春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (18)

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15/08/28 伊吹山と伊吹山文化資料館 (滋賀県米原市)

台風15号が九州を直撃し日本海に抜け、次の天気の崩れはすぐに迫っていた。その間隙をぬって、伊吹山に向かった。
伊吹山は東海道本線で大阪ー東京を往復していた時代より、関西圏を抜ける目安の山として仰ぎ見たものである。最近の私の趣味の関係上、近時の”私の伊吹山”は日本武尊(ヤマトタケル)伝説のクライマックスの地としての思いが付きまとう。このように親しんでいた”伊吹山”であるが、未だ登ったことがない。

岐阜県西部(西濃)と接した滋賀県東部(湖東)には、姉川沿いに縄文遺跡が多数点在する。最もインパクトのある「起し又(おこしまた)遺跡」のことを知る手がかりを求めて、伊吹山と伊吹山文化資料館を訪れ、「起し又遺跡」への小旅を併せた。
「起し又遺跡」については、去年の秋に再訪した旧徳山村(岐阜県)の縄文集落群、桜町遺跡(富山県)の木柱加工に特徴を持つ縄文遺跡、縄文漁村風景を見せる真脇遺跡(石川県)などと併せて、白山連峰と伊吹山地をとり囲む東濃・北陸・滋賀の縄文風景を、自分なりに俯瞰したいとの期待がある。

伊吹山

 上平寺越峠(標高約800m)から琵琶湖北東部を望む
・・・   伊吹山ドライブウェイは山頂北直下のスカイテラス駐車場まで登る
バスツアーの百名山ハイキング客は西登山道を登る
・・・    登山道(遊歩道)沿いはお花畑である 腕章をつけ薬草採りをしていた

伊吹山ドライブウェイは¥3,090と少々高めだが、楽して往復できるので文句はあるまい。頂上直下の駐車場に近づくと、カメラの砲列が琵琶湖が見渡せる駐車広場に並んでいる。思わず車を止めて気の良さそうな方に「何事ですか?」と尋ねると、「イヌワシです」と。「いつも来るんですか?」「分からない。来るのを待ってるんです」と答えてくれた。更に、「カメラの前で止まって呉れるのですか?」と不思議がると、「昨日はこの上空で旋回して呉れた」と別の人が答えてくれた。伊吹山から琵琶湖に向かって釣り糸を垂れている太公望さんの集まりのようで楽しい。

日本百名山バスツアーは山頂直下のスカイテラス駐車場(標高1,260m)から山頂(標高1,377m)へのウオーキングで、この日は幾台もの大型観光バスがつめかけていた。伊吹山名物のお花畑と薬草畑をぬって、遊歩道は西・中央・東に分かれている。西遊歩道は片道約40分、中央は約20分、東は下り専用で露岩が多くて60分かかる。ここまでは事前に調べ、中央遊歩道を往復しようと予定していたが、ツアー客に惑わされ、お花畑が左右に広がる西遊歩道に踏込んでしまった。登山靴に履き替え、両足膝にはサポータをして万全の備えで挑んだが、敷き詰めた角砂利が浮き砂利となり、以外と手強く、30分も登った所で、登るより下りの方が難しいことと後の予定を考えて引返した。

山頂からの岐阜・滋賀両県の山々を俯瞰し、山頂にあるヤマトタケル像に逢いたかったが、ここでは諦めて安全を優先した。それでもスカイテラスからでも充分に山に住む縄文人のコミュニケーション・ネットワークを連想することが出来る。縄文人の行動パターン(そのルートと範囲)は、現代のマタギの行動に擬せられることがある。重なった山々とその谷合を掛け抜けるマタギと縄文人の姿を重ねた。

伊吹山文化資料館

伊吹山文化資料館と伊吹山
・・・
曲谷の集落を過ぎ、姉川ダム近くの「起し又遺跡」まで行く
資料館の近く(県道551)で、
ヤマトタケルと伊吹山の神(白い大猪)が対峙していた
・・・
「三之宮神社」から通常の伊吹山登山道が始まる
展示室4.掘り起こされた伊吹の歴史(展示は4室に分かれている。展示室1.伊吹山にいだかれたくらし、
展示室2.伊吹山の恵みとなりわい、展示室3.伊吹山の自然と文化)
・・(撮影許可を貰いました)・・「起し又遺跡」のジオラマ
竪穴住居(4)、配石遺構、埋甕、炉跡など
地元伊吹山麓(起し又遺跡)に集まった
{関西、東海、飛騨、中部高地、関東}の縄文土器
・・(撮影許可を貰いました)・・
この近辺の縄文遺跡からの出土品:石剣(伊吹)、最古の土器片(起し又)、河童型土偶(筑摩佃)、多頭石斧(杉沢)、御物石器(杉沢)、ヒスイ製勾玉(高番)

