方、風の収まった頃に、風の神様である冨具神社を北側から登り東側に下りた。

頂の神社に形ばかりのお参りをして、石段を下る途中で、吹き散らかされた木の葉を掃除している神主さんに会った。年末にAさんに連れられ、石段下まで来た時にお会いして以来である。覚えていて下さって、「良くなりましたね!」と。しばし手を休め、色々と冨具神社のことを問わず語りに話してくれる。水害で当神社の古文書は失われ、分らない事が多いが、1,200年程前の他所の記録に当神社が出てくるらしい。後由緒にあるのを想い出して、「西行も来たのですか?」と聞くと、「あれは、眉唾かも・・」と笑っていた。12/04/07にも記した幸宮司神社の事を訊ねた。御祭神は冨具神社と同じようだが、神社の由来はよく分らず、神主さんも調べていると言う。冨具神社境内をリハビリで使わせて貰っているお礼を言うと、「どうぞどうぞ、・・何人かが此処で良くなって行きました・・・」と親切だ。何か清清しい気分になる夕方だった。

車運転の再開については、脳梗塞という病名だけで運転禁止を奨める医者もいるが、愛知県自動車試験場では、特別な禁止事項(発作などへの薬服用など適切な処置をしない)がない限り、自己責任で行なって下さいとの事である。この一般的な結論は、特定の病気に対する「差別」の問題が含まれているので、適切な判断は個人個人に任すということのようだ。
そこで、W主治医に相談し、正式なデータの下での判断を願った。先ず、紹介されたN眼科医院に於て、前眼部スリットM、両眼底、眼圧、屈折、矯正視力、両視野、眼底カメラの諸項目について精密検査を行なった結果、眼と脳の連絡神経の年相応の老化は少々認められるものの、通常人より軽度であり、全く問題とならないとの結論を得た。同時に、現在の脳のMRIを再度測定し、こちらも運転に障害になる事実は認められないと判断された。判定したI脳神経外科医はカルテに「運転可」と書き込んだ。以上により、医者の判断はGoである。さらに、”石橋を叩いて渡る”ことから、民間の教習所(知多自動車学校ー半田市)に行き、1時間弱の自由路上走行をして同乗教官に見てもらった。幸いにして、病上りや高齢者運転を見てきたM教官に当り、その教官からもお墨付きを頂いた。ただし、少しの間運転から遠ざかっていたので、スピードは控え目に、ブレーキは早目に、疲れないスケジュールでと、運転の大原則施行を奨められた。教官からは「しっかり運転出来るのにわざわざ教習を受けに来る貴方は偉い」と褒められた。

また一つ、脳梗塞以前の状態への復帰条件が増したことになる。リハビリ担当の理学療法士さん達も、本格的に回復しない”右手の痺れ”に挑戦してくれると言う。自主的には、”歩け歩け”より一歩進んで、質的に難題の”痺れた右足とその関節強化”のための柔軟系の運動を心掛ける。オートマ車での質の高いアクセルワークとブレーキングは、右足のリハビリにも利用できる。

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