春夏秋冬 総目次

 春夏秋冬 (19)

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15/12/28 山津照神社古墳と息長古墳群(滋賀県米原市)

羽島PA下り(左側に新幹線が走る) 
この辺り正面に伊吹山
伊吹PAで伊吹山の山容が迫る

師走の一日、西に向かって車を走らせた。春日井ICから東名・名神で米原に向かう。小牧・一の宮・大垣を過ぎるごとに伊吹山が迫ってくる。養老SA辺りで一度山影に隠れるが、伊吹PAで大きな山容、神の住む山となって現れる。今冬は雪不足に悩むスキー場が多い。ご多分に漏れず、伊吹山の白さも控え目である。
ヤマトタケルの伊吹山遭難を描いた作者は、尾張・美濃から伊吹山を見慣れた人で、琵琶湖南岸の人ではないと思った。先月”近江八幡”近辺から見た伊吹山は、春日井から米原に至る道で見る伊吹山に比べ遥かに迫力に欠けていたからだ。

我国最古の歴史書である古事記・日本書紀の編簒は、天武期(7世紀後半)に発案され、奈良朝(8世紀)に完成した(古事記は712年、日本書紀は720年)。
大王家(天皇家)支配を強固なものとし、列島を取り囲む諸外国(中国・朝鮮半島)からの脅威に対抗する狙いで作られている。そのため、我国が天皇を中心とする神国であることを殊更に主張する神代からの天皇家系譜(帝紀に相当)と過去の物語り(旧辞に相当)が取り込まれており、歴史書としての公正さは疑わしいところも少なくない。
我国の歴史書としては、欽明期(6世紀中頃)に帝紀・旧辞、推古期(7世紀初め)に天皇記・国記が作られたようだが、現存しない。これらを取り込んで、天武期以降に記紀編纂作業が行われたと解釈される。
息長(おきなが)君は、欽明期に先立つ継体大王を擁立した重要な勢力で、帝紀・旧事の収集の一端を担っていたとも考えられ、息長氏に関連する物語り・伝説が導入された可能性がある。息長氏につながる神功皇后が、応神天皇を身籠ったまま新羅を討ち、筑紫に帰って天皇を産み船を仕立てて難波の湊に凱旋するという物語りを創出したとも穿つことが出来る。そして、物語の奇抜さは史実ではないと批判される(直木孝次郎:日本神話と古代国家)。

息長氏に関する情報はその古墳群に眠っている。米原市教育委員会による「米原市遺跡散策マップ2(息長古墳群と周辺の遺跡)」によると、息長古墳群は米原駅北東部、東海道本線と北陸本線(国道21号線と国道8号線)に挟まれた約2km四方内の地に、3世紀前半の前方後方形周溝墓「法勝寺SDX323」を始めとして、古墳時代全期間を通じて途切れることなく造営されている。4世紀の前方後円墳(定納1号墳)など早くからヤマト王権との関係が見受けられるが、どちらかというと、後期(6世紀以降)の古墳(狐塚5号墳、塚の越古墳、山津照神社古墳)が目立つ。すなわち、息長氏につながる家系は6世紀に急速に力をつけたらしい。

中でも、山津照神社古墳は息長古墳群で最後に築造された6世紀前葉(古墳時代後期)の前方後円墳で、応神天皇の母親とする伝説上の人物・神功皇后(息長帯比売女命(おきながたらしひめのみこと))の父王・息長宿禰王の墓とされていた。しかしながら、神功皇后・応神天皇は記紀では5世紀初めの人物と設定されているので合致しない。現在ではむしろ継体天皇擁立に功をなした息長家系の重要人物の墓とされている。古墳の考古学的発掘調査および天皇家系譜についての考察・背景調査など現在の知識が、被葬者を息長宿祢王から継体擁立の功臣へと変えることとなった。ただ、そのような変化は確定したものでもなく、遺跡の説明板や碑には依然として「息長宿祢王」の名前も目にする。

 山津照神社古墳

山津照神社境内(右正面に現在の本殿)側kら見た山津照神社古墳の南側:くびれ部の祠の右側が後円部、左側に前方部
古墳の裏側(北側)から見る。左側が後円部、右側が前方部
(前方部南西側は削られ変形しているが、全体としては残りが良い)
全長39.6m、後円部径26.4m、前方部幅は広いが、削られて定かでない・・・・・・・二重構造の横穴式石室をもっていたこと、裾部に威儀具を模した石見型埴輪を巡らせ、背後のくびれ部では須恵器祭祀が行われていた
山津神社古墳の説明板と少し古い石碑 山津照神社からの平成6年調査の出土品、須恵器など

