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日記のフリindex

00.1201.02

日記のフリ 日記というよりは、気になったこと、興味のあることを忘れないようにメモしてる、ってほうが正しいので「フリ」。

日付ごとにアンカー付けています。e.g.#20010101


2001年1月

その他

小枝義人『永田町床屋政談』(新潮OH!文庫)
吉野朔実『プレゼントをあげる』(大和書房)
志村志保子『ブザー、シグナル ゴー ホーム』(集英社・マーガレットコミックス)
筑摩書房編集部編『二十一世紀に希望を持つための読書案内』(筑摩書房)
『ただいま(過年回家)』@テアトル池袋
ドストエフスキイ 米川正夫訳『ドストエフスキイ前期短篇集』(福武文庫)(1/5) (1/10)
川中幸博『珈琲に遊ぶ』(未知谷)
杉浦さやか『わたしの日曜日』(ベストセラーズ)
村松友視『俵屋の不思議』(世界文化社)
横溝正史『悪魔の手毬唄』(角川文庫)

『細江英公の写真 1950-2000』@松涛美術館
勢古浩爾『自分をつくるための読書術』(ちくま新書)
岸本葉子『実用書の食べ方』(晶文社)
吉野朔実『ジュリエットの卵』(1)(2)(小学館文庫)

梨木香歩『裏庭』(新潮文庫)
岡真理『記憶/物語(岩波書店)(1/26) (1/28) (1/29) (1/30)


31(水)
お昼は九十九ラーメンで、まるきゅうラーメンを食べる。味噌ラーメンにモツァレラチーズのトッピングが載ったもの。麺を食べているときはあまり感じないけれど、スープを飲むと濃い味を実感する。味噌味とチーズが合うなんて不思議。

東京に出張中のYさんと、ご飯+お茶。この間会った時には半そでだったはずなので、約半年ぶりくらい。お互い煙草を吸わないのに煙草の話をした。Yさんが煙草を吸ってみた時の話を聞いたら、吸ってみたくなっちゃったよ(むせなかったらしいので)。今度誰かお願いします。Yさんは禁煙してみたいんだそうです(吸わないのに……)。あと、ひげを伸ばしてみたいんだって!(女性なのに)

いま、「ご飯」と書くときに迷ったんだけど、夕御飯と晩御飯て違うの? 食べるときの時間?


30(火)
岡真理『記憶/物語』(岩波書店)を読み終わる。

論を展開するのに小説や映画も題材に持ってきている。バルザック「アデュー」クライスト「チリの地震」。映画だったら、『プライベート・ライアン』『シンドラーのリスト』(スピルバーグの「リアル表現」について)、是枝監督の『ワンダフルライフ』(記憶を伝えるときの不安など)。『ワンダフルライフ』感想)に、あそこまで触れたのだったら、「選ばなかった人」に対しての言及も欲しかった。その存在で、片手落ちを免れていると思ってるんだけどな。

後半、「〜ではないだろうか」の語尾が目につきすぎるようになったことや、終わり方に華やかさがないなあ、という感想を持ったけど、刺激的であったことに変わりはない。

ただ、そこに書かれていた「刺激的」な内容は、うすうすとは感じていたことではあったから、それを切り取って「ほら」と見せられたことのほうが、「刺激的」だったんだろう。私が「刺激的」と感じるときは、素材そのものより、その調理の仕方に魅力を感じているってことのようだ。

自分が本の中に生活してるような気分を味わった本だった。久しぶりに。普段、本を読んでいるときは、もっと本と私の間に距離があって、保たれているのに。読み終わって目を上げれば、やっぱり日常だ、なんにも変わってないよ、って強く思う反面、読んだことの記憶が「出来事」として残っている、不思議な気分。内容を記憶として覚えているのではなく、その中を生きた感じ。出来事と自分がくっついてしまっているから、だから、この感覚を説明するのが難しい。

『記憶/物語』を読むことは、その中に書かれていたことをそのまま体験することだ。

いまごろから、あん入り餅なんて食べたら太るかなー。でももう焼いている。こしあん派。でもちょっと眠い。


29(月)
がんばって、ぐいぐい押したんだけど、電車が混雑しすぎてて乗り切れず、はじかれちゃったよ。そんなので乗れないなんて悔しいよ。誰かのコートに口紅つけちゃった気がする。まずい。それはそうと、月曜の朝にNさんと会えなかったってのは大きなマイナスだ。

「CUT」に窪塚洋介とニコラス・ツェーが載ってるから買ってください! と言われたので、素直に買った。最初、『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』で窪塚洋介を見たときに、ニコラス・ツェーと目が似てるって思ったけど、どうだろう。動いているとやっぱり似ていると思うんだけど。

