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 春夏秋冬 (17)

15/04/30 橿原考古学研究所付属博物館 (奈良県)

橿原考古学研究所付属博物館 (背後に畝傍山)
近鉄橿原線”うねびごりょうまえ”にある
博物館・橿考研の南(橿原神宮駅側)に橿原遺跡

4月26日(日)、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)付属博物館に、平成27年度春季特別展「継体大王とヤマト」(4/18〜6/14)を観に行った。継体大王(けいたいだいおう)とは、日本書紀によれば日本第26代(在位AD507年ーAD531年)の天皇である。”継体”は後世の漢風諡号で実名は”オホド”という。当時は天皇なる呼称もないので、「オホド大王」と呼ぶべきともいう。
午前中に列品解説(橿考研博物館総括学芸員・坂靖)、午後に研究講座:坂靖(橿考研博物館)「継体大王とヤマト」と田中俊明(滋賀県立大学教授)「継体大王と武寧王(ぶねいおう)」を聴講した。博物館の筋向いの研究所大講堂で催された講演会は超満員となった。急遽、研究所と博物館の椅子を総動員し、テレビ聴講できる別室が3室準備された。

継体大王については以前より興味を懐いていた。大橋信弥「継体天皇と即位の謎」(2007、吉川引文館)、水谷千秋*「謎の大王継体天皇」(2001、文春新書)の書に従ってその出自を追いかけ、近江高島から三国坂中井と越前福井の古墳群を訪ね、継体大王墓とされる今城塚古墳とそこに埴輪を供給した新池遺跡などを訪ねた。その時は、今城塚古墳は史跡公園として改修中であり、改修なった時には私の方が病床にあった。 *最近、「継体天皇と朝鮮半島の謎(2013、文春新書)」も出版された。
病後、継体大王を支援し目子媛(安閑、宣化両天皇の生母)を出した”尾張”の地に住むようになり、関連する古墳として、断夫山古墳(名古屋市熱田区)、味美二子山古墳(春日井市)、尾張戸神社古墳(名古屋市守山区)などを訪れたり、尾張型埴輪を焼成した窯跡などを見学しながら、新しく整備された今城塚古墳を訪ねる機会を計っていた。リハビリも一段落した今、今城塚古墳再訪に先立ち、図らずも橿考研博物館での特別展により、趣味的生活での夢のつづきが与えられた。

坂氏の午前午後に亘っての話は興味深いものであった。今回の特別展では、ヤマトが主体となっている。継体大王は、応神五世の孫(日本書紀)とされるが、出自が明らかとは言いきれない。この時代の系譜とは血縁関係とは無関係に偽装的なものも多い。淀川流域を政権基盤とした豪族・太田茶臼山古墳の後裔とする説(仁藤敦史)も充分に考慮すべき説であるとした。
継体大王のヤマト入りは即位から20年近くかかっているために、ヤマトに反継体勢力があったとも言われている。これに対して、6世紀初頭のヤマトの地域区分した首長(豪族)とその奥津城・古墳及び遺跡と遺物(馬具・須恵器・埴輪など考古学的資料)が展示され、その時代のヤマトの勢力分布と後の氏族との関係が示された。継体擁立に関わった物部氏・大伴氏・巨勢氏、妃を出した和迩氏・安倍氏、ヤマトの外交を担った額田部氏とヤマトの馬飼集団などが注目される。百済の武寧王との関係は、隅田八幡神社蔵人物画像鏡の銘文で示される。武寧王陵の鏡などを参考にしてその時代の鏡の有り様も解説された。
田中教授の講演は、三国史記、日本書紀での武寧王、武寧王陵の発見、倭(日本)との関わり、任那四県割譲の記事などについてであった。解説なしでは理解に窮する文献解読であった。

展示品の写真撮影は禁止されていたが、展示図録も完備していて、展示内容を復讐することが出来る。春季特別展開催中の別日には、研究講座(講演)・・・「尾張氏と断夫山古墳」、「継体大王と今城塚古墳」、「継体大王と尾張型埴輪」、「継体大王と越前・若狭の古墳」・・・が予定されている。「卑弥呼さんより継体さんの方が面白い」と聴衆のおばさん達の会話が聴こえた。