山津照神社から西方に1km、北陸自動車道の西側に、塚の越古墳など息長古墳群の代表的古墳がある。残念なことに殆ど壊されていて、残骸をみるだけである。古墳跡地に面して「近江はにわ館」が米原市立図書館内に併設されている。レプリカではあるが、息長古墳群で出土した石見型埴輪の実際、息長氏についての説明、息長氏の謎を旅する珍しい試みもある。ここから見る伊吹山は息長氏が見た伊吹山である。
     
 塚の越古墳など息長古墳群の一つ 伊吹山を背景とする
息長古墳群の説明板
   「近江はにわ館」内部 いわみ型埴輪と息長氏について勉強する
米原市立図書館に併設されて「近江はにわ館」がある

(追記)欽明に続く敏達大王(天皇:在位572-585)の妃・広姫の父は息長真手王とされる。敏達・広姫は押坂彦人大兄皇子を、押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女が舒明大王(天皇)を、舒明・皇極(斉明)天智/天武を・・・と現天皇家に関わる皇統が出来上がる。この皇統は、欽明大王と蘇我系の妃(堅塩媛と小姉君)との間の大王(用明、推古と崇峻)の系統とは異なる。一時期天皇家に匹敵する勢いのあった蘇我本宗家の外戚関係は山背大兄王の死によって絶える。以後の皇統譜にとって、息長氏出身の広姫の役割は大きい。


15/11/28 彦根市・近江八幡市(滋賀県)

今年の野川会の旅は、琵琶湖東南岸の彦根市と近江八幡市の散策(彦根城と城下町散歩、八幡山城址と近江商人の町散策、水郷めぐりの旅)であった。2泊3日の旅程は、病後に未だ経験のないことで、先の北陸路の旅は謂わば予行演習だった。スケジュール変更が自由な一人旅と団体行動では、自ずと制約されることが異なる。半世紀を越える仲間でも甘えてばかりはいられないのでそれなりの準備が必要となる。結果的には、初日は、前日興奮して寝付けなかったこともあり、一杯一杯であったが、翌日からは私を意識してか、幹事のKoさんがゆったりとした行程を作ってくれたので、全行程をなんとかこなすことが出来た。

彦根城は国宝五天守のひとつ
井伊直弼公の生まれた下屋敷・楽々園
近江商人の信仰を集めた日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)葦原を手漕ぎ船で巡る水郷めぐり

私は関西生まれの関西育ちであるが、昭10年代の子供にとっては、「京阪神」という言葉があるように、神戸から京都までを一つの縛り(区切り)と考える向きがあった。大津以東・滋賀県は遠く圏外で、ようやく学生時代に近畿地区体育大会などで膳所高校の体育館に出かけるようになった記憶がある。
時を経て、JR・新幹線、名神高速道など交通の利便性が増し、関西圏も広くなった。東京近辺に住むようになっても、お寺巡り、遺跡巡りで琵琶湖周辺を訪れる機会は増えた。
近江八幡市周辺へは、西国33ヶ所(第31番札所・長明寺、第32番札所・観音正寺)、遺跡巡りで雪野山古墳(八日市市)、大岩山遺跡・銅鐸博物館(野洲市)、甲山古墳・丸山古墳(野洲市)などを訪れたことがある。これらのお寺・遺跡・古墳は近江の湖岸に点在する小高い山の上にある。これらを訪れた時には近江八幡の街は素通りであった。今回訪れた近世の街なかや水郷にあって、周囲の小高い山々を眺め、時代による人の営みを四次元化して妄想するのも面白い。
2日目の宿泊地となった『休暇村近江八幡』の近くには、縄文後期の元水茎(もとすいけい)遺跡や晩期の長明寺(ちょうみょうじ)湖底遺跡があり、縄文人が琵琶湖に漕ぎ出した独木舟(まるきぶね)が出土している。縄文人は湖上を自由に動き回ったらしい。古代(古墳時代)の湖上交通は渡来人集団(滋賀漢人一族と依知秦君一族)が準構造船で最新航海術を駆使したらしい。

彦根城の武者だまり:ここまでは手すり付の階段で登った。天守へは手すり無しの急階段で、特に下りは大変危険となる。武者だまりで天守に登った友を待つ。籠城した落ち武者っぽくって最高の”心旅”となる。
近江八幡市の旧西川家住宅(国重文)3階の見事な梁:近世の近江八幡は近江商人の町、明治時代に西欧文明をこの地に広めた米国人・ヴォーリズに関連する建物と江戸時代からつづく商家で町並みを作る。