岡真理『記憶/物語』(岩波書店)はますます刺激的に読んでいる。出会うべくして出会った本だー、って思うことがときどきある。そんな感じ。こういう本は説明したくないんだよね。他の人にも読んで欲しいけど、説明したくない。だって、本文を読むより素敵に説明することなんて、不可能だとわかってるので。


28(日)
大雪の昨日、飛び跳ねるように歩くと楽だぞ、と発見した。なんでまた友達と約束した日に、こんな大雪がー。家の中で考えていたよりすごいことになっている。ずぶずぶはまる駅までの道を歩きながら彼女のことを思う。案の定、大変な思いをして来たらしかった。

今日は一歩も外へ出まいと思ってたのに、天気が良くて暖かそうだったので我慢できず散歩に出る。冒険コースと思っていた隣駅までの道は、思ったよりも雪が解けていて歩きやすかった。ミスタードーナツ全品100円を買い込み、ミニストップに寄ると、「スーパープリンアラモードデラックス」の新しいの、「スーパープリンアラモードデラックスチョコ」があったので買ってしまった。

「マイペース」話の続き。「あんたには協調性がない」と強く否定されたのは母からだったんですが、その例というのが「小学校で休み時間に外に出て遊ばないで教室で本を読んでいた」ということで(小さい頃のほうが本が好きだったみたいだ)。続けて母は、「それを先生から聞いたから、“教室にいて何か物がなくなったときに変なことになるから外に出なさい”って、あんたに言った」らしいけど、私はまったく覚えていない。

それにしても、この話を友達にしたら、「普通、親って、“外に出ない”って聞いたときには友達がいないんじゃないかって心配するんじゃないの? それを物がなくなったときに……とかいう親もすごいね」と言われた。当時、それで納得して外に出てたのかどうかも、やっぱり覚えがない。

みんなでなにかをするというのは確かに苦手だから、協調性はないと言えるかもしれない。でも、苦手だと意識した(わかった)のはごく最近のような気もする。自分の思ってることに対して鈍感だったってことか。ていうか、なにに対しても鈍感なんだ。マイペースって鈍感て意味かもね。

数ページだけ進んだ岡真理『記憶/物語』(岩波書店)

出来事の現実<リアリティ>とは、まさにリアルに再現される<現実>からこぼれおちるところにあるのではないか、(p.27)

自分の中の話せないこと、これからも誰にも(それを共有した人以外)話すつもりもないことを思いながら読んでいる(そしてそれは、共有した人が死に私も死ぬと、永遠にないものとなる)。自分が体験したことを自分で語るには、出来事と自分の間に距離が必要だと思う。それでも、「語られたこと=体験したことの全て」では決してなくて、あくまで言葉にできた部分なんだ。そこからこぼれおちたものが必ずある。だから、言葉にできたら解放の始まりって思ってたのが、少し違うような気がしてきた。確かに楽になる部分もあるけど、でもやっぱり自分の中の出来事って永遠に残るなあって。完全な解放なんて、ないのかもなあって。

洗いものをしてて、お皿をきれいに割ってしまった。お皿の上にお皿を落としてしまったのです。ほとんどまっぷたつなので、きれいに割れたなあと感心して、袋に入れておいたら、あとでその上に触ってしまい指を切った。うどんを食べているとき、舌を噛んだ。末端の危機。明日、足の指を踏まれたりするのかしらん。


26(金)
いま、岡真理『記憶/物語』(岩波書店)を読んでいる。

或る出来事−しかも、暴力的な−体験を物語ることは、果たして可能だろうか。もし可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。だが、誰が、どのように語りうるのか。(表紙折り返しより)

それにしても……、この著者の名前にどうも見覚えがある。プロフィールを見ると、アラブや、フェミニズム思想のひとらしい。アラビア語の教本も出している……。うーん。あ、『地球の歩き方』のエジプト・イスラエルので名前が出てた人だ、そうに違いない。子供に囲まれて笑顔の写真のあの人だ。絶対そう。確信して、古い『地球の歩き方』をひっぱり出して、ページをめくって探した。ありましたー。名前も大学院名も同じだ…。

まだ読み始めですが、人がなにかを思い出すというときには、「人が」思い出すのではなく、記憶のほうが到来するのだ、ということを言ってます。それが、留学生時代の洋梨の記憶を例に語られてるのです。

念願の留学が叶い、一昼夜の旅の末にようやく、ひとりカイロに到着したあの頃のわたしの、期待に高揚する気持ちと不安がない交ぜになったセンセーショナルな気持ち(p.3)

私の持っている『地球の歩き方』の中に、「念願の留学」中の姿があって、人のことなのに感慨深かった。


25(木)
Nさんは堀江敏幸『おぱらばん』(青土社)を読み始めたと言って、あれこれ感想を言ってくれる。しあわせ。

梨木香歩『裏庭』(新潮文庫)を読み終わり、ファンタジーはやっぱり苦手だって気付いてしまった。でも、「そしてこれはママへ」というセリフで、ああもうこれで読んだ甲斐があった! って満足して、エピローグ前のシーンで、全て許すって気になった。まったく、抱擁に弱い。

