春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (8)

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12/04/19 熱田神宮と断夫山古墳(名古屋市)

熱田神宮
拝殿は、外玉垣御門と四尋殿(よじんでん)は東西翼廊を付設する。
その先に中重(なかのえ)の鳥居があり、
内玉垣、瑞垣の奥に、熱田大神を祀る本殿がある。
白鳥古墳 全長約74mの前方後円墳。前方部と後円部東側が削り取られている。西側に柵門がある。その裏側(東側)は法持寺の境内につづき、大師堂が隣接する。法持寺は、弘法大師が日本武尊を慕い地蔵菩薩を彫り小祠を建立したのを草創とし、白鳥陵を鎮守とし、御陵の宝物を護持する寺とされている。

熱田神宮の周辺を歩いた。久しぶりの都会である。名鉄・神宮前駅から、熱田神宮(あつたじんぐう)、白鳥古墳(しらとりこふん)、断夫山古墳(だんぷさんこふん)と巡った。行程は約4kmだが、情報量の多い国道・街中を含むので、ここ何ヶ月かこなしてきた田舎道と違った緊張感と疲労感があった。発病前の感覚を取り戻すには欠かせない課題が含まれている。街中の人と車の動き、信号の変わり目、雑然とした家・ビルの群れなど、改めて生活の場を知ることとなった。

熱田神宮は、ヤマトタケルノミコト・英雄説話・草薙の剣など、興味深い伝承が豊富な神社である。本宮は、明治26年までは尾張造りの社殿であったが、三種の神器奉斎の社であることから伊勢神宮とほぼ同様の神明造りに改造されたという。祭神は熱田大神で、草薙神剣を御霊代(みたましろ)とする天照大神のことという。相殿神(あいどのしん)として、天照大神、スサノオノミコト、ヤマトタケルノミコト、ミヤスヒメノミコト、タケイナダネノミコトを祀る。草薙の剣と関連する神々と尾張氏の遠祖としての神々である。
ヤマトタケルの物語は、作り話として、あるいは幾つかの伝承を纏めた物語として評価されるが、列島を西へ東へと遠征する雄大な英雄伝説である。景行天皇の皇子・ヤマトタケルは、東国遠征の帰途に、伊吹山の神との戦いに敗れ能褒野(のぼの)に葬られるが、白鳥になり大和に還る。白鳥の帰った先としては、羽曳野市古市、御所市冨田、三重県亀岡市などが比定され、白鳥陵(しらとりのみささぎ)として祀られる。熱田神宮の近くにある白鳥陵では、白鳥に身を変えたヤマトタケルが、ミヤスヒメと草薙の剣を奉る熱田の杜に降り立ったことを祀るという。実際には、出土品などから6世紀の前方後円墳とされるが、破損が著しい。

断夫山古墳 後円部左隅(南角)から (前方部を北西に向ける)      前方部は幅広く大きい (説明板が立つ)
全長151mの前方後円墳。前方部の幅116m(高さ16.2m)、後円部径80m(高さ13m)、西側くびれ部に造り出しがある。
後円部は3段築造と推定され、一段目に須恵質と土師質の円筒埴輪を巡らしていた。6世紀初の首長墓。(名古屋市教育委員会) 

古墳としては、少し離れた熱田公園内の断夫山古墳の方が興味深い。継体(けいたい)大王の有力な后妃・目子媛の父親・尾張連草香(おわりのむらじくさか)の墓所とされている。継体大王は、応神五世孫とされ6世紀初に越前(または近江)から招かれた大王(天皇)である。その出自など謎は多いが、それまでの大王とは一線を画す歴史の転換期を提示する。継体以降、欽明朝、推古朝(厩戸皇子)、天智・天武朝と日本の姿が定まってくる。

断夫山古墳は、6世紀初の古墳らしく前方部は大きく幅広い。真の継体大王(天皇)の墓とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)および継体朝と関係深い(乱を起した)筑紫・磐井の墓(岩戸山古墳)と墳形が相似であり、大きさは今城塚古墳(全長190m)に次いで大きい。安閑、宣化両天皇の生母である目子媛の父・尾張の首長墓とする事は説得力がある。
発掘調査する機会が何度かあったようだが、未発掘のまま、名古屋市の管轄下にある。

継体大王を追っかけて旅をしたのが一昨年の秋だった。その時に整備中だった今城塚古墳も昨年3月に復元整備完了し、再度訪れるつもりをしていた矢先に療養生活に入った。リハビリ完成後の旅は、今城塚古墳・継体大王から・・・始めたい。

12/04/07 桜と春祭り(美浜町)

