ちょうど変わったばかりの信号で一旦止まって、『ん?』と若島津はシュナイダーに視線を走らせた。ここ、ここ、というふうにシュナイダーが自分の耳の下を触ってみせる。それでも分からずに首をかしげていると、すいと彼は手を伸ばして若島津の髪をかき上げた。指が頬と耳許に触れてから、ああ、と初めて気付く。
 思わず苦笑。結局四針縫った五年近くも前の傷は、よく見てみれば判別つく程度には残っていた。
 仕方がない。別にもう痛くもないし。そう言おうとした瞬間、後部座席でもの凄い擬音付きの振動がした。びっくりして若島津もシュナイダーも振り返ると、立ち上がりかけていたらしい日向が(…なんで?)デカい図体の中腰で、天井にぶつけた頭を押さえていた。
 バカヤロウ、何考えてんだ。修理代請求するぞ。
 ミラー越し、若島津がふざけて睨みつけると、『…前ッ』と日向は振り絞るようにして怒鳴った。『前、信号青になってんだよ…っ』
 あ、ホントだ。おぉっと後ろからクラクション。
 その時はそれで話題は変わってしまった。日向の不審な素振りも、それに始まったことでもないので忘れていた。
 
 
 ───でも、
 と今になって若島津は思い返す。
 日向が変に不機嫌になったのって、車ン中のあの辺りからだったような気がするなぁ…。
 後々、皇帝陛下は怒ってやしなかったが、『彼はホントに僕のファンなのか?』と、しごくもっともなことを若島津に尋ねていた。緊張してたんだと誤魔かしてはおいたけど、付き合いが軽く一年越えてたら若島津にだって分かる、あれは明らかに『不機嫌』の態だったのだ。
 もー、理解出来ない。坊っちゃんのことは。
 苛々して、頭にくる程度には心配だ。そしてやっぱり彼のことがかわいいのだ。考えると若島津は情けなくなってくる。どうしたって理不尽だと思ってしまう。
 どんな我が儘だって。
 俺は聞いてやってんじゃねえかよ、チクショウ、あいつ何言ってんだ。俺が、お前の本気を拒絶したことなんか一度だって無いんだから。お前を邪険になんか、どうしたって出来ないんだから。
 ───情けなさ募って泣けそうだ。
 深夜のマンション、テレビを付ける気にすらならなかった。かと言って眠くもない。しんしんと、奇妙な圧迫感でもって静けさが迫ってくる。
 一人なのに、めっっずらしく棚から頂き物のバランタインなんぞを引っ張り出していると、明るくチャイム音が鳴り響いた。マンション下のエントランス呼び出しではなく、このドア前で直接鳴らした音だ。
 暗証番号知ってる奴なんてそう居ない。若島津は掴みかけていたアイスペールを置いて、深々と肺の底からため息をついた。
「ハイ」
 九割がたは厭味でインターホンに応答する。だが返ってくるものと言えば、高層マンションに吹きつける風の音と、
「……、………」
 ───だからお前はそこで黙るなっつーの!
 やけくそと諦めが半々で、若島津はフックに受話器を叩き付けた。
 
 
 
「入れば? いつまでそこに突っ立ってる気だよ」
「お邪魔…します」
 冷たく言い放った若島津に頭を下げて、日向は重いドアを後ろ手に閉めた。
 だがリビングに通っても相変わらず所在なげに突っ立っている。焦れて差し出した若島津の手にも、は?、とか間抜けな感じの返答をするもんだから、「上着!」とついドスを利かせて吐き捨ててしまった。そこに至ってやっと、彼はもそもそと着ていたジャンパーを脱いで渡して寄越す。
 俺も冷静に、冷静に、きっと謝りに来たんだから冷静にね──…。
 なんたって、こっちは既にいい大人なんだからして。
 ハンガーに上着をかけて戻って来ると、なのにまだ日向は部屋の中央に立っていた。「座れ!」と今度はキリキリ怒鳴ってしまう。反射的にバッと素直に座るのはいいが、あああ、犬かよお前は。
「何しに来たんだよ…──」
「そっ、…それは、よく、オレにも…。なんだろ。分かんない、けど」
「顔見に来たとか言ったらぶっ飛ばすぞ」
 瞬間、日向は死にそうな顔になった。勘弁しろよッ、と叫び出したいのを若島津は必死に堪えて、ロックグラスを一つ追加で取って来た。
「呑んで、たの?」
「これから! これから一人で優雅に酒盛りしようと思ってたんだよ。文句あるか?」
「いや…誰か来んのかと思って…。一人でビール以外の洋酒呑むの、珍しいから」
「こんな時間に人ンちに押し掛けるバカは、俺の知り合いではお前ぐらいだ」
 ごめん、と日向は顔を逸らして謝った。それで若島津もちょっと苛め過ぎた気分になって、気を取り直すために日向にもグラスを持たせた。
「お前、明日は?」
「半オフ。あ、ウチんとこ来週からキャンプだから」
「そうだったな。えー、宮崎だっけ?」
「そう。…ハイ」
 ここでさ、気のきいた奴だったら「そっちはどこ行くの」ぐらい言うもんなわけ。でも日向にはもちろんそんな能は無いから、また思わず二人は向かい合って無言になる。
 …凄く間抜けだ、間抜けな構図だ。
 まあな、こいつに変化球投げさせてもしょうがない。デッドボール乱発でこっちに損害が増えそうだ。(ちなみにこの日向くんはループシュートも苦手でーす。一度だけ『奇跡』と反町をして言わせたロングループで天皇杯の決勝点を挙げことがありますが、その時のヒーローインタビューで『……びっくりした。なんで、アレ入ったんだろう』と自分で抜かして語り草になりました)(バカなのか…?)
 とにかくもう、待ってても埒があかない。いい加減、捨鉢状態極まって、サクッと若島津は自分から本題に切り込んでいくことにした。
「───で、お前はシュナイダーの何が気に入らないわけ?」
 ここで若島津が意外だったのは、本当に真剣に、日向が驚いた顔をしたことだった。な、なんで? どう見てもあれはそういう態度でしょう。
「あの人の、せいじゃない。…多分」
「じゃなに? 俺か?」
 ぶんぶんぶん、と日向は握ったグラスからロックが零れそうなほど首を振った。
 えーと、この場面で反町の名前出しても違うだろうなぁ。車の時点では居なかったもんな。若島津は困って、ガラスのマドラーをチンチンと指先で弄んだ。
「腹を立ててたのは、…ほんとだと思う。なんか色んなことがぐるぐるしてた。そういう、自分だけのことで一緒に居た人にメーワクかけて、それがマジで、──すいませんでした」
 はい。そうですね。そこらが詫びの最大ポイントですね。とにかく一つ目の難関は順当にクリア。

 

 


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