友達との帰り道、『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』の話をしてて、彼女が「たっきーっていいよね」と言うので、そんなこと言うなんてちょっと意外と思って、それをそのまま口にしたついでに「嵐では誰が好き?」と聞いてみたら、「ニノミヤくんか、サクライくんかなー」と言う。「私は誰がいいか迷ってるんだよねー」って言ったら大笑いされた。

私の周りを回ってるマイペースという言葉について、時々考える。もしかすると、「マイペース」というのは協調性がないって意味も含んでるんだろうか? それともそれが全てとか? 協調性がある人間だとずっと思ってきたのに(これがそもそも間違ってるんだきっと)、それを強く否定されて、過去の事例を持ち出されてみると、うーん……、ないような気がしてきた……。

すごいものを買ってしまった。当たるめえ。


24(水)
岸本葉子『実用書の食べ方』(晶文社)を読んだ。”未知の世界”実用書に入り、そこに書かれている内容を実践してみる、という企画の記録。実践する上でぶつかった疑問が、「あ、確かにそうだ」「私でもそう思うだろう」と違和感なく同調できるものなんだけど、その書き方にユーモアがきいているせいか著者の視点が独特に思えて面白く読めた。根底に意地悪さがないのも良かった。

買った4冊。坪内祐三編『明治の文学 第22巻・国木田独歩』(筑摩書房)『この新書がすごい!』(洋泉社)吉野朔実『ジュリエットの卵』(1)(2)(小学館文庫)

吉野朔実『ジュリエットの卵』(1)(2)(小学館文庫)は、来月に3巻が出て完結なのかな。読み終わったけど、つかみどころがない。1巻よりは2巻が面白く思えたので、3巻はきっともっといけるだろうと期待はしてる。それよりなにより、日の丸(犬)が、トナカイの格好させられてるのを見たとたん、胸がぎゅーっと締めつけられて痛くなったのには驚いた。これは本当。いじらしさに胸がどきどきするというのもありましょうが、これほど見事に反応しなくてもいいのになあ。


23(火)
実家にいる頃、かぼちゃ好きの母が3日とあけずかぼちゃ煮たのを出したりして、またー? とうんざりしたり、ぜんまい、きんぴら、ひじき、切干大根、それら煮物のどれもが魅力的に思えず、目にしたらがっくりという料理だった。それなのに、この頃そういう料理がすごく食べたくなる。まるで線を引いたように、今年に入ってからそうなった。

「○○は肉」とか言われるほど、迷いのない肉好きだったのに、今日なんて、ほっけとか買っちゃったよ。なんなんだこれ。

でも、逆に実家を離れて目覚めたのが、コンビニで飲物とか甘いものを買うこと。二極化?

「スーパープリンアラモードデラックス」というのがある。\380.-もする。見ればわかるけど、もうやけくそって感じ。お店に置いてあるときより、家に持って帰ってきて目の前に置くと笑ってしまう。大きくて。家具屋で見た家具を家に持って帰ってきたら思ったより大きかった、てのに似てます、多分。

今日で終わるカレンダーを眺めて、1月10日は満月だったんだと気づいた。陰暦だと、明日が睦月1日というわけです。


22(月)
Nさんと歩く月曜日の朝は、たいてい、「週末になにをしたか」が話題になる。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』をみたらしい。「どうでしたか?」「みるべきでしょうー」。と、ここまでは良かった。が、「知ってる?」という言葉と、あるジェスチャーをするので、「え、それ、なんですか?」とたずねると、Nさんは、ラストのネタバレを思いっきりしてくれた。「うわーっ、そんなこと言っちゃだめですよ!」と叫んだけど、あまりに真正面にバラされたので笑ってしまったし、聞いた内容には衝撃を受けたよー。ネタバレついでに、いろいろ聞いてしまった。

勢古浩爾『自分をつくるための読書術』(ちくま新書)を読み終わる。うざったいタイトルで、骨太くさい目次。うなづけるところと、まったくうなづけないところが両極端に分かれる妙にいらいらする本でした。本人論理的に書いているつもりなのはわかるけど、わかるというだけで、あまり論理的に思えなかったし。だから疲れた。


21(日)
昨日は一日、一歩も外へ出ずじまいで、外気に触れたのも、チューリップに水をやったのと、夕方降り始めた雨か雪を眺めるのとで、2,3度窓を開けた時くらい。朝9時に起きて、また寝て、昼1時くらいに目がさめてまた寝て、次に目が覚めたら夜7時だったという1日でした。