琵琶湖沿岸は、律令制時代に12の”郡(こおり)”に分かれ、それぞれに有力な豪族が居たことが分かっている。古代の行政区画・郡は現在の”市”につながっている。彦根市は旧犬上郡、近江八幡市は旧蒲生郡の大半を占めている。今回の旅では、近世の街を散策したが、想いを古代(古墳時代)に移す時、琵琶湖周辺の古代豪族の分布・渡来人集団の分布が重要となる。

琵琶湖周辺の古代豪族に関しては、大橋信弥氏(県立安土城考古博物館)の優れた研究がある。蒲生郡には佐々貴山君(ささきやまのきみ)・蒲生稲寸(がもうのいなぎ)、蒲生郡と接して南には野洲郡の安直(やすのあたい)、北に神崎郡を挟んで愛知(えち)郡の渡来系・依知秦君(えちのはたのきみ)、その北側に、犬上郡の犬上君(いぬかみのきみ)が居る。
更に北へ坂田郡(米原周辺)に息長君(おきながのきみ)・坂田酒人君(さかたさかひとのきみ)という豪族が居る。息長君と坂田君は、現在の天皇家の最も本当らしい系譜上での先祖・継体天皇(大王)の妃を輩出している。また、応神天皇の母親とする伝説上の人物・神功皇后(息長帯比売女命(おきながたらしひめのみこと))の父王・息長宿禰王の墓とする山津照神社古墳が米原市にある。応神天皇と関係する継体出自話し、神功皇后伝説、さらにヤマトタケル伝説が米原町・伊吹町周辺に、継体出自話しは琵琶湖対岸の高島郡・三尾君(みおのきみ)に及んでいる。日本建国の本当の姿が、琵琶湖周辺に隠されているようで興味深い。
大橋信弥:「古代豪族と渡来人」、吉川弘文館、2004.12


15/10/30 秋の北陸路2:桜町遺跡(小矢部市)とチカモリ遺跡(金沢市) (富山県・石川県)

「秋の北陸路」の旅は、”1.北陸路の秋を訪ねる”小旅と、私なりの”2.北陸の縄文遺跡を学ぶ”小旅を含めた。本稿では後者について記す。

1.桜町遺跡と二つの考古資料館(小矢部市)
桜町遺跡は、国道8号バイパス建設工事に伴い国土交通省からの委託を受けて、昭和58年から平成12年にわたり、小矢部市教育委員会により発掘調査された。遺跡は縄文時代から江戸時代にわたっているが、舟岡地区の縄文時代の水場遺構は特に注目を受けている。
桜町遺跡に隣接する「JOMONパーク」と、埴生地区の「ふるさと歴史館」を訪れた。2011.6にも「ふるさと歴史館」を訪れたが、その時はむしろ若宮古墳探訪に小矢部市を訪れたので、「JOMONパーク」は割愛していた。北陸の縄文時代を覗くに当たり、改めて二つの資料館を同時に見学した。JOMONパークで桜町遺跡の概要を学んで、実際の発掘現場を見ると、縄文の景色が蘇ってくる。発掘出土品の多くは「ふるさと歴史館」にある。

桜町遺跡
国道8号線バイパスの信号のある交差点を東南から 「桜町遺跡」
桜町遺跡は小矢部川と子持川に挟まれに東西約1km・南北約600mに広がる縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡で、縄文時代を中心とした10%弱が発掘調査された桜町遺跡
   桜町遺跡
国道脇の説明版の図と発掘調査中の航空写真(ふるさと歴史館展示写真より)  
手前が谷の出口に縄文中期末~後期初頭の遺構:水場(木の実の水さらし場や木材の加工・貯蔵作業場)があった
谷の中央部に縄文後期末~晩期の遺構(晩期中頃の環状木柱列跡)があった 
JOMONパーク(近接して桜町遺跡)と
ふるさと歴史館

1-1.桜町遺跡とJOMONパーク
JOMONパーク(広場)には、桜町遺跡の目玉となる水場、高床式住居、環状木柱列などが復元されていた。
隣接する考古資料館には、桜町遺跡の発掘情況、遺構および出土品の全体像が分かるように、一部現物をまじえて多くのパネルが展示されていた。資料館にはボランティアガイドのご婦人が詰めていて案内して貰えた。
石斧・石鏃の一部と縄文時代中期末の土器集合、木柱根の実物や貯蔵穴の複製品などは実物展示されているが、出土品の多くは「ふるさと歴史館」で見ることができる。”桜町遺跡”と題しての遺構・土器・木製品・石器・石製品・土製品を写真入りでまとめた小冊子、”桜町遺跡の土器”と題した小冊子など無償の資料が有難い。

