春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (10)

次へ

12/12/22 悪友会 (熱海市網代)

初島を間近に、伊豆大島上空からの日の出を見る
悪友会忘年会は、竹林に囲まれた庭園、温泉が自噴する
割烹旅館”みずの”で、20数年間に亘って続いている。
左から、宮田、山中、岡田、市川、宿の女将、金井、安田、私

12月20日、2年振りに、新幹線で熱海駅に降り立った。1年半前に脳梗塞を発症して以来、初めての小旅行・悪友会忘年会への旅である。”悪友会”とはやや自虐的な語感もあるが、”悪”と云う接頭語は、”悪源太”や”悪太郎”などヤンチャで強くて粋な男の子を表す語で、会を引張る金井君の命名である。1年半前に、私が脳梗塞で倒れたことをいち早く見つけ、処置・世話してくれた仲間である。「ここまで回復しました」との報告の忘年会復帰でもあった。

最近は、愛知の周辺を車で動き回ることには相当に慣れてきたが、電車・新幹線利用の旅は初めてである。雑踏に紛れ込まないよう気をつけ慎重に乗換え周囲に気を配り、熱海に向った。大井川を渡る頃には遠くに南アの白い山々が、富士裾野では昔その林道を車で走り周った愛鷹の峰々が懐かしい。熱海駅には金井君と安田君が車で迎えに来てくれた。網代の割烹旅館”みずの”が忘年会の会場である。

”みずの”で忘年会をするようになって20数年を経た。”みずの”は当初、漁師町の小さな割烹旅館で、海の幸が自慢であった。3年前にいち早く鬼籍に入った仲間の一人・森戸君が見つけて来たと記憶している。森戸君は食品会社の専務で、味に殊更煩かった。その後、バブル期には温泉が敷地内で自噴し、客室、庭園の増築・造園が続き旅館の格式も上がり、TVの伊豆箱根の旅番組のキーステーションになったりもした。現在の”みずの”は3年前から経営者が替わったが、昔どうりの馴染み関係が続いている。

悪友会の宴会も相当に変わった。森戸君が健在の頃には、金井君と二人して何時も会を盛り上げていた。皆が溌剌としていた頃には、伊豆高原や韮山で朝からゴルフを楽しみ、夜は大酒、カラオケで騒ぎ、翌朝も朝酒の中で共同購入する”有馬記念”の馬券を討議決定するという時代もあった。今年の忘年会では、夏に喉頭癌手術を受けた山中君も出席したが、いつも元気にゴルフ・忘年会に付き合ってくれた金井夫人が入院中である。来年こそ全ての病気を追い払った忘年会となるよう、祈るばかりである。

それでも、私的には、今回の忘年会復帰を機として、日常生活へのリハビリが一ランク上るようなステップが一応踏み出せたという満足感がある。日常に即応したリハビリを心がける今、しびれ部とそうでなくトレーニング不足になっているヶ所が自分で感じるようになってきている。日によって随分良くなったと感じる時もあるが、妙に動きがぎこちないと感じる日もある。この感覚は本人しか分らないものなので、その感覚を研ぎ澄まし、病気に負けて運動不足を助長させることは避けたい。発症後1年余、リハビリ効果には限度はあるだろうが、ここからは本人の努力次第で通常の壁を越える可能性があることを期待したい。

宴会の翌日、皆で揃って、森戸君の眠る函南町の墓地を訪れ、線香を上げた。富士山麓の禅寺の墓地で、松林に囲まれた静かな環境にあった。


12/12/10 内々神社 (春日井市)

内々神社の正面。「東海道自然歩道」の説明板もある。
右側に内津妙見社、左に駐車場がある
本殿裏に庭園がある。池を巡り裏山に続く道には、落葉が降積っていた

国道19号の愛知県春日井市と岐阜県多治見市の県境は、愛岐三山(弥勒山、大谷山、道樹山)の北側の内津峠(うつつとうげ)トンネルである。中央自動車道では、内津峠PAを出て峠の北側の山間で県境を越える。古くからの下街道(したかいどう)は内津道(県道508)と呼ばれ、国道19号と併行している。この道を春日井から走ると、峠の手前で内々神社(うつつじんじゃ)に到着する。山に囲まれた静かな地である。

内々神社の紅葉は、11月中旬から12月初旬である。12月第一週の平日に、最期の紅葉を見に神社を訪れた。土地の老人会の方が境内と庭園に散らばった落葉を掃き集めていた。神主さんはお祭の時には来るが、普段は老人会で神社を守っていると話してくれた。老人会の年齢が上り、若い老人が少なく大変らしい。それでも、由緒ある古社の面目と、南北朝の名僧夢窓国師作の庭園を、しっかりと守っている。