今日は外出。松涛美術館へ行き、細江英公の写真展をみてきました。午後2時過ぎ頃着いて順に見ていたら、本人がたくさんの人を前に解説してました。写真を前に本人が解説をするというのは滅多にないことだろうから、ありがたがらないといけないんだろうけど、自分のペースで写真が見られなくて困った。その先を見たくても、人がいるから行けない。次の間に移動した隙に先回りして見たりしたけど、そうすると今度は追いつかれる格好になったりする。

土方巽は田んぼの上を飛翔してました。おお暗黒舞踏。三島由紀夫をモデルにした『薔薇刑』は非常に色っぽい作品群で素晴らしかった(“薔薇族”って、ここからきているの? 違うか)。最近のほど普通に見えて、被写体に頼ってる感じがしなくもない。


19(金)
村松友視『俵屋の不思議』(世界文化社)という、京都の老舗旅館の話を読んだ。写真がいくつか入っていて、花の飾り方や、花王に特注で作らせたという石鹸が素敵。型もいい感じだし、なによりその複雑な香りをかいでみたい。この本には、宿泊代は載っていないけど、他で調べてみたら、1室2名利用で1泊43000円というのを見かけた。

1月から使い始めたお茶碗。それを洗って伏せて置いた時、はじめて、そこに「な」という朱の文字を見つけた。作者のしるしでしょう。私の名前には「な」が付くので、ちょっと嬉しい気分になった。

横溝正史『悪魔の手毬唄』(角川文庫)を読み終わる。もっとおどろおどろしいのかと思ってたけど全然。もしかして、すごく淡々と読んでしまったんじゃないかな……という読後感でした。つまり、ショックがあまりない。この作品は、影響を受けた側でもあったし、影響を与えた側でもあるんだなあ、というのを思った。

1回目を見逃した『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』をみた。先生役の石田ゆり子が好きな男の子がいいです。ああ先生のことが好きなんだねえ、というのがわかる。

Nさんから、「松涛美術館で細江英公の写真展をやっているよ」と教えてもらった。「土方巽を撮った人だよ」ということです。全然知りませんでした。土曜日のスケートに気が乗らず、明日もさぼるつもりでいて、この写真展にでも行こうかと思ってたけど、また雪が降りそうで、今家の中にいてもこんなに寒いのに、明日外へ出られるのかどうかもわからないなあ。なんつって、外へ出ない理由を探してる気もする。


17(水)
Nさんと芥川賞・直木賞の話をしながら会社へ向かった。「堀江敏幸が好きだったので嬉しいです」と言うと、「文芸評論もしている人でしょう。『おぱらばん』を図書館から借りたんだけど読まないまま返しちゃった。読んでみようかな」。

著作、および翻訳は以下のとおり。新しいもの順。

1.『書かれる手』(平凡社)
2.『子午線を求めて』(思潮社)
3.ジェラール・フランカン『つきにでかけたおんなのこ』(フレーベル館)
4.『おぱらばん』(青土社)
5.エルヴェ・ギベール『幻のイマージュ』(集英社)
6.『郊外へ』(白水社/白水社uブックスにもあり)
7..ミシェル・リオ『踏みはずし』(白水社)
8.エルヴェ・ギベール『赤い帽子の男』(集英社)

『おぱらばん』感想

『踏みはずし』感想

堀江敏幸氏のトークセッション@池袋ジュンク堂(2000.6.17)

青土社のページから)『おぱらばん』内容紹介、《堀江さんに一問一答》「著者から読者の皆さんへ」

:..

11〜13日に買った本。豪徳寺に招き猫を買いに行ったのは、早川光『東京のえんぎもの』(求龍堂)を見て欲しくなったので。ほかには、川中幸博『珈琲に遊ぶ』(未知谷)と、杉浦さやか『わたしの日曜日』(ベストセラーズ)を読んだ。コーヒーは豆で決まる、ようだ。杉浦さやかさんの本は、やっぱりいい。近くの公園でシート広げてお弁当が食べたい。春になったら。


16(火)
会社に、ひざ掛けを持って行く。慣れてないから、ひざに掛かっているのを忘れて歩き出し、こけそうになる。

先週後半年(過ぎているけど)の検診での、血液検査・細胞採取しての検査の結果を聞きに行った。「からだ全体が大丈夫だってことですか」「ここ(頭を指して)はどうか知らないよ」。内臓はどこも問題なし、ガン細胞も見当たらない。

神様は、どうやら選り好みをしている。


14(日)
お別れをしてきた。棺に花を入れることができてよかった。顔を見て、実感して、実感できなかった。


13(土)
スケートには行かず、豪徳寺へ行ってきた。三軒茶屋の「安曇野」というところでお蕎麦を食べ、世田谷線に乗り宮の坂で降りる。豪徳寺は人が殆どいなくて静かだった。招き猫を買う。そこにいたお寺の人がとてもハンサムだった。