桜町遺跡で注目すべきは建築用加工材で、クリの半割材にほぼ等間隔に正確に長方形に貫通穴が空けられている。磨製石斧だけで仕上げられた縄文人の木工技術の確かさを見る。木を割る時に使用する楔・石斧柄(ヤブツバキ)・留め具などもあり、”木の加工センター”の感がある。桜町遺跡の水に恵まれた立地条件が特異な遺物を多くのこした。加工木材は水場での足場などに、リサイクルされた状態でみつかっている。通常弥生時代を起源とする高床式住居出現期を、縄文中期末に遡らせる考えがある。

桜町遺跡出土の土器として、縄文時代早期の押型文土器、前期前葉の佐渡・極楽寺式、前期後葉の朝日下層式、中期中葉の新崎(にんざき)式、古府式、中期後葉の串田新式、後期前様の岩峅野式、前田式、中津式、晩期前葉の御経塚式、晩期後葉の下野式などを見る。北陸の土器形式の実際と中津式など瀬戸内地方との交流を示す土器の混入を学ぶ。
小矢部市南部の縄文遺跡紹介のコーナーもあり、白谷岡村遺跡と高木山遺跡で出土した縄文中期の土器が多数展示されていた。

木柱列といえば、三内丸山遺跡(青森県)の大型六本柱建物や大湯環状列石(秋田県)の敷地内にある木柱列や五本柱遺構を見たことがある。三内丸山の場合、それを立てるについて考古学的見地から問題視されたようであるが、今では縄文文化のシンボルのようになっている。大湯の場合は積極的な説明はなかった。北陸では、真脇遺跡(石川県)、チカモリ遺跡(石川県)、桜町遺跡(富山県)と木柱列が相次いで見つけられ、北陸地方特有の縄文文化と目されている。然しながらここでも、それらが何を目的とする遺構なのかは判然としない。真脇遺跡や桜町遺跡では祭祀用建物として、チカモリ遺跡では住居の可能性も考えらているらしい。

JOMONパークは桜町遺跡近くにあり、展示室と屋外に桜町遺跡の水場や建物などを復元し、小矢部市の縄文文化を伝える   桜町遺跡の環状木柱列は祭祀場を意識されている 水場にリサイクル・放置された貫通穴のある木材をもとに復元された高床式住居が建つ
 桜町遺跡出土の縄文中期末の土器集合と石器(敲石、擦石、石皿、打製石斧、磨製石斧、石鏃など)の一部現物展示されている   写真の様に展示室には、遺構・遺物の説明パネルが張巡らされている   小矢部市の縄文遺跡紹介コーナーでは。白谷岡村遺跡(渋江川左岸の丘陵部先端)と高木山遺跡(小矢部市浅地字浄土寺内、東西160m・南北120m)の縄文時代中期の土器が展示されていた

1-2・ふるさと歴史館
JOMONパークから県道32号線を南へ、”あいの風とやま鉄道線”と北陸新幹線を越えて、埴生の護国八幡宮を目指す。2011年に訪れた時は、若宮古墳を目指してきて、郷土館”倶利伽羅源平の郷埴生口”でお世話になった。桜町遺跡のこと、”ふるさと歴史館”への道路入口が分かり難いことなど教えて貰ったことを思いだした。
JOMONパークの資料館でパネル展示されていた出土品の現物をここで見ることができる。改めてじっくりと見学した。
縄文中期末~後期初頭の高床建物の柱材、貫通した穴と欠込(かきこみ)のある建築用加工材、掘立柱および環状木柱列の柱根、用途が不明のY字材、掘り棒、木鉢の未製品と漆塗鉢など木製品の数々が見られる。それ以外にも、弓と石鏃、土偶(中期末~晩期)・石棒・石冠(晩期)、食料加工の道具など一つ一つが興味深い。ここでもボランティアのご婦人が説明して下さった。発掘された木材のメンテナンスは大きな問題だが、文化財の保存処理に実績のある元興寺文化財研究所(奈良県)で保存処理されたと伺った。

「ふるさと歴史館」
 Y字状木材(クリの二股材で当時の川の中から2本、重なるように出土した。用途不明)  縄文中期末~後期初頭
掘り棒(一端を平に他端を尖らしている)・木鉢の未製品(トチの木の瘤を利用、完成品も2ケ出土)・漆塗鉢(文様も施されている)                   貫通した穴と欠込のある材・柱根・環状木柱根の柱根
縄文中期末~後期初頭
三つの貫穴のある材(クリの半割材に長方形の貫通した穴が3ヶ所、ほぼ等間隔にあけられた加工材、堀や柵に使用?)  
磨製石斧などだけで仕上げられた貫通穴の精度は良い
(縄文人の木工技術)  縄文中期末~後期初頭
弓(全体に漆が塗られている、縄文中期中葉
中央部・両端部に補強の糸巻き跡が残る、材質はニシキギ属  
石冠、石棒など(北陸地方特有の三叉文を施した彫刻石棒が出土)
縄文晩期
     
