ちょこっとした感想を「日記のフリ」のほうに書くこともあるので、そちらもどうぞ。
『女たちの遠い夏』(カズオ・イシグロ) (2/4)
「学生」「中二階のある家」(チェーホフ)
(2/9)
『感情教育』(中山可穂) (2/16)
『光の帝国』(恩田陸) (2/22)
『蒸発』(D・イーリイ) (2/27)
カズオ・イシグロ 小野寺健訳『女たちの遠い夏』ちくま文庫
1994(1984)
Kazuo Ishiguro,A PALE VIEW OF HILLS,1982
*感想
終盤、現在の悦子は、佐知子の未来の姿(もっと言えば同一人物)なのかと一瞬本気で思う。どうやらそれは、あながち間違った読み方でもないようだ。過去の対照的な女性2人の正反対な物の考え方は、現在、別の人物によって再現されている。小津安二郎の映画をみたこともないくせに、この物語に小津を感じる。私の中での漠然としたイメージがつながっているのだろう。訳者あとがきや解説でも小津に関する言及あり。カズオ・イシグロの視線は、日本人と英国人の狭間にはなく、明らかに英国人のそれだ。
2000/2/4
*感想
どちらを読んだ時にも感じたのは、風景の描写について今まで随分「どうでもいいこと」のように思ってきたかも、ということ。どちらかというと、まどろっこしいから簡単でいい、と思っていたくらいだった。それなのに、今は(というより、この2つを読んでいる間)、主人公たちの感情・気持ち・気分をあらわすのに不可欠な要素に思えてきている。何かを目にする、耳にする……とにかく、世界に触れないことには、感情など起きてはこないんだ、と。そのことは日常、生活しててわかっていたはずなのに、小説の中でもそうなのだと感じたのは、初めてのような気がする。「学生」は、チェーホフ自身一番好きな作品だという。過去と現在をつなぐ鎖、その両端が確かに見えた気がしたし、「光」を感じた。"連綿(としてこんにちまでつづいて)"っていい言葉だなあ。
2000/2/9
*感想
前半、私の思想の中に確実に那智はいる、と思いながら読んでいた。
環境は似ていない。愛情に飢えていた記憶はないし、親元を離れている今、むしろ、愛されていた/愛されているんだなあと、ことあるごとに感じるくらいだ。実家に行くと、この暖かさはなんだろうと呆然とすることがある。
親のことは好きだ(った)けれど、親に相談ごとをする(した)ことはない(なかった)。親に悩んでいる姿を見せるくらいなら、自分で解決するほうが断然楽。無理をしてそうしているのではなく、普段通りにふるまっているのが楽。親を信頼していないのとは違う。
物をねだったこともなかった。ただ、一度だけ、小学生の頃、ツーピースの青い服がどうしても両方欲しくて欲しくて仕方のないことがあった。でも、親は「上か下かどちらかしか買えない」と言い、悩みに悩んでスカートを買ってもらった。あれだけは今でも欲しかったなあと思い出してしまって、つい先日親に言ったら、全然覚えがないそうで、私のことをかわいそうに思ったらしい。過去の私に対してだろうけど。
親はどれくらい私のことを読んでいるんだろう? 私はどのくらい読まれているんだろう? 私のことを読んでいても、そしらぬフリをしているのか。どうであれ、感謝したいのは、トルコに一人で行かせてくれたことも含め(父は「死ぬときは死ぬんだからと言った」)、親子の距離間隔だ。
ただ、不思議と、抱きしめられた記憶がない。抱きしめられることや抱きしめることに対しては素直な憧れがある。だからこういうのに弱い。
理緒は寺の境内で飼っている犬をひそかにいじめる子供になっていた。そんなのを偶然見られても、多賀子おばさんは怒って窘めたりはしなかった。黙って抱きしめてくれるだけだった。(p.137)
最後にとても好きな箇所を引用して終わり。やっぱりこの物語に感想は難しい。自分に引き寄せてつらつら書くだけになってしまう。