そこから小田急線の豪徳寺まで歩いて電車に乗り、本を1冊買って帰宅。


12(金)
友達……、しかしここ数年は疎遠になっていた人が 亡くなった。私の名前を呼ぶ時の独特のイントネーションを思い出す。知ったのは昨日の真夜中、寝る前のメールで。いつもの感情、いつもの生活だった今日。つまりまだ実感がない。


11(木)
朝、Nさんと歩いていて、なんの話からだったか(本当は覚えてるんだけどさ)、「どういう環境で育ったのかと思って」と言われたので、「う〜ん……、血液型がどうこうっていうんじゃないですけど、私以外の3人がABなんですよねー。で、同じ部屋に一緒にいるけど、それぞれ別々のことをしてるって感じなんです。仲が悪いわけじゃないです」という、あまり意味のない答えをする。自分の育った環境しか知らないから、それが普通と思ってるというか……。

昨日のすもうチョコ。配ってくれた人に聞いてみたら、国技館に相撲を見に行った人のおみやげに付いていたものらしい。観戦しなくても売店で売ってれば買えるなあ、どうなんだろう。

N井さん(あ、やっぱり名前にNが付く)と、近況報告のお茶をする。親の服装趣味が子供に与える影響についてだとか。

眼鏡を買いました。6日に見て気に入ったやつです。コンタクトを外して30分くらい待ってから、コンタクトを作るときより細かい視力測定をして、度の強さをどうするかで少し悩み、決定してから約30分で出来上がり。明日、かけていこうかなと思う。大安だし(新しく物をおろすときに結構気にする)。

本も買ったのですが、煩雑なので明日まとめて書きます。

昨日の書き忘れ。池袋の某古書&中古レコード・CD屋に久しぶりに行き、原田知世『カコ』(FLCF-25234)があったので買う。見本盤。

なんでだか、知ってる人から冷たくされるより、見知らぬ人から冷たくされるほうがいやだし、落ち込みます。


10(水)
Nさんとの通勤時、「そういえば、『星願』をやるって何かで見たよ」と言われた。すごい、ちゃんと覚えていてくれた。調子に乗って「今年も香港映画、結構予定があるんで忙しいんですよ!」と言うと、「日本の人も出ていたりするんでしょう」などと、なかなかいい感じで話が続く。しかしそこから微妙に脱線。「土方巽ってご存知ですか」「名前聞いたことある。写真集が出てたよね」「 このあいだ、『恐怖奇形人間』ていうのをみにいったんですけど、すごかったんですよ」「あれでしょう、髪が長くて、ちょっと変わった感じで、でも、身体の線がきれいな人だよね」「暗黒舞踏らしいんですけど、どういうものなんでしょう……」「うーん、良くわからないけど草原で踊ったりするんじゃなかったっけ……」

『恐怖奇形人間』での土方巽は、岩場で踊ってたり、くねってたり、ポーズつけながら歩いてたりした。

朝、机の前に座ってすっごく驚いたのは、どこで売っているんだろうとずーっと気になっていたチョコレートを目にした時。おすもうさんのチョコなんだよこれが! 以前、『lover's cookbook』(NHK出版)で見たもの。昨日は早退したので誰が配ったのかわからない、つまり誰からのものなのか不明。帰るときになって、「○○さんが配っていたよ」と情報を得た。明日聞こう。

ふむ……、どうして願いはかなうんだろう。

眼鏡を買いに行くと、この間いろいろ意見をくれた店員さんがいなかった。他の店員さんによれば、明日はいますということだったので、出直すことにする。

ドストエフスキイ 米川正夫訳『ドストエフスキイ前期短篇集』(福武文庫)を読み終わる。「ポルズンコフ」「弱い心」「鰐」。あんまり面白くはなかったけど、「弱い心」は、まさに弱い心としか表現しようのないものが描かれてた。絶対的に強くあるべし、なんて思わないけど、幸せを不幸の引き金にしてしまった”弱さ”は恐ろしい。


9(火)
検診を受けるためのN先生のいる曜日は、月・火・土、でも、土曜日は2,3時間待ちという紙がはってあったのを思い出し、やっぱり今日行こうと決めた。

加えて、左目のコンタクトの調子が良くないから目医者にも行きたいし、月曜日の習い事が今日にずれているから、帰りに寄るところが3つ。今日一日で済ませるため午前で早退してしまうことにした。習い事→目医者→医者という順番で回る。

目医者で、コンタクトを入れたままの左右の視力をはかると、右は1.2、左が0.9。しかも、左のコンタクトをつけたまま視力矯正をしてもそれ以上上がらないと言われ、そんなことがあるのか! と不安になる。が、コンタクトの白濁・変質のせいだとわかる。やっぱり寿命だったらしいです。寿命は2,3年で、できれば2年でかえたほうがいいと言われた。