冨具崎公園の桜 
 リハビリで通い慣れた公園は、季節の花々が植えられ、
眼下に伊勢湾と海苔の養殖・中部国際空港を見て、桜が美しく咲く
密蔵院の桜
 赤い門、白い壁に囲まれた美しいお寺を桜が彩る。明治の廃仏で生残った野間大坊の一寺。「かじとり観音昭和霊験記」が伝わる。

知多半島・野間の辺りで、半島中央の丘陵地帯は急峻に伊勢湾に落ち込む。冨具崎公園は、冨具崎港から野間灯台の裏手を占める小丘上にある公園である。北隣の丘は杜(モリ)を形成し冨具神社が鎮座する。この海岸線は南に延び、小野浦で、野間から小さな峠を越えてきた古道と出合う。

この地に移ってリハビリに専念しだして、はや6ケ月が経過した。爽やかな秋に移ってきて、冬の強い海風を感じ、春の桜を見る季節となった。野間の伊勢湾沿いにある上の三つの神社・公園・古道は、いずれもリハビリ歩きにぴったりで、私の好む場であり、癒しの場ともなった。

冨具崎公園は、町の有志で造った手作り公園で、いきさつを書いたチラシが置いてある。昭和20年代には、鉄骨2階立ての展望台もあったようだが、老朽化し取除き、その跡に携帯電話の中継基地局用アンテナが立てられた。その際に、公園化が始められた。冨具神社横からの500m足らずのきつい登り道は舗装されているが、海底が隆起して形成されたと思われる地盤は崩れやすく、路面に毀れ落ちた砂利を掃き清める為の帚が、道端に備え付けられている。巾狭い路面の下りで、スリップ事故が起こらないようにとの配慮であろう。登り口の手書の標識と道端の花壇など手作り感一杯なのが嬉しい。冬の一日、公園の整備に土を入れに来たオジサンに出合ったこともある。この辺りには中世の細目城もあったと推定されている。伊勢湾を見張る城砦だったのだろう。

知多四国52番札所・密蔵院が、中世の野間大坊の名残であることは先に記した。当山に伝わる「かじとり観音昭和霊験記」とは、”第2次大戦の末期に小笠原沖で爆沈された御用船の船長以下7名は、当山に祭られている如意輪観音の信者であった。救命艇に乗り移って観世音にお願いした結果、30数日の漂流後に野間沖に到着した”という実話である。朱の門、白い壁、本堂の大きなきな瓦屋根が、沿道の桜で美しく彩られる。

神明社の春祭り  幸宮司神社は素朴な神社で、山際にひっそりと佇む。

w病院と接して「神明社」がある。祭神をネットで調べると、豊受大御神で元は大御堂寺(野間大坊)の守護神(神仏習合)であり、野間大坊近くから明治になってから移動したらしい。お神輿と太鼓と何か波頭のような張りぼてを持った一団が、朝から公民館を出発し町中を行進する。午後になって、神社で笛と太鼓の奉納を行い、町中の人々がかけつけての「餅まき」が行なわれる。病院から車椅子に乗った患者も参加するのでいささか怖い。無事に終了し、お神輿は公民館に帰り、人々は拾った餅の数を自慢しあい帰路につく。

「神明社」といえば天照大御神を祭神としているとばかり思っていたが、そうでないらしい。それでも外宮の神様である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀り伊勢信仰であることは間違いない。宮司さんは、神明社、冨具神社と幸宮司神社という変わった名前の神社を一人で受持っておられるらしい。冨具崎公園に登る際に「冨具神社」の下を通ったが、こちらも春祭りの大幟がはためいていた。こちらの例祭は4日に催されたようだ。「幸宮司神社」の由来は分らない。東京・文京区に猿田彦命を祀る「幸神社」というのが見受けられるが、関係あるのかないのか・・・。

12/04/06 リハビリの限界

脳梗塞発症から9ケ月が経過した。これまでにも書いたように、今年になって、かなり自由に散歩できるようになっているが、発症前の歩きと比べると、速度・歩き方・身のこなしなどは今一歩覚束ないものがある。4月からは、正規のリハビリは週2回となった。発症後6ケ月を過ぎると、リハビリによる効果を確実に期待する事が難しいとされ、むしろ普段の生活をリハビリとすることが薦められることとなる。自主リハビリとしての知多半島歩きは続き、”内扇(うとげ)義朝の森”や”美浜サーキット”など行動範囲も拡がってくる。現時点で自分が感じる後遺症とそれに対しての取組みを記しておく。