東海道線近江長岡駅から湖国バス”伊吹登山口行き”で「ジョイいぶき」下車徒歩8分とある。車では伊吹山ドライブウエイの山麓料金所からR365を8.2kmほど西に走る。
資料館の北約2kmに、伊吹山登山口となる「三之宮神社」がある。神社の直上が一合目で八合目が山頂直下となる。ヤマトタケル遭難の地は三合目にある。伊吹山頂の神社が「一之宮」である。
三之宮神社付近から見る伊吹山は巨大な山塊であり、その威容をもって山岳信仰の対象となったのも頷ける。伊吹山は一億数千年前に隆起した山で、山を成す石灰岩は三億年前のサンゴ礁の生き物の残骸と説明されている。山麓で石灰岩を削り取っている様子は少し痛々しい。武甲山(埼玉県)のように山容を変えることはないだろうが・・・。

文化資料館(¥200)は、廃校となった小学校分校の校舎を利用している。山間集落のくらし・民俗資料と考古資料が展示されている。伊吹山の自然と信仰なども整然と展示されていて興味深い。滋賀県の縄文遺跡を含む遺跡の数々のリーフレットがまとめて調達できるのも有難い。

伊吹山文化資料館近くと県道40号沿いに縄文遺跡が点在している。主要な遺跡は街中の「杉沢遺跡」と曲谷の「起し又遺跡」である。館員の方に伺ったところ、いずれも埋め戻して、現地には看板や標識はないとのことであった。

それでも、姉川に沿って上流へ、県道40号を曲谷まで車を走らせた。山間の地の景色は穏やかだ。「三之宮神社」から約2km、姉川ダム近くのトンネルに入る直前の左カーブの辺りが「起し又遺跡」である。河岸段丘にあり、昔の姉川の様子は知らないが、川の恵みと山の恵みで生きていた縄文人(起し又の人々)を彷彿とさせる。「起し又遺跡」は、竪穴住居跡・炉跡・埋甕・配石遺構が約20m×20mの段丘上に遺る縄文中期(約5,000年前)から後期(約4,000年前)を中心とした遺跡と説明されている。早期(約8,000年前)と晩期(約3,000年前)の土器も見つかっていて、縄文全期に渡って人々が生活していたと解釈されていた。中でも、私にとって興味深いのは、全国的にもそう多くない配石遺構の存在で、伊吹山地周辺(長浜市)には配石遺構を伴った二つの遺跡があり、そのような精神文化の小文化圏があったようだと推測されている。

遠い昔、文字記録の無い縄文時代をイメージするには、”現場”と”現物”を見ることが大切である。いくら発掘調査報告書を読んでも現場発掘者にはとてもかなわない。現場への小旅は、たとえ何の説明板が無くても、私にとっては細やかな”無用の用”を期待する旅であった。ヤマトタケルと同様に、伊吹山登頂を果たせなかったのは残念だが、久しぶりの一日を通して動き回った一日となった。翌日は朝からどんよりと曇っていて、午後には雨となった。


15/07/31 国内最高気温 (多治見市)

多治見駅前の温度計(市キャラクターは「うながっぱ」)土岐川・多治見橋・たじみ創造館 オリベストリートは明治から昭和初期の美濃焼問屋の街並み交番も蔵造り・モノトーンに統一

多治見市は、2007年に国内最高気温(40.9℃)を熊谷市(埼玉)と同時記録したことで知られている。その後、最高気温記録は高知県四万十市(41.0℃)と更新されたが、多治見市をはじめ愛知・岐阜県境の山間地が酷暑地であることに変わりはない。

今夏は始めから、関東・日本海沿岸、時には北海道で、一日の最高気温を記録する日が続いた。7月29日、久しぶりに全国第一位が多治見に戻ってきた。37.4℃だった。翌日、少しの期待を持って、多治見駅前の温度計を見に行ったが、PM3:00過ぎに33.7℃、PM5:00前に34.4℃を看るにとどまった。その間、蔵の町・美濃焼の文化の残る”本町オリベストリート”まで足をのばした。

