これもまた会話が走り過ぎてて、女史のおっしゃる意味が半分も飲み込めない。単に若島津は、高校の時の日向くんがどういったタイプの選手だったか聞きたかっただけなのだ。ご機嫌損ねた理由も謎なのだからして、慌てて弁解混じりにそう説明する。
 ───あら、ご免なさい。
 すると、苦笑で女史はすんなり若島津に謝った。じゃあなあに、ウチの事情知らずに訊いてたのね、驚いちゃったじゃないのとまだくすくす笑い続ける。
 ───驚いたのはこっちです。何ですか、事情って。
 言ったあとで、おや訊いてよかったのかなとは内心思う。まあいい、駄目なら駄目で小泉さんは言わないだろう。
 という若島津の予想通り、逡巡する間がしばらく開いたかと思うと、やや堅い感じの声で女史はその先を続けた。
 ───あの子はね、ウチに進学が殆ど決まってたのよ。特待枠で。
 は、と一瞬声が出なかったのは、驚きが連発し過ぎたのと、その方向があまりに突飛だったのとで(まあ、驚く状況なんてのは大概そんなもんなんだけど)対応を選び損ねたからだ。
 若島津の知るところの「坊や」は、確かによく喋る奴ではお世辞にもなかった。だけど何度か一緒にした食事の間も、そんなことは一度も話題にのぼらなかった。若島津自身の学生時分の話は、控えめに、しかしやたらと聞きたがるくせ、自分の話にはあまり乗ってこないのが常なのだった。
 彼の、日向小次郎くんの高校は決して有名なチームではない。正直言って全国では無名もいいとこ、若島津などは初めて聞く校名だった。かたやこちらは国立常連、悪くてもベスト8から滅多に漏れることのないサッカー名門校。
 なので、敢えて若島津も彼に突っ込んで訊いてはいなかった。ただ、これだけの実力の子がなんでもっとハイレベルの高校を選ばなかったのかなと、少し不思議に思っていたのは本当だ。
 ───じゃ、どうして…。
 ───うーん、当時のテレビでもアナウンサーがべらべら喋ってたし、本人からも最初の頃にインタビューで出てた話題だから話していいとは思うんだけど。…あのね、日向くんは中学の時にお父さんが亡くなってるのよ。それでまあ、経済的なこともあって一時はサッカー諦めかけて。
 ───だから特待枠? だったら別に、…
 ───そこで終わりならいいのよ、問題はそのあと。私も何度か直接話をしたし、本人だってしっかりウチに来る気でいたの。なのにそう…冬に入ってだったかしらね。膝痛めちゃったの、左の半月板。手術すれば治るとは言われてて、でも当時のこちらの事情からしたらね、即戦力にならない、その上ひょっとしたらもう使い物にならないかもしれない選手を、特待枠で入学させるのは無理だったのよ。
 この時、何にショックを受けたのか、後々になっても若島津は釈然としなかった。
 大昔に痛めた自分の左肩に対してかもしれないし、日向のその境遇にかもしれないし、またはこのどれにでもないかもしれない。実際、故障の無い選手なんていやしない。半月板?、フィールダーの三大故障に挙げたっていいくらいだ。
 ───使い物、ってこの言い方があなた嫌でしょう。
 若島津の沈黙を見透かしたように女史が言った。
 ───ええ。小泉さんの口から聞くとそりゃ…。だって彼は学生…中学生だったわけでしょう。
 違うわ、とピシャリとした声が返ってくる。
 ───特待枠ってそういうこと。判ってたから私は悔しかったの。よっぽど個人的に資金援助しようかと思ったくらい。もっとも匂わせたらきっぱり断られましたけどね。だから彼は高校一年と二年では県大会にも出てないの。あのチーム引っ張って三年で県代表になったってのは、本当言えば奇蹟みたいなものよ。
 国立にこそ来れなくてもね。
 そう、彼女にしたら珍しい乱暴な口調で付け足し、小泉女史はフン、と大きく鼻を鳴らした。
 奢りではなく、若島津のチームは恵まれていた。その証拠に三年連続、若島津は国立の芝の上でゴールを守った。優勝一回、準優勝二回。インターハイもベスト4、2回。それが自分の力だけでないのを、当然のこととして知っていた。
 プロになってからも数え切れないくらいあの場所に立った。記憶に深く刻みつけられた試合だって幾つもある。だけどそのどれとも違う。忘れていた。この試合が全部だって、これが今の全部なんだって、ただ走ってたあの時のことを。
 ああ、日向を見ていて思い出せそうな気がしてたのはこれだったのかなと、若島津は瞼の裏にフィールドでの彼やその眼つきを思い描いてみる。普段の、どこか困ったような、無愛想な中になつっこさが見え隠れしてるような青年とは違う顔。試合中の彼はひどく獰猛そうで、そのくせ必死なひたむきさで走るのだ。
 若いよねと片付けてしまうのは簡単だけれど。きっとそれだけが理由じゃない。あいつは忘れないだろうし、いつだって走り続けるだろう。
 どれだけあれから遠くへ来ても、どれだけこれから遠くに行っても。
 ───……。ねえ、小泉さん。去年の高校サッカーのビデオってもしかしてお持ちじゃないですか? ダイジェストのでも…構いませんから。
 ───あるわよ。なあに、日向くんの試合? そう言えばあなたから出した話題だったわね、 まあ随分とご執心みたいだけど何かあるの?
 ───ちょ、ご執心って、
 思わず若島津は絶句してしまった。何という表現をしてくれるんだと、コケかけた体勢から必死になって持ち直す。なのに、彼女は容赦なく追い打ちをかけてきて、
 ───だって本当に珍しいわよ、あなたがそこまでしたがるのは。イヤだ、もしかしてお稚児趣味にでも開眼したんじゃないでしょうね。…にしても、ちょっと好みのタイプが変わり種過ぎやしないかしらね?
 今度こそ完璧に脱力して、若島津は後頭部を受話器ごとリビングの壁に打ち付けた。
 
 
 と、これが約一週間前。
 国立、冬の高校サッカー準決勝戦、試合はハーフタイムで応援合戦に突入している。うひゃー、寒ィー、とぼやきながら、反町は横で足と膝をバタバタと動かした。
「こりゃ今日で駄目かなー。ライン下がりまくっちゃってんもんな」
「…おい、あんまりデカい声で言うなって」
 などとドヤしつけつつも、二人の母校はちょっと明日の決勝進出は無理そうかなー、なんて若島津も思い始めているのは事実だった。
 たった一回。
 彼等はたった一回だけの「敗北」で去ることを余儀なくされる。そこへ辿り着くまでの何十回の勝利があっても。カップ戦と同じ理屈なのに、あの時に感じてた本当の緊迫感は、若島津にはやはりどうしたって取り戻せない。誰にだって。こればっかりはきっと日向にだって。だからこそ懐かしくて、若島津の口元からは知らず微笑が漏れてしまう。
 

 

 

 


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