全体的には右半身が麻痺したので、その機能回復が問題となる。先ずは、「右手の痺れ」である。当初幾らか感覚を取り戻したものの、際立った改善はされていない。むしろリハビリは”右手の不自由さによる直接的な行動の制約を、何らかの別の手段を用いて間接的に克服する練習”みたいなところがある。リハビリ効果は、”簡易上肢機能検査ステフ”なるテストドリルで測定され評価される。その結果、数値としては”同年代の右手能力の80%以上”の結果が得られるようにはなっている。然しながら、テストドリルを繰返すことにより、ドリル自体への慣れ・テスト項目への要領良い対応が成績の向上に寄与しているところがある。明らかな現在の難点は、右親指と人差指でオハジキを抓む様な操作が極端に不得手なことである。従って、文字をさらさらと書くようなことは出来ない。幸いにパソコンの世になっているので、不便さは軽減されはするが、ここでも右指の感覚麻痺は、運指に不都合を生ぜしめ、キー操作の遅さ・不正確さは悩ましいこととなっている。

右足に関しては、足裏感覚としてのゴルフボールを踏みつけた感じは、依然として残っている。最近、足指を反り返すようにすると、ボールの形・位置が変わるような気がして繰り返し試している。「歩くこと」への動作と意欲は、外歩きが多くなって急速に進展したが、それと同時に、右腿・右関節のリハビリがやや遅れている事に焦りを感じている。もっともこれらの障害がリハビリで回復可能な域なのかどうかは疑問で、右手痺れの回復と同様に、難しいのかもしれない。現在は、普段の生活の中で、右つま先反り・足首の捻転・右脚部全体の貧乏ゆすりなどで刺激を加え、内股に血流が生じ何かが変化する感覚を促進するように努めている。足指が痺れで動き難くなっているので、これに刺激を加えると何かが変わるのかも知れない。何か効果があると思いつくと、祈るような気持ちで閑を見つけて行うようにしている。

最近の週2回の正規のリハビリでは、”うつ伏せで腹部を持上げ腹部のインナーマッスルを強化する事”と”立ってる状態から足首をつかみに行くことにより内腿筋肉を強化する事”がA理学療法士によって進められている。このリハビリは、直立時に知らず知らずに腹部右側が崩れてくることを是正するものであり重要である。筋肉強化といえば、荷物を持上げる力を、以前のようにとは言わないまでも、少しは向上させないと生活にも支障を来たしかねない。右腕力・右背筋・右足の踏ん張り力の強化であろう。
効果ありそうことは何でも真剣に取り組んできた。1年以内は脳梗塞再発の確立も高いとされるが、以後は通常の発症率に戻る。この時点に当って、回復が長期化するものは別にして、リハビリ初期の完成を目指す日々である。

12/03/10 野間大坊(美浜町)

野間大坊 東側の入口から入ると、北側に源義朝公御廟・大御堂寺・五重塔跡・信徒会館・悠紀殿を見て、本殿に至る。南側には、血の池・マニ車・大門・鐘楼などがある。弁天池の畔には陰陽石も祀られている。五重塔跡は、礎石など遺物があるわけではなく、古い記録による。1180年代に源頼朝により健立、1531年兵火により消失したと伝えられている。

郷土史家の調べでは、中世の野間大坊(のまだいぼう)は12坊を有する大寺院であったが、明治の廃仏時に、本堂・大坊・密蔵院・安養院・法山寺だけが残った。現在の野間大坊は、本堂と大坊からなり、本堂は鶴林山・無量寿院・大御堂寺(おおみどうじ)を正式名称とする。大坊は現在の本殿を指す。密蔵院と安養院は大坊から200~500m内にあり、法山寺は名鉄知多新線・野間駅東の山中(大坊から直線距離1.1km)に位置し、いずれも知多四国巡礼の札所となっている。源義朝最期の地としても有名である。

東京西郊外の丹沢・大山(おおやま)山麓(神奈川県伊勢原市)に、真言宗・高野山派の日向薬師(ひなたやくし:日向山・霊山寺)がある。ここも、明治の廃仏を受け、13坊あった子院は全て廃業し、別当坊であった宝城坊だけが生残っている。野間大坊と日向薬師は、いずれも役の行者と行基菩薩の開創伝説を持つ真言宗の寺院だが、野間大坊は真言宗・豊山派である。

日向薬師は茅葺屋根が美しく、秘仏・木造鉈彫りの薬師如来像と、同じく鉈彫りの日光・月光菩薩像が、室町時代の華麗な厨子に納まり、正月三ケ日の御開帳が楽しみだった。また、4月の大法会での山伏さんによる”薬師修験の儀式”も珍しい催しだった。

