【4】

 もっとあからさまに言うと勝たせてやりたかったし、一緒に「勝って」みたいと思ったんだ。それは凄く特別なことのような気がしたんだ。他の誰とやるより、クソ生意気で偉そうで乱暴で、やたら目つきの悪いこいつとやることが。勝ち続けようと願うことが。
 他の誰といるより。
 叶う気がしたんだ。
 それが『夢を持つ』ってことなんだったとしたら、ああ、俺は未だに日向に夢持っちゃってんのかもしんないね。サッカーする、イコール勝つために努力する、イコール日向、みたいなけったいな方程式は、あの当時に打ち立ててしまったかもしれない。馬鹿みたいに自分でも聞こえるけど。
 ナーバス。そっか俺も結構…ナーバスになってるかな。自分が怪我した時よりナーバスってのも奇妙な話だ。王様のご安泰が国勢を左右する。頼むよ、王様。頑張ってちょーだい。陛下の堅固なるそのご双肩に、我らが命運も託されておりまする。
 そんなこんなの曖昧でナーバスで微妙な日々。
 日向は付き合い始めたばかりの彼女と、馬鹿にあっさり別れた。
 
 
 
「げっ、マジで?!」
 ロッカールームでシャツをはおりながら、若島津は思わず叫んでいた。
「やー、それがどうも日向が振ったらしいんだわ」
「……マジかー?」
 ボタンを留めるのも忘れて、も一度ぼやく。お前らなんか示し合わせた?、とふざけて島野が突っ込むのは、若島津がつい先日に彼女と別れたことに起因する。そんなん、示し合わせてどーすんじゃ。
 ちなみに情けなく注釈すると、若島津の場合はフったんではなく、一応は「フラレた」んである。不協和音は先月から、決定的な不和は今週に入って。
 ナーバス延長、あんまり構ってあげず、「なんかもう一通りやることやったら後はメンドーでさー」とのたまった若島津に、「東邦サッカー部、最強・最悪・サイテーな男」との太鼓判を捺したのは反町だった。(いえあの、さすがに彼女本人に向かって言ったんじゃありません)
「ま、俺は元々長続きしねえとは思ってたけどな」
 その反町がもっともらしく一言ぶつ。
「え、何でですか?」
 と、これはたまたま傍に居た下級生から。
「なんかなー、あれ、変わったコにいったなって感じだったもんなー。レベルは高ぇよ?、そこそこだったよ。でも日向の好みとして…あれはなぁ。うーん」
「向こうから来たんだろ、確か」
「そうそう。学食で思いっきりアタックかけたんだよ。学部、えーと学部は島野と一緒だっけ?」
 皆さん、やたらとお詳しいっす。俺なんか顔しか知らねえよと若島津が感心してると(それでも顔は知っている…)反町が複雑そうに若島津を窺い見た。
「? なんだよ」
「あー…。今日さ、良かったら一緒にメシ食って帰るか?」
 はあ?、と口を空けて反町を見返して、何秒かたってからやっと意味を呑み込めた。
「まさか、ええ? 大丈夫だろ。幾らなんでも俺に八つ当たりは無い、と思う…」
「八つ当たりの心配よりな、お前が勝手に落ち込む方がマズいぞと俺は言いたい。今の反応から判断しても」
 う。
 …うーむ。
 反論出来ない辺りがここは苦しい。実際このネタ、若島津には少なからずショックだった。日向に彼女が出来たのは別段初めての話ではなかったが、この急展開は新記録だ。おまけに、シャンプー事件(と、若島津は勝手に命名している)が先週なのだ、何かマジで「一通り」こなすのに、二週間やそこらで駆け抜けちゃったという計算───。
 日向って、…日向ってそーいうヤツだったかなぁ?
 若島津の疑問とショックはこれに尽きる。意外や相手を大事にするタイプで(若島津に「意外」ってんじゃなくて、あくまで周囲の反応として)一人のコと丁寧に付き合って、愁嘆場もそこそこ、落ち込み方もそこそこ。
 前例を挙げれば、日向の女性関係は、しごくまっとうで綺麗なものであったとも言える。こんないっぱしの遊び人みたいなスピード感は、まさしく日向らしさを欠いた所業。
「いいよ。とりあえず今日は素直に帰っとく。…顔合わせないのもわざとらしいし、こっちがそれ知ってて黙ってんのも何だし……よく考えたら、あいつが真っ直ぐ帰ってくるかどうかも判んねえし…」
 判んねえんだよ。そーなんだよ。
 そんで、俺がここで落ち込む理由もよく判んねーんだよ。
 その眉を寄せた若島津の顔を見て、反町もますます複雑な顔になって、どちらからともなくため息が漏れた。
「お前らって……」
「な、……何?」
「フクザツ…」
 それともお前が一人で複雑なのかな、やっぱ日向も複雑だよな。でも俺も判る気はしちゃうんだよ、お前ほどじゃねえけど気付いちゃってたりするもんな、だってホラ日向が居ないってそれだけでさ、
 と反町は一気にぼやき、練習後だからというばかりでない、疲れた顔つきになって吐き捨てた。
「気が抜ける。つーか、しまらねぇ」
「しょーがないじゃん、キャプテンだもんよ」
 後ろから聞いていた誰かが合の手を入れた。
「しょーがねえ? それだけか? 俺ら、あいつに頼り過ぎなんだよ。あいつにばっか、持たせ過ぎなんだよ。それって俺ら的にも問題だろうが。こうやって、その自覚が薄いって辺りがよ…!」
 反町には珍しい、きつい語調の言い方だった。
 シン、とちょっとの間、みんな静かになってしまった。反町はハッと気まずそうに頭をかいて、「以上! ミーティングしゅうりょーっ」と冗談めかして叫んでみせた。ほとんどサル並の条件反射で「お疲れサマでしたーッ」の声が下級生の集団から返ってくる。
「じゃ俺、……帰るわ。とにかく今日は」
「おう。また明日な」
 お疲れ、と反町の肩をこづきながら若島津はバッグをしょった。お疲れー!、とその背中をもの凄い勢いでド突き返される。照れ隠しなんだろうなという気はするが、若島津が咳き込むほど、それはやたらと激しい勢いだった。
 
