【3】



「カスガイかよ、俺らにサッカーは」
「そんなモンだろ? 立派にカスガってる、カスガってる。てゆーか、サッカー以外にお前らって実は共通趣味が無いんとちゃうか? 俺との方がよっぽど会話多いもん、お前も日向も」
 いや、それは……若島津だって過去に思ったことがある。
 俺達って一体なにを話してるんだ? ナゾなんだよ、実際のとこ。互いにさしてお喋りでもないので、沈黙が苦にならない…もとい沈黙だらけの共同生活……。
「……トウたってるかねぇ…」
「それでも仲がいいってのは、ある意味理想だとは思うけどな。これ、マジな話」
 うどんの最後のツユまで綺麗にすすって、反町は満足そうに器を置いた。
「な、今はも少し大目に見てやんな。本戦までにはあっちも治って、そんでいつも通りに戻るって」
「うー…」
 勢いで若島津もツユを飲みほした。
 添加物をめちゃくちゃ含んだ味の濃いラーメン(ミソ味)に、気付くと喉はカラカラになっていた。気のせいかな、少し喉まで痛い。
 ペットボトルでウーロン茶でも買っときゃ良かったなと、ふと思った。
 
 
 
 その後、日向が例のアホな旅行計画を、蒸し返す気配はまったく無かった。当然、若島津としてはホっとした。ささやかな口喧嘩は別にしても、好んで言い争いたいなどしたかろうはずがない。それはおそらく、誰とだって。
 日向は「ボケた」を通り過ぎ、そしてついにはブキミに静かになってしまった。センターでのトレーニングはマメにせっせと続けていて、おかげで若島津とは部屋にいる時間帯もズレまくった。夕食も外でしてくることが多くなり、ここ何日かはゆっくり顔を合わせてさえいなかった。
 そう、あれは今週の頭だったか。
 若島津が一人でテレビ見ながら夕食をかき込んでいた時、ちょうど外から日向も帰ってきた。随分遅いな、こんな時間までセンター使わせてもらえんのかな。そんなことはチラっと思った。食事は要らないとは朝の出がけに聞いていて、だけど洗い物する関係もあるわけだし、ついでにとばかりに
《風呂は? 入んの?》
 と若島津が尋くと、日向は変な一拍を置いて、
《……。入ってきた》
 とだけ答えた。横目に伺っていると、冷蔵庫から缶ビールを一本取って、その缶が空になるまで台所の椅子に座ってテレビを見ていた。
 気がなさそうに、くっだらないバラエティー番組(言い訳すると、若島津だって本気でそれを見たかったんではない。テレビを付けたらたまたまやっていたのだ)を一緒に眺め、次のCMタイムに入ると同時にビールを飲み干し終った。そしてそのまま、スーっと自分のテリトリーの四畳半に入り、きっちり襖を閉めてしまった。
 音から判断するに寝たらしい。なるほど、と一人で麦茶をすすりながら若島津は考えた。
 なるほど、確かにトウがたった夫婦だ、こりゃ。
 しかもかなり関係は冷え込んでいる。ねェ奥さん聞いて頂戴よ、ウチの人ったら「ただいま」も無しに、家に帰って来たと思ったら寝るだけなのよ…───。
 しかも。
 もう一つ追加で二つ目の『しかも』だ。
 日向からは若島津の知らないメーカーの、シャンプーだか整髪料だかの匂いがした。センターのシャワールームに備え付けのものとも絶対違う。なぜここで「絶対」が付くかというと、若島津自身がセンターにあったのを気に入って、同じメーカーをわざわざスーパーで買っているからだ。それに日向が気付いているのか気付いていないのかは定かでないが、家だろうがセンターだろうが、普段のものは「男性用無香料」のハズなのだ。(自分の頬にかかる髪の長さの若島津には切実な話。でないと下手すりゃフローラルな香りのまま、一日を過ごさなければならなくなってしまう)
 なんだかなぁ。
 問題はそんなチェックを一瞬入れちゃった、自分自身にある気がする。どうだっていいことだろうにという気分が、後になればなるほどひしひしとした。
 でなけりゃ「やるね!」と元気よく茶化すとかね。やるじゃん、日向。なんなら朝帰りだっていいんだぜ…──。
 まったくもう、不自然なこの状況。本気で家庭内不和の夫婦みたいでいささか参る。
 ───夢。
 ユメねえ、どうなんだろうね? こんないい加減にダレた付き合いで、俺はまだ日向にそんな幻想があるんかねえ?
 最初はきっと──あったと思う。一番最初、あいつも俺もかろうじて一桁台の歳の頃。