内々神社の御祭神は、日本武尊(ヤマトタケル)、宮簀姫命(ミヤズヒメ)、建稲種命(タケイナダネ)で、延喜式に載る古社であり、東谷山の”尾張戸神社”と同じく、”ヤマトタケルと尾張の祖”を祀った神社である。
ヤマトタケルを祀った神社は、全国で、東北29、関東73、中部66、近畿10、中国5、四国7、九州18(第2回春日井市シンポジウム)と数えられるが、内々神社は、尾張の祖である建稲種命の死を悼むのが主題の神社である。古の尾張氏の意向が感ぜられる。

拝殿は正面に一間の向拝を構え、軒中央の唐破風と大屋根の千鳥破風の重なりが正面感を強調している
向拝の海老虹梁に代表されるように、拝殿・本殿共に細部に多くの白木の彫刻が施されている
本殿は三間社流造である。
本殿裏に、南北朝の名僧夢窓国師作とされる廻遊式林泉型庭園があり、裏山は奥の院に通じる。  (春日井教育委員会の説明板より)

現在の社殿は、信州上諏訪の大工立川富棟、富之、富方の立川一門によって、文化年間(1804-1818)に造立されたとある。本殿と拝殿を中間の幣殿で連結した権現造である。各所に散りばめられた白木の彫刻が美しく、江戸時代後期の傾向を示す代表的な神社社殿である。今ではこの彫刻を施すことの出来る大工は少なく、補修も儘ならないという。

ヤマトタケルは、記紀では、景行天皇(大王)の皇子として、クマソ退治に西征し、エミシ退治に東征する皇族将軍であるが、大和に凱旋する直前に伊吹山の神と対峙し、病を得て三重の能煩野(のぼの)で崩御し、白鳥となり大和に帰った後に何処へか飛び去った。

ヤマトタケルの実在性は薄いが、タケルなる勇者が実在したとか、幾つかのタケル伝説から作りだされた人物だとか、諸説ある。現代でも手塚治虫による創作漫画タケルとか、梅原猛による創作歌舞伎タケルとか、更に新しいタケル像が生み出されている。

ヤマトタケルの実像がどうであろうと、”尾張”の祖・タケイナダネ(またはミヤズヒメ)とヤマトタケルが、この地から熱田にかけての庄内川流域に伝説として残るのは興味深い。ミヤズヒメの館として名古屋市緑区大高町の氷上姉子神社近くを当てる場合もある。”尾張”の発祥を考えるときには重要である。

熱田神宮に納められている草薙剣は、ヤマトタケルが伊勢神宮に仕えた叔母のヤマトヒメからの戴きもので、神代にスサノオがヤマタノ大蛇より得た剣である。この剣をミヤズヒメに預けて素手で伊吹山の神に立ち向かい、ヤマトタケルは敗北する。大和・尾張・伊勢の関係を暗示する伝説とも思われる。

ヤマトタケル伝説の成立時期は定かでない。6世紀以降とする場合があり、壬申の乱(672年)で大海人皇子(天武天皇)が伊勢大神を遥拝し、尾張・美濃の勢力を味方につけ反撃に転じたこととの関連も考えられている。壬申の乱前後に、美濃・尾張地区に勢力を伸ばした身毛(むげつ)氏・尾張氏と、古墳時代初期から大きな古墳を造営した勢力との関係も興味深い。
12月10日、この地に初雪があった。


12/11/23 東谷山古墳群 (名古屋市守山区)


東谷山登山は、フルーツパーク(標高74m)を出発し、尾張戸神社のある東谷山(標高198m)頂上への道で、中社・南社の鞍部が標高140mとなる。フルーツパークの第一駐車場に車を止め、愛知用水横の林道から入る。途中、中社と南社の間(鞍部)に出る。南社と中社へは鞍部より急な階段を登る。尾張戸神社は中社の北100mにある。東谷山へは、幾つかの道がある。
尾張戸神社古墳:古墳形状については諸説あったが、発掘調査の結果、直径約27.5mの円墳であるとされている。斜面に大ぶりな山石が葺かれ、一部に白石(石英)が混ざること、埴輪がみられないことなどが、山裾の白鳥塚古墳と共通することから、4世紀前半頃の築造と考えられている。(名古屋市教育委員会説明板)
裏側から見ると(東谷山山頂の標識がある)、古墳の上に神社が乗っているのがよく分る。