 
 
 もう真っ暗になった家路を辿り、アパートに戻ると部屋に灯りは付いて無かった。階段下の郵便受けから窓を見上げ、若島津は首をかしげた。
 箱の中はカラだった。郵便物が無いのはともかく、夕刊が入ってないのはどうしたっておかしい。鍵を開けて部屋に入ると、やっぱり夕刊が台所のテーブルの上に乗っていた。てことは、日向は一度は戻ってまた出かけたわけだ。夕刊を受け取る時刻を過ぎてから。
 ───ええと。
 どうしようかな、若島津は自分のスポーツバッグをそこらに投げ出しながら考えた。当番制で言うなら、今日の夕飯は日向の順に当たっていた。だけど居ないんだものね、どうしたもんか。こちとらハードな練習後で、もちろん腹だって満々にすいている。
 買出ししないで済む程度なら、別に代わりに飯を作るぐらいは構わなかった。でも「気を使った」と思われたら気まずいし、逆に夕飯を暗くなっても用意しないってのも「気まずい」ことになりかねない。いや違うな、怒るとこか? ここは当番サボった日向を怒るところか? 今日は「外食」の通達は受けてなかったんだから、俺は飯を期待してていいご身分のはず……。
 いろいろと気を回し過ぎたら、どっと反動で体力も消耗した。たださえ薄くなってるところを更に使った。半ば惰性で若島津は冷蔵庫の扉を開いた。開いて、瞬間、ガクゼンとする。
 ───日向。
 オイ、日向ッ まともな食い物、無いじゃんかよ! 冷凍庫にも冷凍テンプラのパックとかカラアゲとか、これからまだ加工が必要なヤツしか入ってない。野菜ケースにもレタスと人参が半分ずつだけしか在庫はない。ウサギじゃあるまいし、これで腹を満たせないほどには、若島津にしたって育ち切っていない青少年だ。
 野郎。
 ここに至って、ようやく若島津は本気で腹が立ってきた。ヤロー、色ボケてる場合かってんだよ、ンっとにもー。俺も俺だよ、確かにあいつにちょっと甘過ぎたかもな! けじめですよ、大事なのはけじめってヤツ。ほら共同生活に必要なお約束。
 財布を鷲掴んで再びスニーカーを突っかける。勢い、もう少しで鍵をかけ忘れるとこだった。慌てて戻って鍵を閉め、商店街へと進路を取る。
 途中、小さな公園を通りかかったのは偶然だった。いつもなら使わない、小学生達の通学路。住宅街の端、市役所の出張所の隣りにある児童公園、猫の額ほどの大きさの。
 滑り台と砂場と鉄棒とブランコと、それだけでもういっぱいの小さな公園。
 本当に、なんでだろう、と後々にも若島津は不思議に思った。偶然、その道を通っただけなのに。いつもの歩道橋を渡るのが面倒だったから、少し遠回りして横断歩道のある道へ出るつもりだっただけなのに。
「───日向?!」
 夕暮れすぎの公園で、不審人物と思って目を止めた相手は、他ならぬ日向だった。
 プランコに所在なげに腰を下ろし、鉄の鎖にぼんやりと片腕を絡ませている。納まり切らなかったように投げ出された片足は、微かな音を鎖に軋ませながら、ゆらゆらと中途半端にプランコを揺すっていた。
「……、え?」
 弾かれたように日向も顔を上げた。
「──若島津?! お前、…え? 何しにここに居るんだよ」
「バカ、そりゃこっちのセリフだよ! な…──に、してんだよ、こんなとこで!」
 目が合って、疑問を口にしながら既に若島津は内心「しまった」と舌を打った。ここは声をかけるべきシーンじゃなかった。きっと一人にしといてやるべきだった。その証拠にこの気まずさ! 怖がっていたのはこれだったはずだ。一番、作りたくないのはこの空気であったハズ。
 焦って、若島津はぷいと顔を逸らし、「夕飯どうする気だったんだ、てめえ」と荒っぽく呟いた。日向は自分の腕時計を街灯の方に持ち上げ「もうそんな時間か?!」と本気で驚いた叫びを上げた。


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