15/04/22 晴れ日が続かない (春日井市)

都市緑化植物園(竹林と湧き水のある散策路) 少年自然の家周辺(築水池と築水の森林道)

ここのところ晴れ日は数えるほどしかなかったが、ようやく週間天気予報にもお天気マークが続くようになった。都市緑化植物園を囲む山裾の散策路に入ると、確実に季節が進んでいることが分かる。竹林の淡い緑が清々しい。
「猪出没情報・・・」の貼紙がある。山歩きで一番怖いのは猪だという。鹿や熊などは自ら逃げてくれるが、猪は猪突猛進で突き進んで来るらしい。西丹沢(神奈川県)の登山道を独りで下っている時に、真新しい熊の糞に出会い、恐る恐る逃げるように麓を目指した想い出や、丹沢林道を車で駆け抜けたコーナーの頂点に大きな鹿が待ち構えていたりした想い出がある。

脳梗塞発症後、自らに歩くことを果たしての生活が、4年を経過しようとしている。それに適したフィールドが緑化植物園から愛岐三山への山歩き、少年自然の家から築水池・西高森山への林道歩きにある。
しかしながら雨つづきで、つい手軽に利用できる近隣の愛知用水周辺のフラットな散歩だけに限る日がつづくと、無理をしないだけに足膝周囲の筋肉などが鍛えられずに、かえって膝に故障が出てくる。そういう時には、インドメタシン配合の湿布剤で患部の痛みを和らげ、痛みが退くと、出来るだけ大腿部周辺の筋肉を動かすように、膝中心のサポーターや膝皿固定のバンドなどを使用してリハビリする。(リハビリ医を探しても殆ど無駄となるので、ネット検索して専門医の情報を得て、色々試すのが良い)

最近心がけているもう一つの課題は、月に1度は名古屋中心部に出かけることである。住むに初見の土地(中部・東海)に来て、自分の居場所を確認出来ることが”痴呆(徘徊)防止”につながる。ここ2年間は近郊の遺跡を探訪することにより、自分の場所認識能力の現状を測っているが、都会歩きの風も知っておきたい。道を覚え道路状況を把握する能力(脳内GPS機能)を鍛錬することが痴呆防止に役立つと、専門の医者が語っていた。然しながら、一つ間違えれば高速道路逆走などもあり得るので、高齢者は常に自分の能力を自分に厳しく把握するように努力したい。

昨年暮れから相次いで二人の年下の友人(大久保君と安田君)を亡くした。50年前に無名・弱小のバスケットボールクラブで出会った仲間であり、以来、色々な局面で共に過ごす機会が多かった。私が脳梗塞で入院した際にはいち早く見舞ってくれた。独り山道を歩きながら、彼らとの良き想い出に浸り、御冥福を祈った。


15/03/17 永保寺特別宝物公開日 (多治見市)

今年の永保寺特別宝物公開日は3月15日(日曜日)だった。臨済宗南禅寺派永保寺へは昨年夏に訪れ,、禅宗の古刹らしき風情に感銘を受けた。禅僧侶養成の専門道場なので、普通見慣れたお寺とは趣が異なる。座禅・瞑想と托鉢、日常生活全てが修行の場であり、この寺の本質を伺うには坐禅会や写経会への参加が最適なのだろうが、境内を歩くだけでも、夢窓国師設計の庭園に禅の雰囲気が漂うような気がして、妙に心地良かった。毎年春に、年に一度の特別宝物公開日が設定され、国宝観音堂や国宝開山堂が一般に公開される。観音堂では流木で組まれた厨子に収まるご本尊が、開山堂では開祖夢窓国師と開山仏徳禅師の御姿を拝することが出来る。公開日をネットで調べ、3月15日を心待ちにしていた。

