足を伸ばせる大きさのバスタブにのびのび浸かり、へたぁっと頭を縁に傾け、試しにもうちょっと我が儘を言ってみる。
「髪。めんどくさい」
「だから? 俺にやれと?」
「うん」
 文句を言うかと思ったら、素直に日向はシャツごとセーターの袖まくりをし直した。
「なら頭、こっちに出して。──ああ、俯せの方がいいかな」
 シャワーのホースをいっぱいに引っ張って、お湯をかけられ、日向の指が髪の毛を項から丁寧に辿っていく。縁に置いた両腕に顎を乗せ、その指先を感じながら目を閉じる。
「寝るなよ。マジで」
 見越したように日向の声が降ってきた。
「ダメ?」
「抱えてベッドに運べるほど、あんた華奢じゃないからな」
 こめかみから落ちてきた目尻の泡をぬぐって、若島津は我慢できずに笑ってしまった。
「なに」
「そりゃ残念…」
「本気かよ。酔ってるなー」
「いや、これが結構本気で。尽くされるってのも、たまになら悪くない…」
 すすぎ終わった日向の指がふと止まる。若島津が顔を上げかけると、顎の下にもぐり込んできた掌にグイと横を向かされた。
「いつも尽くしてるだろ! 何言ってんだよ、俺ばっか尽くしてるよ」
 キスは、やっぱり少し乱暴。どれだけ指や掌が優しくても、彼からのキスはいつもどこか性急で荒っぽい。
 ───でも、嫌いじゃない。
 それ以上に進むのかと身構えたのに、日向は手を離して律儀にリンスの容器を掴み取った。
「これ硬い髪用って書いてあるぜー? 違うだろ、あんたの場合は」
「安売りしてたんじゃないかな。…そーいや…あんまり見て買った覚えがない…」
 今度、俺が選んで買ってきてやる。そんな下らないことを、真剣な声で言う日向にまた笑いが漏れる。
「お前、髪フェチの気があるんじゃないか」
「髪フェチじゃなくって、あんたにフェチなんだよ。分かってろよ、いい加減。髪だろうが爪だろうが、あんたの部分だから気になるんだ。粗末にしやがったらタダじゃおかねえってくらい」
 荒い口調とは裏腹に、優しく触られるのは右のこめかみにある縫い傷だ。普段は前髪に隠れて見えない場所の。
 今年前半の国際試合、ゴール前の混戦で飛び出して、こぼれたボールを抱え込もうとしたところに相手チームFWのスパイクが思いきりヒットした。一瞬、あれはさすがに脳震とうを起こして立ち上がれなかった。止血して試合が再開されても、目が焦点定まらずに泳ぐのが自分で分かった。
 それでも後半の残り20分、ゴールを守り切れたのは、ほとんどが意地と脊椎反射のたまものだったと言っていい。
 終了直後のロッカールームで膝が崩れて、そのままチームドクターの車で病院に搬送される若島津を、どんな目で日向が見ていたか覚えてる。視界がブレまくったあの状態で、肩を貸しながら泣き出すんじゃないかと思った日向の目だけ。
 今でも。ずっと。
 忘れられない。痛みより確かで。
「…もう、そろそろ薄くなっただろう? 3針程度しか縫ってないんだ」
「程度の問題じゃねえって何度言やいいんだよ。時々、ホント腹たつぜ。俺がこんだけ大事にしてんのに本人こうだもんな。……あんたが泣いてイヤだっつっても、どっか閉じ込めらんないかとマジで考える時がある…」
 いつもだったら聞いててしんどくなりそうな台詞の羅列も、不思議と今は気持ちよく耳をくすぐる。
 日向の手が、指が、きっとあんまりに心地いいせいだろう。そういえば動物をじゃらすのも彼はうまい。掌からアルファ派でも出してるんじゃないかと思うくらいだ。
 日だまりで背を撫ぜられる猫のようにうっとりして、若島津は冗談でなくバスタブの中に沈みそうになる。
 やがて、終わったよ、と日向は腰を上げた。
「溺れんなよ、5分たっても出て来なかったら覗きに来る。リンスもしちゃったから髪はなるべくお湯に突っ込まないで」
「お前、膝がびしょびしょだ。いつまでもそのままでいたら風邪ひくぞ…」
「だーれのせいだよ! ちぇ、何か着替え適当に借りるからな」
 それと乾燥機…、と言いかけて、日向はその濡れたスラックスの膝裏を引っ張られて振り返った。
「なに!」
「ジーンズじゃないんだ、珍しく」
「ああ、最近はこういうのも履くよ。カズさんにいい歳になってきたんだから服は揃えろって言われて、何着か。シワが寄んのがメンドくせぇけど」
 深い緑色のコットン地のスラックスは彼によく似合う。反町のお見立てだったら質も確かだ。そう言えば上に着ているシャツとセーターもなかなかの上等に見える。
 案外、服に着られるタイプじゃなかったんだなと感心しながら、若島津は手招きして彼を少し屈ませた。
「シャツも濡れてる」
「だから着替えさせてくれよ、冷えてきたよ、さすがに」
「───お前、…鈍いな」
 鏡に向かってやったこともないから分からないが、若島津は古い洋画のヒロインなんかがするのを出来る限り真似て、ゆっくり、半眼の上目遣いで日向の顔を流し見た。少し、そう顎を傾け、唇はけだるく見えるように薄く開いて。
 日向が息を飲み込んだのがはっきり分かった。
「…な、」
「ニブい…」
 こんなチャチな手でも引っ掛けられるなら自分も意外と。いや、それとも日向が簡単過ぎるのか。
 バシャン、と派手な音を立てて、日向の片足が勢いよくバスタブに突っ込まれる。すくうように上半身を抱え上げられ、呼吸するのも苦しい、今日3度目のキス。
「クソ…! この酔っぱらいッ 人がどれだけ自制心働かせてると思って…!」
 裸の腰を掌が滑る。もがいたのは無意識で、抵抗するつもりじゃもちろん無かった。なのに、日向はそうは取らなかったようで、若島津の肘も抱え込む強さで動きを封じた。
 冗談じゃない、と内心で柔らかく毒づく。この体勢では離されたらそれこそ本当に溺れそうだ。若島津は無理に片腕の自由を取り戻し、自分から日向の肩を抱くようにして身体を支えた。
「笑わせる。こんな時だけ自制心か」
「ああ、そうだよ! 疲れてるんだろうなとか、酔っぱらいの言うこと一々真に受けてる場合じゃねえとかっ 俺だってナケナシのノーミソで考えはするさ!」
「───だったら、何で来た。何で待ってた。俺が帰って来ないかもしれないマンションで?」
 それは今日、最初にも尋ねたことだ。まだ答えを聞いていない。分かりきった答えだとしても、どうしても直接その口で言わせたい。こんなに自分は今ご機嫌だから。
「あんた…ズリィぞ…! もしかして、分かっててやったんだろう」
 若島津は口の端が笑みを作るのを止められなかった。それを確信犯と日向が見るのも承知していて、だけど押し殺すのは無理だった。
 100パーセントの確証でやったわけじゃない。そう、日向に言っても信じはしないだろう。
 あの時、ほんの一瞬、思っただけで。カメラの向こうに日向の視線を感じた気がして。
 ハイな頭で、公共電波使って馬鹿やる自分にゾクゾクした。
「あいつ、日向に似てると思わないか…?」
「どこが!」
 吐き捨てながら視線を背けて、日向、それじゃウソは付けない。

 

 

 


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