記事No | : 1507 |
タイトル | : Re^2: 死について(一番幸せ) |
投稿日 | : 2012/05/11(Fri) 10:54:33 |
投稿者 | : 桃青 |
> 親に虐待死させられた幼い子供、
ほんとうにねー。もう、これはその子の心を想像することも憚れるくらい悲しいことです。
ただ、自分が介護する立場になって思ったのですが
そこに存在する「自分の思い通りにならない。」という苦痛は、子供も介護も似たようなものかもしれないな、と思われてなりません。
大抵のひとは、子供が思い通りにならなくても、被介護者が思い通りにならなくても、「まあ、こんなもんだろう。」とやり過ごしたり、そこに生起している「困った」を解決する方法が見つかったり、適度にガス抜きしたり、で、苦痛を緩和したりしているうちに、子供は成長するし、被介護者は介護度数が高くなり、自宅での介護は無理と認定されて、施設へ入居する。
するとブログで、どんなに激しい感情をぶちまけていたかたでも、被介護者が施設へ入所した途端、書き込みが穏やかになり、やがてブログは更新されなくなる。
「思い通りにならない。」という苦痛は、ひとによっては、虐待を生むほど、耐えがたいものとなる時もある。
たとえそれが親の身勝手な理由であったとしても、苦痛は苦痛なのですね。
誰かをかばって車にはねられて骨折しても、酔っぱらって溝へ落ちて骨折しても、骨折すれば痛いのです。
虐待する親を「けしからん。」「辛抱が足りない。」と道徳的に責めるだけでは、問題は解決しないでしょうね。
宗教、特に仏教の役割は、虐待する親を道徳的に責める材料を提供することではなく、「思いどおりにならない。」苦痛の存在と、その苦痛を解決する方法が必ずあることを示唆して行くことではないか、と思うのですが・・・。
苦集滅道ですからね。