記事No | : 1578 |
タイトル | : Re: 話が横にそれてしまったようです。すべての人は罪人なのか? |
投稿日 | : 2012/07/20(Fri) 12:51:56 |
投稿者 | : 桃青 |
> >某M教の人々だけではないが、
> あれはキリスト教でないですよ。キリスト教もどきといっていいのかな。
カトリックのクリスチャンである曽野綾子さんは、
「世の中の人々は、キリスト教、キリスト教と言って、キリスト教という確固たるものがあるように思っているが、実は、キリスト教には、キリスト教とは、これです。という「これ」というものはない。」
「なので、これこそがキリスト教と言い合っている人々や、キリスト教を批判している人々を見ると、この人達はそういうことを知ったうえで言いあったり、批判したりしているのか心配になる。」というようなことを書いておられました。
(週間ポストに連載されている「昼寝するお化け」だったか、
新潮45の連載「人間関係愚痴話」だったか)
これを読んで、なるほど、と思ったことがあります。
以前より、複数のかたから「キリスト教は調べれば調べるほど、何が何だかよくわからなくなる。」という言葉を聞いていましたが、「キリスト教には、これと決まったものがない。」のであれば、調べれば調べるほど訳がわからなくなるのも無理ないですね。
> >「自分達の宗教を否定するのか」
> 桃青さんはくちぐせのように仏教ではという。相手は仏教でなんと言おうと聞く耳ないですから。
『ものの見方考え方』(松下幸之助のではなく小林秀雄の)と言いますが、
ものの見方、考え方のヒントとして、仏教ほど素晴らしいヒントを次々に与えてくれるものに私は出逢ったことがありません。
日常生活では、折が有れば、仏教由来であることを隠して、仏教用語はいっさい使わずに「それは、こういうことじゃないのかな?」と、いう言いかたで話すことが多いのですが、
すると、大抵の場合、「は!」という表情と共に「そういうことだよねー。」と、真面目に頷かれます。
仏教的なものの見方、考え方をすれば、今まで見えなかった解決のヒントも見えて来ます。
その時すぐには見えなくても、そのうちにだんだんと霧が晴れるように見えて来ます。
問題解決の方策が見えた!という瞬間に味わう晴れやかさが、私をして仏教を伝えずにはいられなくさせるのですよ。
> >「自分達は、それを真理だと信じているのだから、信じていない者がとやかく言うな。」
> うむうむ、一理ある。
でもね。
どう見たって真理だと見えないものを集団の数を頼んで「真理なのだから真理なのだ。」
と、言って歩くのは問題だと思うのですけど・・・。
しかも言ってる本人たちに、教義のオカシサを言うと
「教義を信じて入信しているわけではない。」とか、言いだす。
「誰も口で言うほど信じてないから大丈夫」とは言っても、現実とずれてる真理を毎日唱えているうちに、現実とずれてるひとはますますずれて来るし、ずれてなかったひともだんだんずれて来る。
本来、真面目で誠実なひとのその誠実さが向かう方向が変わって来る。
やっぱり、現実から乖離した真理を真理とする教えや、人間の問題を解決することを目的としない教えは、長い目でみれば世の為ひとの為にはならないのではないのではないですか?。
宗教とは、前にも書きましたが、モノの見方考え方のヒントを与えてくれるものですから、「我と我が家だけの栄達」を最終目標とする教えが生み出すヒントは、「我と我が家が栄える。」ただそれだけに留まるものでしょうし。
> >と、言うオカシサや自分勝手さに気がつかないのだろうか。
> 桃青さんはどうなのでしょう。人の意見を頭から否定して返り見ない点はないでしょうか?
>
私は、ひとの話を聞くことは好きですから、
まずは「このひとは何が言いたいのだろう。」と、興味を持って聞きます。
聞いているうちに「だめだ、こりゃ」と去る。ということはありますね。
ただ、それが誤解で、何年もたってから、「あ!あの時あのひとが言っていたことは、こういうことだったのか!」と、気付くこともあります。
此処でも過去に何度もありました。
なので、気付かないままになっていることもきっといっぱいあるでしょう。
ずっと肯定的に捉えていたことが、間違いだったということもあります。
こちらも気付かないままになっていることもあるのでしょうね。
なので、私が何かを肯定するも否定するも、私の中では常に「仮定」です。
否定が肯定に変わる瞬間、肯定が否定に変わる瞬間、どちらも問題解決に向けて新しい世界がぱっと開ける、あの感覚はなんとも言えません。
この「常に仮定」という捉え方も、仏教的ですね。
> 正当のキリスト教は、人の罪を重視します。モルモン教にはそれがないから、ちゃらんぽらんな人が紛れ込むようです。そのような面白おかしな人とつき合って、他のまじめなモルモン教徒といっしょ
> にしてしまう。
某M教でも罪は重視してますよ。
原罪は無くなりましたが、複数の守るべき事やすべき事があれこれ定められていて、それに反則すれば、罪となる。
つまり、キリスト教が説く原罪は、キリストの贖いによって無くなり、罪といえば他でもない自分が犯した罪だけによって裁かれる。
教会は、日常全般、罪とならない生き方、行いを教える。
ただ、某M教会といえども人間の集団ですから、人間の集団にありがちなことは、全部あります。
例えば某M教で罪を規定する戒律は、一つの集団を統一する道徳であり、律法であり、規約ですから、某M教の律法の周辺で起きる現象は、世の中の集団の規約の周辺で起きる現象となんら変わりがないですよ。
>どの宗教(幸福の科学でさえも)でもいい点はあるわけですから、むやみやたらに否定されるのは、罪深いですぞ。
そうですか?
「我と我が家の栄達だけを教える宗教」は、私的にはペケですから。
人でも、我と我が家だけの栄達を最終目標としている人には、あまり近づきたくないんじゃないですか?
そういう人は、周囲のひとやら何やらを自分と自分の家族の為に利用することしか考えてませんからね。
宗教でも同じです。
ははぁ、この宗教は麗しいことを言っていても結局は「我と我が家の栄達だけ」しか頭にないな。と見たら、私の中では警戒信号がピーピー鳴りまくりです。
> ところでキリスト教はどんな聖人も罪があると説きますが、仏教ではどうなのでしょう?
この場合、聖人の罪とは「完全でないこと。」でしょうか?
日蓮聖人が言及されている罪は「謗法」だけだそうですが、私は日蓮聖人のこの見識は仏教的で素晴らしいと思います。