観音堂(水月場)は、桁行三間、梁間三間、一重裳階付、檜皮葺きとされる。岐阜県指定文化財の聖観世音菩薩座像が安置されている。室町時代初期の作とされる菩薩像は、像高61cm、寄木造り、穏やかな面相で唇紅も残る。大切に保存されていることが伺われる。永保寺に接する地点で土岐川は大きく流れを変える。ここに集まる流木で岩窟様に組んだとも伝わる厨子は、粗野で珍しく、見事である。厨子背面は平板つづきになっていて、地蔵菩薩像が線描きされていた。

     
国宝「観音堂」と安置された岩窟式厨子に収まるご本尊    ご本尊の聖観世音菩薩坐像と厨子を形作る流木

開山堂(僊壺堂)には、夢窓国師と仏徳禅師の御姿像が右左に並んで祀られ、その裏に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置されている。宝篋印塔は鎌倉時代以降の武家社会で好んで用いられた墓塔である。塔下に仏徳禅師の遺骨が納まっていると、立会の雲水さんからお聞きした。開山堂は像を拝する礼堂と両禅師像が収まる祠堂(しどう)の二堂(外陣と内陣)が、相ノ間でつながった形で一堂となる。相ノ間には、虎渓山歴代の古位牌が祀られていて、保寿院(塔頭)開山の禅師像も祀られている。塔頭寺院の禅師像がここに祀られている理由を尋ねると、雲水さん達の間でも謎とのことであった。礼堂内の天井の木組みが美しかった。

     
永保寺境内奥に位置する国宝「開山堂」の前面 と
その裏側から見る外陣と内陣とその境の相ノ間
  開山堂内部(礼堂側から祠堂を見る) と
仏徳禅師像(左)・夢窓国師像(右) 

方丈・庫裡も一般公開され、夢窓国師遺墨「佛鑑」、仏徳禅師筆「吹毛不曾動」、「日々是好日」など禅語の書、涅槃図の掛軸などが披露されていた。禅語や禅問答は味があり興味深い。永保寺にしか類を見ない行事として、国宝観音堂で行なわれる仏前結婚式がある。その衣装やウエディングドレスなどが飾られ、式の相談も受け付けていた。お寺の中で見るに珍しい光景だった。

 
方丈・庫裡では書画などが展示されていた 

永保寺は中央線・多治見駅から2.3kmの丘陵(虎渓山)上にある。マイカーが便利だが、あえて多治見駅からタクシーで永保寺駐車場まで行き、塔頭・保寿院から下り、正門から境内に入った。帰路は石像群を見ながら虎渓公園側の裏門まで登り、多治見市街・駅へ徒歩で下った。途中疲れたので近道しようと思い、通りがかった高校生に道を尋ねると、「少し遠回りになりますがメインの道を下る方が良いです」と丁寧に教えてくれた。


15/03/05 名古屋の文化財 (名古屋市)

名古屋テレビ塔(広小路久屋東)

今年は梅の開花も少し遅れているようだ。ウォーキングコースに植えられた愛知用水脇の水戸偕楽園の梅はまだ蕾のままである。
3月1日、「名古屋の文化財講演会」をSMBCパーク栄で拝聴した。名古屋市教育委員会文化財保護室に所属する学芸員の活動・研究成果を、市民に紹介する催しである。当日は”縄文”遺跡を中心とした講演であった。前日にも”名古屋城、戦争遺跡、志段味古墳群”についての講演があったが、他の講演会と重なり参加出来なかった。前日は名古屋港まで出かけ、この日は名古屋中心街で強雨と濡れた路面に足をとられ、歩くに疲れた。翌日、天理市(奈良)に出かけることも予定していたが、腹八分目・無理をしない方針で中止した。

講演会は、伊藤正人”朝日遺跡の調査成果について”、纐纈茂”名古屋の縄文時代”、水野裕之”志段味古墳群出土の石器について”、野澤則幸”やきものに残された文字と記号”であった。講演会の後で、名古屋の文化財”テレビ塔”を無料で見学できるツァーもあったが遠慮した。