修験道の関係する行事は、宗教的内容は不問にして、いかにも日本の中世の香りがして、見ていてわくわくするものが多い。神事ではあるが、日本の芸能の始まりの一つでもある。南信濃・伊那谷に伝わる「遠山郷の霜月祭り」というユニークな祭りもある。冬の冷え冷えとした夜半に、神主さんが全国・八百万の神々をお風呂に招きもてなす”湯立ての神事”である。ここでは、真言密教・修験道・陰陽道の要素を多分に取り込んだ両部神道の祭りとして催される。

野間大坊は役の行者を開創とし修験道につながっている。境内を見渡すと、催しに期待が持てそうな舞台装置が幾つか見受けられる。
①源義朝の首を洗った「血の池」が、世の中不祥事が起こると朱色に染まるという言伝えは、立山修験での立山地獄(地獄谷)を連想し、②ネパールから贈られたというマニ車は小乗的な原仏教に導く。③弁天池の畔でひっそりと祀られた陰陽石は、縄文の祭りの臭いを呼ぶ。④本殿で行なわれる「源義朝公の絵解き」は、紀州・道成寺(天台宗)での安珍清姫の絵解きを思い出させる。主人公・安珍は若い山伏である。⑤変わった建物として目につくのは、昭和天皇の大嘗祭で使った悠紀殿が何故かここに移築されている。⑥大門は、源頼朝公寄進の立派な四脚門である。⑦源義朝公の御廟、鎌田政家の墓、池ノ禅尼之塚など、色々な舞台装置がみつけられる。大坊の年中行事にも関心を持ちたい。
野間大坊では、鎌倉幕府5代将軍寄進の建長2年銘の梵鐘、絹本着色義朝最期図・頼朝先考供養図(江戸時代)を、重要文化財として所持している。

大御堂寺(札所50番)は、瓦屋根が美しい。本尊は阿弥陀三尊。宝暦4年(1754)の建立。本殿(札所51番)は、伏見桃山城から移築した入母屋造りが美しい建物。屋根は銅板葺きだが、茅葺が似合いそうだ。床面は方丈形式で、本尊は地蔵菩薩像。江戸初期の建立。
同じ場所に知多四国札所が二つあり、巡礼者には手間がはぶける。本四国でも68番神恵院と69番観音寺が同一場所(観音寺市)にある。
史跡 長田父子磔の松
野間大坊の東約200mの小高い丘に、義朝を騙し討ちした長田父子を
ハリツケにした松
がある。 老いた松の幹を両側から木で支えている。
長田父子の辞世の歌として、石碑が造られ、
”ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をいまぞたまはり”とある。

さて、平治の乱に敗れた源義朝の逃避行については、平治物語と愚管抄では少し異なるようだが、大坊での絵解きは、平治物語を下敷きにしているようだ。

すなわち、今の岐阜県の青墓で長男・頼朝とはなればなれとなった源義朝は、忠臣何人かを引き連れ、忠臣の一人である鎌田政家(義朝の乳母子)の舅(しうと)に当る長田忠致(おさだただむね)を頼って野間に落ちる。しかしながら、長田忠致・景致父子は、義朝を湯殿に誘って殺害する。(法山寺に湯殿跡がある)
義朝を討った長田忠致は、平家より壱岐守に任ぜられるが・・・不満である。頼朝挙兵時には再び源氏に組し、頼朝から「働きによっては”美濃尾張”をやる」と言われて、懸命に戦う。戦い終わり源氏の世となり、長田父子は約束どうりに、義朝殺しの罪により”身の終り”を賜ったという。そのハリツケにされた松が野間大坊の近くの丘の上にある。
源義朝の最期、長田忠致・景致父子のその後については諸説があって、必ずしも上のような筋書きは史実とは言えない。現在TV放映中の”平清盛”で源義朝が登場する。史跡と称する”義朝最期の地”には、「大河ドラマで話題! 源義朝公ゆかりの地へようこそ」の幟がはためいている。

12/02/28 山海からの峠越え

山海から内海に向う峠道は、標高80~100mの山地を行く気分の良い道で、知多四国44番札所・大宝寺に通じている。内海近くの海岸に「源義朝上陸の地」の手書の看板がある。内海の長田忠致を頼った義朝が、野間で殺されるという物語があるが、上陸地が本当なのかどうかは分らない。