”オリベストリート”は駅から約1km、徒歩10分(私の足では15分)の距離にある。多治見橋を渡り、「たじみ創造館」から約400mの区間の表通りと路地裏に明治から昭和初期に栄えた美濃焼の問屋・店構え・蔵の風情を残した”街づくり”が、現在進行中である。飲食店や陶器店・ギャラリー・ショップはモノトーンに統一されている。美濃焼の一つである「古田織部」からストリート名をとっている。街角に「しも街道」の標識を見つけた。「下街道」とは、大井宿(恵那市)から名古屋に至る江戸時代御法度の中山道の抜け道で、庶民の道である。商用には便利な道で、美濃焼陶器が運ばれた。

土岐川は多治見市街でS字状にカーブしている。S字の頭から入って最初のコーナーに虎渓山永保寺があり、S字の終点にオリベストリートがある。永保寺もオリベストリートも風情があり、好ましい景観を呈している。このHP記事を書きながらCBCニュースを見ていると、なんと、多治見の駅前温度計が38.0℃を指しているとレポーター報告があった。ちょっと残念!?

15/06/28 築水池周辺 (春日井市)

 
春日井市都市緑化植物園の最奥駐車場から築水池周辺を堰堤までを歩く。木々が生い茂り、夏の日差しから守られる。

堰堤を見下ろして東屋があり、湖面を流れてきた風が気持ち良い。正面に弥勒山が見える。

梅雨の晴れ間に築水池周辺を散歩した。冷房を効かした部屋に閉じこもっていると体調がおかしくなる。といって、日中の散歩は場所選びが大変である。適度な日射の下で自分で体温調整する力を取戻す環境が必用となる。

ペットボトルと食べ物を持参して、春日井市都市緑化植物園まで車で行き、先ずは植物園内の散策路を歩く。そこここに配した小川と水の流れが癒してくれる。この時期には、色彩豊かな花々よりも、普段は何の変哲もない水の流れの方が心地よい。

ペットボトルはサントリーの”南アルプスの天然水”だ。水の美味さを知ったのが”南アルプスの水”だ。もう何年(何十年?)か以前に、甲州街道(国道20号)を東京へ向かって車を走らせていた時に、「白州(はくしゅう)道の駅」で、どくどくと湧き出る清水を見つけた。東京から大阪に帰るおじさんが、「この水は美味いでっせ!」と教えてくれた。当然のこととして殺菌もしていない生の水で、それだけに伏流水の生の味が味わえた。それ以後、甲州街道を走る時は、ポリタンク持参で常に立ち寄った。

「白州道の駅」は甲斐駒ヶ岳を正面に見据え、近くの尾白川(おじろがわ)渓谷、日向山(1,660m)へのハイキングの拠点となる。甲斐駒ヶ岳(2,967m)への道は、駒ケ嶽神社からの黒戸尾根づたいの急峻な一本道だ。岩場と鎖場がつづく。入口となる駒ヶ嶽神社には多くの卒塔婆が立つ。”お山”をあの世に見立てた駒ヶ嶽信仰と山岳修験の世界だ。

ポリタンクを常備してドライブしていると、思わぬ所で生の名水に出会う。奥州・北上市の夏油(げとう)温泉に山道(県道122号)を登って行き夏油高原スキー場への分岐点を左へ、少し行った所に名水があった。この名水は名もない名水で、水源となるスキー場が賑わうようになると、水質が保障出来なくなったのか、「飲料には不向き!」の看板が立てられた。ある夏、そろそろスキーブームも去ったので、看板が撤去されてるかと帰途立ち寄ると、その名水を飲みに来たのか、一頭の体長1mほどのツキノワグマが現れた。熊は手慣れた様子で、一瞥して谷へ降りて行った。夏油温泉は今では東北新幹線・北上駅から送迎バスで容易に行けるが、焼石連峰への登山口でもあり、その秘境感は健在だろう。何度か訪れたが、私の最も好きな湯郷の一つである。

標高約250mでのハイキングだが、湖面を流れてきた涼風を受けながら弥勒山(437m)と右隣の大谷山(425m)を眺めていると、色々な昔の事が懐かしく想いだしてくる。