東谷山(とうごくさん)は名古屋市の最高峰で、標高198mである。庄内川の左岸、瀬戸市から名古屋市守山区に入る市境に位置する。東谷山を起点とした庄内川中流域の志段味地区は、多くの古墳が築かれた地域であり、東谷山がその起点となり、上志段味地区に接続している

東谷山の山頂には「尾張戸(おわりべ)神社古墳」が、約100m南の同じ峰に「中社(なかやしろ)古墳」が、更に南側の鞍部を越した峰に「南社(みなみやしろ)古墳」がある。庄内川・濃尾平野を見下ろす東谷山西斜面には、古墳時代終末期(6世紀後半ー7世紀)の群集墳が見られる。西斜面に接続する山裾の上志段味地区には、尾張戸神社古墳と同時代の築造と考えられている「白鳥塚古墳」がある。

東谷山の周辺は現在も開拓・開発が進み、林道が入り組んでいる。東谷山山頂には、上志段味から、あるいは西側の参道からも登れるが、今回は南側・フルーツパーク近くの愛知用水脇の林道から入り、途中南社・中社への鞍部より両社を経て山頂の尾張戸神社に達した。帰路は、再び鞍部に下り、そこからフルーツパークの北側に下った。山裾には人家も迫っているが、東谷山は古くからの信仰の山であり自然環境も豊かなので、愛知県自然環境保護地域に平成22年4月に指定され、乱開発は規制されている。

尾張戸神社は延喜式に記される古社で、御祭神は、尾張氏の祖神である天日明(あめのほあかり)命と天香語山(あめのかぐやま)命と建稲種(たけいなだ)命(ヤマトタケル東征時の副将軍で、妹がミヤズヒメでありヤマトタケルの妻である)の三神である。ヤマトタケルがミヤズヒメに遺した草薙の剣が熱田神宮で奉られていることから、尾張戸神社は熱田神宮の奥ノ院とも言われる。

山頂にある古墳としては、中部(美濃)では、犬山市の白山平(海抜136m)にある東之宮古墳を連想する。こちらは出現期(3世紀後半~4世紀前半)の前方後方墳(墳丘長78m)であり、5面の三角縁神獣鏡を含む11面の銅鏡が出土した。海津市の円満寺山古墳は、標高96mの山頂にある4世紀半ば築造の前方後円墳(墳丘長60m)であり、ここにも舶載三角縁神獣鏡2面を含む銅鏡3面が副葬されていた。尾張戸神社古墳はこれらの古墳と比べ規模はやや小さい。

中社古墳:鞍部から長い階段を登り祠がある中社古墳へ。中社は発掘調査中であった。中社古墳からは、円筒埴輪が過去に多数出土し、4世紀後半に築造された墳丘長約55mの前方後円墳とされる。
発掘調査中の試掘坑(トレンチ)には葺石(ふきいし)が見られる。
南社古墳:愛知用水側から林道を歩くと、「南社へ」の標識で南社と中社の鞍部に着き、南社への階段を登る。南側の突出した部を前方部とする説もあったが、調査の結果、現在では直径30mの円墳とされている。墳丘の下段に角礫、上段に円礫を葺く。出土した埴輪は、中社のものと同じ型式で、4世紀中頃の築造とされる。(説明板)

古墳は故人を埋葬する墓所であるが、階層化してきた社会での貴人(首長)を祭り故人の威徳を後継者に譲るランドマークとしての意味合いが強い。3世紀後半に、弥生墳丘墓から初期古墳へと移行し、6世紀後半から7世紀にかけて、社会制度の革新・仏教の興隆 などと関連して衰退する。

東谷山・志段味古墳群での古墳の在り方を見ると、古墳時代初期から終末期までの古墳がコンパクトに存在している。これらの古墳の築造年代、規模、副葬品などを見ることにより、この地に生まれた首長の性格・発展を想像することができる。

この辺りの庄内川の標高は約30mであり、フルーツパークが標高75mである。今回の東谷山登山は、フルーツパークを出発し、尾張戸神社のある東谷山(標高198m)頂上への道で、中社・南社の鞍部が標高140mとなる。直線的に登るには、山道というより急な階段つづきの道となるが、林道で迂回すればゆったりとハイキングできる。山の東西から通じる異なった道を使えば、異なった印象が得られ、別の観点から古代へのロマンが広がる。訪れる度に新しい感慨が得られるので、最近の報告書を参考にして、東谷山古墳群を楽しみたい。


2/11/14 志段味古墳群 (名古屋市守山区)