今回の発病・入院について、やや客観的に捉えられるようになった今、体力回復時期が来ていると感じている。ここで、過去の経験を活かした自主トレメニューを作り、実践しようとしている。若いときの胃潰瘍手術、大怪我骨折2回、咽喉手術、肝炎治療など入院経験が意外に多く、病気自体による体力低下以上に、入院生活による体力低下の回復が必要な事を、しばしば経験してきたからである。

7年前の肝炎治療時に、薬の副作用で極端に体力が落ちたことがある。治療後の体力回復自主トレとして、天理から桜井までの”山辺の道”15.8kmと、醍醐寺から石山寺への”西国33ケ所巡礼道”15.4kmを、2日続きでウオーキングした。その前後には、丹沢山麓の低山歩きを4回こなし、ほぼ体力回復への道が開けた経験がある。

先ずは、手っ取り早く知多四国88ケ所の巡礼道をベースとしてウオーキング計画を立てた。第1回目は、2月11日、野間から標高40mの山地を越えて小野浦へ1.8km、国道247を南下し南知多町郷土資料館まで2.2km、内海駅まで2.0kmで、計6.0km。内海ー野間(名鉄新線)を乗り継ぎ、野間駅からの1.5kmで計7.5kmのウオーキングを行なった。
第2回目は、2月22日、南知多町郷土資料館までは前回と同じとし、ここから更に4.5km、山海(やまみ)まで国道247号を南下する。山海から標高80mの峠を越えて内海駅まで6.0kmを戻り、計14.5kmの周遊とする。野間駅からの1.5kmを加えると、全コース16.0kmのウオーキングとなる。

12月末に冨具神社に初めてA理学療法士さんに連れられて来た時には、長い急な石段を登ることにまだ躊躇していた。2ケ月経った今では、少々ゆっくりではあるが、何のためらいもなく登り下りができるようになっている。そればかりか、ウオーキングコースとしている冨具崎公園の急坂、港や灯台周辺の海岸などは、単独では物足りなくなり、幾つかまとめて行動するようにしている。
まだ右足の痺れによるどんよりとした重さ感は残っているが、週3回の解剖学的なリハビリと自分流の自主トレで対応している。障害と体力の回復が、薄皮を剥ぐように突然に訪れることを期待している。自主トレ時の足裏感覚や臍周りの安定感に加え、何かの折に、痺れの残る太腿部に血が通ったような熱さを感じる時、リハビリの進捗を感じる。


12/02/14 先苅貝塚(南知多町)

南知多町郷土資料館に立寄る。建物は古く、展示物も埃っぽいが、内容は一つ一つ見応えがある。先苅貝塚の展示では、押型文土器片などが、無造作に並べられていた。

2月になって、通常のウオーキングから脱して、公園・神社・港への散策を一気にこなしたり、坂道を無理の無い程度にジョギングしたり、町営の巡回バスで図書館に向ったり、更には、名鉄の一駅先まで山越えで歩いたり、いよいよ佳境に入ってきた。これらは、自分で自分の体を痛めつける自主リハビリ(自主トレ)である。当然の事として、指導者による解剖学的な(?)体の使い方のリハビリも必要で、そちらの方は、来院してリハビリ指導されるF医大のT先生による”自分で自分の行動を抑制する動きがある”とのお見立から、その排除をA理学療法士の下で行なっている。

一駅先までのウオーキングとして、野間(のま)・内海(うつみ)古道を利用した。知多四国48番札所・良参寺(小野浦)と49番札所・吉祥寺(野間)を結ぶ山中の道である。川のない山地には所々に溜池がある。知多半島の冨具崎辺りを境にして、北側の丘陵を形成した常滑層群と南側の山地を造った師崎層群が接している。師崎層群は海に堆積した層で、1,500万年前には出来上がっていたという。その後、700~180万年前頃には常滑層が堆積した。この頃から地球では氷河期と間氷期が、海退と海進が繰り返され、砂礫層や粘土層が堆積された。 内海周辺には最も新しい(2万年前からの)地質である沖積層が堆積し、そこには海面変動や南海の鬼界アカホヤ火山活動など縄文時代の記録が残っている。山肌を見学しながら遠足気分で歩く。

小野浦で国道に出て海沿いに内海(うつみ)を目指す。小野浦では見透しが良い日には、野間灯台の対岸に、四日市の右背に伊吹山が、左背に御在所岳が見える。内海の町に入る直前に南知多町郷土資料館がある。お世辞にも立派だとは言えない校舎跡の建物である。入口にあるインターホンで頼むと、すぐに係の人が飛んで来て鍵を開けて呉れる。ホコリっぽいが、展示物が1~3階の全域に豊富で、それなりに楽しい。土地柄、漁業と海運業の展示が多い。弁才船(千石船)の模型など見事だが、今日の所はリハビリの途中という事もあって、埋蔵文化財(貝塚)と、日間賀島などの古墳についての展示内容だけを短時間で確かめるに留める。