結構時間を取られ、あせって電車に乗って、医者へ。受付終了時間間近になってしまった。

診察室に入ると、「久しぶり。おかわりないですか」と言われたので、「はあ、まあ…」と答える。「半年経ったので診ましょう」という内診の結果は特に問題なし。「手術のあと全然きれいじゃん。うまいね。誰がやったのか知らないけど」と、相変わらずの自画自賛モードは健在だー。確かに、もう全然といっていいくらい残ってないです。見せたいくらい。

しかし、終わりではなかった。「半年過ぎました(これを何度も言われる)。一応血液検査しましょう。一週間で結果が出るから来週また来て下さい」の発言に、「うわあーっ」と思わずため息が出る。血液検査あああっ。

会計を済ませてから注射室へ。椅子に座って、いつものように「はあああっ」とため息をつく。様子を見て看護婦さんが、「今まで倒れたことは?」「ありません」「気分が悪くなったことは?」「ありません。……でも嫌いです」「好きな人いません(にっこり)」。

「腕を伸ばして下さい。……思いっきり震えてるけど大丈夫?」「はい」「深呼吸して下さい。吸ってー、吐いてー」「(そのとおりにする。それなりに落ち着く。2度目を吐いたときに、針をさされた!)」「息してるー?」「(そういえば息を止めていた)あ、はい」「はい、もう痛いのは終わりです。力を抜いて下さい。……生きてますかー」「うぅー、はいー」

慣れたなんて思ったのは幻想だった!

「おだやかな過激志向」から、「おだやか」をとりのぞくってどうやら相当難しい。


8(月)
6日夜、貸してもらっていた、チャウ・シンチーのDVD『武状元蘇乞兒 (KING OF BEGGARS)』をみた。基本的にはコメディーなんだけど、チャウ・シンチーの乞食役というのは妙に物悲しい気分になる。

雪が少し積もっている。外を歩きたかったので、いつもよりたくさん着込んで外へ出た。久しぶりの雪の足場は歩きにくくて時間がかかるから、明日は少し早めに家を出ないとだめそう。

TSUTAYAで『ケイゾク』の劇場公開版と、『機動戦士ガンダム』(1)のビデオを借りてきた。隣駅のTSUTAYAは、ジャンル別の分け方なのでちょっと探しにくい。国別の監督別というほうが探しやすいんだけど、それほど数がないので、ジャンル別のほうがまとめやすいんだろうと思った。

休みが続きすぎると微妙に気分がダウナーになる。会社に行くのがつらいというのとは多分少し違う理由で。


7(日)
2人と待ち合わせ、『ただいま(過年回家)』@テアトル池袋をみに行く。周りはぐすぐす泣いていたけど、全く納得がいかないまま終わる。感想は以下のとおり。

「父親が真相を知っていたとは思えない。だから、自分の娘をなさぬ仲の娘に殺されて、それが17年経ったからといって許せるものなのか? そんなのはきれいごとだと思う。それに、最後の娘のセリフが解せない。あの五元は自分が取ったって? 何のためにそんなことを言うのだろう。父との和解のためならば、そんなセリフも吐けるのか(というか、許しの言葉のあとではそういうことすら言えるのか?)、それともそんなことを言うほどの17年、その重みを感じろということなのか。泣いている人はまったく何に感動して泣いていたのだか、全然わからない」

『わすれな草(半支煙)』のチラシをもらって、出演者を見ていたら、スティーブン・フォンのところに”『詩人の恋』が春休み公開”って書いてあったので、万歳です。

新年会は焼肉とお茶で、あれこれ話をする。これからみる予定の映画やダンスやらが目白押しでわくわくする。

外はもう雪が降っていて新宿駅では地面は濡れているようだったのが、自分ところの駅に着いたら白く積もり始めていた。歩くと、すでにさくさく踏みしめられるほどで、明日はきっとつるつるになる。

あー雪だー。


6(土)
スケートに行ったのに、靴を預けているロッカーの鍵を忘れたので滑ることができなかった。がっかり。

新宿に出て、駅構内のチケットぴあで明日みる映画チケットを買ったあと、隣で売っていたさつまいも+りんごのパイを買う。いつでも人が並んでるのに、全然並んでいなかったので、ついつい。用事を済ませて、池袋へ。

買うべきものを探しに池袋東武に入ったら、すごく混んでいて、ああバーゲンなのか……、と売場の端から端までをただ通りすぎるだけのはずが気付いたら服を見ていて、熱気がすごいなーなんて思いながらついには番号札もらってまで試着してる。バーゲン行くのって、何年ぶりだろう。

調子に乗って、丸井まで行き、ここでは眼鏡を見た。あれこれかけているうちに、フレームの形はつり目ぽい四角がいいかもと思えてきた。赤いのも悪くないんだけど、オレンジも良い。そのうちに、お店の人が、個人的にはこれがおすすめですと言って、オレンジ+緑の張り合わせたやつを持ってきてくれる。かけると、おもちゃみたいなんだ、これが。面白いことは面白い。あと、あわーいグレーを持ってきてくれる。次には、紫紺+黄色の張り合わせたやつ。その、最後の色のが結構良かったので、それを買うかもしれません。「きょうはお金がないのでまた来ます」と言ったら名刺をくれました。