 敲石と木の台、擦石・石皿など食生活具  
コゴミ(縄文人が食した山菜が腐らずに出土した  (縄文中期末)
   土偶(上段:縄文中期末~後期初頭、下段:縄文晩期)) 
装飾品・赤色漆塗櫛(縄文晩期)
     
 縄文土器(縄文中期末~後期初頭の水場遺構周辺から出土)    磨製石斧、石斧柄、楔(縄文中期末~後期初頭)

2.チカモリ遺跡(金沢市)
北陸自動車道・金沢西ICを降りるとチカモリ遺跡は近い。住宅地の中に遺跡公園としてあり、子連れの親子が公園隅に再現された木柱列には目もくれずに遊んでいた。
公園に隣接して金沢市埋蔵文化財収蔵庫がある。館の方が丁寧に対応してくれた。
見学者用に用意された資料によると、チカモリ遺跡の発掘調査は昭和29年から昭和59年まで、4次にわたって行われた。南北約70m、東西約100mの楕円形でその半分が調査された。遺跡中央部が公園として保存されている。チカモリ遺跡は縄文時代後期後葉から晩期後葉(3,000年前~2,300年前)の遺跡で、手取川扇状地の北端に位置し、標高は7m前後で地下水の季節的自噴水地帯と説明されている。この立地条件が遺跡の存在理由および木柱・木柱根が腐らずに永年保存された理由となっているようだ。
金沢市新保本町チカモリ遺跡は旧称八日市新保遺跡で、北陸の縄文晩期初頭の標識遺跡である。周辺の遺跡としては、御経塚遺跡、中屋遺跡など北陸の晩期標識遺跡がある。

遺跡規模は格別に大きいものでないが、出土した木柱根の多さは群を抜いていて、木柱列の建て替えも6度にわたっている(桜町遺跡の木柱列では2度の建て替え)。
資料によると、木柱根は総計350点余出土し、略半裁形木柱根が250点余、丸太木柱根が45点、板状材50が点余である。略半裁形木柱根によってほぼ真円状に配置された環状木柱列が、出入り口部を必要とする閉鎖的な建物と考えられるとしている。解放的な祭祀用の木柱列とは考えない立場である。ただし、木柱根の用途・機能については決定的なものではなく、議論が続くものとしている。こでの木製品の保管は、水(薬品?)漕に浸されて保存されている。

 チカモリ遺跡公園の
環状木柱列(円形配置の半裁の柱)

ほかに、巨大な木柱6本の長方形柱跡(手前)、正方形に配された巨大丸太の柱跡を、木に擬したコンクリート柱で復元して見せている
   木製品は水槽で保管されている。木柱根はほとんどがクリの木で、搬出入のための穴・縦溝・横溝など加工跡が見える。彫刻したものも教えて貰ったが、よく判らなかった。
     
 木柱根跡が発見された当時の写真が生々しい。木柱根の穿穴(二つの穴、横溝1本、縦溝4本は運搬の時に綱をかけたと想像されている)   埋蔵文化財収蔵庫には、縄文時代の土器をはじめ、金沢市の遺跡からの出土品が展示されている。2Fには弥生時代・古墳時代の土器も多数展示されているが、今回は割愛した

(今回訪れた資料館では展示物の写真撮影は全て許可された。)


 
 秋の北陸ドライブ旅行関連道路

15/10/20 秋の北陸路1:白山スーパー林道と温見峠越え (富山・石川・福井・岐阜)

岐阜県北西部と福井県・石川県との県境は、両白山地(能郷白山(1,617m)と白山(御前峰、2,702m)を主峰とする連続する二つの山地)の稜線上にある。両白山地は近年全通した東海北陸自動車道(国道156号線がほぼ併行する)と国道157号線の間にある。
10月14-16日、その周辺をドライブ旅した。1日目は白川郷から白山スーパー林道(現在の正式名は”白山白川郷ホワイトロード”)を往復し砺波まで走って宿泊、2日目は小矢部の桜町遺跡と金沢西のチカモリ遺跡を訪れ、R157号線で南下し越前大野市で泊まる。3日目は永平寺まで往復した後に、国道157号線で能郷白山(のうごうはくさん)直下の温見峠(ぬくみとうげ)を通過し各務原に出て帰宅した。今回は病み上がりの身でもあり、高速道をフル活用する楽な計画も準備していたが、天候も良く快適な三日間を久しぶりに楽しめた。

