富山県ー王塚古墳ほか (富山県)
  3.富山市ー王塚古墳勅使塚古墳千坊山遺跡富崎墳墓群富崎千里古墳群

富山市(とやまし)  
今回訪ねた地域は、かつては神通川左岸一帯を占める婦負郡(めひのこおり)と呼ばれた所で、古くからの歴史が残る地域である。
王塚古墳・勅使塚古墳・五ツ塚古墳群は、婦中ふるさと自然公園と呼ばれる羽根丘陵の尾根にある。丘陵麓には、各願寺、国立富山病院があり、弥生時代終末期の向野塚墳墓(前方後方墳)、六治古塚墳墓(四隅突出墳丘墓)が発掘調査された。麓の弥生時代の遺構は、既に埋め戻され遺構の在処を示す説明板だけが残っていた。主要地方道小杉・婦中線を挟んで、東側にある弥生時代終末期の千坊山遺跡は、古里小学校の校庭から登って見たが、ここも説明板があるだけだった。出土品は、婦中埋蔵文化財資料館(婦中町笹倉129)にあるらしい(休館日だったので確認していない)。
クリック:婦負郡

王塚古墳  国史跡  富山市婦中町羽根
古墳時代前期の前方後方墳。全長58m、後方部長31m・幅33m・頂部高さ7.6m、前方部長27m・幅26m、くびれ部幅15m。小さな前方部がくびれ部から先端部にかけて傾斜して高まり、前方部と後方部の比高差が約5mと大きいなど、前期古墳の特徴が見られる。墳丘西側に広く浅い周溝の窪みがあった。内部施設や副葬品は不明。勅使塚古墳とともに婦中の首長墓と考えられている。王塚古墳の名称は、300m南東の各願寺開祖・仏性聖人(一品親王)の御廟という伝承に由来している。(説明板より)
富山県・市教育委員会の説明板(平成17年12月) 簡保の宿富山の駐車場、道路に接している
墳丘西側を前方部端から後方部へ。浅い周溝があったとあるが・・・? 前方部と後方部の繋ぎ目(くびれ部)
後方部を西側から 主軸に沿って傾斜が緩く段のようになっている 墳丘上、前方部より後方部を見る。後方部へ進む。
後方部墳頂には三等三角点がある。主軸方向に傾斜のある斜面となる。

五ツ塚
建武年間(今から約650年前)、比叡山と北叡山の争乱の折、時の帝が度々勅使をつかわし諌められたが、遂に害されその勅使に随伴していた五人の京人を葬ったところと伝わる。(富山市の説明板)
台地上の道沿いに小さな五つの塚がある。

台地上を勅使塚古墳を探し回った。車では入れない奥まった所に古墳は眠っていた。
勅使塚古墳
前方部は北北東を向く前方後方墳。 後方部は二段になり、方形の姿が残されている。
左が前方部(低い)、右が後方部(二段)
墳頂には石敷(前方部側) 墳頂から後方部裏側
後方部の南西端 説明板は親切で、じっくり見学できる。

新町向野遺跡・六治古塚墳墓  婦中町長沢
跡地があるだけ。
四隅突出墳丘墓とあるが、よく分からない
千坊山遺跡  富山市婦中町羽根・長沢・新町 (史跡王塚・千坊山遺跡群)
古里小学校の先生に、千坊山遺跡の在処を尋ねると、「校庭を横切って、三本のポールの所から登れます・・・}と教えてくれる。 台地丘陵上は広いが、草茫茫の千坊山遺跡。。
台地北半分に王塚・千坊山遺跡群に含まれる弥生集落があった。西方の丘陵には、この集落の長が葬られたと考えられる六治古塚墳墓(四隅突出型墳墓)や向野塚墳墓(前方後方形墳墓)がある。また、婦負地域の首長の墓とされる前方後方墳の王塚古墳・勅使塚古墳にも近く、首長につながる系譜の集落の可能性がある。 千坊山遺跡の看板がある。この辺が発掘場所。

富崎墳墓群 富山市婦中町富崎

八阪神社から富山県畜産試験場に向って登る。

すぐの左コーナーの右下に墳墓群が隠れている。説明板があるので判る。
進行方向突き当たりの右手が、富崎城址。道なりに左に進むと、畜産試験場から富崎千里古墳群へ。

説明t板の左に3号墳への道がある。
墳丘はよく残っている方だが、四隅突出の形状などはよく分らない。
墳丘周囲は立ち入れるので、色々想像するのも良い。
富山県畜産試験場。天気が良く見とうしが良ければ、立山も見えるかも? 
頂上に見晴台がある。そのまま進んで、下りにかかった道路脇に、富崎千里古墳群がある。

富崎千里古墳群  史跡王塚・千坊山遺跡群
富崎丘陵の東縁部に存在.。このPの右下先に前方後方墳がある。
Pの右下には円墳(20mΦ、3.9m高さ)が見れる。その左に全長34m、4.2m高さの前方後方墳(後方部の高まりを見る)
前に 高山市(岐阜県)