先苅(まずかり)貝塚は、縄文早期の貝塚で、名鉄知多新線・内海駅の工事中に発見された。現海水面より10m下の埋没波食台(はしょくだい)に位置する。石器やシカの骨で作ったヘラ、縄文早期中葉の押型文土器の他に人頭骨も出土した。出土した貝の放射性炭素測定は、8330±260年前を示し、東海地方でも最古の貝塚であることが分った。また、縄文時代の海面変動を実証する遺跡としての価値も高い。この時代から生きたこの地の人々の末裔がこの地の海人となったのだろうか。
縄文遺跡としては、清水ノ上貝塚(前期:アカホヤ火山灰を挟んで上下から発掘)、咲畑貝塚(中期;沈線と渦巻文の土器)、林ノ峰貝塚(後期前~中葉の人骨7体)など25遺跡、他に、弥生遺跡38遺跡、古代6遺跡と南知多町の遺跡数は多い。
海岸沿いの各地から製塩土器(5世紀~11世紀)が多数出土している。古墳に関しては、いずれも6世紀後半~7世紀の円墳であるが、篠島に3基、日間賀島に35基、佐久島に46基見つけられ、海の群集墳・祭祀遺跡を形作っている。この三島は、意外にも石室石材の産地でもあった。また、三島の名を記した木簡などが平城京跡から出土し、当時の漁民の税である贄(ニエ)の存在が明らかとなっている。

12/01/30 天壌無窮(美浜町) 

冨具崎公園からの伊勢湾

知多半島を一周する国道247に沿って、西岸を伊勢湾沿いに南下すると、野間で右クランクコーナーに出会う。右先に冨具崎(ふぐさき)港、左崖上に冨具神社と展望の開けた公園がある。

天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅とは、『この日本の国は、天照大神の子孫が王たるべき国で、皇孫は天壌とともに無限に栄える』という日本書紀(第一の一書)の記述をいう。記紀編纂の政治目的は、これにより、天皇がこの国を支配することを正当づけることにもあった。”第一の一書”は、記紀の諸伝の中で最も成立が遅いと考えられ、この記述が奈良朝での天皇家を頂点に置く政治体制の基盤となっている。その後、この国の支配体制は、貴族の横暴、武家の台頭などで様々に変化したが、明治維新により武家政治から脱した明治政府は、再びこの神勅を取り上げ、天皇を神として祭り上げた。結果は、昭和の代になって軍部の独走を許し、惨めな敗戦を味わうこととなった。天壌無窮とは、「天地窮まること無く」なので、「天壌無窮の神徳」などと冨具神社の鳥居に朱書きしていても何の不思議も無いはずだが、上の過去をどうしても連想してしまう。

天壌無窮の神勅は、記紀神話が古代天皇制の産物であることを論証する立場からは、机上で造りだされた話として一蹴される。記紀神話は、アマテラスの登場する多神教的なイザナキ・イザナミ神話に、北方系の神・タカミムスヒを天孫降臨の指令神とする一神教的な神話が加わったものと解されるが、記紀成立の最期の過程(紀第一の一書)で、アマテラスとタカミムスヒが習合した形となり世に流布された。元々は多くの神々の一員であったアマテラスが、突如全ての責任を持ち、この国を支配する天照大神に変貌し、国家神となったと見られる。イザナキ・イザナミ系の神々は弥生時代を彷彿させるもので、タカミムスヒは5世紀頃に新たに加わった北方騎馬民族的な神概念である。

天照大神は、戦時下では傲慢な強い軍神の姿をもつ肖像画で示さることもあった。然しながら記紀に見られるアマテラスは、天上界ではスサノオの陰に隠れた存在であり、地上界では、崇神期に天皇の御殿に倭大国魂と二神で祀られ、不都合が起ると豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に遷り、その後垂仁期には、倭姫命に託されて、宇陀・近江・美濃を巡って伊勢国に至り、ここで、「伊勢国は、しきりに常世の国からの波の打ち寄せるところ、辺鄙だが美しい国であり、ここに居りたいと思う」と倭姫命に言って、伊勢を永住の地とする穏やかな女神である。
記紀(特に日本書紀)は、この国の大切な記録である。これらを史書と認識しても、当然の事ながら、そこに含まれる内容は全て史実とは言えない。5世紀頃までの話は、文字のない伝承文化に属するものが大半であり、神代記を含めて、誇張・擬人化も随所で行なわれている。(この国の文字社会への移行は5-7世紀に行なわれた。)それ以降の物語でも、編纂時の政治状況により歪曲されていないとは言えない。それでも、考古学的事実と照らし合わせて、古代・上代を探るに大切な書である。