一日目は、白川郷まで東海北陸自動車道を走り、白山スーパー林道を往復した。白川郷側の馬狩料金ゲートでは、「有料区間の終わる中宮料金ゲートを出ないなら、片道料金(¥1,600)です。出てしまうと倍の料金となりますので、くれぐれも注意して下さい」と親切だ。

馬狩料金ゲートから一気に高度を上げ、「蓮如茶屋P」で白川郷を見下ろす。ここから”ブナのこみち”が三方岩(さんぽういわ)まで続いている。復路で展望台まで登ったが、見晴らしの良さ以上に、ブナの大木・群生が見事だ。自動車道は「三方岩P」で最高地点(標高1,450m)に達する。当初は三方岩までのトレッキングも予定していたが、白山スーパー林道の全紅葉を全て見届けることを優先する。トンネルを抜けて「とがの木台P」で、冠雪した白山連峰(御前峰(2,702m)剣ヶ峰(2.677m)大汝峰(2,684m))を正面に見る。
「ふくべの大滝P」、「姥ヶ滝P」、「蛇谷園地P」、「岩底谷P」まで行き、そこで引返すのが筋だが、とうとう中宮料金ゲートまで行き、直前の車両置場でUターンした。
(別項”SlideShow”に、『白山スーパー林道の紅葉と白山展望』を高画質で収めました。上のルートマップを参考にして見て下さい。)

蓮如茶屋駐車場から   とちの木台駐車場から 国見台から   ふくべの大滝

国道157号線は金沢市と岐阜市を越前大野市を経由して結んでいる。金沢市から勝山市・大野市へと向かう道は、手取川沿いに走り、白山スーパー林道の中宮料金ゲートへの道を分ける。手取湖を過ぎると、白山恐竜パーク・白峰温泉を経て勝山市に入る。この周辺には中生代白亜紀前期(約1憶3千年前)に堆積した地層があり、恐竜の化石が見つかる日本で数少ない場所の一つとなっている。

温見峠へは、越前大野側から走行すると真名川ダム(麻耶姫湖)を通り過ぎ麻耶姫湖青少年旅行村を過ぎると、日本で有数の酷道(?)っぽくなる。それでも大野側は走り易く、紅葉も冴えていて能郷白山も見え隠れする。温見峠に到着した。峠の道路沿いに2台の車が駐車していた。最も簡単に能郷白山に登れる登山道の入口だが、峠の標高が1,020mなので600mの急登でロープが随所に設置されているという。樹間から見えるのが山頂のようだ。

30年ほど以前に、岐阜側から温見峠を越したことがある。麓の村で橋の付替え工事のために3時間ほど待たされた想い出がある。全線簡易舗装されたとはいえ、見通しの悪いコーナー、「落ちたら死ぬぞ!」の看板のある崖っつぷちの狭い道、「段差あり」と注意される路面を横切る鉄砲水の流路、「クマ出没注意!」まであり、特に温見峠からの岐阜側下りは細心の注意が必用となる。温見峠の前後10kmの酷道区間で3台の対向車と出合った。なんとかすれ違える場所であった。
峠を下った根尾村(現在は本巣市根尾)には能郷(のうごう)白山神社があり、無形民俗芸能の能・狂言が伝わり、毎年春に演じられる。そのほか、薄墨桜や根尾谷断層は有名で、長閑な田園風景を残す。村の廃校となった校舎が残っているのも風情を増す。

峠近くから能郷白山  温見峠登山口 温見峠   樹間に能郷白山

国道157号線は本巣市根尾と大野市を結ぶ国道だが、本巣市の西隣の揖斐川町から大野市を結ぶ国道417号線は徳山ダムで昔から中断している。大野市の国道417号線に繋げるには、冠山(1,257m)近くを林道で抜けなければならない。冠山には林道が張り巡らされていて、今庄にも抜けることが出来る。このように、岐阜北西部(西濃北部)と越前大野市は両白山地で遮られていても、交通手段は確保されている。但し、豪雪地帯なので、冬場は全て閉ざされ、夏場でも豪雨被害を受け通行止めとなることが多い。東海北陸・関西圏の縄文文化を学ぶための背景を求める旅は、心地よい疲労を伴って終わった。(永平寺訪問についてはSlideShowに、「桜町遺跡とチカモリ遺跡」については稿を改めて記す。)


15/09/27 下呂市の遺跡:金山巨石群と下呂ふるさと歴史記念館 (岐阜県)