さつまいも+りんごのパイは、とてもおいしかったです。


5(金)
昨晩、「明日こそ病院に行こう」と決めて寝た。手術後も半年に一度は診察に来るようにと言われていて、11月には行くつもりだったのを延ばし延ばしにしていたら、年を越してしまったので。N先生に会うのは楽しみで、でも楽しみは先に延ばしたいし、診察はちょっといやだから先に延ばしたかったし。

明日診てもらったらまた悪いところが見つかったりして……、そしたらどうしよう、という考えがふっと浮かんで眠れなくなる。椅子に座ったらおもむろにまた説明が始まるんだろうか、またレントゲンを見たり血を採ったり検査したりするはめになるんだろうか、2ヶ月来るのを延ばしたせいで見つかるのが遅れたとか、また手術するとか? 去年の3月のことが、ばーっと思い出された。

どんどん悪いほうへ進んでしまって、死を宣告された人間の気持ちになってしまう。だからますます眠れない。死を考える時にはいつも、なにかあるいは誰かを残して死ぬのが一番つらそうだと思ってる。昨晩は、死の怖さに、告知して欲しいかどうかもわからなくなってきた。ただただ死にたくないって思ってた。

夜に死を思うのってすごくつらい。自分があと少しで死ぬんですよと知ってから過ごす夜は、想像だけで充分眠れない。そうして、まだ私は死にたくないみたいだと昨晩も気付いた。

いつのまにか眠っていたらしく、でも、「N先生が2年間パリに行くことになってしまい、2週間に1度日本へ戻ってくる」という微妙にいやな夢をみて目がさめた。

会社帰りに病院へ寄り、担当医のところを見たら、金曜日はN先生ではなく、それでは意味がないので帰る。また延びてしまう。

そういえば、この先生もNだ。周りにNさんて多いかも。私は棗だし。

ドストエフスキイ 米川正夫訳『ドストエフスキイ前期短篇集』(福武文庫)から、「初恋」と「クリスマスと結婚式」を読む。あらすじにしたら一言で済んでしまうどうってことない話を、どうしてこんなふうに描けるんだろう。というより、あらすじにしてしまったら、ひどくつまらない話にしか思えないだろう。

先日、この文庫を探していたら、棚がなくなっていた。そういう店が大半なのかもしれない。まだ置いてある書店もあったけど、探し物はなかったし、棚があるだけめっけものかも。いつのまにか福武文庫も、”欲しいものがあれば買っておくべし”になっていたんだね。


4(木)
会社が始まると、今年もとうとう始まってしまったという感じ。電車がものすごく空いていたのと、今日が木曜日だというのが救い。

筑摩書房編集部編『二十一世紀に希望を持つための読書案内』(筑摩書房)を読み終わる。題名は、ちょっといやらしい感じだけど、中身はいやらしくなかった。「こういう本を読んで欲しい」というのが、静かな情熱で語られてる。理由を述べた上で、何もあげない人もいる。二十一世紀に希望を持ちたい人がこの読書案内を手に取るのではなく、この原稿を書いている人たちが二十一世紀に希望を持っている/捨ててない、というのが感じられた。


3(水)
毎年行っている神田明神へ初詣に行く。お願いすることも毎年決まっている。「神田明神・巫女リカちゃん」なんてものを買ってしまった。お守り付キーホルダーです。

志村志保子『ブザー、シグナル ゴー ホーム』(集英社・マーガレットコミックス)を読む。「ランゲルハンス島まで」、普段言えないことを言うシチュエーションとして、こんなのもありなんだなあ。日常の中の非日常、でも、それほど非日常に見えないのが面白い。ひまわり畑で服を交換するシーンがいい。でもそのときにはまだ、全体の仕掛けには気付いてなかった。「星ばかりみていた」、結果として歳の離れた恋愛ものとして読んでしまうんだけど、これほど自然な描き方ってなかなかない。私が彼の立場だったら同じ気持ちになるだろうと思えたくらい。

2つの味のシュークリームを食べる時、必ずカスタードから始まるのはどうしてなんだろう。カスタード→生クリームで食べたいので嬉しいけど不思議。まてよ、下がカスタード、上に生クリームという構造だったら、下のほうから食べたら必ずカスタードになるわけだし。とはいえ、上とか下とか言うほど高さのあるシューじゃないし。引き続き考えたい。

去年のクリスマスイヴ頃に見た風景を今ごろ思い出した。池袋西武のイルムス館で男の人が持っていた小さなブーケ。茎を短く小ぶりな、持って歩くのにも邪魔にならない大きさで、ガーベラを中心にしてた。センスいいなあ、もらうならああいうやつだよ、と思いながらちらちら見てしまった。