勝手社古墳 志段味大塚古墳

先週末(9日)、K君が訪れた。50年前の同期入社の会社仲間である。当時は、入社から4年間は寮で暮らすのを常とした時代で、K君とは4年間同じ寮仲間で、1年間は同室で暮らした。K君は恵那市出身で、今回も母校の催しに参加することもあり帰郷し、途中立寄ってくれた。

私は理工系だが、K君は美術系・デザイナーである。大学を卒業して直の4年間の寮仲間は、専門に応じた色々な分野でその後の会社生活を送ったが、定年後の今でも結束が強く、特に親しかった11名で毎年旅行をしている。今年は大地震被災地の東北への旅であり、その計画段階から、メールのやりとりがこちらにも届き、味気ない療養生活を慰めてくれた。その旅行は”修学旅行”と称して、各地の歴史名所を尋ね酒を酌み交わすことになる。2004年の種子島・屋久島旅行では、正規行程後にK君と宮之浦岳を登ったこともある。今年は、”被災地訪問”という意味付けもあり、一週間前に全員無事で帰って来たばかりである。

白鳥塚古墳
 後円部の後方に「国史跡」と”説明板”が立つ。
後円部から左回りに、くびれ部の直前に周り込むと、
前期古墳に特徴的な柄鏡形であることがよく分る。

K君を迎えて、志段味(しだみ)地区の3ヶ所の古墳を案内した。高蔵寺駅で落合って、新東谷橋を渡り名古屋市守山区に入る。橋のかかる庄内川の中間が春日井市との市境である。上志段味の交差点から大久手池の方向に入ると直に「勝手社古墳」がある。大久手池近辺の形の崩れた西大久手と東大久手古墳は割愛して、志段味大塚古墳に回り込み、白鳥塚古墳は、交通量の多いフルーツパークへの道は避けて、大塚古墳側の造成地内に駐車しておいて見学した。

三つの古墳の説明板によれば、「勝手社古墳:帆立貝式前方後円墳。全長53m、後円部径40m・高さ6.5m、前方部高さ2.3m。造営は5世紀後半、後円部の二段構成と西側周濠がよく残っている。」、「志段味大塚古墳:帆立貝式前方後円墳。全長約55m。造営は5世紀後半」、「白鳥(しらとり)塚古墳:(国史跡)、県内3位の大きさ。古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳。全長約105m、高さ約6m、後円部径55m、前方部最大幅約26m。後円部には白色石英の葺石が前面を覆っていた。」

大塚古墳では、野良仕事中の土地の方から、最近の発掘調査の仕事振りなどの話を伺った。遺跡を訪ねると、時折、作業を手伝った地元の方などから”こぼれ話”が聞けることもある。こんな時に、その遺跡が一段と身近になるものである。

この”案内”によって、実地に私の体調回復を見せることにもなった。勝手社の墳頂への石段の上下は出来るが、大塚古墳や、白鳥塚古墳の墳頂によじ登る事は遠慮しなければならない。古墳見学では許される範囲で、墳丘各所を執拗に歩き回るのが良い。古墳の全体像、墓参のスロープ、祭祀場の想定、さらに墳頂から見る被葬者の支配地景観などが想定できることもある。時には、盗掘穴が残されていたり、石棺など埋葬施設が露出したり、葺石や土器片が散らばっていたりすることもある。現状では、白鳥塚古墳の最下段上の周回路は歩けても、墳頂への道はK君一人で登ってもらった。

大久手池と志段味大塚古墳の間、大久手池北周辺には、東大久手古墳、西大久手古墳など幾つかの古墳が不完全ながら残っている。この周辺を「歴史の里」として整備する計画があるらしい。


12/10/28 内津川緑地 (春日井市)

内津川緑地(築水池近く、大谷川の河岸)の風景
岩船神社が左奥に、
西高森山・築水池への入口として控える。
神社内に廻間1号墳があり、
築水池への林道を少し入ると、廻間7号墳がある

岐阜県恵那・夕立山より発した庄内川は、愛知県との県境にある玉野渓谷を経て、JR中央線の南側をほぼ併行に、高蔵寺と神領(じんりょう)を過ぎ、神領・春日井駅の中間で北から流れこむ内津川を合わせる。内津川(うつつかわ)は春日井市北部山稜地帯を水源としているが、支流として、春日井市北東部廻間町築水池からの大谷川がある。大谷川は、高蔵寺ニュータウンの北側の農耕地域を約3.5km巡り、泉橋で北部山稜地帯から流れ込む内津川と合して、約6.0kmで庄内川に合流する。