長野県・岐阜県にまたがる中部山岳地帯には縄文遺跡が多い。
国道41号線を飛騨川沿いに北上する。七宗町、白川町を過ぎ飛騨金山で、合流する馬瀬川に沿う国道256号線に入り馬瀬川第二ダムを目指す。馬瀬川第二ダムからは県道86号線(明宝金山線)で更に山中奥深く入り込み岩屋ダム(東仙峡金山湖)に向かう。馬瀬川第二ダムと岩屋ダムの周辺には、ダム建設工事の為に水没した縄文遺跡が多い(八坂・乙原・卯野原・細越・菅原遺跡など)。これらの遺跡はダム建設による水没前に発掘調査され、出土遺物は馬瀬歴史民俗資料館(休祭日閉館)に保管されている。

これらの縄文遺跡に囲まれて「金山巨石群」がある。金山観光協会によって調査されていて、下呂市の縄文時代の史跡として指定されている。ここに居住した縄文人が二十四節季や閏年を太陽光の観測より知り、地球自転の歳差運動による北極星の変化を天文観測していたという。太陽観測に適した秋分の日(9月23日)に合せて巨石群を訪れた。運が良ければ団体客相手の担当者説明を聴くことが出来る、との期待があった。

巨石・配石にまつわる精神文化遺産としては、ストーンヘンジ(英国)、アプ・シンペル神殿(エジプト)など諸外国の巨石記念物、日本では東北地方の大規模配石遺構・環状列石(大湯・小牧野・伊勢堂袋・御所野・湯沢村など)、山梨県の配石遺構(金生遺跡)やドルメンの一種として北九州の支石墓群などが知られている。
東北の環状列石などについては2007年に、支石墓については2009年に、それらの遺跡を巡ったことがある。大規模配石遺構・環状列石は平野あるいは丘陵上の平坦面に設置されていた。そこでは、季節の移り変わりを”日の出・日の入方向と配石(列石)との関係”で知ると同時に、縄文人の太陽信仰という精神性が協調されていた。
金山巨石群は、山間を流れる馬瀬川の川岸にあり、東北で見た配石(列石)遺構とは立地条件が異なる以上に、天体(天文)観測が前面に押出され喧伝されている。一般的にはパワースポットとしての人気が先行しているようで、祭日とあって団体での見学客も多かった。

岩屋岩陰遺跡は県道86号から標識に従って左に下るとすぐ。駐車スペースがある。岩窟は三っつの巨石よるなり、妙見神社の祠を納めていて、普段は閉まっているようだ 岩窟を構成する巨石の隙間から射し込む太陽光は、
床面にスポット光を結ぶ。スポット光の軌跡は”こよみ”となる。午前中の4時間にスポットが観測される
線刻石のある巨石群は、岩屋岩陰遺跡のすぐ近くにあり、その下方に再現館と呼ばれる「太陽光によるこよみ」をシュミレーションして示す館がある。これら全域に巨石が群在する

金山巨石群は三っつの巨石群(岩屋岩陰遺跡巨石群、線刻石のある巨石群、東の山巨石群)よりなる。これらの中の一つである「岩屋岩陰遺跡巨石群」と呼ばれる岩窟内で太陽光観測についての説明が聴けた。説明は極めて現代的な天体運行原理に沿って、丁寧なものであった。
秋分の日の前後には、午前中(9:00~13:00)に岩窟を構成する三っつの巨石よりなる空間に、二つの岩石の隙間から太陽光が射し込む。そのスポット光の位置と日時による軌跡が”こよみ”の役割を果たす。この”こよみ”は、4年に一度の閏年をも示す仕掛けを含んでいる。ここで説明された太陽運行に関する天体理論を「岩屋岩陰遺跡巨石群」の制作者・観測者(縄文人)は知っていたことになる。但し、現実の太陽光を呼び込む装置(岩窟)の築造過程・方法は全く不明で、構成する巨石はこの地方特有の濃飛流紋岩で特別なものではないようだ。説明は”こよみ”としての原理に終始して、私の最大の関心事ーこの天体観測装置が縄文人のなせる業か?ーについての直接的な説明は無かった。
金山巨石群は、昼間の太陽運行の観測の他に、夜間には北極星を観測する天文台の役割を持っているという。北極星を観察する石があり、地球の歳差運動による北極星の周期的な変化が分かると説明版にあった。

金山巨石群は縄文時代の史跡とされているが、人類が遺した遺産なのかあるいは自然が造りだした遺産なのかの疑問はそのまま残った。確証となる人工的な痕跡(年代比定の物証、素材の選択、造形・構築技術の解明など)を期待したい。先にふれた東北の配石遺構などでは、同じ敷地内にある住居跡とか、貯蔵穴、墓など人為的な痕跡があり年代が比定されている。当地・当代の孤高の縄文人だけが、先端的な天体・天文知識を寡占していたことも考え難いことである。