「朝日遺跡」は東海地方最大の弥生時代の遺跡・方形周溝墓群を含む環濠集落遺跡である。残念なことに実体は、貝殻山貝塚資料館とその近辺だけを遺して、破壊あるいは埋め戻された記録遺跡に留まったことである。国道22号線と302号線の交叉する清洲ジャンクション一帯に広がっていて、現在では遺跡というより朝夕の交通渋滞の名所となっている。遺跡全体の発掘調査は愛知県教育委員会や愛知県埋蔵文化財センターによって行われ、遺跡の中心部や朝日ムラ発祥地は清須市だが、遺跡の西寄り部は名古屋市西区となる。今回の調査は名古屋市営住宅の建て替えに先立つ発掘調査で、調査区から弥生時代中期前半の方形周溝墓群(10機以上)がみつかった。遺跡としては中心を離れた地点からもこれほど多くの弥生時代の立派な痕跡が見つかることは驚きである。縄文時代晩期の土器もわずかながらみつかったこと、古墳時代から中世の遺物はなかったことなども興味深かった。

「名古屋市内の縄文遺跡」では、旧石器時代から縄文時代草創期・早期と地球規模の温暖化が進み海面が上昇したことと関連して、遺跡分布は高台部に集中する。市内の縄文遺跡として、守山区牛牧遺跡、守山区東山遺跡、東区片山神社遺跡・東二葉町遺跡、中区白川公園遺跡、竪三蔵通遺跡、旧紫川遺跡、熱田区玉ノ井遺跡・瑞穂区瑞穂遺跡、大曲輪遺跡、緑区上ノ山貝塚、雷貝塚など具体的な遺跡を紹介してもらえた。玉ノ井遺跡では、人骨が多数出土し、土壙墓・土器棺慕、縄文土器が大量に出土した弥生後期の竪穴住居が数次の調査でみつかっている。白川公園遺跡近くは谷を埋めた地形で、現在のプラネタリウム近くの地下数十m下から縄文時代の貯蔵穴や全国的に珍しい装飾付石皿が見つかっている。東二葉町遺跡では縄文中期の残りの良い竪穴住居が確認されている。

「志段味古墳群」の発掘成果や現地見学は、春日井に移り住んで以来随時に接して来たが、今回の講演で、東谷山山麓や古墳群を含めた庄内川左岸のこの地(守山区)は、同時に縄文時代全期に亘る石器が発見される地であることを知った。国史跡”白鳥塚古墳のくびれ部に転落した葺石に混じって礫器、敲石が見つかったこと、東谷山西麓から頁岩やチャートの石匙、石斧などの他、最近整備された志段味古墳群の各古墳から石器が数多くみつかっている。
志段味古墳群や東谷山、更に庄内川対岸の春日井の古墳を巡る時、この近辺の「水と丘陵のある景色」は縄文の景色だと常々思っていたが、まさに縄文の姿が見えた想いがした。土器は見つかっていないようだが、普段の散歩道に縄文土器の破片が転がっているかも知れない。

「やきものに残された・・・」は、8世紀後半以降の須恵器にまつわる話で、上の三題とは趣が異なる。墨書”津屋長(津の倉庫の長)”は、尾張国に拡がる水運(川運)の集積地点の長を指すという。津屋姓の友人が北海道積丹のニシン御殿の長の家系であったことを思い出した。


15/01/23 名古屋市博物館の縄文展 (名古屋市)