 正直、学年上だと信じて疑わなかった。そのくらい、当時から日向は老けた…もとい(失敬)、傲岸不遜なムードを漂わせているガキだった。家が近い割には学区がぎりぎり違ったせいで、アホなことにその勘違いに気付くまで、若島津少年にはほぼ丸一年が必要とされた。おかげで使い始めてしまっていた敬語を抜くのに苦労した。完全に直ったのは、多分高校に入ってからのことだろう。
 くそ、サギだ。
 もらった通信簿を見せ合って初めて知って(情けないことに日向もこっちを年下だと思っていた)、「サギだサギだサギだ!」といかにも小学生らしいボキャブラリー貧困さで若島津は叫び、「バカヤロー、お前だって!」と日向も顔を真っ赤にして怒鳴り返した。日向は日向なりに、いかにもいいとこ育ちの坊っちゃんで年下(だから勘違い)の若島津に、それなりに気を使っていたらしい。
 これは随分後に、二人の中で笑い話として語られた。
 そんなにオレ坊っちゃんぽかったかなあ?、服だって別に普通だったと思うけど。昔のネタで盛り上がって、若島津がそう苦笑したら、日向は言いにくそうに口ごもった。
《靴がさ…》
《くつ?》
《運動靴がさ、……お前いいヤツ履いてたんだよ。ガキのくせにちゃんとメーカーの、そのヘンのスーパーじゃなくてデパートかなんかで買うようなヤツ。…スパイクなんか最初は持ってなかったろ? 雨降ったまんま練習して、みんなドロドロんなっちゃったことがあってさ。どーしよう親父に怒られるって、そん時にお前ベソかきかけたんだよ。あれ見てて、ああコイツいいとこの子供なんだなって思ったな…》
 ふうん、と若島津は相槌を打ってこの時は済ませたものだ。謝るのも変なのでそうするより仕様が無かった。やっぱ言わなきゃ良かったかな、的に日向が思っているのも察しがついた。話題をさっさと逸らせる以外に何が出来るよ。
 日向の生い立ちは複雑……というか、ちょっと泣ける。
 親父のことを今でもあまり喋らない。彼が十才の誕生日を迎えた翌月に、永遠に会うことの出来なくなった親父のことを。
 元々が裕福でない家庭事情で、小さな子供三人を抱えて残された母親を、どんな気持ちでその長男が見つめていたか。日向は泣かなかったし、若島津も慰めなかった。ただ、何日かして、黙っていつものようにサッカーの練習に誘いに行っただけだった。日向も黙って、サッカーボールを蹴りながら練習場まで一緒に行った。
 日向は親父が事故にあった日、地区対抗試合のまっ最中だった。その試合、彼らのチームは勝てなかった。新入りの若島津少年はまだレギュラーでなく、日向が得点を決めたにも関わらず勝てなかった。
 若島津がGKに転向したのはこのすぐ後だ。前から監督に勧められてはいたにしても、本当なら自分からそれを言い出す気は更々無かった。なんたってGKなんて地味だし攻め上げられないし仲間外れっぽいし、つまらなそうだと思っていた。走り回ってゴールを入れる方が好きだった。
 でも。でもある日、日向があの仏頂面で言ったんだ。お前の方がゼッタイうまいって。(それは相手チームのGK、しかも練習試合であっちが勝ったチームのGKを指して言った言葉だったが)
 ───勝てないならやってもムダだろ、精一杯やったから仕方ないなんてそんなんウソだ。そんなん、下らねぇし負けた奴の言い訳だ。オレはゼッタイ、負けたくない。勝つ気がねーんなら、意味なんか、ない。
 意味。
 勝つことの意味なんて、若島津だって知らなかった。
 自宅が空手道場なんて大層なシロモノだったから、当時から小学生の部で大会にも出場していた。勝つ時もあったし、そりゃ負ける時もあった。勝てば親父は上機嫌で、トロフィーの一つももらえれば一週間は家族に大事にされる特典付き。負けたら稽古を増やされるなとか、ああ今日は家帰ったらドヤされんだろーなとか、子供心に通信簿のお点程度の価値観だった。
 なのに日向の言う「勝つ」という言葉は、そんなものとは全然違って聞こえた。得体の知れない、怪物みたいに日向が見えた瞬間だった。同い年だと知ったばかりのガキに、なんなんだコイツ、と呆気にも取られた。
 だけど彼が本気で、死にそうな顔の本気で勝ちたいと思っているのは伝わってきて、若島津クンは意外とあっさり決めちゃったのだ。こいつの「勝てるキーパー」になってやってもいいってことを。


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