クロワッサン好きです。このあいだ、スタバでチョコクロワッサン食べました。


2(火)
結局、去年の最後に読んだのは、小枝義人『永田町床屋政談』(新潮OH!文庫)と、吉野朔実『プレゼントをあげる』(大和書房)。充実した2000年だったなあと振り返りながら、31日は普通に1日分の時間で終わっていきました。

今年最初に読んだ(?)のは、「Title」(文藝春秋)。お正月は力が入りません。

年賀状の、出さなかった人から来る/出した人から来ない、というズレは毎年繰り返し起きていて、たぶん、どうしたってゼロにはならない気もしていて、その緊張感があまり好きじゃない。出さなかった人から来ても、こちらからは返事しないというのも、なかなかできないものだな……、と毎年思ってる。


30(土)
来年から使う新しい箸を買った。スターバックスのスタンプカードが終わり景品を楽しみにしていたら、切れているそうで連絡待ち。

今年読む本の最後は何にしよう、なんて考えたことはなかった。けど、少し前に読んだこの文章が残っている。

門谷建蔵『岩波文庫の黄帯と緑帯を読む』(青弓社)、pp.14-15.

岩波文庫の文学から五百点を選んで、定年後の六十歳から七十歳までの十年間に、毎週平均一点ずつ読み返したいと思っている。四週間で四点のほうがいい。(中略)これが最後と思って読むのである。
それでは時間が余るだろうから、手元にある個人全集を、一人につき三カ月から六カ月間ひもとく。(中略)全集のほうもこれが最後のつもりでひもとく。(後略)
七十代には手元にある単行本、昭和四十年代、五十年代の文学書や、趣味の本を、やはりこれが最後だと思って読み返す。八十歳以後は、ダンボールに三箱ある昭和三十年代の漫画雑誌を見て過ごしたい。新刊本を次々と読みながら、ある日死んでしまうのもいいが、私は六十歳で折り返して、いままで読んだうちの思い出深い本を、さかのぼりながらもう一度読み返し、一冊ずつ別れをつげながら少年のころに帰りたいと思っている。(後略)

自分の死ぬときなんてわからないけど、まだ死ぬことはないと妙に信じてる部分があって、でも、「いつお迎えがくるかわからない」ような歳になったら、どういうふうに毎日を過ごしていくんだろうと考える。自分がいつ死ぬのかわかっていれば(それはそれでいやなものだろう)、持ち物の整理もできるし、最後に読む本も決められるかもしれない。例えば、今年読む最後の本はこれにしよう、と決めるように。

だけど、実際はわからないんだから、死期が近いと感じたら、好きな本だけを何度も繰り返し読んでいくようになるのかもしれないと思った。繰り返し読みたい本。それほど好きな本。これから先、どういうものが残っていくんだろう。

本当に好きなものだったら、数は少しでいい。一つでもいいと思う。

買った本。今年最後になると思う。「Title」(文藝春秋)小枝義人『永田町床屋政談』(新潮OH!文庫)吉野朔実『プレゼントをあげる』(大和書房)

『プレゼントをあげる』は、ビニールで閉じられていて、中身が見られなかったけど、帯の文句(”今までで、一番嬉しかったプレゼントは何ですか?”)に惹かれて、今年最後に読もうと思って買った。明日、読みます。

「高いところにのぼる」については、書けなかったなあ。時々思い出す風景のことです。それだけのこと。

おやすみなさい。


29(金)
仕事納めです。つかれたなー。家に帰ったら書こうと思っていたことを忘れないようにメモ。

・今年会いそびれた人と、はだか。

・最後に読む本。

・高いところにのぼる。

などという4行を最終日の会社で書いていた。内容を書くより上に書いた3つで内容を想像してもらうほうが面白いかもしれないね。

今までの人生の中で、自分の裸を見た人は親も含めて何人かいる計算になるでしょうけども、その中の一人に今年中に会いに行くべきだったのを延ばし延ばしにしてて、結局行けなかった。自分の裸をくまなく見られて、臓器まで見られて、隠すところはなにもないって状態にさらされた後に顔を合わせるというのは、果たしてどんなもんかというと、案外どうってことない。

それにしても、入院した患者さんが看護婦さんに惚れるというのはすごく納得できることだと思ったし、お医者にも惚れちゃうかもなあって思った。もともと白衣と「中身の伴う偉そう」に弱いというのを差し引いたとしても。頼れる人に思えたからか。「頼れる」ということは恋愛対象に求めないけど(自分がしっかりすればいいのだ)、自分が弱い時には惹かれる要素になるのかもしれない。

でもやっぱり、白衣よりも、今ごろお正月のしめ飾りを外で売っている、はっぴ着たおじ(い)さん(否・若者)のほうにぐっとくる。

長くなってしまった。


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