築水池から庄内川まで総延長9.5kmの河岸には、遊歩道のある緑地が敷設されている。築水池は西高森山(215m)の山麓にあり、周辺には林道が入り込んでいて、山麓への西側入り口に岩船神社がある。岩船神社から西高森山を北に越せば春日井市民球場に出る。西に向えば、築水池・野草園・少年の家と林道づたいに巡ることが出来る。岩船神社の御祭神は蛭子命(ヒルコノミコト)である。蛭子命はイザナギ命・イザナミ命の最初の子で、収穫の神とされる。境内社として豊受大神を祭神とする御鍬社が祭られており、一帯は農耕地域に相応しい鎮守の森を形作っている。

この庄内川と内津川が合流する庄内川中流域の右岸・左岸には、古墳時代前期から古墳が造営されている。後に尾張国となるこの地域は、古墳時代の初めから一つの注目された地であったことを示している。

庄内川中流域右岸に相当する内津川流域では、土取り工事で消滅した出川大塚古墳(円墳)が春日井市出川町の神明神社辺りにあった。古墳時代前期終り頃の古墳で、捻り文鏡を含む出土品は東京国立博物館に保管されている。その上流に相当する岩船神社境内に廻間(はざま)1号墳、築水池への林道を少し入った所に廻間7号墳を見る事ができる。いずれも7世紀前半・古墳時代終末期の横穴式円墳である。終末期古墳は群集墳として造営されるのが通常である。ここでも、他に幾つかの古墳が群集していたが消滅したようだ。

庄内川中流域は、左岸には志段味古墳群があり、尾張の古墳の一つの分布圏である。尾張の主要古墳は、ほかに、庄内川下流域(名古屋台地、知多半島の付根を含む)と、木曽川の左岸・犬山と小牧を結ぶラインに分布している。

庄内川中流域左岸の志段味古墳群でも、東谷山山頂にある尾張戸(おわりべ)神社古墳(前方後方墳?)や守山区上志段味の白鳥塚古墳(柄鏡型・前方後円墳)は4世紀中葉の築造とされ、他の群集墳と一線を画している。古墳時代の初期からこの地を治める首長が居て、時代を経てその後継首長あるいは新興首長がこの地を治めたのだろう。内津川が合流する庄内川中流域のこの地の重要性が顕れている。

2年前(2010)に、中部地方の古墳見学のために濃尾平野の周辺部を歩いたことがある。犬山市白山平山頂の東之宮古墳、象鼻山の古墳群、円満寺山の古墳など印象深い前期古墳が多かった。何れの古墳も濃尾平野を見下ろしていた。見下ろされていた濃尾平野での古墳を訪ねて、その造営時期、首長の確立、農地開拓・交易交通などに注目したい。


「フォリー水の塔」(左奥)と夜間照明を備えた噴水装置(手前右)。中の島は日本庭園になっており、周囲の芝生広場は広々とし、遊歩道が巡る。

12/10/13 落合公園 (春日井市)

春日井市には公園が多い。史跡公園、植物園などと、それぞれが特徴を持っている。東名・春日井IC近くにある落合公園は、落合池を中心とした水の公園であり、平成元年に”日本の都市公園100選”の一つに選ばれている。

公園内に建物が少ないのも好感が持てる。”フォリー・水の塔”は、池の周辺に配された三つの建物の中の一つである。”フォリー(folly)”とは、「あまり目的のない装飾用の建物」ぐらいの曖昧な意味を込めた庭園設計用の語彙らしい。この赤い積み木細工のように見える建物は、実際には7階建ての堅牢な建物で、最上階までポンプで水をくみ上げ1階まで水を落として行く間に、各階に設置された水圧を利用した「水鉄砲」など”水の遊具”を駆動させている。1階には大きな水車がある。最上階までエレベーターで登れば、公園全景をさらには濃尾平野全景を見ることが出来る。子供連れは階段を下りながら、各階の水の遊具で楽しむことができる。

公園は、AM7:00~PM10::30まで(4/1~10/31、その他期間では~PM10:00)入場可能で、正に都市型公園である。周囲には桜の木も多く、春には夜桜が楽しめる。夏には、虹色にライトアップされる噴水を眺めての納涼の場となる。
公園内は全体的にフラットな道と芝生で覆われていて、遊歩道が張巡らされている。一周すれば2km近くなるので、散歩・ジョギングの場としては最適である。景色が広がっているので飽きが来ず、秋の陽射の中でのんびりと体調を調整できる。

12/09/22までの記事