大型の船形埴輪 松阪市文化財センター「はにわ館」に展示

また、伊勢神宮の成立を何時にするかが議論されることも多い。斎宮の記事が見える継体期、壬申の乱後の天武期、更に飛鳥・奈良朝など色々である。別宮とか元伊勢と呼ばれる天照大神を祀る伊雑宮と瀧原宮を訪れた事がある。伊雑宮(志摩市)の田植祭には道教の習俗が残り、瀧原宮(多気郡)でも土地神が三つの社の一つに祀られていた。天照大神を伊勢神宮に祀るのは意外に新しいのかも知れない。伊勢湾あるいは三尾勢(さんびせい)の海の歴史の中でアマテラスを探すのも興味深い。宝塚古墳(松阪市)の造出し部に飾られた大型の船形埴輪は、伊勢湾を本拠とした海人族の活動を連想させる。また、継体朝での尾張連の関わり方、壬申の乱での大海人皇子(天武天皇)の行動、それに続く持統天皇の行幸などが、国家神の誕生と関係があるのかも知れない。
伊勢湾を眺める冨具崎公園への登り下りをリハビリ日課としながら、再び気儘な旅が出来る日を心待ちにしている。

12/01/27 リハビリ 

脳梗塞になって、友人の医者たちが忠告するには、規則正しい食生活をすることと、リハビリは辛さに比例して効果が上がるので頑張れと。
私の脳梗塞の後遺症は、右半身の軽い麻痺である。「軽い」と言うのは、私の願望であり、友人達の慰めであるが、同じく脳梗塞の患者が多いリハビリ病院に入院してみると、脳梗塞の後遺症は、起こり方・部所により、千差万別・患者の数だけ症状の違いがあることが分る。そして、痺れの程度、強さなどは、おそらく懸かった当事者だけが知ることで、読んだり聴いたりする症状では理解出来ないものだろう。入院生活が長くなると、当面の症状に加えて、動きの少ない病室生活による体の鈍りがつけ加わる。病室でのゴロ寝状態を脱するのもリハビリである。とにかく早く普段の生活リズムを取り返すことだ。脳梗塞の再発率は初年度が大きく、8%という。リハビリが障害に効果的なのは6ケ月以内と聴く。私の入院経過とリハビリを記しておく。

●2011年7月16日(土曜日)午後2時以降の記憶なし。後頭部左・多発性脳梗塞を発症。町田市民病院に救急搬送される。夜、訪れた友人達と普通に話しをすることは出来るが、当面は車椅子の生活。翌日から作業療法(手作業中心)と理学療法(脚行動中心)のリハビリが始る。ここでの3週間は、全て車椅子生活である。まだ自分の体の何所がどの程度障害を受けているのかが実感できず、夜中に目が覚めて起き上がろうとして、転んでナースコールで助けを求めたりすることもあった。
●発症より3週間後の8月8日に横浜市青葉区のKリハビリ病院(リハビリ科に脳神経外科医が専任)に転院する。ここで10月17日までの2ケ月余を過ごす。言語療法を1週間するが問題無く、毎日1時間程度の作業療法と理学療法に専念する。作業療法は、上半身のリラックス、専用器具を使ったドリルの他に、友人が差し入れてくれた筆ペンを使っての習字を続ける。理学療法はリハビリの中心をなし、車椅子、歩行器具を使っての移動、病室周りの”手すりのつたい歩き”そして”院内の見守られての歩き”へと順次移行する。右足のしびれが強く、つま先をそり返らす運動とその意思伝達が悪く、歩行中突っかかる事がある。これを改善する予備訓練、歩行訓練から始める。次第に、25m程のリハビリ室を3往復、5、7往復へと姿勢を正しての歩行練習へと、更に階段歩行が付け加わる。最終の2週間は近くの鶴見川沿いの1時間ほどの散歩をこなす。
自分では右足裏感覚の変化をリハビリの進み具合の尺度とする。右足裏母指丘辺りに感ずるゴルフボールを踏みつけたような感覚が、足裏を扁平になって移動するようになればリハビリが進んだ証拠とする。ここでの理学療法は、当初よりかなりハードな動き(サイドステップや腹筋・背筋運動、歩行姿勢のチェック・矯正など)と入念なマッサージが主であった。担当のOさんは、転院までの達成目標を定め、回復不能とされる感覚障害の手当てにもプロ意識で挑戦してくれた。
●発症より3ケ月後の10月18日に愛知県知多郡美浜町のW病院に転院。すぐにリハビリを再開する。K病院退院時に杖を用意したが、ここでは当初より入浴での見守りを含めて全て自立歩行を基本とする。室内での通常の歩行とバランス感覚の訓練に加えて、巡回O先生の指導で大きな動きを加えたステップ・ジャンプが加わる。室外ではリハビリ担当Aさんの指導の下に、近隣の坂道の上り下り、公園・神社仏閣・田舎道の遠出などをする。12月終りに坂道・石段の登りを始めた時には息が上がり戸惑ったが、1月も続ければそれが日課となる。作業療法では、麻痺した右指先感覚の訓練、PCキーボード叩きの他、藤細工や土器作りなどをこなした。
●2012年になって、病院附属のケアハウスに移る。普段の生活をしながら理学療法を週3回は病院で、それ以外の日には、坂道の登り下り・ジョギング・周囲に注意しての遠出・公共交通の利用などをリハビリとしている。作業療法に関しては、PC(ネット)生活を復活することによって自主的なリハビリとしている。