昨年8月、奈良県明日香村では、「都塚(みやこづか)古墳が、階段状(8段)に石積みされた大型方墳で、蘇我稲目の墓である可能性がある」と、村教育委員会と関西大考古学研究室により新聞発表された。階段状石積み古墳は我が国では珍しく、百済(韓国)や高句麗(中國・北朝鮮)に多く見られる。我が国(あるいは蘇我氏)と朝鮮半島との関係を物語るものと思われる。蘇我稲目は蘇我馬子(石舞台古墳に葬られた)の父で、二人の娘(小姉君と堅塩媛)は欽明(第29代)天皇の皇后である。堅塩媛は、敏達(第30代)天皇の皇后である推古(第33代)天皇と用明(第31代)天皇を産む。用明天皇の子が厩戸王子(聖徳太子)である。小姉君は崇峻(第32代)天皇を産む。崇峻天皇は政争の中で臣下に抹殺される。この縁戚関係の下で蘇我氏の勢いが盛んとなり、蘇我稲目の子である馬子、その子・蝦夷、その子・入鹿と権勢を伸ばし、遂には天皇家に匹敵する勢となる。この情勢下で、中大兄王子(後の天智(第38代)天皇)と中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿を討ち蝦夷を自害に追込み(乙巳の変、645年)、蘇我本宗家は消滅する。現代につづく天皇家を中心とした(中心に据えた)政治体系「日本国」が成立するのは、壬申の乱(672年)を経て、天武(第40代)・持統(第41代)朝となる。

今年になって1月16日、同じく明日香村・小山田遺跡で、一辺50m超の巨大方墳が橿原考古学研究所によりその一部が発掘された。墳丘裾部は彩色の異なる板石を階段状に積み上げて装飾されていると新聞発表された。舒明(第34代)天皇が最初に葬られた陵墓と見られる一方で、蘇我蝦夷の墓の可能性なども検討されている。
欽明朝(即位539年)からの時代は、我が国(倭国)が周辺諸国(中国と朝鮮半島)に対して、独立した国であることを主張することが必要になった「日本国」誕生の時代である。古墳時代(3世紀半ばから7世紀後半まで)という時代区分で言えば、後期から終末期(6世紀ー7世紀半ば頃)に相当し、我々が”日本人としての意識”を問う場合には最重要な時期・時代である。

名古屋市立博物館 「感じる縄文時代」のポスター

”日本列島に住む人間(ヒト)”の原点を探す場合には、縄文時代の文化を探索することになる。文字記録のない時代だが、考古学的な記録により日本列島に定住した人間の多彩な行動を知ることが出来る。それを紐解く楽しさもある。

1月17日(土)、名古屋市立博物館に特別展「感じる縄文時代」を見に行った。「感じる」とは、縄文時代の土器・石器・骨角器などの道具を”作る、使う”立場から、家や墓など生活の場をつくる立場から、あるいは、現代の美術品としての立場から土器や土偶を観ることにより、縄文時代をイメージして下さいということらしく、展示品もそのように配置されていた。

縄文時代とは、現在を起点として約12,000年前から2,400年前頃までをいう。全体的には共通した文化と考えることは出来ても、年代と地域性により多彩な様相を示す。考古学者は縄文土器の様式を分類し、製作年代と地域性を「編年」という作業で整理してくれる。出来上がった土器編年表は、縄文時代の年代観・地域観をイメージする基礎となるが、それを理解するには多くの遺跡と土器・土偶・石器などの出土品を見て回った経験が必要となる。縄文文化への入門時に、素人・門外漢が戸惑う一歩目である。
様式とは、縄文土器を雰囲気の共通したもので括った場合の概念で、製作流儀(原料・成形・施文・焼成などの工程を含む)によって異なる

縄文時代に興味を抱いて10余年、土器編年に頼らずに縄文文化を理解出来ないかと遺跡巡り《・・人里離れた縄文遺跡の探訪、配石遺構、環状列石、住居跡の見学など・・》を繰り返してきた。然しながら、結局は出来るだけ多くの出土品と風景(遺跡)に接した上で土器編年表を下敷きにして縄文文化の理解を深めることになった。縄文文化を理解するには、「歩き回る」ことが王道となる。これまでは、主として東北・関東・中部八ヶ岳周辺の遺跡巡り・資料館・博物館巡りをしてきた。春日井市に移り住んだ昨今、中部・北陸・関西を中心にして縄文文化を探り直そうとしている。残り少ない人生、この旅は完結することはないが、目をつぶればこの世の不思議さが目に浮かび、”夢は枯野をかけ廻る”ような最期でありたい。

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