15/05/25 今城塚古墳 (大阪府高槻市)

 
  今城塚古墳 (今城塚古代歴史館)
馬蹄形の広い水濠とバチ状に大きく広がった前方部は、典型的な中期以降(5世紀ー6世紀)の古墳の特徴である。
左が北;現在地は外濠外から埴輪祭祀場と墳丘を望む位置

先月末(4/30)に引続き、継体大王についての話である。
5月21日、4年半振りに今城塚古墳(いましろづかこふん)を再訪した。新幹線で京都・JRで摂津富田へ、駅からはタクシーで移動した。古墳見学は野外散策なので体調を整えてから臨まなければならない。JR摂津富田駅からはバスの便もあるが随分と遠廻りする。歩くと30分足らずだが、体力勝負の一日となるので、無駄な体力は使わないこととした。
新設された今城塚古代歴史館で当古墳と当地域(三島)の古墳群についての勉強をして、墳丘を囲む内濠・内堤と外濠・外堤からなる今城塚古墳公園を見学した。以前、公園化整備工事中に外堤の外を一周した際の記憶が蘇る。

宮内庁管理下では継体陵は太田茶臼山古墳(茨木市)とされているが、現在、今城塚古墳が真の継体大王墓であることを疑う人は少ない。記紀や延喜式にある継体大王墓「藍野陵(あいののみささぎ)」を、三島地域のどの古墳に比定するかという問題で、江戸時代以降は太田茶臼山古墳とされ明治政府もそれを踏襲した。大正時代に、”藍野”の地名解釈や考古学的見地から見直され、今城塚古墳が真の継体陵であるとの説が多く出たが、現在も宮内庁の治定は変わっていない。

奈良盆地や河内平野の古墳時代の天皇陵についても、怪しげな比定が多いようである。当該天皇(大王)の実在の有無もさることながら、記紀編纂時に当てはめた巨大古墳がその天皇の生存年代と合わないことも多い。現在では○○陵という呼称は考古学者は使わない。○○古墳に眠る大王または首長というのが正しい。

反面、今城塚古墳が陵墓あるいは陵墓参考地から外れている事は、考古学マニアにとっては有難い。ヤマト・奈良盆地内でも、陵墓指定されていない古墳の発掘調査が進めば進むほど、日本という国の成立過程が明らかになってくる。私の出会った数少ない事例でも、桜井(外山(とび))茶臼山古墳の発掘調査現地説明会はかけがえのない貴重な機会となっている。


 
 今城塚古墳の北側側面。手前の公園周遊道路は外濠、内堤から外濠側に張出している埴輪祭祀場、内堤と墳丘の間に内濠がある。中央の街灯の左側の墳丘裾に造出(つくりだし;樹木が薄い所)がある。造出の左側が後円部、右側が前方部である。公園化のため、内濠は一部を除いて水を抜き芝生広場としている。

今城塚古墳は、全長354m、全幅358m、墳丘長181m(後円部径91.2m、前方部長101.4m、前方部幅157.9m)と測られている。墳丘部はほぼ盛土で、墳丘内石積みとそれに繋がる暗渠排水溝および石室基盤工事など当時の土木技術が優れていた事が随所に伺える。1596年(文禄5)の伏見地震による地滑りと墳丘崩壊跡が検出されている。最近話題となることが多い”地震考古学”によると、伏見地震が有馬ー高槻構造線活断層系の活動によるものであることと符合している。
埋葬施設は伏見地震による墳丘崩壊以前に壊された可能性もあるようだが、地震による崩落部から特異な石組と石敷が見つけられ、石室(石棺)を支えた”石室基盤工”と名付けられた。石敷の間からは副葬品や石棺材である凝灰岩の破片が見つけられた。後円部一円で見つけられた凝灰岩の破片は、熊本産ピンク石、高砂産竜山石、二上山産白石の三種であり、三基の家形石棺が納められていたと推定されている。
古墳形状については、尾張の断夫山古墳と味美二子山古墳、八女市(福岡)の岩戸山古墳、更に最近では上毛野(群馬)の七輿山古墳と相似であることが分かっていて、継体大王とこれらの古墳の被葬者との関係が注目される。

 墳丘写真   墳丘写真     墳丘写真
         
後円部ー北造出の周辺ー前方部 後円部墳頂周辺   内堤から前方部南西端を見る 
造出は南北両側にあり、儀式(祭り)を行った    石室を支えた石組、排水設備などの遺構があった    内濠に水を満たし、築造当初の姿をのこす 
         