右の写真は、W病院の作業療法で造った”八戸市韮窪遺跡出土の十越内(とこしない)様式の土器(青森県立郷土館)”を真似た深鉢である。PCに忍ばせておいた小川光博氏の展開写真を見ながら、長らく遠ざかった遺跡巡り・縄文の世界を想い出す心のリハビリでもある。(入江)十越内様式は、縄文後期前半に北海道南西部から東北北部に分布する土器様式で、モチーフを沈線または磨消(すりけし)縄文で描き、深鉢・鉢・壺形が多い。土器と言ってもリハビリ教材では焼結する訳でなく、粘土を樹脂と混ぜておいて成形・乾燥した後にオーブンで樹脂を溶かすと出来上がる。作業療法を指導するTさんとMさんは、「痺れた右指を使って呉れると私達の立場では嬉しいのですが・・・」と言うが、やり始めると気持ちは東北の埋蔵文化材センターに飛んでいる。

ここ数年、北海道南部と青森・岩手・秋田の東北三県で”北の縄文文化”を世界文化遺産に登録する運動が行なわれている。東北三県のみならず縄文時代の土器・土偶は力強く巣晴らしい。しかも繊細で、3千年前~1万年前の時間差を感じさせない。縄文文化は、弥生以降の文化に比べ、日本人の原色的なオリジナリティを強く感じる。是非、登録して日本の誇りにしたいものだ。東京に住み関東・東北を旅できたお蔭で、多くの素晴らしい縄文文化に接っし得たことを幸せに思っている。

12/01/13 ・・・ご挨拶・・・ 

平成24年の初春を迎えました。昨年7月半ば、脳梗塞にて町田市民病院に緊急入院し、8・9月は横浜市のKリハビリ病院に転院しました。10月半ばには、愛知県美浜町のW病院に転院し、今月始めに病院附属のケアハウスに居を移してリハビリ生活を続けています。脳梗塞の症状は軽度でしたが、右半身の痺れは回復するより慣れが要求され、同時に低下した運動能力の回復も必要となり、いずれも時間が懸かる作業となっています。
美浜町での生活は、見応えのある関東・東北の縄文文化から離れた寂しさはありますが、伊勢湾周辺の古代文化に接する機会を得て、また近畿を中心とした弥生・古墳文化に接近しました。ホームページの更新が滞っていましたが、気分を新たにして再出発し、リハビリ生活のこと、新しい環境の下での古代探索などを紹介したいと思っています。
正月に訪れた近くの冨具神社(ふぐじんじゃ:知多郡・美浜町)は、御由緒によると、「志那都比古神(シナツヒコ)」を祭神としています。古事記では伊邪那岐命(イザナキ)・伊邪那美命(イザナミ)の二神により生み出された風の神が「志那都比古神」で、日本書紀では一書第六に、「二神が大八州国(日本国)を生み出された際に、朝霧がかかっていたので、その霧を吹き払った息が神となった。名づけて級長戸辺命(シナトベ)、別名を級長津彦命(シナツヒコ)といい、風の神である。」とあります。伊勢湾に面したこの地は、海風が強く吹き、シナツヒコを祀るに相応しい神社です。日本の知恵が造り出した天地の姿・ロマンは、今も昔も変わらなく、美しく待ち受けてくれました。今後ともこのホームページをよろしくお願いします。

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