「あなたにはわからないかもしれないけれど、そんなにも何かに飢えて何かを求めずにはいられない人間は、そうでない人間よりもずっと表現者になる資格があるんだと思う。理緒は時々、痛々しくて見ていられない。ちゃんと自分を愛しなよ。それから人を愛しなよ。あたしが理緒にしてあげられることはひとつしかないよ。ただ祈るだけ。どうかあなたが愛する人とめぐり会って、その人といつまでも幸せになるように。それがあたしの願いだから」(p.185)
2000/2/16
*感想
「手紙」の中に、この間、月を眺めながら考えたようなことが出てきてびっくり。
いつも、昼も夜も同じ一つの月が空にあって、我々はいろいろな場所でその月を見上げている。君とは全然違う場所ではあるが、やはり同じ月を見ているのだなあと、当たり前の事をつらつらと考えるようになったのは老人の兆候か。(p.109)
下線部分に笑いつつ。嬉しかった。更にこんな文章。なにげないけど、しみたのです。
晴れた空に真っ白な月が浮かんでいた。その月を見た途端、何故か涙がこぼれて来た。昼も夜も、月はいつもある。みんなが同じ一つの月を見上げている。(p.116)
表題作の短篇「光の帝国」では、その輝かしい雰囲気の題名と内容とのギャップに胸が痛くなる。
「達磨山への道」。いつも渇望している男の人が出てくる。これにもまた、先日自分が言ってたようなことを思い出し、どきっとした。
俺は自分の輪っかを完成させたくない、いつも欠けた人間、いつも走っていて何かに渇いた人間でいたい。(p.61)
結局彼は、幸せから遠いところにいるようだ。渇望しすぎてもいけないんだって思った。ずっと渇望し続けるのではなく、うるおいを得た時に、そのうるおいを感じられる部分も残しておかないと、だめになってしまうのかもしれない、って。
それにつけても、「飄々、淡々」って、身につけたい雰囲気だなあ。無理かしらん。
***「大きな引き出し」に出てくる音楽家のエピソードは、小澤征爾『ボクの音楽武者修行』で読めます。
2000/2/22
デイヴィット・イーリイ『蒸発』ハヤカワ・ポケット・ミステリ#1065
1969
David Ely,SECONDS,1963
*内容紹介(背表紙より)
トニー・ウィルスン、すでに50の声をきこうとしている、一流銀行の副頭取。一人娘も嫁ぎ、妻と二人きりの安楽な将来が約束されていた。普段ならこんな誘惑は一笑に付したところだが、一本の電話が25年にわたって築き上げた堅実な生活を狂わせることになった……。ある日、トニーにとっくに死んだはずの親友から電話がかかってきたのだ。驚くひまもなく、その死んだはずの親友は、自分の死は偽装で、本当の自分はこのとおりピンピンし、自由で若々しい」第二の人生を生きている、実は蒸発したいという人の便宜をはかってくれる会社があるんだが……と告げた。彼は逡巡したが、いつのまにか我知らず、その誘惑に魅せられていった。そして、約束の日が来たとき、彼は自分をとりまく世界からきっぱり縁を切ろうと決心し、何気なく会社を抜け出たのである……。
*感想
蒸発というのは、マジックミラーを通して世界を見るような感じだと思った。自分にとっては世間は見えるのに、世間からは自分の姿が見えない。自分の姿が見えないばかりか、死んだも同然に思われている。だから、蒸発した人間が世間を観察するときには、自分の死後を覗くようなものではないか。しかし、果たしてそれをすることは、心安らぐことなのだろうか?
自分が勝手に蒸発したくせに、世間には悲しんで欲しいというのは、かなり虫が良すぎる話ではある。自分が世を捨てたのだったら、それに対して未練を持つこと自体が間違っているだろう。しかし、あまりにも何気なく蒸発への道を踏み出してしまったウィルスンにとっては、後ろを振り返りたくもなったようだ。自分のいなくなった世界を眺める彼、そしてそれに対する世間の反応には、やはり薄ら寒い気分がわいてきてしまった。見たくても見ないほうがいいものというのは、確実にあるのだと思う。
蒸発はまた、肉体の死ではない。それまでの社会のしがらみから逃れることは可能でも、生きている限り、新しい社会のしがらみの中で生きることでもある。現状を抜け出すよりも、余計につらく苦しそうに見えてしまったのだけど、どうだろう。
2000/2/27