巨石文明・文化遺産については、考古学的な興味よりもその神秘性が先行しているように見える。ここでもパワースポット(ミステリアスゾーン)としては充分に成立していて、団体客は説明を熱心に聞き、岩窟外に出ると適当な巨石を見つけてその上に寝転びパワーを貰っていた。
時代は下るが、飛鳥時代に築かれた天体観測場(天文台)説のある「益田の岩船」(奈良県橿原市)を連想する。山中に置き忘れられた人工的な細工(直角な切り口)のある巨石である。天文台説の他に斉明・天智朝の石室説、祭祀場説などもあったが、現在も真相は不明のままである。

岩屋ダムから馬瀬大橋、下呂ふるさと歴史記念館(峰一合遺跡)へ 
岩屋ダム(東仙峡金山湖)は昭和51年に完成。馬瀬川第1発電所(地下)がある。写真右湖底に卯野原新田遺跡と卯野原遺跡が水没。
馬瀬大橋付近には細越遺跡が水没している。県道86号(明宝金山線)は飛騨の里・馬瀬へ分岐している
峰一合遺跡は縄文公園として整備されている。
(縄文前期と弥生時代)
下呂ふるさと歴史記念館では、
大林遺跡(旧石器)、峰一合のほか下呂の縄文・弥生遺跡からの出土品、上ヶ平遺跡出土の奈良・平安時代の食器などが展示されている

金山巨石群を後にして、岩屋ダムを過ぎ馬瀬大橋から馬瀬へと向かう。国道257に合流し飛騨萩原からは国道41号線を南下し「下呂ふるさと歴史記念館」に到着する。
縄文公園(峰一合遺跡;みねいちいごいせき)に併設された下呂ふるさと歴史記念館(無料)は内容も充実している。下呂温泉の北側、萩原町、小坂町、更に御嶽山へ向かっての山麓の村には縄文遺跡が多い。峰一合遺跡は縄文前期(約5,800年前)と弥生時代(約1,800年前)の集落遺跡である。復元住居とは別に、竪穴住居址が覆屋内に保存され、発掘現場の実際が理解できるように配慮されている。
歴史記念館内には、当遺跡の発掘出土品の他に下呂市全域の遺跡紹介と主要な出土品が展示されている。旧石器時代から石器材料として使用された”下呂石”が露出している湯ヶ峰とその加工現場として知られる大林遺跡など、飛騨地方・下呂ならではの遺跡説明が興味深かった。下呂石は約10万年前の湯ヶ峰噴火の時に生成されたガラス質の流紋岩ということである。黒曜石やサヌカイトなどとともに石刃・石鏃材料として旧石器時代から用いられた。旧石器・縄文時代を通じて、下呂石(石器)の流通は地域間交流の指標となる。
峰一合遺跡出土の完形の深鉢(縄文前期)は、縄文沈線・工具による押しひき文も鮮やかで、関東系のものと説明されていた。下呂地域では、北陸・信州・関西・関東系の土器が見られ、東北地方特有の”瘤付土器(湯屋遺跡:後期・晩期)”までも見つかっている。岐阜の考古資料館で常に目にする”御物石器”がここでも展示されていた。
そのほか、峰一合遺跡(前期)出土のトカゲ状飾りの深鉢や縄文中期の遺跡(南垣内、的場、山本)から出土した顔面把手(がんめんとって)などは、八ヶ岳山麓(信州)の遺跡を想い出させた。また、的場遺跡(早期ー中期)が中期には大規模な環状集落を形成していたことも興味深い。

 
2F:第一展示室(「下呂の歴史の幕開け」旧石器時代ー平安時代)には飛騨南部山岳として、下呂地域の特徴豊かな出土品が展示されている
下呂石については、
「湯ヶ峰流文岩の露頭」の写真と「原石、石核、剥片」を展示
下呂地域で出土した縄文中期の土器を、
北陸系(南垣内遺跡)、信州系(南垣内遺跡)、
関西系(南垣内遺跡)、関東系(桜洞神田遺跡)
で比較して展示岐阜特有の御物土器(縄文晩期)と上呂出土の扁平紐式銅鐸(弥生中期)
(撮影許可を貰いました) 

下呂ふるさと歴史記念館は、第一展示室:旧石器からから平安時代、第二展示室:室町ー江戸時代、第三展示室:明治ー昭和、と特別展示室、縄文体験ルームなど、下呂市の文化を多面的に紹介する施設である。リニューアルした館内は気持ち良く、好みに応じてゆったりと展示品と接することが出来た。私が探し求めている博物館・資料館の一つとなった。

15/08/28までの記事