 埴輪祭祀場   埴輪祭祀場    埴輪祭祀場 
 
埴輪列を正面から(西側から):4区 埴輪列を正面から(西側から):3区    埴輪列を正面から(西側から:2区ー1区)
右から水鳥列、飾り馬・裸馬・牛の列、武人、鷹飼人、力士、祭殿、盾
公的儀礼空間とする
  堀形と門形埴輪の向こうに両手を挙げた巫女など埴輪列の核心部で、水鳥列、鹿角製柄頭大刀列、祭殿、副屋、鶏、蓋、冠男子、獣脚、楽人、巫女、盾、靱、太刀など埴輪の種類も多い 
公的儀礼空間とする
   2区は木製柄頭大刀列、祭殿、副屋、巫女、鶏、甲冑
最奥(1区)には蓋列、片流れ屋根の喪屋を中心に、祭殿、副屋、鶏、器台がある
公的儀礼空間(2区)と私的儀礼空間(1区)
1区が奥津城

私にとって特別に興味深いのは、内堤の一画に付設された埴輪祭祀場(東西幅65m、南北幅10m)である。ここからは200点以上の形象埴輪が出土し、4区に分かれた殯宮(もがりのみや)儀礼を映したものと見定められている。形象埴輪は家、器台、蓋などの建物や飾り、力士、武人、巫女などの人物、水鳥、馬、牛などの動物など多岐に亘っている。この4っつの区は堀形埴輪と門形埴輪によって区切られている。埴輪祭祀場の位置は、墳丘上での祭祀(儀式)が行われた北造出(つくりだし)が内濠(本来は水濠)越しに見える位置にある。埴輪祭祀場は寿墓としての古墳墳丘部が築造された後に造られたことも分かっている。古墳の主の葬儀の案内板(説明板)のようにも思われた。内堤上に再現された埴輪自体は新しく作られたもので、発掘調査で出土した埴輪片により復元された埴輪は、古代歴史館に展示されている。

今城塚古墳の例のように大がかりなものではないが、墳丘近くに特定区域(張出部)を設けた埴輪祭祀場は、私が昔訪れた群馬(上毛野)の古墳でも幾例か見受けた。5世紀末に造営された八幡塚古墳(保渡田古墳群)の前方部外に設けられた例では葬送儀礼(王位継承)と解釈されていた。太田市の塚回り古墳4号墳(帆立貝型古墳)にも小規模ながら形象埴輪による特設部が設けられていた。形象埴輪が中央から関東(群馬・上毛野)に伝わるのは早く、直に地方の首長墓にも埴輪祭祀場が採り入れられたようだ。6世紀後半の綿貫観音山古墳(高崎市)では、前方部の中段テラスに王位継承儀礼と解釈される形象埴輪列が設けられている。
三重県松阪市の宝塚1号墳(5世紀初頭)では、土橋で繋いだ方形の張出部に、船形、囲形、柱形、家形などの形象埴輪が配列されている。特に、船形埴輪が素晴らしく圧巻である。この埴輪列(祭祀)が何を表現しているのかも興味深い。
古墳は墓所としての役割り以上に、首長権威の可視化としての意味がある。墳丘上祭祀(儀式)や埴輪祭祀についての考え方も古墳時代の全期間内で変わって行く。今城塚古墳は、中央(ヤマト)における巨大古墳造営の最終期の例として、古墳時代末期の姿を伝えている。今城塚古墳につづく最後の巨大古墳は、欽明大王(継体・手白香皇女の子)の墓所とされる見瀬丸山古墳(飛鳥)であり、そこでは埴輪祭祀場は見つかっていない。

古墳の復元・保存は色々である。墳丘そのもの(場合によっては葺石まで)を新しく造成した例もある。本古墳では、地震などによる墳丘破壊をそのまま遺して、樹木の茂りも適度に残して公園化して保存している。芝で覆った内濠でシートを広げてピクニックしている人、内堤や外濠を散歩・ランニングする人など、市民の憩いの場となっている。

本記事についての参考文献;森田克行「よみがえる大王墓 今城塚古墳」新泉社、2011
                  高槻市立今城塚古代歴史館編「平成26年度夏季企画展 大王の儀礼の場」


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